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<title>論文集</title>
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<modified>2007-01-30T22:33:29Z</modified>
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<copyright>Copyright (c) 2007, taro</copyright>
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<title>文化遺産を未来につなぐ森づくりのための「提言」</title>
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<summary type="text/plain">　当会は平成14年に発足以来『補修用材確保策検討委員会』『補修用材と技術の委員会...</summary>
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<dc:subject>teigen</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　当会は平成14年に発足以来『補修用材確保策検討委員会』『補修用材と技術の委員会』という二つの委員会にて、文化財修理用部材の需給及びその確保について、現状と課題を明らかにし、対処方法について検討を行ってまいりました。16年4月よりは合同で議論を重ね、17年12月、文化財修理用部材の需給及びその確保につい<て、現段階における現状や問題点、課題等を整理した報告書をだしました。今回その報告書をふまえここに提言いたします。</p>

<div align=right>平成19年1月 20日</div>

<div align=right>
<table>
<tr><td colspan=3>文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議</td></tr>
<tr><td>　　　　　　　　　　　　　　　　　</td><td>代表　伊藤延男</td><td></td></tr>
<tr><td>　　　　　　　　　　　　　　　　　</td><td>代表　内山　節</td><td></td></tr>
<tr><td>　　　　　　　　　　　　　　　　　</td><td>代表　大野玄妙</td><td></td></tr>
<tr><td>　　　　　　　　　　　　　　　　　</td><td>代表　速水　亨</td><td></td></tr>
<tr><td>　　　　　　　　　　　　　　　　　</td><td>代表　古橋源六郎</td><td></td></tr>
</table>
</div>]]>
<![CDATA[<p><strong>はじめに</strong></p>

<p>　日本の文化財が危機を迎えつつある。このような話をきいたら、その理由として私たちは何を想像するだろうか。</p>

<p>　いうまでもなく日本には、いまでは世界の人々の共有財産だといってもよい神社仏閣や古い町並み、伝統的な民家などさまざまな木造文化財がある。さらに建物自体の価値はさほどではなくても、地域の歴史、文化とともに維持されてきた村や町のお堂などの文化財もある。</p>

<p>　この木造文化財は定期的に修理をすることによって守られてきた。ところがこのとき必要な補修用材の確保が、次第にあやうくなりつつある。宮大工をはじめとする、文化財維持に欠かせないさまざまな伝統技術の継承も簡単ではなくなっている。また社会の変化や村の過疎化も地域文化の維持を困難にしている。</p>

<p>　私たちは日本の精神文化がつくりだした文化財を未来に残したいと思う。そのためには、今日生じている困難をひとつずつ解決していかなければならないと考える。</p>

<p>　本提言はそのための「第一提言」として、補修用材の確保についてその方策を考察した。日本の木造文化財にはさまざまな樹種の木材や檜皮などの皮が使われている。木材には年輪幅の狭い２００年から３００年生くらいの高品質の木が使用されていることが多い。ところが現在ではこのような木自体が山になくなりつつあるばかりでなく、それらの木を文化財の補修へと流通させる仕組みも弱体化してきている。山には木があっても文化財の補修に使えるような材質の木の確保は次第に困難になりつつあり、このまま成り行きにまかせれば、近い将来文化財維持が困難になる事態も予想される。しかも必要とされるのは２００年、３００年の木である以上、長期的視野にたった方策をただちに打ち出していかなければならない。</p>

<p>　日本の木で日本の文化財を守っていくためには何をしなければいけないのか。以下具体的に考察する。</p>

<p><strong>木造文化財建造物の保存・修理とそのための森林整備の必要性  </strong><br />
                   <br />
　木の文化の特徴は、植物資源である「森の恵み」を繰り返し活用することであり、繰り返し再生され維持されてきた姿である。日本人は木の文化に象徴される資源循環型社会を大切にしてきた。そして、今、地球温暖化の進行等大量消費型社会が行き詰まりを見せている中で、木の文化に象徴される資源循環型社会は世界に誇るべき智慧になってきている。</p>

<p>　とりわけ、木造の文化財建造物を保存し維持していくことは、わが国の貴重な文化的所産を保護することのみならず、わが国文化の基調をなす木の文化を継承し、日本人の独自性を大切にしていくことにつながる。</p>

<p>　わが国には約四千棟にのぼる国宝・重要文化財建造物があるが、これらを維持していくためには適時適切に修理を行っていく必要がある。そして、その修理にあたっては、オーセンティシティー（文化財の真正性）の原則があり、修理の時に必要となる新材は取り替えられる材と「同樹種」、「同品質」、「同技術」でなければならない。</p>

<p>　しかしながら、文化財修理用部材が、その供給の中心であった天然林伐採の大幅な減少により、近年入手困難になってきている。このことは戦後の木材需要の拡大に伴う天然林伐採の増大、人工林化の推進による天然林の資源的な減少に加え、自然保護や生物多様性の確保等からの天然林保護の重要性の高まり等によっている。</p>

<p>　このように、文化財修理用部材の供給の現実に鑑みると、将来にわたってその実施を確保していくことが困難になっている。そこで、当委員会では、文化財修理用部材の需給の把握、及び文化財修理用部材の確保のための森林づくり方策等について提言する。</p>

<p><strong>提言T　需給量の把握等</strong></p>

<p>　文化財修理用部材を確保しうる体制を整えるためには、マクロの需要予測を立てる必要がある。また、これら部材をとるためにはどの程度のサイズ（径や長さ）の丸太や立木が必要となるかを予測することも重要である。</p>

<p>　国宝・重要文化財の修理に際して使用される木材の数量は、製材品換算で年間数百立方程度と見込まれるが、これら木材の需要量を確保するにあたっては、木材が天然素材であって製材してみなければ品質を見極めることが困難であることに加え、流通は市場に委ねられていることから、実際に文化財修理用材等に使用される量の何倍もの丸太供給が必要となる。</p>

<p>　これに加え、伊勢神宮の式年遷宮、平城京の朱雀門や熊本城本丸御殿などのような復原事業や天理教本殿や大本教本殿など寺社の新築でも大量の大径長尺部材が使われている。</p>

<p>　需要量の把握に際しては、このような事情も前提において行う必要がある。</p>

<p>　供給可能量の予測のためには、天然林や人工林の高齢級林木の資源実態の把握を行う必要がある。</p>

<p>　なお、文化財修理用部材の確実な確保のためには、文化財修理に際し修理事業者が、市場を通さないで直接、林野庁や森林所有者等から丸太を購入する仕組みも検討する必要がある。</p>

<p><strong>提言U　文化財所有者の森林づくり</strong></p>

<p>　将来にわたって文化財修理用部材の確保を図っていくためには、利用可能な天然林について択伐（抜き切り）等による持続的な伐採を進めるとともに、人工林において大径材の生産を可能とする森林づくりを行っていくことが必要である。しかし、超長期の人工林の育成に森林所有者が自ら取り組むことについては、災害や相続などを考えると容易ではない。</p>

<p>　このため、文化財所有者の取り組みも求められるところであり、文化財所有者が森林づくりを行う場合の手法を検討した。</p>

<p>U−１　文化財所有者自らが森林育成に取り組む。</p>

<p>U−２　文化財所有者は、森林所有者に対して森林育成に対する働きかけを行う。働きかけには以下のような手法が考えられる。</p>

<ul>
<li>ア 協定</li>
<li>イ 生産の依頼</li>
<li>ウ 立木の信託</li>
<li>エ 分収育林による立木の共有</li>
</ul>

<p>　なお、寺社が積極的に文化財修理用部材の確保のための森林づくりに取り組むよう、所有者自らによる資材確保を推奨する仕組みを検討する必要がある</p>

<p><strong>提言V　国民的課題としての文化財の森林づくり</strong></p>

<p>　文化財は文化財所有者のものであるばかりでなく国民共通の財産であり、その修理に必要な部材を提供する森林づくりも国民的な課題としてとらえることが重要である。</p>

<p>　国・公有林はもとより、私有林においても取組みがなされるような仕組みとして、文化財修理用部材を提供することを目的とした森林の登録制度を検討すべきである。</p>

<p>　国が文化財修理用部材の確保のための森林づくりについて基本的方針を示し、その方針に則して森林所有者等が長期計画をたてて申請し、国又は地方公共団体が認定、登録する仕組みである。</p>

<p>　国又は地方公共団体が認定する場合は、樹種、林齢、品等などに一定の基準を設け、登録した森林については、適正な育林義務や伐採報告義務を課すこととするものである。</p>

<p>　この場合、税制上の優遇措置等、登録を受けた森林所有者への助成、資金融通、リスクへの補償制度を整備する必要がある。</p>

<p><strong>提言W　大径立木の育林技術</strong></p>

<p>　高品質な大径長尺部材を取るために、超長伐期の育林についての考え方や技術的指針をとりまとめることが必要である。また、私有林で文化財修理用部材を提供できるような森林づくりを行うためには、森林所有者に対して長伐期施業や複層林施業などの育林技術を指導するアドバイザーも必要である。</p>

<p><strong>提言X　大工技術の継承</strong></p>

<p>　文化財の修理や大規模木造建造物の復原、寺社の新築に携わることは、大工技術の向上と継承を図るうえで重要である。また、文化財の修理技術等は伝統工法による住宅建築技術を土台として成り立っており、継続的に伝統工法による住宅建築に携わることも重要である。</p>

<p>　従って、大工技術の向上と伝承を図るためには、文化財の修理事業や大規模木造建造物の復原事業、寺社の新築事業の継続的な発注が望まれるほか、伝統工法による一般住宅建築の需要拡大も重要である。</p>

<p>　併せて、文化財等の建築には接合部や架構に大きな特徴があり、このような社寺建築や伝統工法による住宅建築の性能が科学的に評価され、合法的に認められる仕組みが必要である。<br />
</p>]]>
</content>
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<title>報告書「文化財を未来につなぐための森づくり」</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.bunkaisan.jp/articles/archives/2006/06/post_15.php" />
<modified>2006-06-18T06:34:19Z</modified>
<issued>2006-06-18T06:22:41Z</issued>
<id>tag:www.bunkaisan.jp,2006:/articles//4.202</id>
<created>2006-06-18T06:22:41Z</created>
<summary type="text/plain">当会は発足以来『補修用材確保策検討委員会』『補修用材と技術の委員会』という二つの...</summary>
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<dc:subject>report</dc:subject>
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<![CDATA[<p>当会は発足以来『補修用材確保策検討委員会』『補修用材と技術の委員会』という二つの委員会にて、文化財修理用部材の需給及びその確保について、現状と課題を明らかにし、対処方法について検討を行ってまいりました。16年4月よりは合同で議論を重ねてきました。</p>

<p>本報告書は、文化財修理用部材の需給及びその確保について、現段階における現状や問題点、課題等を整理したものですが、本報告書を「たたき台」にしてより深く論議されることを切に望むものです。</p>

<p>>><a href="http://www.bunkaisan.jp/articles/archives/bunkaisan_report.pdf" target="_blank">報告書「文化財を未来につなぐための森づくり」（PDFファイル）</a><br />
</p>]]>

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<title>文化財たる自然や建物を支える背景としての宗教や文化</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.bunkaisan.jp/articles/archives/2006/03/post_14.php" />
<modified>2006-03-20T05:49:17Z</modified>
<issued>2006-03-16T05:25:51Z</issued>
<id>tag:www.bunkaisan.jp,2006:/articles//4.190</id>
<created>2006-03-16T05:25:51Z</created>
<summary type="text/plain">◎修験道と森林 　今、修験道は大変注目を浴びようとしています。昨年７月に「紀伊山...</summary>
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<dc:subject>tanaka</dc:subject>
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<![CDATA[<p><strong>◎修験道と森林</strong></p>

<p>　今、修験道は大変注目を浴びようとしています。昨年７月に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、私ども金峯山寺をはじめ、修験道を育んできた吉野・熊野地方が、日本で１２例目のユネスコ世界遺産に登録され、修験道が注目を浴びるひとつのきっかけとなりました。</p>]]>
<![CDATA[<p>　ところで、修験道は森林と深いつながりがあります。修験道はいわゆる山伏の宗教のことで、神仏習合を基盤に、神道や仏教、道教などが混淆して発展・成立した日本固有の山岳宗教であり、開祖の役行者以来１３００年の歴史を持っています。また日本の森林はほとんどが山にあり、山川草木そのものである森林は修験道と切っても切れない関係がありました。その修験道は明治初年の神仏分離政策によって一時は解体される時代があり、そのため、今日もその法脈を伝えているとはいえ、庶民生活に根付いていた往時のような勢力はなく、一般の方々には縁の遠いものとなってしまいました。そしてここにいう修験道の解体とは、まさに森林の聖域としての地位の喪失と同時に、近代化以前の日本の精神的風土の解体をも意味していたのです。</p>

<p><strong>◎ 明治の宗教政策・日本古来の宗教心がどう変えられたか</strong></p>

<p>　<strong>森林をめぐる多神教と一神教　　修験道（多神教）は近代日本の生け贄</strong></p>

<p>　明治期に『神仏分離令(註：1868(明治元)年3月、成立したばかりの維新政府の神祇官により出された通達。長年続いてきた神仏習合の慣習を廃し、神道と仏教の境をはっきりさせた)』が発令され、あろうことか、明治5年には『修験道廃止令』まで布告となって修験道は禁止となりましたが、その『修験道廃止令』により職を失った修験者(山伏)の数が、なんと17万人だったそうです。これは、すごい数字です。現在の日本において、伝統仏教諸教団および新興の仏教系の教団を含めて、僧籍を持った者(僧侶)の数は22万人と言われています。なんだ、当時の修験者の総数である17万人よりも、現在の僧侶の数のほうが多いじゃないかと思われるかもしれませんが、現在の日本の人口が1億2600万人なのに対し、明治初期の総人口はたった3300万人。つまり、現在の約4分の1の人口の時代に、17万人もの山伏がいたかと思うと、その数が並々ならぬ数であったことが容易に想像できるでしょう（現在の人口に換算すると、60数万人も山伏がいることになります）。この修験道禁止に関して言えば、私ども金峯山寺も明治７年に廃寺とされ、仏寺として復興する明治１９年まで１３年間にわたり金峯神社の末社として復飾神勤するところとなりました。またこれにより所有していた境内地や造営山をほとんど失うことになります。</p>

<p>　衆知のとおり、明治という時代は、明治維新から始まり、「欧米列強諸国からの侵略に対抗しうる近代国家としての日本を創ろう」という大きな力が動いた時でした。「文明開化」というのは、すなわち「欧米化を図る」ということであり、その欧米が世界の他の地域に先駆けての近代化を進めることができたのは、その背景にキリスト教的価値観、いわゆる「一神教の価値観」があったと思われます。</p>

<p>　そこで明治政府は、「日本を列強諸国のように欧米化(＝近代化)するには、一神教のような価値観で強固な国づくりをしなければならない」と考えました。そのために、まず最初に神仏分離政策を行い、仏教伝来以来１３００年間培われた神仏習合という日本の精神風土の根幹を葬り去り、神仏習合の代表たる修験道は旧陋なものとして解体するために、『修験道廃止令』という法令まで出したのでした。そうまでして、日本が欧米化、あるいは近代化への転換を図るために職を奪われた17万人もの修験者というのは、近代化のある種の生け贄だったのではないか？と私は思っています。　</p>

<p><strong>　変容させられた日本人の宗教観</strong></p>

<p>　明治政府の政策による神仏分離、廃仏毀釈運動は修験道だけでなく、仏教もまた打撃を受け、日本古来の神道にも大打撃を与え、合祀や、鎮守の森が破壊されるなどの悲惨な歴史を生みました.そうして神と仏はむりやり引き裂かれ、日本古来の神と仏を基にした精神文化は大きく変容させられたのです。</p>

<p>　このように、明治から現代に至る一神教的な価値観が日本に定着する中、神仏習合の多神教的な、あるいは修験道的な価値観は抹殺される運命にあった訳です。では、一神教的な価値観とは何でしょう。私は、一神教的な価値観は自然とのつきあい方が下手だと思っています。キリスト教以前のギリシャ神話の世界などは、山の聖なる神々がたくさん出てきますが、キリスト教以降は、「山には悪魔が棲んでいる」と言われています。しかし、18世紀から19世紀にかけて、近代自然科学の発達に伴い、今度は、森や山とは「悪魔の住処」ではなくて、「岩と氷の固まり」であることが判ってきました。西洋登山が始まるのはそれ以降です。日本人にとっては驚くべき事ですが、それまで西洋人は、山には登らなかったのです。</p>

<p>　一方、日本人は昔から、比叡山や富士山の絵を描いたりしながら、山に聖なるものを見出してきました。「山には祖霊がおられる」とか「山には磐座(いわくら)があり、そこは神々が降臨する」と…。このように一神教と多神教、この両者の自然観には大きな違いがあります。結局、キリスト教が自然に対して感じていることは、「(創造主である)神と契約を交わした人間にとって、(神によって)与えられた自然は、人間がどのように切り取っても良い」という、自然＝モノ(対象物)として見るところから始まっています。それに対し、近代以前の日本的な価値観においては、自然をモノとして見るのではなく、「聖なるものの住処」として仰ぎ見た場所でした。それが、明治の神仏分離、廃仏毀釈によって、その価値観を失ったのだと思います。</p>

<p>　更に一神教に似たものが優等であり、近代化以前の精神文化や宗教心のありようは、修験道にシンボライズされるように旧陋なものとして貶めて扱って来たのです。</p>

<p>　<strong>日本人は無宗教ではない</strong></p>

<p>  私たちは明治以降、西洋合理主義に少し洗脳されてきたのではないでしょうか？<br />
面白いことに、日本人は生まれたら宮参りを、お盆やお彼岸には墓参りを、そしてお正月には初詣をします。結婚式に至っては、８割方がキリスト教式か、神式です。その上、クリスマスにはキリスト生誕のお祝いをし、死んだらおおかたの人がお坊さんを呼んで葬式を出します。そんなことをしているにも関わらず、「あなたは宗教を信じていますか？」と尋ねられると「いえ、私は無宗教です」とか、「私は無信心です」と日本人は答える…。これは大変おかしいことです。本当に無宗教(無信心)の人ならば、そんな宗教的なことはしないはずなのです。では、何故、皆このように答えるのかというと、それは確かに、一神教を信ずる人たちから見れば、「宮参りをし、クリスマスを祝い、法事をするような」無節操な人々は無信心なわけなのです。けれども、それは一神教を信じる人々の価値観であって、日本人はずっとそういうことを続けてきたのです。</p>

<p>　つまり、どこかで自分たちを卑下しているような価値観にいわば洗脳されているようなもので、近代化以前の精神文化や宗教心のありようを旧陋なものとして扱い、一神教が優等であるとし、明治から１５０年かけて日本人が宗教心をなくしてきたという、その証左のようなものではないでしょうか。</p>

<p>　日本人が抱き続けた「神・仏」の喪失は、実は、明治以来の、森や自然の急速な破壊に繋がっているのは間違いありません。</p>

<p><strong>◎森との関連で進むべき道とは</strong></p>

<p>　私たち修験道の教義で最も重要なことは、「自然は既に悟っている」という世界観です。難しい教義で申しますと、「本覚」と「始覚」といいますが、もともと自然は悟っているから、修行することによって煩悩を持った始覚山伏（私）が本覚（仏）になれるのです。すなわち、「大自然は既に悟っているから、そこへ分け入って修行することで、人間も悟ることができる」というわけです。ですから、本覚になるための修行の場は大自然ということになるのです。</p>

<p>　一神教というのは、イスラム教でも、ユダヤ教でも、キリスト教でも、人の上に超越(絶縁)した存在としての「神」がいます。それに対し、われわれ日本人の感性においては、「自然の中に神も仏もいる」、あるいは「自然そのものが宇宙神である大日如来(天照大神)」であったりする訳です。そして、人の営みもまた、自然の一部なのです。環境問題を考える時、自然をもの(対象物)として突き放して見ている限りは、本当の意味における環境問題の解決策は生まれてこないと思いますが、これからは「人の営みも、神も仏も自然の一部であって、自然そのものがすでに悟っている大きないのちである」といった視点が必要であり、森林保護や木の文化財保全には欠かせない視点であると思います。逆に、これを妨げる存在は何か？というと、それが明治以来蔓延する、一神教的な価値観が生んだ近代合理主義なのではないでしょうか。</p>

<p>　もちろんここでいう日本人が認識する多神教としての「神」と、イスラムをはじめ一神教で意識される「神」の概念とは似て否なるもので、同義ではありません。</p>

<p>　例えば「紀伊山地の霊場と参詣道」の意義を、欧米人に説明するのは大変難しいといわれます。何故、難しいのでしょうか？日本人は、玉置神社の神代杉や那智の大滝を見た時に、ごく自然に、杉や滝そのものを拝むのですが、その様子を見た外国人の方々に、「何を拝んでいるのか」を説明するのが非常に難しいそうです。「木の何を拝んでいるのか？」とか「滝の何を拝んでいるのか？滝の流れ落ちる水を拝んでいるのか？…水というのは流れていくとやがて川になって、最後は海に至るけれども、あなたたちはどこまで拝むのか？」とか、問うのだそうです。しかし、日本人は単なる木や水を拝んでいる訳ではない。千年を超えてそこに佇む神代杉の荘厳さに、滝が漠々として流れてくるあの勢いの様に、「聖」なるものを見ているのです。そこに、人間を超えた聖なるものを感じるから、それに対して掌を合わせるのです。それが日本人の感性であり、根底に霊性(スピリチュアル)なものが流れています。もちろん、欧米人にも共通する感性があると思いますが、豊かな自然に囲まれて育まれた、神と仏が同居する日本人の霊性は、近代化以前の価値観を代表していると言えるでしょう。</p>

<p>　欧米的な価値観で自然を見る限り、そして森や木を見ている限り、霊性を呼び覚ますことは出来ないし、祈りの場を守ることは出来ないと思います。</p>

<p><strong>◎世界文化遺産の保持者として</strong><br />
 <br />
　ユネスコが提唱する世界遺産の精神は、「諸民族が互いの文化や価値観を理解することで偏見を取り除き、心の中に平和のとりでを築こう」とするユネスコ憲章の思想に、根をもっています。故に私ども「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録の意義とは、世界に誇るべき、日本固有の多神教的精神文化の再認識を、何よりも重視すべきだと思っています。</p>

<p>　神仏分離政策は、修験道に致命的な打撃をあたえただけではなく、有史以来、日本列島に絶えることなくはぐくまれてきた多神教的な世界観を、そしてそれを中核とする日本固有の精神文化の崩壊をも招いたのでした。</p>

<p>　日本は全国土の七割が山といわれています。有史以前から日本列島に住み着いて、精神文化を築きつづけてきた私たちの先祖たちは、山や大自然からもたらされる豊かな恵みのなかで、多神教的な風土にもとづく歴史を積み上げてきたのです。</p>

<p>　それゆえに、日本人一般の信仰は、その原点をたどれば、自然のなかで、日本古来の神々も、外国から来た諸仏諸菩薩も、まったく分けへだてなく、敬い拝むという多神教的な風土の大らかさに根ざしていたはずなのです。その精神文化はまぎれもなく森や自然に育まれたものでした。</p>

<p>　ユネスコの世界遺産は、これまで対立するものと考えられてきた「自然」と「文化」を、人類全体の宝物として損傷、破損等の脅威から保護し、関係機関が協力して調査・保全することの大切さをうたった条約のことで、自然と文化は密接な関係にあり、ともに守るべきものであるという新しい考え方がここから始まりました。決して安易な観光開発のための条約ではありません。</p>

<p>　世界遺産に関わるイコモス（国際記念物遺産会議）が定めた『国際文化観光憲章』の中に第一の門番（custodian）という考え方があります。第一の門番（custodian）とは世界遺産の自然と文化を守っていく役目を担う人々のことです。</p>

<p>　世界文化遺産を保持する多くの寺社に関わる者の役目は、まさしくこの第一の門番たるべしだと思っています。世界遺産登録によって、長い伝統によって守られてきた文化財が単なるアミューズメントスポットの建物や、動物園の動物のように見られてしまうのでは何にもなりません。今までの世界遺産登録ではいろいろな問題を生んできましたが、まちがった方向の観光開発や地域振興に進まぬよう、自然と文化を二つながら大切にし、日本人の宗教心を守ってきた本来のあり方を見つめ、世界遺産の第一の門番たるべき自覚がこれからは大変必要になるのではないでしょうか。</p>

<p>　文化財を守るとは単に自然や建物を守るのではなく、その自然や建物を支えてきた背景たる宗教や文化そのものを守っていくことだと思います。</p>

<hr>
<h3>【参考サイト】</h3>
<ul>
<li><a href="http://www.kinpusen.or.jp/">金峯山寺</a></li>
<li><a href="http://homepage3.nifty.com/enno-f/">役行者ファンクラブ</a></li>
</ul>
　
]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>姫路城とともに　世界遺産10周年を迎えて</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.bunkaisan.jp/articles/archives/2005/08/10.php" />
<modified>2005-08-21T01:12:09Z</modified>
<issued>2005-08-21T01:03:06Z</issued>
<id>tag:www.bunkaisan.jp,2005:/articles//4.131</id>
<created>2005-08-21T01:03:06Z</created>
<summary type="text/plain">平成16年5月28日日本城郭センター会議室において開催された、講演会の講義録です...</summary>
<author>
<name>taro</name>


</author>
<dc:subject>oono</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://www.bunkaisan.jp/articles/">
<![CDATA[<p>平成16年5月28日日本城郭センター会議室において開催された、講演会の講義録です。姫路城を守る会発行の広報誌「白鷺城　第38号／平成16年9月1日発行」に「特集　世界遺産登録10周年記念紙上講演」として掲載されたものをご紹介いたします。</p>]]>
<![CDATA[<p><strong>日本初の世界遺産に登録された"双児の兄弟"</strong></p>

<p>みなさんこんにちは。</p>

<p>ただ今、ご紹介に預かりました法隆寺住職の大野でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。</p>

<p>本日は「姫路城を守る会」の皆さまに『姫路城とともに世界遺産10周年を迎えて』と題して、お話をするようにとのご下命でございます。</p>

<p>改めて申し上げるまでもないことでありますが、10年余り前、平成5年の1993年12月にコロンビアで開かれたユネスコの総会で、姫路城と法隆寺は日本で初めて世界文化遺産に登録されました。国連ユネスコの世界文化遺産および自然遺産の保護に関する条約、簡単に申しますと世界遺産条約と申しますが、我が国はこれを批准するにあたりまして、日本における文化遺産の候補として姫路城と法隆寺を推薦し、ユネスコの総会で決定されて認定登録をされたものであります。</p>

<p>その当時のことを振り返ってみますと、確か登録より2年ほど前のことであります。非公式に文化庁より世界文化遺産の候補として推拳することに関しての打診がありました。今でこそ、世界遺産は市民運動の高まりのなかで推薦を受け、登録されるというような流れが定着している感もありますが、最初はそうではなかったのであります。</p>

<p>もちろん国連のユネスコや遺産条約の趣旨から申しますならば、このような市民参加の在り方は望ましいことであります。我が国では、広島の原爆ドームの登録に向けて大きな市民運動が展開され、それ以来各地で登録のための運動が行われるようになりました。ただ残念なことに、世界遺産の趣旨とは別に、政治的な利用、あるいは観光産業などへの期待などが先行してしまった運動も見受けられました。</p>

<p>しかし、10年余り前の我が国では、世界遺産という言葉を耳にしてもほとんどの人が何のことかわからない、という状況でした。また、行政関係の人々でも、これに直接携わっていないと聞かれても説明できないという有り様でした。現在ではこの世界遺産あるいは世界文化遺産、世界自然遺産という言葉はほとんどの人々が認識をし、また、日常的に使われ、テレビや新聞などでもいちいち説明しなくても普通に用いられるまでになりました。</p>

<p>これは最初の登録当時から各関係者の啓蒙活動や努力、そして報道関係者などの理解や支援、さらに各地域の市民によるさまざまな活動など、多くの人々によってなし得た成果であると思います。これらの成果がさらに発展して、我が国の文化遺産や自然遺産が、より多くの人々の理解と支援によって長く守られていくことを願うものであります。</p>

<p>そもそも姫路城と法隆寺が日本で最初に世界遺産に推挙されたのには、それなりに理由がありました。国が初めて推薦するのでありますから誰もが納得できるところでなくてはなりません。また、失敗することはできないのであります。登録されるためには国が保護のための法的な措置を複数で講じていなければなりませんが、これには国宝であることと、史跡に指定してあることがその条件となりました。また同時に、姫路城と法隆寺は修復のために修理事務所を国の機関として特別に設け、いわゆる直轄の事業として大々的に修理を行った経緯があります。このような体制で修理が行われたのは、日本ではこの姫路城と法隆寺だけであります。</p>

<p>法隆寺の場合、昭和9年（1934年）に、「法隆寺国宝保存事業部」と「法隆寺国宝保存協議会」が設置されています。この「法隆寺国宝保存事業部」という組織は、文部大臣が省内に設けたもので、その長には文部次官があたり、関係職員がその職務を担当しておりました。さらに、法隆寺の現場で設計・施工・調査などの業務を行うために、「法隆寺国宝保存工事事務所」が置かれました。また、「法隆寺国宝保存協議会」は、各方面の権威者を結集して専門事項の調査や審議を行い、助力や助言を得るために設けられたものであります。</p>

<p>このような体制が取られましたのは、法隆寺の国宝建造物のすべてを修理の対象とする大計画が昭和9年に実施されることになり、法隆寺と文部省との協議により、国庫からの補助金と寺側の負担金を合わせて差し出して、文部大臣に工事の一切を委任することになったことによります。以来、国の制度や名称の変更は行われたものの、昭和31年（1956年）の3月31日まで続けられ、その後の事業は新たに設置されました「法隆寺文化財保存事務所」に引き継ぎ、終了いたしました。</p>

<p>また、姫路城のことにつきましては、いまさら私が申すまでもないことでありますが、1934年から1964年までの30年間、保存のための大事業が国の直轄事業として行われたことは、皆さまもよくご存じのことであります。</p>

<p>このようなことから、国としては、文化遺産の登録に各方面の理解も得やすく、また状況説明も行いやすい姫路城と法隆寺を選び、万全を期して推挙したものとみられます。また、登録当初は、さかんに日本の文化は「木の文化」として紹介され、内外にアピールされたことは皆さまもよくご存じのことと思います。</p>

<p>もちろん、姫路城も法隆寺も、ともに主として木で作られていることや、そのほかの日本の古建築のほとんどが木造建築であることに由来するのですが、これを強調する理由はほかにもありました。<br />
　<br />
それは欧米の人々の木造建築に対する認識が大きく影響したようであります。彼らの認識によると、木は湿気に弱く、腐りやすいもので、日本の古建築には当初材がほとんど残されていない。また、伊勢神宮のように様式だけは踏襲するものの、何年かごとに建て替えられてしまう、いわば新しく造った新築であり、とても世界遺産に値するものではない、というようなものでありました。</p>

<p>そこで、日本としては、そのような誤った認識を改めさせなければなりませんでした。木造建築の修理は、実はこのようにして行われていますよ、当初の材木は何％残されていますよ、やむを得ず外した当初材はこのようにして保存していますよ、と日本の修理方法や技術を細かく説明し、理解を促す必要があったのであります。</p>

<p>このような説明をするにおいても、直轄事業として修理を行い、国の関係者が熟知している姫路城と法隆寺が最適であったといえましょう。特に法隆寺の場合、焼損した金堂内陣の焼け焦げた状態のそのままを保存している収蔵庫や、あるいはおびただしい量の古材の保管状況を証拠として見せ、説明したことにはとても説得力があったと聞いております。</p>

<p>また、姫路城と法隆寺は、同じ技術で築城、建造され、同様の方法で同じ技術者、同じ技能者たちによって修理、修復が行われたのであります。城郭を建造する場合、寺社を建てる大工さんがこれに当たったことはよく知られています。法隆寺の大工棟梁であった中井大和守正清は、徳川家康に重用され、名古屋城の築城にかかわるなどの活躍をし、また後に、中井家は幕府の大工頭として数々の工事を行ってきたことでも有名であります。少し余談になりますが、慶長19年（1614年）徳川家康は、大坂城を攻める途中、法隆寺の阿弥陀院に泊まって戦勝祈願を行っています。</p>

<p>徳川家康が法隆寺に立ち寄った理由につきましては、すでに味方にしていた大工棟梁の中井大和守が法隆寺に住んでいたことや、この大和守が大坂城の築城に参画し、城内の状況にも詳しかったことなどが挙げられています。また、大工の棟梁は多くの大工集団や工人を配下としており、大きな武装集団となり得たことや、また、橋を架けたり、宿衛場所、砦を作るなど、工兵としても優れていたということも挙げられます。さらに歴史研究者のなかには、千姫救出の望みとも全く無縁ではないという見方など、さまざまな憶測がなされているようであります。いずれにいたしましても寺院を建立する大工集団は、築城の際に大いに関与し、中心的役割を果たしたことは言うまでもありません。</p>

<p>また、近年では法隆寺の修理に携わっていた多くの技術者や技能者が、姫路城の修理のために赴任された事実もあります。それは先にもお話いたしましたように、法隆寺の国宝保存事務所が1956年に閉じられ、姫路城はその8年後の1964年まで続けられたことによります。私も何人かの人が姫路城の修理のために赴かれたことが小さいころの記憶として残っています。</p>

<p>こうしてさまざまなことを総合して考えてみますと、まさに法隆寺と姫路城とは、寺と城という違いはあるものの、日本で最初に世界文化遺産に登録された″双児の兄弟″と見ることができます。</p>

<p><strong>次代へ継承するための様々な問題点と解決策</strong></p>

<p>しかし、次にこれらの貴重な遺産を保護し次の世代、さらに未来へと継承して行くためには、困難なハードルも多く、共通の悩みを抱えていることも事実であります。先にも欧米人が懸念していたように、確かに日本の風土は湿度が高く、木造の文化財は湿気に弱いのであります。また、風や雨の被害にも遭いやすいことからも、こまめにメンテナンス、補修しなければなりません。このメンテナンスをきちんとこなす事が大切であり、歴史の上ではメンテナンスが行われずに失われた文化遺産は枚挙に暇がないほど数多くあります。</p>

<p>先の阪神淡路大震災の直後、私たち寺では、寺内の古記録や日誌などから過去の災害と修理時期についての緊急調査を行いました。その結果、やはり修理が遅れていたり、手の回らなかった建物が被害を受け、修理の行き届いていた建物は被害を受けていなかったのであります。また、仮に受けていたとしても、それは軽微なものであった事がわかり、メンテナンスの必要性を痛感したところであります。　</p>

<p>このような補修ができなくなる理由を考えてみたとき、そのほとんどが経済的な理由でありました。特に寺院の場合で申しますと、政治や制度の変化によって寺の維持管理をするための経済的な基盤を失うことが挙げられます。</p>

<p>例えば、法隆寺の場合。ご承知の方もおられるかと思いますが、この姫路市の隣に太子町があります。この太子町は、法隆寺にとって最大の荘園でありましたが、豊臣秀吉のときに召し上げられ、代わりに1000石の地行を受けたのであります。その結果、寺の経済力は大幅に減少し、1000石では僧侶たちの日々の暮らしが精一杯で、建物の修理などとてもできない状態になってしまったのであります。</p>

<p>ここで少し時間を頂戴いたしまして、太子町の斑鳩荘についてお話させて頂きたいと思います。法隆寺を建てられました聖徳太子は、斑鳩宮に移り住まわれた翌年の推古14年（606年）、推古天皇のために『勝鬘経』という仏教の経典を講じられ、さらに岡本宮で『法華経』を講じられたことが『日本書紀』に記されています。その続きには、天皇が大いに喜ばれて、その布施として播磨国の水田100町を贈られ、太子はそれを斑鳩寺、つまり法隆寺に施入されたと記されています。</p>

<p>このときの水田が斑鳩荘で、その場所は播磨国佐勢の地、つまり現在の太子町です。また、この荘園を管理していたのが太子町にある斑鳩寺であります。その後、およそ1000年近く、法隆寺の経済的な基盤であり続け、法隆寺の根本荘園でありました。この荘園の広さにつきましては、『日本書記』のほかに、『上宮聖徳法王帝説』あるいは『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』、また『日本霊異記』などに記され、いろいろな説となっております。その理由は、開墾面積が時を経て次第に広がってゆくなかで、その記述の伝承時期や各書物の製作時期によってさまざまな表現となっているからであると見られています。</p>

<p>ちなみに少し紹介してみますと『日本書記』に記されているように、最初は100町でありました。それが『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』では、219町1段82歩。『日本霊異記』では273町5段余り。『上宮聖徳法王帝説』では300余町となっています。</p>

<p>また、このようなご縁から私たち法隆寺と太子町の斑鳩寺さんとは、今でも昵懇にお付き合いをさせていただいておりますし、また斑鳩町と太子町は、姉妹提携を結んで町ぐるみでお付き合いをしているわけであります。また、少し姫路市さんとのかかわりを申しますと、『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』に播磨国揖保郡の名称が多く見られ、先に述べました斑鳩荘の一部は現在の姫路市区域であった可能性が高いとされています。</p>

<p>このほか揖保郡には、12町2段の薗地、要するに花園みたいなものや、5カ所の山林、庄屋、庄倉が1カ所、そして林田町に５０戸の食封といったものが記されております。また、印南郡と飾磨郡に山林などが16カ所、浜辺が2カ所あったようで、姫路市には、山間から海岸にかけて法隆寺の領地が点在していたようであります。</p>

<p>中世におきましても、この荘園が存在していましたことは、『太子伝私記』という書物に伊保荘が末寺末荘として挙げられていることからもわかります。さらに勝原区下太田の下太田廃寺出土の軒丸瓦、軒平瓦がともに法隆寺式と言われる法隆寺と同じ模様の紋であるところから、技術的な往来も推測でき、姫路市も隣の太子町と同様に法隆寺との関係は密接であったと考えられます。少し余談が多くなりましたが、話をもとに戻したいと思います。</p>

<p>経済的基盤を失うことについては、もうひとつあります。長い歴史を経る中で寺の支援者、つまり大きなスポンサーがなくなってしまい、寺の経営が成り立たなくなってしまうというケースが起こつてしまうことです。それのほかにも色々考えられますが、いずれにしましても情勢の変化に伴う経済力の低下が原因となっていたようであります。</p>

<p>現代の状況を考えてみますと、相変わらず経済的な理由はありますが、それに加えて別な事情も浮かび上がってまいります。ひとつには、補修材の不足が挙げられます。例えば木材について申しますと、修理のための材木は小さなものだけではありません。成長するのに何100年もかかる太い木や、長い木が必要な場合があり、姫路城も法隆寺も現実にこのような材木が使われています。現在の我が国には、このような材木がなかなかありません。仮に見つかったとしても交通事情からして、このような長大な木を運ぶことは困難な状況と言えましょう。</p>

<p>また、檜皮茸に必要な木の皮の不足も深刻です。瓦屋根の瓦の材料である粘土も入手が難しくなってきているようで、大量に掘り出したり、焼いたりして煙りを出すといったことなどで、環境問題も起こってきているわけであります。先日、奈良県の瓦の生産と瓦茸を行う会社の社長さんで、姫路城の修理にも携わった人の話を聞きますと、現在では粘土が近くで採れなくなつてしまって、岐阜県まで採りに行くそうであります。しかし、今採っている場所でもさまざまな問題が生じてきており、採取が困難になってきているとのことでありました。</p>

<p>次に、技能者の後継者が減少して、中には激減していると言ったほうが的を得ている業種もあり、これらの後継者の育成も大きな課題となっています。特に日本は木の文化などと言いながら、最近では鉄筋を使ったマンションや、あるいはアパートばかりが作られて、木造の家屋が建てられない傾向にあり、大工さんなどは仕事が減ってきています。さらにまた最近では、木造の建物が建てられる数は、日本よりアメリカなどの方が多くなってきているとの指摘もあります。</p>

<p>そしてまた、現在、本格的な木造の家屋などを新築する場合、材木の強度や構造上の耐震性に対する規定作りの立ち遅れから、建造の許可が下りないという問題が起きています。つまり、規定がないから許可を出せないというわけで、法規上の大きな課題となっています。最近少し改善されたものの、ある大工さんは、「私は法律違反を覚悟しなければ、ちゃんとした木造の家が建てられません」と話されました。そういう言葉を聞いて皆さんはどう思われるでしょう。</p>

<p>大工さんの仕事が減れば、大工さんは減りますし、大工さんが減れば、優秀な技能者も減り、日本の林業も成り立たなくなるような悪循環を引き起こすことになります。このような悪循環は大工さんに限らず、檜皮職人、瓦職人、飛び職、左官職、建具職人など、多くの職種に見られる傾向であります。これらの悪循環はさらに大きな悪循環となり、文化財修理のための材料の不足、技能者などの人材不足、そして修理費用が高騰するといった、互いが関連しあった悪循環の輪は拡大するばかりであります。</p>

<p>特に技能者の人材不足は深刻で、優秀な職人さんは年々高齢化するばかりというのが実情で、若い檜皮職人は金の卵とまで言われております。これらの職業に対して若い人たちには、きつい、汚い、危険という、まさに3Kという仕事と映り、敬遠されているようであります。また、せっかく希望してこの道を志す人が出ましても、長続きせずに辞めてしまう人が多いと聞いております。私たちはこれらの技能者を育て、魅力ある職業として成り立つように、また、より希望者が増えるよう多くの人々の理解を促する努力を行い、その環境とシステムを整えていかなければならないものと思います。</p>

<p>また次に、自然環境との問題とも深くかかわっているとも考えられ、環境汚染による材質の低下が懸念されています。特に、木の皮で葺かれた屋根は、30年くらいは持つものとされておりましたが、近年では20年もすれば次の葺き替えが必要になってしまっています。これは材料不足からくる粗悪材料による修復、あるいは人材不足からくる技術的な問題だけではなく、環境汚染による材料自体の質の低下や、あるいは屋根自体が汚染されて寿命を短くしているという指摘がされています。奈良の東大寺大仏殿の前にある有名な国宝の銅燈籠が現在では模造に代えられているのも、空気の汚染による腐食が原因で、最近では、堂内や室内の仏像・仏具にも影響していると言われています。</p>

<p>このような現状を踏まえて世界文化遺産を未来に引き継ぎ、長く守り伝えるための条件としましては、先行きがあまりにも深刻な状況であると言わなければなりません。だからと言って手をこまねいているばかりではなく、この文化遺産を後世に残すために私たちは今何をなすべきか、ということを模索することが求められているものと思います。</p>

<p>姫路城も法隆寺も、そのほか我が国の世界遺産のすべてが、私たち日本人のかけがえのない財産であり、全人類の共有する遺産であります。私たちの祖先や先人たちの知恵と努力によって守り伝えられ、先輩たちの想い、願い、精神がこもった温かい贈り物。これを今、私たちは引き継ぎ、そして未来へ繋ぐ責務を担っているのであります。日本の文化・精神の結晶として、姫路城と法隆寺は、今現在私たちの前にあるのです。</p>

<p>これを保護し、未来へバトンタッチし、長く守っていくためには、保護のための支援、啓蒙、将来のための植樹、草引きなど、あらゆる幾会で私たちそれぞれが自分たちにできることを見つけ、保護のための意志を現す行動を起こさなければならないと思います。そこに世界文化遺産保護のための活路があるものと信じます。</p>

<p>最近ではこのような趣旨を持って活動を行う人々も見受けられるようになりました。また、さまざまな形で支援しようとする団体も出て参りました。ここで少し時間を頂戴して、私もかかわっている運動を二・三紹介させていただきたいと思います。</p>

<p>その一つは、先程申しました檜皮葺きに使用する桧の皮が不足していることに関したもので、林野庁の事業として管理している国有林を活用しようというものであります。世界遺産修理のために、多くの国有林のなかから材料の供給に適した品質や数量、場所を考慮して地域を定め、まずは檜皮を提供し、将来的に木材としても活用すると同時に、啓蒙活動のための施設も設けていこうとするものです。現在、「世界文化遺産貢献の森林」という地区を設定して、林野庁の事業として近畿中国森林管理局がこれを進めています。</p>

<p>二つ日は、現在日本国内に大きな木が少なくなってきており、400年後の大修理のための木を、今から植えておこうというものであります。具体的には、植える場所として林野庁が国有林の一画を提供し、民間のボランティアがその提供された土地に桧を植え、国が文化財の修理のためにそれらの木を育て、保護するということとなっております。すでに京都府の鞍馬山・茨城県の筑波山・奈良県の春日奥山の3カ所で実行されています。</p>

<p>これはそれぞれに「古事の森」という名称を設定し、全国に広げようという官民一体の事業であります。作家の立松和平氏の提唱により実現したもので、民間のボランティアのひとりひとりが自己に強い意志を持って文化財保護の目的のために木を植えるところに大きな意義があると思います。木を植えることによって、文化財保護の精神が心に植え付けられ、育まれるというものであります。</p>

<p>三つ目は世界遺産の修理のために、現在植えられている木を大切に守り育て、そして確保していこうというものです。世界遺産の所有者や木を育てている林業家、木を実際に使う技能者、学識者および支援者、そして林野庁、文化庁、環境省などの関係者が参加している団体があります。「文化遺産を未来につなぐ森づくりのための有識者会議」という長い名称ですが、社団法人の国土緑化推進機構の助成を受けて、「補修用材と技術の委員会」と、「補修用材確保策検討委員会」の二つの委員会が活動をしています。</p>

<p>林業家が目的の木を守っていくための数多くの諸問題の解決策や、文化遺産の修復に必要な材木の調査、そのための木の品質確保のための育成方法、あるいは技能者の裾野を広げるための方策などを幅広く検討し、各種の運動を起こしていこうとするものであります。</p>

<p><strong>平和実現のために世界文化遺産が担う役割</strong></p>

<p>さて次に、世界遺産登録の趣旨について少し考えてみたいと思います。先にも申しましたように文化庁から世界遺産に登録するための推挙の打診を受けた私たちは、世界文化遺産とはいかなるものなのか、また私たちが日ごろ行っている宗教活動や文化財の保護管理とどうかかわるのか。これが両立するものなのかなど、さまざまな角度から検討いたしました。その結果、ある一筋の方向性と結論を見い出せたので、法隆寺としては推薦をお受けしたのであります。</p>

<p>まず、世界遺産の登録は国連ユネスコの条約に基づいて登録されるわけでありますから、当然のこととしてユネスコの設立の目的に合致しているものと理解すべきでありましょう。ユネスコは、教育、科学、文化を通じて、各国民間の理解を深め、世界の平和に尽くすことをその目的としているのであります。</p>

<p>ですから登録された遺産は、人類の平和、世界の平和に寄与し得るものと認められたということであります。文化遺産や自然遺産にとって最大の脅威は戦争や紛争です。また、人々の価値観の相違からの破壊や、貧困のため、わずかな収入を得るために破壊をし、その一部が取り出され売りに出されたりします。これらの遺産を欲しがる不心得な人もいます。これらはすべて人間の行う行為なのです。</p>

<p>ユネスコの期待するところは、世界遺産のある国や地域の人々が人類共有の大切な遺産の保護の重要性に目覚め、そして多くの人々の理解を求め、みんなで守って行こうという機運が高まることであります。そうなることによって、それらの地域からは戦争や紛争がなくなると同時に、これらの遺産保護のための啓蒙や努力が自然に人々の精神的支えとなり、さらに心の平和も育まれるものと信じます。</p>

<p>また、少し余談になりますが、かつて京都で景観の問題が起こったときに、京都仏教会の各寺院や市民のなかから高層ビルの建設に反対して立ち上がった人々がおられました。それは長い歴史のなかから生まれた京都の佇まいを守る運動であり、京都らしい街であればこそ、京都市民はそのなかで心の平和を受け止め、そしてさらに平和の心が育まれてきたのだと思います。</p>

<p>姫路には姫路らしい街の景観、法隆寺には法隆寺らしい景観。これも世界遺産の一部であり、そのために（バッファゾーン）というものが設けられているのでありましょう。このように考えて参りますと、この世界遺産の登録が世界中点々とまんべんなくされることによって、平和の輪が増し、やがて結び付き、最終的には世界平和が達成できるというわけで、ユネスコはそのようになってほしいと願っているのだと思います。</p>

<p>さて次に、世界平和の実現をと考え、昨今の世界情勢や社会情勢に目を向けてみましたとき、私たちの目には世界平和とは程遠い状況があちらこちらで現出し、世界中の多くの人々が悩み苦しんでいる姿が映って参ります。しかしその反面、今日ほど多くの人々によって平和が求められ、叫ばれている時代もかつてなかったのではないでしょうか。まさに平和でないからこそ平和を求める声が高くなり、平和を求める声が多ければ多いほど世の中が平和ではなく、乱れているということでありましょう。</p>

<p>さまざまな価値観の相違や身勝手な、自分たちにだけ都合のよい理屈による平和。私たちはこのような低位な次元から抜け出すことは出来ないのでしょうか。現代の社会はまさに人と人との信頼関係が失われ、これらの歪みによって悪い影響がさらに幅を効かせていて、社会全体が混迷し、解決の糸口きえ見い出せないというのが実情でありましょう。</p>

<p>このようなとき、世界遺産の持つ平和への貢献の役割を考えてみますと、私たちには全人類の持つ大切な遺産を共に守るという認識の上に立って、自分たちの地域の遺産のみならず、ほかの国や地域の遺産も守っていくための行動や啓蒙が求められているものと思います。</p>

<p>つまりユネスコが世界遺産として登録するということは、世界平和への貢献を期待しているのであって、登録された遺産の保護と平和のための活用とを世界から託され、またその義務と責任とを担ったものであると思います。</p>

<p>各国、各地域の世界遺産は、それぞれに住む人々の精神であり、結晶であります。ですから、お互いにその人々の精神、文化を学び、認め合うなかに、それらの遺産を共に保護する機運を養い、そして相互理解のなかに平和精神も育まれ、やがては世界平和への道も開けてくるものと信じるのであります。</p>

<p><strong>日本の精神文化と聖徳太子</strong></p>

<p>それでは私たちの国、日本の精神文化の面から平和を考えてみたいと思います。古代の我が国では、山の神、地の神、また風の神、水の神、あるいは大木には神が宿ると言われてきました。自然や大地に対して畏敬の念を持ち、信仰する、いわゆる神祇・祭祀を中心とした生活を送っていたのであります。</p>

<p>そこへ未だ国家として発展途上であった我が国に、新興宗教として仏教が伝えられたのであります。しかし、当然の成り行きとして、古来より広く祭られていた神祇・祭祀を擁護する人々との間で、それなりの摩擦が生じたのは言うまでもありません。そのようななか、推古2（594）年には、推古天皇と聖徳太子によって「三宝興隆の詔」が発布され、内外に仏教の受容を公式に発表されたのであります。</p>

<p>これによって朝鮮半島の諸国から僧侶、技術者など多くの知識人が派遣されて各地に寺院の建立が進み、仏教が盛んとなって我が国精神文化の一大転換期を迎えたのであります。当時の友好国であった朝鮮半島の諸国が、文化や技術の指導のために、今で言う海外援助を行ったというわけであります。これによって我が国の建築技術も大幅に向上し、さらに発展を遂げ、そして日本の木の文化を育ててきたことは言うまでもありません。</p>

<p>さて、ここで少し話は変わりますが、このように太子によって仏教が受容された我が国は、文化、技術、精神など、多くの面で向上、発展してまいりました。また特に、平安時代の後期頃から、世情の末法思想と相まって聖徳太子に対する信仰が急速に広がり、それぞれの分野の祖と仰がれるようになります。もちろん仏教の立場から申しますならば、平安期、鎌倉期に興った各宗派もそれぞれに太子を尊崇し、日本仏教の祖師としての地位が確立し、各集団にとって垣根のない特異な信仰対象となってまいります。</p>

<p>また文化や技術の面からも我が国の文化は仏教と共に発展し育まれてまいったことは申すまでもなく、技術においても我が国の仏教受容に端を発し、多くの寺院が建立され、そしてそのなかで培われた技術が今日まで続いているのです。そうでありますから、それぞれの技術集団にとりましても太子が、その分野の祖として尊崇の対象となったことは自然なことでありましょうし、太子が日本文化の父と言われるのも納得のいくところであります。</p>

<p>やがて、これらの流れは次の時代に引き継がれ、そして庶民信仰としての太子信仰へと広まってまいります。特に太子への信仰が庶民へ広まる原動力となったのが、全国各地で活躍している地域の技術集団、つまり職人さんたちでありました。</p>

<p>江戸時代になりますと世の中も安定し、人々の暮らしにもゆとりが生まれてまいります。人々はこれらのゆとりのなかで、生活を楽しむようになり、ある人は旅に出掛けたり、気の合う人々が集まって何かをする、あるいは神社仏閣に参拝したりするなどのことが流行します。現代風に言いますと、観光に出掛けたり、グループ活動を行ったり、また、仲間同士で信心したりするわけであります。</p>

<p>こうしたなかで「講」というものが組織され、そしてさまざまな講が各地に生まれます。このなかに聖徳太子を尊敬し、みんなで太子の年忌法要を行ったり、仲間たちの代表の何人かが太子ゆかりの寺々を参拝したり、また太子に関係する寺の法会には仲間たちから寄付を集めて代表者がそれを届けて参列をするといったことなどが行われました。それを「太子講」と言いました。</p>

<p>これらの太子講はやはり、それぞれの職業の技術者たちによって組織されたものが多かったようであります。例えば、大工さんばかりの太子講、材木商の太子講、また、石屋さん、左官さん、瓦屋さんといった具合であります。またこれらの人々は、自分たちの集まる場所やあるいは礼拝場所として聖徳太子を祭る太子堂や集会所を建て、毎月日を決めて集まり、お供えをしてみんなでお祭りをしたのであります。</p>

<p>礼拝の対象となる聖徳太子の像は、彫刻をされた像、あるいは描かれた像、墨書、太子の教戒を書いたものなど、さまざまであります。なかには大工さんの差し金を手に持たれた太子像も見られるようになります。また、全国各地に太子堂は残され、堂がなくても地図上では地名として残っている例も多くあります。</p>

<p>以前にある人が聖徳太子像のお祭りされている箇所を、全国規模で調査されたことがあります。当時はまだ沖縄が復帰前でありましたので、その調査対象地域に入っていませんが、その他の都道府県のなかで宮崎県を除くすべての県で確認されたと言われております。が、その後、宮崎県でも「わたしのところにもあります」という声があり、結局全国にあったということであります。</p>

<p>このように太子講は全国的に広がり、現在でも各地で太子講は活動されています。これらの太子講が長続きしている理由を考えてみますと、それは同じ職種、同じ職業によって構成されていたのが大いに関係しているものと思われます。同じ業種の人々が毎月集まるわけでありますから、そこでお互いの親睦を深めるだけでなく、何よりもさまざまな仕事の情報が収集でき、また助け合うことができたのであります。なかにはその年の賃金を相談したり、あるいは仕事の配分まで行っていた講もあったようで、そういったような事柄を話す場でもあったようであります。</p>

<p>余談が長くなりましたが、いずれにしましても聖徳太子の仏教受容とともに、多くの技術も伝わり、そのことはそれぞれの職業集団の祖として崇められる本であり、また今日でも各方面で信仰を集めている所以でもあります。</p>

<p>しかし、ここで何よりも申し上げたいことは、聖徳太子はこの仏教受容によって、国の精神文化をはじめ、多方面の文化、技術、制度を学び、そして高められたのでありますが、決して神祇・祭祀を疎かにされたのではありませんでした「三宝興隆の詔」を発せられてから5年後、推古7（599）年に起こつた震災に対して「諸方に命じて地震の神を祭らせた」という記述が『日本書記』にあります。</p>

<p>仏教受容によって我国古来の神祇信仰が損なわれることは決してなかったのであります。また同じく『日本書記』の推古１５ (607)年の項には、聖徳太子と蘇我馬子が官職にあるすべての人を率いて神祇を祭り、拝したことが記されています。</p>

<p>このように我が国では、仏教受容の当初から、神と仏は共存の道を歩み、人々の精神的支えとしての役割を共に担い、その精神性を養育してまいったのであります。そして我が国の人々にふさわしい和合協調された独自の精神文化を発展させてきたのも事実であり、「神仏習合」の思想や「本地垂迹」の説などはよく耳にされていると思います。ただ今の世界情勢のなかで、異なる宗教的な価値観が互いに譲らず、世界に波紋を投げかけ、そして多くの問題を引き起しています。信仰や文化が別であっても、お互いを認め合い、融和しあって存在するということは、人の生活に大きな意味を持つものと考えます。</p>

<p>以上のように、聖徳太子に重ね合わせて世界遺産について考えてみましたとき、世界の平和のために全人類共通の遺産であるという認識を持ち、それぞれがお互いの文化や価値を共に学び、認め合う努力が今、求められているとおもわれます。<br />
このような努力の積み重ねのなかに初めて世界平和が展望できますものと信じますとともに、私たち日本の歴史のなかにもその手本が示されていることを思うとき、これを世界遺産の平和のための活用、精神を発信するなかで活かすことができればと願うものであります。</p>

<p>先にも述べましたように、世界遺産に登録されるというのは、世界の平和のために人々が共に守るべき共有の財産として認定されたということでありますから、全人類にとって共通の価値となるはずであります。</p>

<p>このような共通の価値認識を持つ重要性については、聖徳太子のお考えのなかにも窺うことができます。聖徳太子の精神はよく知られておりますように、「和を以て貴しとす」という『十七条憲法』の第一条の冒頭で示された和の精神であります。</p>

<p>ここでは共に和合協調し合い、仲よくすることの大切さを訴えられました。人はそれぞれに考え方や意見も違い、ともすれば偏った集団を作ったり、あるいは徒党を組んだりします。そしてまた、道理をわきまえてそれに到達した人も、そう多くいるものではありませんから、世の中の秩序を乱したり、あるいは協調性を失って社会から孤立して、さまざまな問題を引き起こしたりする危険性を指摘されています。</p>

<p>それぞれが分をわきまえてみんなで仲良く親しみ合い、話し合えば、自然に事柄と道理が通い合い、お互いに理解ができて何事もうまく解決し成就するでしょうと説明をされているものであります。</p>

<p>太子がここで述べられている「和を以て貴しとす」というお言葉は、仲良く和合協調する大切さ、重要性を示されたのでありますが、ただ闇雲に和合協調するのを勧められているものではなく、一定の正しい基準に照らして統制される必要があると考えられます。和という行為、つまり和合協調するというだけでは全ての人のためのみんなが納得できる和合になるにはなかなか困難な状況が起こつて参ります。つまり、和合協調するにはみんなが共に目標とすることのできるある一定の法則、共通の価値を見いだす必要があります。</p>

<p>その共通の価値は全ての人に平等な、絶対の真実によらなければなりませんし、またそれによって行われなければみんなのための正しい和は保てないのであります。もし、そうでなければ、自分たちに都合のよい勝手な和合を成立させることになります。そして、今度はそれらの和合した集まりがお互いに摩擦を引き起こし、それらがまた不和の原因となってしまいます。さらにそれらの集まりは、やがて大きく対立し、紛争の種になってしまい、取り返しのつかない状況を招いてしまうことにもなりかねません。</p>

<p>近年の状況に目を向けてみますと、いわゆる主義主張、イデオロギーの対立、各民族間の不信からくる対立、ナショナリズムによる紛争、また宗教と宗教の価値観の相違からくる多くの問題も例外ではなく、これら諸々の問題や事情が複雑に関連し合い、さらに解決を困難にしていると思われます。これらは一様にそれぞれに掲げる目標や価値観、あるいはそれを求める方法や手段、これらが異なるところに大きな問題があり、相互理解の必要性を痛感するものであります。現代社会は、このための努力を、今、行わなければならないと思うのであります。</p>

<p>　そこで太子のお考えは、みんなが共通して共有すべき価値について、『十七条憲法』の第二条の最初に「篤く三宝を敬え」と述べられて、仏法に求められたのであります。仏教で「三宝」と申しますのは、悟りを開かれた仏の「仏」と、教えの「法」と、その教えを実践する「僧」の、いわゆる仏法僧という三つの宝を言います。太子はこの仏法僧の三宝を敬うことを強く求められ、続いて仏法を敬う理由を述べておられます。</p>

<p>この仏法は、すべての生あるものの拠り所であると同時に、時間・空間を超越して尊ぶべきものであり、悪い人は少ないのでありますからよく教化すればみんな従うようになるものである。もしもこの三宝に従わないのなら、一体何によって間違いを修正することができるのかと、仏法以外に世の中を正すことのできるものはないと示されています。このように丁寧に仏法を敬うべき理由を説明されて、そして正しく和合するための真実の価値をそこに求められたのであります。</p>

<p>太子が『十七条憲法』の構想を練られていたころ、つまり6世紀の終わりごろから7世紀始めごろの我が国の周辺の状況を考えてみますと、とりわけ中国大陸では隋が興って破竹の勢いで強大になり、仏教によって制度や文化を高めていました。人々の心の依り所としての仏教の果たす役割も大きかったのであります。</p>

<p>さらにまた、朝鮮半島に目を向けてみますと、高句麗、百済、新羅の三国も仏教を重要な国の柱として、競って大きな寺々を建て、国家として大きく発展していました。このことを太子はよく承知されていたものと思われます。</p>

<p>以上のようなことから、当時の日本の周辺諸国やさらに西の方、西域やインドに至るまで、渡来人や経典あるいは書物などを通じて得られる情報、つまり耳や目にすることのできるすべての国々が仏法を信仰している状況を踏まえられて、「万国の極宗(おおむね)なり」と述べられております。しかも時間・空間を越えて、恒久的に平等に秩序を守り、すべての和合協調のための規範となり得ると考えられたものと思われます。</p>

<p>そうでありますから、仏法以外に「枉(まが)れるを直(ただ)す」ものはないとの強いご信念から『十七条憲法』の第二条の最後で「それ三宝によりまつらずば、何を以てか枉れるを直さん」と締めくくられて、みんなのための共有すべき価値・絶対真実をこの仏教に求められたものであると信じます。</p>

<p>現代におきましても、私たちが真に世界の平和を望むには、すべての人々が認め、そして共有することのできる共通の価値を求める努力がなされなければなりません。</p>

<p>お互いの精神や文化を認めるなかに、お互いの価値観を理解し、共に同じまな板の上に乗る努力を行うべきでありましょう。このような取り組みの中のひとつとして、世界文化遺産を通じて互いの理解を深め、共々に人類の平和のための議論ができる土壌を育む活動は、十分に可能なことだと思います。</p>

<p>そして共に共通の価値を見い出し、認め合った上での平和運動のなかに、はじめて真の世界平和を望むことができ、その実現への道も展望できるものと思われます。つまり共通の価値観に立脚したうえでの議論がなされなければ、真に世界が平和になるのは、はなはだ困難であり、この共通の価値を見い出すには、世界文化遺産も十二分にその貢献が期待できるものと思う訳であります。<br />
　<br />
<strong>平和社会への一人一人の努力と世界文化遺産のあり方</strong></p>

<p>さて次に、前にも述べましたように、太子はみんなが和合協調するべきことを勧められ、『十七条憲法』第一条で「和を以て貴しとす」と示されましたが、これはすべての人が平等に安穏な生活を享受することのできる理想の平和社会を現実の世界に実現することを願われたものでありました。そしてこの平和のための理想社会を実現するための具体的な方法のひとつに、寺塔の建立が挙げられます。</p>

<p>どうして寺塔の建立のお話を申し上げるかというと、1400年前の太子のこのお考えは、現代の文化遺産登録の在り方と、いくつかの共通点が見られることにあります。太子にとって三宝の整っているところは寺であります。仏になる人を養い育て、仏に成ることを目指し、仏に成る道を説き、常に法が説かれ、仏の道を実践する僧たちが集う。このように常に仏法僧を具えるように努めるのが寺の役目であります。また、一方では仏の舎利を供養する塔や仏像は「仏」であり、仏の教えを説かれた経典は「法」であり、仏の教えに従って実践する人は「僧」であります。</p>

<p>このように仏像、経典、仏道実践者を、仏法僧の三宝とされて、これを「住」むという字と「持」つという字を書いて「住持の三宝」と申しております。寺はこれらの三宝が整えられておりますし、また「三宝興隆」ということは、すなわち寺塔を建立することでもあります。さらにまた、僧とはインドのサンスクリットの言葉で「サンガ」と言います。中国では、平和社会を求める人々という意味を持ち、「和合衆」と翻訳されています。こうして考えて参りますと、三宝の整った寺は、平和社会を求める人々が集い、そこはひとつの平和社会なのであります。</p>

<p>あるとき、聖徳太子がご病気になられたとき、叔母である推古天皇が、お見舞いのために使いを出されたことがありました。そして病気のお見舞いとともに、天皇は太子に、「何か望みごとはありませんか」とお尋ねになりました。そこで太子は、ご自分の願いをまとめられて、四つの願いを述べられ、これを「四節願文」と申しておりますが、その前置きの分を前文と申しております。</p>

<p>そのなかで太子は、「わたしは多くの寺を建てました。そしてただ住寺の三宝が正しく機能することを念願して、ほかに何の願いもありません。仏教が盛んになつて、生あるものすべてが正しく導かれ、国土が安穏であって人々が楽しく暮らせるようになってほしい」と述べられたと伝えられています。太子の想いが実によく現れているお言葉だと思います。</p>

<p>このような平和な小社会がさらに広がり、ひとつの面となり、さらに国全体に及ぶことによって平和な世の中が現実のものになると太子は考えられたのであります。</p>

<p>このような考えは、前にも述べましたように、平和のために世界中に点々とまんべんなく世界遺産を登録する国連ユネスコの考えと合致するものであります。そしてまた、世界遺産が年々登録されて、世界中に増え続けているということは、誠に意義深く思いますと同時に、これらの遺産が正しく活用されることを切に願うものであります。</p>

<p>このように考えて参りますと、私たち法隆寺にとりましては、太子の和の精神を受けて、平和社会の実現を目指し、その精神を広め実践する努力と、人類の平和のための世界遺産を正しく生かし、守る行動とは、決して別のものではないのであります。</p>

<p>また次に、前にも述べました『四節願文』のなかの二番目で、太子は法隆寺の僧に対して要望を述べられておられます。太子は法隆寺の僧に対して、毎年夏の3カ月間は、太子が特にご研究されました『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三部の経典の講義を行うことを望まれたのであります。そしてさらに、この経典の講義やお説法が常に行われ、そして多くの人を救済し、仏教を隆盛させて国の護持に努めることを願われたのであります。</p>

<p>このようなことから法隆寺の使命は、平和社会の実現のために共に努力する人々を育み、世に送り出し、さらに仲間を増やす努力を常に行うことであります。そして人々が平等に幸福であり、安穏である平和な社会の実現のための努力を怠らないように勤めることであると言えます。また、世界遺産の立場から申しますと、私たちは全人類の平和のための遺産として登録された法隆寺を、生きた形での宗教文化遺産として護持し、次の世代、未来へとしっかり引き継ぐ責務を担ったものでもあります。</p>

<p>また、姫路城や法隆寺をはじめとする世界遺産を人類の将来のために守り、よりよい状態で次の世代へ引き継ぐための人々の行為は、混迷する現代社会の人類にとつてあらゆる問題解決のための糸口となるでしょう。それが社会の浄化を助けて、世情を良い方向へ導く第一歩となることを信じます。</p>

<p>さて次に、太子のお考えでは、寺に集う人々は仏になることを目指す菩薩の道を歩む人にほかなりませんし、寺の役目は人の心を養い育て、菩薩を作り出す役目を担っているということでもあります。菩薩を作り出すということは、言い換えれば、人に善い行い、つまり善行の実践を勧め、そして慈悲の心を養育し、さらに人をして菩薩の命を与えるのであります。</p>

<p>太子にとって「和」ということは、あくまでもみんな仲良く、そしてみんなの心が安らかであり、すべての人々が平和を享受し、実感できるものでなければならなかったのであります。これこそ太子の理想とされる善人に満ちた菩薩たちの住むこの世の浄土であります。この理想に少しでも近づけるためには、独りよがりでない真の平和を目指す努力、これを絶え間無く続けることが肝要であります。</p>

<p>またそのような努力を積み重ねることを、私たちは良い縁を結ぶと言い、善い行い、つまり「善行を積む」ということです。すべての善い行い、「善行」は「徳」と言われ、「徳を積む行為」でもあります。「徳」ということは、本来的に申しますと、社会に対して良い影響を与えるものであって、理想に向けて、心を養うと同時に、理想を実現して行く能力が身に備わるのであります。</p>

<p>言い換えますと、徳を積むということは、慈悲の心を養うということに他ならないのであります。聖徳太子は慈悲の心に満ちた理想の平和社会をこの国に実現したいと考えられたのであります。このような考えや想いの中で、長く育まれて来たのが、日本の文化であり、私たち日本人の精神性であります。つまり一言で言えば、菩薩の国造りであります。菩薩の行は、他を利する、人のために良いことをする利他の行であり、「姫路城を守る会」の皆さまの活動も利他行と言えるのであります。そして人々を教え導き、まずもって人々を救うこと。これが菩薩の目的であって、いついかなる時や場所でも、菩薩の願いが変わることはありません。</p>

<p>私たちの周囲によく「和」という字と「光」という字を合わせて、「和光」という言葉を目にすることがあります。例えば和光○○株式会社、和光何何商事など、会社名によく使用されていたりします。これは本来は「和光同塵」という老子の言葉で、早くから仏教にも取り入れられて、仏や菩薩の勝れた知恵の光を和らげ、私たち煩悩の塵にまみれた欲望の多い俗世間に同じて、その中で人を救う働きをすることを言います。ですから、私たちのそば近くにこのような「和光同塵」して人々に済度の手を差し伸べている菩薩がたくさんいるのであります。私たちが旅の途中、ふと心が洗われるようなことに出会ったりするのは、菩薩の働きによるものであります。このような菩薩の光を求め、それを見るのが「観光」という言葉の意味であります。</p>

<p>　さて、太子は塔を建てることについて『法華経義疏』のなかで、本来、塔と言うものは仏の舎利を供養するものであるが、国中に塔が建てられれば、国が厳かで清らかになると述べられておられます。それは樹を植えることは、本来の目的は果実を得る為であって、花を飾ることを求める為ではないけれども、花が開いたときは大変に自然で清らかである、したがって塔を建てることによって国が厳かで清らかになるのも、これと同じことであるという理解を示されています。美しい姫路城や法隆寺の塔などは、遠くから見ただけでも人々の心は和みます。</p>

<p>近寄ればまた、あちらこちらの素晴らしさに感動し、そしてこれを守り伝えた先人たちへの感謝とその想いも伝わってまいります。まさに光を発信しているのは、世界遺産であり、光を求めている人々に光を見つけやすくするのがその地域の人々や街の役目ということでありましょう。</p>

<p>能・文楽といった無形の文化も、将来は世界無形遺産にしようという方向に向かってきています。世界文化遺産に登録されているということは、まさに精神文化そのものが登録されたと認識するべきでありましょう。多くの人々の想い、精神、芸能、伝統、行事、すべてその地域の先人たちが作り上げてきた結晶であります。</p>

<p>その遺産と共に歩んできた街の在り方、環境、そこで発揮されている光を求めて来る観光者への対応、すべてが含まれています。このようなことから、世界遺産の登録を受けた地域の人々には、本来持っている素晴らしい光を最大限に発揮できる環境を整え、提供する義務を担っているものと考えるべきでありましょう。</p>

<p>そのためにはその地域の人々が世界遺産の意義をよく理解し、そしてまたその地域における遺産にかかわる歴史や文化、あるいはそれにかかわる芸能、行事、伝統産業、伝統技術、人々の営みなど、きまざまな事柄を学び、良く知るための努力も必要でありましょう。それによって世界遺産は、初めて正しい活用と保護との共存の道を歩むことができるものと思います。また、その地域の人々は胸を張って世界中の人々に自分たちの遺産の自慢ができてこそ、名実共に真の世界遺産としての命が与えられるものと信じます。</p>

<p><strong>世界平和を実現力のあるスローガンとして</strong></p>

<p>このように考えて参りますと、世界遺産を生かすための鍵は、まさしくその地域の人づくり、街づくりにかかっていると言えるのではないでしょうか。最近、世間で聞きますことに、21世紀は精神、つまり心の時代、また共に生きる共生の時代、さらにゆとりの時代などと言われています。まさにそうあって欲しい、そうありたい、またそうしていかなければというすべての人々の願望であります。</p>

<p>そして人類だけでなく、あらゆる生きとし生けるものすべてと仲良く、共に生きていくことによって初めて平和社会の実現への道が開けるものと信じます。決してひとりで生きているのではなく、みんなが支え合って生きている運命共同体であるということを自覚するべきでありましょう。他の命や自然や環境を守り、大切にすることができないようでは、真に平和を望んでいるとは言えません。</p>

<p>世界平和をただのスローガンで終わらせてはなりません。みんなの努力によって、実現に向けて、共々に社会の浄化を行い、21世紀こそ真の平和を実現させたいものであります。今日の世界は、互いに自己の立場や思想に固執し、なかなか譲り合おうとしないところに多くの紛争が起こっています。それぞれの国や民族は、互いの文化や精神の理解に努め、認め合うことが、今求められているのではないでしょうか。</p>

<p>そのような共通の価値認識を得るためにも、世界遺産が十分に寄与できると考えますと同時に、世界遺産は全人類共有の世界平和実現の心の支えであり、それを護る人々の誇りであります。平和のために活用され、多くの人々の理解と協調を得て、それが行動につながって初めて真に世界遺産として生かされたことになりましょう。</p>

<p>今一度、登録の意義を見つめ直し、そしてひとりでも多くの人々とともに守り伝える努力を行い、それが世界の平和につながることを願ってやみません。全人類の平和のための大切な世界遺産をみんなで守り愛し、そして世界平和のために共に力を合わせ、その啓蒙や保護の体制を確立し、次の世代へしっかりとバトンタッチしたいと念願するものであります。</p>

<p>本日は、私が文化遺産の意義について日ごろあれこれ思っていることをお伝えするにあたりまして、少し欲張ってしまって、かえって繁雑な話になってしまったかと思いますが、これにて終わらせていただきます。長時間のご清聴、ありがとうございました。</p>]]>
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<title>山村と森林文化、木の文化</title>
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<modified>2005-08-18T03:24:23Z</modified>
<issued>2005-08-15T07:29:57Z</issued>
<id>tag:www.bunkaisan.jp,2005:/articles//4.123</id>
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<summary type="text/plain">１　山村の役割はなにか 　山村には、そこに存在する森林とそこに住む山村住民の努力...</summary>
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<name>taro</name>


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<dc:subject>furuhashi</dc:subject>
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<![CDATA[<p><strong>１　山村の役割はなにか</strong></p>

<p>　山村には、そこに存在する森林とそこに住む山村住民の努力により、林産物を蓄積・供給する機能、土地環境、水環境、生活環境、大気及び生物多様性を保全する等の環境保全機能、身体的・精神的健康を維持促進する健康保険機能等のほか森林文化と木の文化を維持・育成する文化的機能がある。</p>]]>
<![CDATA[<p><strong>２　森林文化と木の文化の概念</strong></p>

<p>（１）ここでいう森林文化とは、森林を保全しながら有効に利用していく知恵やその結晶としての技術、制度及びこれらを基礎とした生活様式の総体である。</p>

<p>　技術・制度とは、森林を伐ることによって果たす生産的機能と森林が存在することによって果たす保全的機能のバランスを崩さず調和させる為の知恵と工夫である。我が国のように崩れ易い火山噴火物の堆積地帯、急峻な山地、地震、雨が多い風土の下では、国土保全の機能を持つ森林を荒らさずに持続的に利用する技術・制度が生活の知恵として古くから形成されてきた。技術としては、持続的利用のための植栽・伐採技術が、制度としては江戸時代、各藩で伐採を禁止する樹木を指定した留め木制度や現在の保安林制度、森林計画等多くの例を挙げることができる。</p>

<p>　生活様式には、森林や自然を畏れ、敬い、親しみ、その恵みに感謝する心、そこから生まれる信仰・宗教、祭り等の儀礼、詩歌、絵画・彫刻等の芸術等が考えられる。定義上の問題ではあるが、次に述べる木の文化も広義の森林文化に含める考え方もあるかもしれない。</p>

<p>（２）木の文化とは、森林から生産される木材をその特性を活かしつつ、大量かつ無駄なく有効に利用する物心両面の成果である。木造住宅・家具、紙、燃料を含む日用品を始め、文化財としての木造建築物と木製彫刻、それを可能とした伝統工芸技術等幅広く存在する。木材には炭素貯蔵効果、エネルギー集約型の鉄・アルミ等の資源を代替する省エネ効果、化石エネルギーに代替するエネルギー代替効果があることにも留意する必要がある。</p>

<p>（３）山村で生産される木材は私的材であるため、原則として市場を通じ需給に基く価格形成が行われるが、それ以外の山村の公益的機能については、受益者の受益に対する支払い意思について市場を通じて計測することは困難である。特に文化的機能については、長期にわたり社会の中で形成されてきたものであり、また、それに対する需要は所得水準、地域の事情、物質的充足よりも心の充足を重視する個人の価値観等に応じて変化する可能性がある。従って山村の文化維持・育成機能の普及・啓発については、都市と山村の交流を始め持続的かつ多面的方法による幅広い努力が必要である。</p>

<p>　また、木材取引が行われる市場は必ずしも完全なものではなく、多段階の流通コストの低減を始め適正な価格形成が行われるため関係者による情報公開、情報交換が必要である。特に、文化財補修用材の調達についてこの感を強くしており、森林所有者と文化財管理者、両者の仲介を行う者の間の信頼関係に基づく、適切な木材取引が行われるシステムの検討が望まれる。さらに、売買取引については金銭の損得が伴うため、ややもすると供給者と需要者との間に対立関係が生まれる可能性がある。これに対し文化を通じた都市と山村の交流は、文化に上下関係はなく相手文化に対する尊敬を基礎としており、木材取引による交流のような金銭による損得の問題を発生させる可能性が少ない点にも留意する必要がある。<br />
　<br />
<strong>３　森林と木の文化の現代的意義</strong></p>

<p>（１）資源循環型社会</p>

<p>　森林文化と木の文化に共通することは、両者が自然との共生を重視する資源循環型文化であることである。西欧では最近まで森林は征服の対象であり、自然を破壊しても構わないという考えの下、森林を皆伐し小麦等を栽培してきた。また、二十世紀の主流であった工業化社会は、集中、画一、量という価値観に基き、大量生産、大量消費、大量廃棄の経済システムの下、鉄、化石燃料等の再生不可能な資源に大きく依存する非資源循環型社会であった。この工業化社会は都市問題を始め、地球温暖化等の環境問題をひき起した。二十一世紀においては、分散、多様、質という価値観に基き、高度情報化社会の進展により可能となる適量生産、適正消費、極小廃棄の経済システムの下、資源循環型社会を形成していく必要がある。われわれは、わが国古来の森林文化と木の文化を再認識して資源循環型の生活態度を学び、二十一世紀型社会の在り方や個人の生き方を創造していかなければならない。</p>

<p>（２）文化や宗教に対する寛容性の認識</p>

<p>　森林文化の一つである古神道は八百万（やおよろず）の神々というように、雷、山、大木、海を始め神聖さを感じさせるもの、場所、現象に神が宿っていると考える。また、実在の人間も死後神になることができる。一神教であるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の神は天空にあって天と地と人、動物や植物を作った万物の創造主であり絶対的存在である。その神には怒ったり、命令に背いたものに容赦ない罰を加える激しさがある。一神教の間の争いに激しいものがあるのはこのためかとも思われる。森林文化になじんできた日本人は、古神道やその後伝来した仏教や他の多くの宗教を包括的に受け入れてきており、一般的に他の文化や宗教に寛容であると思われる。一神教の間の争いが激しくなってきている現在、われわれは森林文化の持つ他の文化、宗教に対する寛容性を再認識し、この考えを世界に広め、宗教間の争いを止めることに寄与すべきではないかと考える。</p>

<p>（３）森林文化と流域文化圏</p>

<p>　森林に覆われた上流域の水源地から発生した河川は、農業用水、工業用水、飲料水等を提供しながら中・下流域を潤し、河口では栄養分に富んだ水を海に供給し水産業にも貢献している。森林は、中・下流域が必要とするこれらの水を涵養するとともに、中・下流域の洪水も防止している。このように上流域と中・下流域は河川で縦に深く結ばれ、そこに森林の恵みである水、林産物等を利用した流域単位の生活、文化圏が形成されてきた。特に、森の恵みに支えられた流域の水田稲作は土地生産性も高いうえ資源循環型で連作障害もなく、わが国の食文化の発展や食糧安全保障に大きく寄与してきた。ここから生まれた水田稲作文化には森林文化と共通する自然に多数の神が宿るという考えや森や神への感謝を示す儀式が存在し、流域文化圏の中で森林文化と深い関係を持ってきた。</p>

<p>　一方、昭和三十年代以降の高度経済成長により、農山村から都市への人口集中が進み、都市住民が日常的に森林や森林文化に触れる機会は急速に減少した。また都市においては生活様式の変化に伴い、日用品、燃料、住宅を始め木材・木製品が身の回りから遠ざかり、わが国古来の木の文化が失われつつある様に思われる。二十一世紀のわが国が安全で豊かな資源循環型社会を形成していくためには、都市と農山村がその機能を適切に発揮しながら、対立することなくその抱える都市問題及び農山村問題を協力しながら解決し、共存していくことが必要である。森林文化圏を中心とした流域文化圏の再認識と再構築はこの問題の解決に資するものである。</p>

<p>４　文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議は、木の文化の頂点に立つ文化遺産の補修用材を確保すること等を通じ、森林文化と木の文化、都市と山村との間の交流の橋渡し役を担っていると考えている。多くの方のご協力を得ながら、この会議の活動により我が国固有の森林文化、木の文化が農山村、都市を問わず未来に引き継がれていくことを期待している。</p>]]>
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<title>里山としての国有林</title>
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<modified>2005-08-15T07:05:12Z</modified>
<issued>2005-08-15T06:24:09Z</issued>
<id>tag:www.bunkaisan.jp,2005:/articles//4.122</id>
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<summary type="text/plain">　稲作のために、ある山野の開墾が千年前に行われたとすると、一世代を二十年として里...</summary>
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<name>taro</name>


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<dc:subject>tobiyama</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　稲作のために、ある山野の開墾が千年前に行われたとすると、一世代を二十年として里での営みはわずか五十世代です。それぞれの世代は、里山とどのように向き合い折り合いをつけてきたのでしょう。<br />
　仮に、入会慣行がある又は入会慣行があったような森林を里山と称するなら、滋賀県南部の森林は国有林を含めほとんどが里山と考えて良いでしょう。ただし、一口に里山といっても時代や地域によってその姿は千差万別です。森林が持続的に利用されてきた時代や地域もあれば、林産物等が過度に収奪され荒廃した時代や地域もあるし、放置されたり開発されたりした時代や地域もあります。<br />
　現象としての森林とその背景にある自然や歴史・文化を調べてみるのもおもしろいですね。今後、里山とどのように向き合っていくかを考える上で参考になることでしょう。<br />
</p>]]>
<![CDATA[<p><strong>＜滋賀の国有林の成立　その１＞</strong></p>

<p>□国有林の成立は、明治政府が藩有林であった森林を官有林とし、社寺領地についても境内林を除いて官有林としたことが始まりです。また、その他の森林についても、土地官民有区分等により民有林と官有林との区分がなされてゆきます。<br />
　しかし、近畿地方の国有林は九州や東北、北海道の国有林と比べ極めて少面積で、同じ滋賀県でも湖南地域と湖北地域とではその成り立ちが異なります。ここでは湖南地域の国有林について説明します。</p>

<p>■滋賀森林管理署の１〜３林班（林班とは国有林につけられた林地番号）は、高島市（旧高島町）の嶽山の南西斜面で「南山・天狗岩山」と呼ばれているところです。湖西の山の多くは草刈りや炭焼きなどに使用されていましたが、南山・天狗岩山は江戸時代中期頃から嶽山の麓の二集落が入会を巡って山論を繰り返していました。その後、大溝藩は山論が激化したためにここを差留山にしました。明治維新を迎え、山論を繰り返してきた二集落がそれぞれの所有を主張して訴訟を起こしますが、結果は「論所ナル山地ヲ所有セン確証ト為スヲ得サルニ付、地方官ノ処分ヲ受クヘキ事」となり、明治１５年に官林指定という行政処分が下されます。</p>

<p>■ＪＲ北小松駅の西、比良山の麓に馬ヶ瀬国有林と呼ばれている１０林班があります。江戸時代は天領だったところです。国有林と里の田畑との境には猪や鹿の進入を防ぐ猪鹿垣が残っています。猪鹿垣は石を塀状に積み上げたもので、江戸時代の終わり頃に湖西の各地で作られます。村人の労苦を思うと感慨深いものがあります。当時、何らかの原因で猪や鹿が増えたのかもしれません。比良山系は屏風を立てたように南北に続いており、集落も比良山に沿って点在しています。穿った見方をすれば、一箇所で猪鹿垣が作られればその両端で被害が集中することになり、各集落が競って猪鹿垣を作ったのかもしれません。</p>

<p>■大津市街地の裏山１７〜２８林班は幕府や膳所藩が領有していました。膳所藩の御山も江戸時代中期にはかなり荒廃していましたが、御山方を置き保護監視を行いました。</p>

<p>■５９〜６２林班は三上山です。徳川秀忠が三上山の荒廃状況を憂い、山への植林と保護を命じたという記録が残っています。三上山に限らず、滋賀県南部の森林はその当時からかなり荒廃していたようです。現在、森林管理署と三上地区は共用林野契約を結んでいます。共用林野制度（前身は委託林野制度）とは、入会慣行を入会権として認めない代わりに、その林野の保護を地元集落に委託し、代償として一定の林産物を譲与する制度です。</p>

<p>■大戸川を挟んで龍谷大学瀬田キャンパスから見える山々が田上山系です。ここにまとまった国有林があります。北に位置するのが竜王山・金勝山、南に位置するのが六箇山・太神山です。いずれも田上地域の集落の入会慣行があったところです。今でも少し岩肌が露出していますが、明治維新前後の林地荒廃は著しく「田上の禿」と呼ばれ全国にその名が知られていました。以下、この地域について少し掘り下げて説明します。</p>

<p><br />
<strong>＜滋賀の国有林の成立　その２＞</strong></p>

<p>□金勝寺の寺領だった山林は明治維新後官有林に編入されます。当山林は複数の集落の入会林となっていて、過収奪のため林地はかなり荒廃していたようです。官有林編入後、下戻し運動を展開した集落もあれば、入会を放棄した集落もあります。</p>

<p>■竜王山・金勝山等の山林は金勝寺の寺領だったところです。後に金勝寺が山科の毘沙門堂の末寺となったため、毘沙門堂門跡が代官をおいて領有していました。幕末「金勝寺年々納高凡取調帳」（小林義胤家文書）によると、金勝寺の立木の十三か年間の売上代金が二千両とあり、さらに荒張村をはじめとする村むらからの一年間の山年貢の合計が、米四九四俵二斗六升とあります。<br />
　林産物を過度に収奪し続けたために、「幕末の天保年間ともなると、十九道山は、上砥山村を山親に十八カ村の立会山であったが、「惣て岩山にて草木生え立ち悪しき」山林であったため、年々の草木の採取により、禿山同然になってしまった。そして、林の価値が失われるにつれ、立会村々は、次々に「上げ山」として入会権を放棄していった。」という状況になりました。そして、金勝寺の寺有林は明治４年の社寺上地の太政官布告により官有地になります。　（補足）十九道山は竜王山の北山麓</p>

<p>■竜王山の北山麓は明治３６年に国有林から栗東市側の地元集落に下戻しされます。明治２３年に民有林の証拠ある官林は返還するとする農商務省訓令が発出されたのと、近隣で下戻しの事例があったことを受けての下戻し請求（明治２９年）だったようです。ただ、下戻しを受けた林地の荒廃は著しく、明治３７年には金勝村山林保護組合を設立し（後に財産区になる）、保護・植樹を進めました。現在は、生産森林組合の所有となっています。</p>

<p>■これに対し、竜王山西山麓の一丈野（奥山南谷・奥山北谷）は国有林のまま今日に至っています。荒廃が著しかったところで、明治１６年から治山事業が開始され、治山治水事業発祥の地とも呼ばれています。こちらは栗東側のような下戻し運動には至らなかったようです。理由は定かではありませんが、荒廃が著しく使用価値がなかったこと、地租改正に伴う納税を敬遠したこと等が考えられます。</p>

<p><br />
<strong>＜村の人は山をどう見ていたか　その１＞</strong></p>

<p>■入会慣行を巡っては１７世紀頃から集落間の相論が激しさを増してきます。このため、田上地域でも入会慣行のルールを定めています。正徳六年（１７１６）、現在の上田上地区の牧庄六ヶ村は、盗み取りを厳しく禁じ、盗人があった場合、罰金だけでなく、盗人の村の請地は被害村請地にすることを内容とする請所山法度を定めます。<br />
　牧庄六ヶ村請所山法度書の事<br />
一、去ル未年奥山請所ニ御願い申し上げ、仰せ付けさせられ下され候ニ付き、尾根・谷長横縄引き、地幅・間数・坪詰、帳面二記し、六ヶ村家数ニ相違無く禄々ニ割り付け、封切りニ境目に立て、之を請け取ること。<br />
一、右の請山え他村□来たり盗み居り候を見付け候ハヾ、其の場所にてはぎとり（剥ぎ取り）、其の上くわたい（過怠）として米弐俵取り申す筈二相極メ置キ申し候。即ち盗人の山ハそ其の村え取り上ゲ、村の支配ニ仕る可き事。<br />
一、山盗人を見付け候ハヾ、右のくわたい米其の村の庄屋より見付け主へ相渡し申す筈、若し、又見逃シニいたし、脇よりし（知）れ候ハヾ、盗人同罪ニくわたい取り申す可き事。<br />
一、村々奉公人、主人の山より外の山を盗り候ハヾ、主人より米壱俵、其の奉公人より同米壱俵宛取り申す可き事。</p>

<p>■また、山道の通行止めもしばしば行われます。他の集落の者が柴や薪を大津などの消費地へ運搬・通行するのを阻止するもので、入会林野から柴や薪が盗まれるのを防ぐ目的があります。その背景にはこの地域における林産物の商品化が読み取れます。</p>

<p><br />
<strong>＜村の人は山をどう見ていたか　その２＞</strong></p>

<p>□昭和４０年代に里の生活が激変します。当時の村人が山に何を感じていたか興味があるところです。昭和４１年に入会林野の権利関係の整理を目的とした法律が成立し、入会林野の多くが生産森林組合や農業生産法人等の所有地となりました。<br />
　以下は、和歌山県の事例ですが、入会林野近代化事例集&#8722;第2集&#8722;　全国市町村林野振興対策協議会からの抜粋です。</p>

<p>■〜あいさつ〜　昨年（昭和４１年）７月、「入会林野等に係る権利関係の近代化の助長に関する法律」が制定されましたことは、わが国の農林業振興のため喜びに堪えません。御承知の通り、戦後の高度経済成長は農村、山村地帯において人口流出による労働力不足や生活様式の平準化をもたらして農林業経営や生活条件に大きな変化を与えておりますが、とくに入会林野は昔日の役割をまったく失い、もはや、地元農山住民ないし、市町村にとってもそのままでは宝の持ち腐れといってよい現状にあります。こうした入会林野について、そこに存する複雑な慣行的権利を近代的な所有権あるいは用益権に転換し、各人をして文字通りの権利者たらしめ、その意欲をもとに農林業の面で高度利用を企画することは、経営規模の拡大が叫ばれ、生産力の拡充が必要といわれる今日、きわめて大きな意義があると存じます。　〜　中略　〜<br />
　この見事なみかん園が昨日まで猪など野獣がちょうりょうする藪山であったことは、誰よりも開拓者自身がその変貌ぶりに驚いている。いまだ２年生の若木であるが、将来、予想される収穫高はおよそ１千万円といわれ、このあたりに展開するこの開拓地の姿は入合林野近代化法の真価をそのまま示している。</p>

<p>□昭和３０年代から家庭用燃料の燃料革命が起きて薪炭材生産は急速に縮小します。伐採量に占める燃料材の割合は昭和５年に７２％でしたが昭和３０年には３０％にまで低下します。さらに現在の薪炭材需要量は昭和３０年の１／２０にまで減少しています。滋賀県下の炭窯数も、昭和４０年に１，４５５でしたが昭和５０年には１０４にまで激減します。<br />
　<br />
□人工林を見る目も今とはかなり違っていました。しばしば「一雨１００万」という言葉を耳にしました。立木価格が高く、雨で木が生長しただけでも資産価値が増える。という意味です。立木価格はある時期まで戦後一貫して上昇してきました。例えば、昭和３０年に４，４７８円だったスギ１ｍ３の価格が昭和５５年には２２，７０７円にまで高騰します。この時期、薪炭材の需要が急減する一方でパルプ・チップ用材としての広葉樹の需要が急増したこともあり、薪炭林が次々に伐採されてスギやヒノキが植林されました。</p>

<p>□しかし、昭和５６年以降立木価格は下落の一途をたどり、平成１５年のスギやマツの立木価格は昭和３０年の価格と同じです。ヒノキの立木価格も昭和４２年の価格と同じです。スギでは最も高騰した昭和５５年の１／５にまで下落しています。今日の林業を取り巻く状況を端的に表しています。</p>

<p><br />
<strong>＜村の人は山をどう見ていたか　その３＞</strong></p>

<p>□大津市　上田上（かみたなかみ）牧集落の住職さんに話を伺いました。<br />
■六箇山のうち、ヒガシナバタ、田代川沿いのニシナバタ、大戸川沿いのダイドゴシは、江戸時代から牧村が柴や落ち葉を採っていた。江戸時代はオンバダニから田代川までが膳所の殿様の松茸山だった。ただ、殿様の松茸山でも牧村は柴を採ってもよかった。その後、ヒガシナバタ、ニシナバタ、ダイドゴシは国有林になったが、松茸は牧村が採ってきた。</p>

<p>■松茸は１０月１０日の大津祭りの時期が一番高値になる。昭和３０年頃はよく採れた。山から里まで自転車の荷台の両脇に籠を下げ、さらに荷台の上にも載せて運んだ。荷が重くて自転車が後ろにひっくり返りそうになったこともあった。開いたのは蹴飛ばして谷に落としていったもんだ。</p>

<p>■松茸山は入札して採る所を決めた。昔は、個人で入札していたそうだ。それが終戦後、村には班が十一あるが、それが五組に分かれて入札するようになった。その場合も、よく出るところは同じ組が続けて取らないようにした。同じ組の人間はみんな平等で、出そうな日には一斉に山に採りに行った。堅いのは売って組の金にしたが、ワレやヒラキはみんなで分けた。入札金額が大きく、牧村が営林署に払う金額はわずかなので差額が一千万円くらい出た。村の一年分の費用が充分賄えた。</p>

<p>■今は出ない。柴を刈らないし、松食い虫で松も枯れてしまった。営林署は松を伐って杉を植えてしまった。通勤する者も増えて山に行かなくなった。夜勤あけの者が、おばさん達をあつめて行くこともあったが。今は組に分けて入札するようなことはぜず、牧村のなかで何人かが集まって入札をするようになった。だから最初は個人、次に組、そして最後にまた個人で入札するようになった。</p>

<p>■今は、村内で入札しても営林署に払う金額の方が多くて赤字になる。赤字分は村の役員が自腹を切って負担している。そうしないと権利を放棄したとみられて、他者に取られてしまうかもしれない。取られたら、あのときの役員は何をしていたと責められるので役員は無理をしても続けている。入札に参加するように電話したり、高い札を入れるよう酒を飲ませたり役員と入札する人のやり取りはおもしろいものだ。頼むで来てくれ。お前の親父、ずっと札入れとったやないか。昨年は全然採れへんかった。そんなことあるけえ。何回も通ようていたやないか。千円でもええから取ってくれ。といった具合だ。 </p>

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<hr>

<p>（引用文献・参考文献）<br />
「業務資料」　元大津営林署長　福田清<br />
「田上・金勝寺の山」　前滋賀森林管理署長　林修<br />
「歴史へのいざない」  栗東町教育委員会　<br />
「高島町史」　<br />
「大津市史第四巻　近世後期」「大津市史第九巻　南部地域」<br />
「栗東の歴史第二巻　近世」<br />
「林政学概要」「森林組合論」　島田錦蔵<br />
「林業法律」中尾佐助<br />
「入会林野近代化事例集&#8722;第2集&#8722;」　全国市町村林野振興対策協議会<br />
「湖南の里山林」「金勝の森と人々」「大津坂本地先「延暦寺の建築物」と「比叡山の森林」」　いずれも滋賀県大津林業事務所<br />
「滋賀県林業統計要覧」<br />
「山林素地及び山元立木価格調」　（財）日本不動産研究所</p>

<p>（聞き取り）<br />
大津市上田上牧　真光寺他</p>

<p></p>

<p>龍谷大学<br />
里山学・地域共生学オープン・リサーチ・センター<br />
２００４年度報告書から一部加筆削除<br />
</p>]]>
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<title>緑豊かな美しい日本の再生〜新たな森林管理システムの構築</title>
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<![CDATA[<p>　森とむらの会では、２０００（平成１２）年に森林・林業政策全般にわたって「森と木とむらに関する基本政策」１２の提言を行ってきたところであるが、京都議定書が本年２月１６日に発効したことと合わせ、おおむね５年毎に見直しを行うとされる「森林・林業基本計画」が近々改訂される時期を迎えることを踏まえ、主として森林整備と国産材利用の推進について新たな具体的な方策を提言する。<br />
<a href="http://www.bunkaisan.jp/articles/archives/moritomura_teigen_gaiyo.doc" target="_blank">※提言の概要（Wordファイル）</a></p>]]>
<![CDATA[<p><strong>はじめに</strong></p>

<p>　温暖化をはじめ地球環境の限界が顕在化して以降、人類は歴史的な新しい時代に直面している。人類は、これまでもその生存を脅かす自然環境の厳しさには幾たびとなく遭遇してきているが、現在の状況は、これまでと異なっている。人間生活に影響する地球的な規模の問題がこれまでになく急速に現実化すると予測されているとともに、その脅威を人間の活動自体が作り出している。この状況を改善していくためには、これまでの経済優先の人間活動を見直し、活動に取りかかる前にそれが環境にどのような負荷を与えるかを考慮することが求められている。１９９２（平成４）年ブラジルの地球サミットでの「持続可能な開発」の理念はまさしくこのような点にあると理解される。</p>

<p>　このことは、環境の重要な要素である森林についてより強く認識されてきている。同会議において森林原則声明が併せて採択され、世界的に「持続可能な森林経営」を推進することとされた。その後のモントリオール・プロセス等では、生物多様性の保全、森林生態系の生産力や健全性の維持、土壌及び水資源の保全、地球的炭素循環への寄与等がその内容として具体的に取り上げられている。<br />
わが国におけるこれまでの森林と人との関わりを振り返れば、縄文から戦国時代の頃まで続く、生活の主要部分を「森林に依存する時代」から、城下町の造成や江戸開府などに伴い都市化が進み木材需要が増加し、木材を市場に対して供給する「消費経済化の時代」を経て、第二次世界大戦後には燃料革命という木材需要の大変化とともに、人口増加や高度経済成長に伴う木材需要の拡大により「国産材では供給が不足し外材が主流を占める時代」になる。この間、国土の保全等森林の持つ公益的機能の発揮について配慮しながら、全般的には森林に対する恐れや敬いを徐々に失いつつ木材生産が優先されるとともに開発も進められてきた。</p>

<p>　それが、現在では「環境保全時代」ともいうべき時代を迎えており、国においては、この新しい時代に対応して、２００１（平成１３）年にこれまでの林業基本法を改正し、森林の多面的機能の持続的発揮を第一義とする森林・林業基本法を制定された。このことは、木材生産を中心としてきた従来の森林・林業政策の歴史的転換を図ったものであるといえる。</p>

<p>　しかしながら、１９８０（昭和５５）年以降の木材価格の低迷等により、森林整備を支える林業は壊滅的な状況にあり、山村は、過疎化、高齢化等によって崩壊の危機に立ち至っている。森林への関係者の関心は低下し、森林は手入れもされないまま放置されはじめている。</p>

<p>　森林・林業基本法の制定以降、各種施策の充実が図られているが、このような事態は、なお悪化してきていると言わざるをえない。このため、現代における森林の価値の認識を基本に、この事態を打開し、手入れがされずに荒廃してきている森林を、多様な森林として蘇らせ、将来にわたってそれを持続させていく基盤を早急に作っていくことが必要となっている。</p>

<p>　成熟社会に向かうわが国において、その豊かさを真に実感させるのは、美しい国土とそこで育まれる固有の文化の存在であり、多様な森林といきいきした山村はその基礎となる。</p>

<p>　森とむらの会では、２０００（平成１２）年に森林・林業政策全般にわたって「森と木とむらに関する基本政策」１２の提言を行ってきたところであるが、京都議定書が本年２月１６日に発効したことと合わせ、おおむね５年毎に見直しを行うとされる「森林・林業基本計画」が近々改訂される時期を迎えることを踏まえ、主として森林整備と国産材利用の推進について新たな具体的な方策を提言する。</p>

<p><strong>１．森林の管理・経営の現状と課題</strong></p>

<p>　「持続可能な森林経営」を具体化し推進することが、世界的な課題になっている。</p>

<p>　森林は、多くの動植物等の生息の場所であり、森林の確保と適切な管理・経営が生物多様性の保全に重要な役割を果たす。また、生産力の高い森林は、炭酸ガスを吸収しそれを固定、貯蔵する。森林から産出される木材は、再生可能でカーボンニュートラルな、しかも低エネルギーで製品化できる資材であり、その使用は化石資源の消費を抑制し炭酸ガスの排出を減少させる。森林は、洪水を調節し水源を涵養して水の有効利用を促進するとともに、川や海の魚や貝を養育する。さらに都市化、高密化が極度に進展している現在、健康や精神的な安らぎ、あるいは幼少年期等における自然環境教育の場として、森林とのふれあいがこれまで以上に求められている。</p>

<p>　また、わが国の美しい景観は、森林や農地によって構成されているが、生活や文化を支える景観の持つ価値が改めて重要視されてきている。それだけでなく、わが国は、森林を保全しながらそれを有効に利用していくという知恵や技術、生活様式等特有な森林文化を育んできており、この森林文化のあり方はこれからの望ましい資源循環型社会、持続可能な社会の規範となる。</p>

<p>　このような多様な役割を果たす森林であるが、現在、世界的に様々な問題が生じている。熱帯地域では、過放牧や焼き畑、過度な伐採等により森林が消失し、疎林化や砂漠化が進行しており、温帯では、大規模な森林火災や大気汚染による森林の立ち枯れ等がみられている。</p>

<p>　わが国においては、木材価格の低迷、国産材需要の減退等により、森林への経済的な関心は失われ、手入れもされずに放置されはじめている。</p>

<p>　国産材価格をみれば、１９８０（昭和５５）年をピークとして年々下落し、２００３（平成１５）年には、立木価格で５分の１、丸太価格で３分の１となっている。一方で林業労賃は１．４倍になっており、皆伐をしても再造林する経費が出ない、間伐しても収入にならずさらに費用の持ち出しになるという状態となっている。</p>

<p>　緑に見える森林も中に入れば、枝が枯れ、細い木が並び、暗く下層植生も育たず土壌の流出が心配される。あるいは皆伐されても植栽されず笹生地等になってきている森林もある。不在村所有者の増加等により自らの所有森林の境界がわからなくなり、相続もされず所有者が不明という事態さえ生じている。<br />
そのうえ、それらのことがさらに新しい問題を引き起こしている。放置されていることに乗じてゴミの不法投棄がされ、美しい景観が台無しにされている。最近の気象異常の中で降雨が集中豪雨化してきているが、その被害として土砂崩壊とともに流木災害が目立っている。集中豪雨の後には、ダムに流木が堆積しその除去に少なからぬ経費をかけなければならないという事例もある。シカ、イノシシ、クマ等が人家の近くに出没し、農産物等に被害を与えるのみならず安全上問題とされる事件も頻発しているが、その原因の一つとして里山の荒廃があげられたりしている。花粉症についても、スギの一斉造林が進められたこととあわせ、手入れがされないことが花粉量を増加させているとされる。タケノコを採取しなくなった竹林は、地下茎をはびこらせ周囲の植生の生育を阻害している。</p>

<p>　これまでの森林の管理・経営は、木材生産を中心にそれが適切かつ継続的に行われれば、他の公益的機能もおおむね適切に発揮されるということを基本に、森林所有者等の努力によって行われてきた。しかし、経済的価値の低下に伴い、森林所有者等の森林への関心は薄れ、そのシステムが機能しなくなっている。本来、森林を所有する者が持たなければならない管理義務＝所有者責任が放棄されてきている。</p>

<p>　木材価格の低迷及び国産材需要の減退を招いた要因を改めて考えれば、次のようなことがあげられる。</p>

<p>@科学技術の発展やコストダウンにより、建物をはじめ種々な資材に木材以外のコンクリート、鉄、アルミ、プラスチック等が使われるようになり、木材はこれらと競合することになったこと。</p>

<p>A外材輸入が拡大するとともに、円高の進展により外材が相対的により低価格になったこと。</p>

<p>B住宅の洋風化等に伴い、大壁工法の普及、利便性や気密性等の機能性重視、部材のプレカット化等の変化が進む中で、乾燥材に加えて合板や集成材等工業製品的な利用が増加していること。そのため、国産材の価格形成に関連した光沢とか色あいとか年輪の緻密性とかいった工芸的価値が評価されにくくなり、それにかわって強度の安定とか、狂いが少ないとかいう品質や性能が求められていること。</p>

<p>Cわが国の林業、木材産業が、高コスト構造になっていること。</p>

<p>　わが国は、地形が急峻で谷密度が高く、作業を集約化することが容易でない。林道の開設についても曲線が多く法切を生じ、開設や維持のコストが高くなるとともに、大型トラック等の運行が制約される。さらに低スピードで走らざるをえないため、時間距離は極めて長くなる。そしてなにより、わが国の林道整備はそもそも遅れている。</p>

<p>　森林造成についても、温暖で雨量が多く下草などが繁茂しやすいため、植栽木を保護する下刈り等に多大の人役を要している。このため、欧米の造林コストと比較すると５〜１０倍程度になるとされる。<br />
この他に社会的条件として小面積、分散的な森林所有構造となっている。</p>

<p>　また、木材産業についても、小規模で多段階の加工・流通体制となっている。</p>

<p>　以上のように現在の国産材の低迷は、構造的な要因によるところも多く、森林施業のあり方も含めコスト削減に最大限の努力をすべきであるが、国産材の優位性を作り出すことは容易でない。また、これらの状況は、円の為替レートの動向、世界の木材需給動向等によって変わりうるが、それを別として、外材のみでなく他の資材とも競合しており、さらに工業製品的な利用が増大していることなどからみて、国産材だけのかつてのような価格上昇を期待することは困難だろう。</p>

<p>　さらに、森林の多面的機能の発揮を図るためのきめ細かな森林施業を行っていくに当たっては、長伐期複層林化、針広混交林化、広葉樹林化等を進めていく必要があるが、これらの施業は、天然力の活用等をできるだけするとしても、経済的生産という点でみれば非効率にならざるをえない面がある。</p>

<p>　それらのことを考えると、今後において森林の多面的機能の持続的な発揮を図る適切な管理・経営を進めていくためには、多面的機能の持続的な発揮という公共性に鑑み森林を公共財として、森林所有者等のみならず国民全体で支え管理していく新たなシステムを作り上げていくとともに、適切な管理・経営を行った結果生産される木材については、森林整備の推進に資するのみならず、循環型資源としての木材の意義を理解し、その利用を推進していくことが必要である。</p>

<p><strong>２．国民に開かれた森林計画の作成</strong></p>

<p>　全国に分布する森林を国民全体で支え管理・経営していく新たなシステムを作り上げていくに当たってまず重要なことは、どこにどのような森林を作り上げていくか、そのために進めるべき森林施業は何かということについてわかりやすく国民に説明し、それらについての国民的合意の形成に努めていくことである。その手段としては、これまでも国民の意見も聴取しながら森林計画が作成されてきた。しかしながら、現在の森林計画の作成については、幾つかの問題点があり改善を図っていく必要がある。</p>

<p>　その第一は、わかりやすい計画の作成についてである。現在の森林計画制度では、わが国全体の森林整備の方向を明らかにしている全国森林計画に基づき、それぞれの地域の実情を踏まえて地域森林計画及び市町村森林整備計画の作成が体系付けられてきた。また、その内容としては、それぞれ森林整備の方針、計画年度内の目標及びそれを達成するために必要な事項等が示されてきた。しかし、例えば、間伐、造林等の目標が数値として掲げられているが、そのことがどのような意味を持つか、なぜその目標を進めていく必要があるかなどについて、計画書のみで読み解くことはできがたく、また、どこで何がされようとしているかを具体的に知ることも難しい。つまり、どのような森林づくりをしようとしているかという森林づくりの目標とそれに向けてどのような整備が必要かという事業量の計画との関係を関連付けて理解することが容易でない。今後においては、特に即地的計画である地域森林計画や市町村森林整備計画においては、森林ＧＩＳをはじめ新たな計画手法の導入と活用を図りながら、より属地的に計画内容等を明らかにしていくよう努めるべきである。そのことが数値目標の意味をわかりやすくするとともに、それによって何を目的にしているかが明らかになり、その必要性が理解されることになる。また、このことにより、国としての全体的な森林整備の方針と地域の即地的な森林の取扱いの方向が調整され、より調和的なそれぞれの計画が作成できることとなる。さらに、そのことは、より実効性のある計画の作成につながる。なお、実効性を高めるためには、このような具体的な計画の作成と併せて計画の実行結果が整理されその評価が行われることが必要である。現在では実行が予算の確保と連動しているとしても、何ができ何ができなかったか、その原因は何かということを明らかにする必要がある。</p>

<p>　第二は、森林情報の整備についてである。森林所有の境界が不明確になってきていることや森林現況が現地調査ではなく空中写真や成長曲線による試算数値等によって把握されることが多くなってきていることから、現況の把握が不正確になってきている。このため、基本的には、現在進捗率が４割弱程度である地籍調査の推進を図る必要がある。また、森林の多面的機能の発揮の観点に立つと、これまで整備されてきた情報はどちらかといえば木材生産に係わるものに片寄っており、例えば生物多様性の保全という点からみれば、下層植生や野生鳥獣、昆虫等の生息状態等が把握される必要があるように、より多岐にわたる情報の整備が求められている。このため、国においても、空中写真を平面図化したオルソフォトマップの作成、森林資源モニタリング調査の実施、地球温暖化防止対策における検証報告体制の整備等により精度の確保、情報の収集等に努められているが、森林担当部局のみならず、河川、野生生物等広範な関連機関が有する情報の総合化も図りつつさらに充実に努めるとともに、情報の把握と更新をするシステムの再構築を行う必要がある。特に情報の把握については、住民や森林ボランティア、環境団体、教育機関等の協力を得る方策についても検討する必要がある。さらに、把握された情報については、できる限り公表されるようにしていくべきである。個人情報保護との関係もあるが、森林が公共性を高めていることに鑑みれば、森林所有者等の積極的な協力が望まれる。また、この場合、個別的、地域的な情報の公開のほか、全国的に集約される情報等をもとに５年に一度は全国や地域の森林の姿を様々な視点から分析し、国民に現状を明らかにするようにすべきである。</p>

<p>　第三は、森林施業に関する技術的ガイドラインについてである。これまでの林業技術は、木材生産を中心とする技術体系となっているが、これからはより多様な施業の実施が必要とされる。それらについては、森林計画において基準的に技術上の留意事項が示されるが、そのことで具体的な作業が行いうるとはいえない。例えば、針葉樹と広葉樹の混交した森林を造ろうとした時、具体的にどのような木を残しどれを伐採すべきかについては、それぞれの視点からいろいろな議論があるだろう。従って、これまでの施業を見直し、より多様な施業を普及していくためには、大まかな類型化を行いつつマニュアル的なガイドラインを作成し、それぞれの現場での地域に即した議論に供していくことが必要である。その積み重ねにより技術の定着を図らなければならない。その役割を森林計画が果たす必要がある。</p>

<p>　第四は、国民の意見の聴取についてである。森林計画の作成に当たっては、審議会の開催やパブリックコメントの実施等により国民の意見の聴取が行われてきているが、結果からみれば限定的であることは否めない。現在では都市化が進み、国民にとって森林は日常的に利用する空間ではなく保養やレクレーションとしてほんのたまに訪れる場所になっている。いわば、日常的には森林は遠くから眺めるものとなっており、森林に何が起きているか、どうされようとしているかということにまで関心を持つことはほとんどなくなっている。そのような国民に森林への関心を持ってもらい、森林に対して積極的な対応をしてもらうことを求めるとするならば、これまでのような受け身の形ではなく、計画作成者が説明責任を果たすとともに積極的に意見を求める形をとることが必要である。森林計画は、林業的あり方に限定されるものでなく、公共性を持つ森林のあり方を考えるものであり、国土計画でもあり、環境保全計画でもあり、地域振興計画でもある。つまり、森林計画は総合的計画であり、行政の森林担当部局や森林・林業に直接関わる者だけでなく、できるだけ幅広い者の参画を得て作成されるべきである。そのことを念頭に、審議会のみならず、下流域も含め、住民への説明会等をはじめ例えば大学、高校等の教育機関や農協、漁協、商工会、観光協会、自主的に環境保全等の活動をする民間グループ、木協、大工・工務店や建築家等の木材ユーザー団体等森林に関わりがあり得る団体等へパンフレットの配布や意見照会等、それぞれの地域でそれぞれに応じた方法を工夫しながら、より積極的な対応がされる必要がある。同時に、森林所有者等においても、森林の公共性を持続的に発揮することは森林所有者本来の責務であることを自覚し、森林計画の作成段階から望ましい森林とその管理、経営のあり方について主体的、積極的に提案すべきである。</p>

<p>　第五は、森林計画の作成体制についてである。これからの森林計画は、森林の現況把握、多様な森林施業の検討、専門家等の意見聴取、森林所有者等との調整、国民への説明等多岐にわたる業務について技術的裏付けを持ちながら長期的視点に立ち総合的に進めていくことが必要になる。しかしながら、例えば市町村でいえば、そもそも森林・林業行政に従事する職員の数は限られており、技術的知識と経験を蓄積する機会も少なく、期待される能力を身につけることは容易でない。従って、それぞれの行政主体が計画を作成するという建前のみで、良好な計画を立てることは困難である。そのため、思い切って森林計画の作成作業を森林に関して多方面の知識や調査能力を持つ専門的な機関に委託することを検討すべきである。専門的機関としては調査コンサルタント等のほか、後述するセンターによることも想定される。いずれにしても専門的機関の作業を踏まえて、最終的には行政が主導的に作成するということが実際的である。</p>

<p>　以上ここまで森林計画の作成について提言してきたのは、森林計画が、これからの森林整備の基本方針を示すものであるとともに、国民に森林への具体的な関心を惹起できる有効な文書となりうるからである。このような森林計画の作成については、これまで以上の多大な労力や時間さらに経費をかけなければならないが、その過程を通じて、森林所有者等はもとより、より多くの幅広い専門家や国民に参加してもらうことができれば、それを基軸として、森林を支えていこうという大きな環が広がることになる。森林計画の意義を今一度見直すとともに、それに即した森林計画の作成に努力すべきである。</p>

<p><strong>３．森林整備の的確な実行</strong></p>

<p>　以上のように作成された森林計画をどのようにして的確に実行していくかが次の課題である。森林整備については、森林所有者等の林業生産活動によることが基本とされてきたが、既にみたようにそれによって適切な森林整備を期待することが困難な状況になってきている。森林造成の５０年以上に及ぶ長期性からすれば、必ずしも林業が、投資対象として経済的意識を持って行われてきたとはいえないが、森林を造成すれば、将来、息子か孫の代には安定的な富がもたらされるものとして確信されていたことは間違いない。その期待において森林造成が行われ、それがわが国の森林を整備することになっていた。しかし現在では、その確信が損なわれてきている。</p>

<p>　これまでも林業生産活動による森林整備については、そのことが同時に森林の公益的機能の発揮になることから、助成が行われ事態の変化の中でその充実が図られてきた。現在では、林道の整備はほぼ全て公的になされるとともに、造林や間伐、作業道の作設等に要する費用については、５〜７割が国、地方公共団体から実質的に助成されている。しかしながら、３〜５割の自己負担分についてさえ、森林所有者等が重い負担感を持つようになってきており、森林所有者の所有目的や資金負担力等によって、助成による誘導効果を発揮できない現実が深刻化している。</p>

<p>　このことからすれば森林の多面的機能の持続的発揮を図っていくためには、天然力の活用等による森林施業の効率化、国産材利用の促進や生産、加工、流通の合理化による森林所有者への経済的利益の還元、あるいは森林の保健休養的利用や森林体験等木材生産以外の多様な産業の創出等に努め森林所有者の意欲の向上を図るとともに、一方では費用を全額公的に負担して実施する公的実施の拡充を図る必要がある。</p>

<p>　公的実施としては、現在、都道府県が治山事業として行うもの及び緑資源機構、森林整備法人が行うものがある。このうち、治山事業については、指定目的が達成できなくなっている保安林の機能の回復を目的としており、緑資源機構については、粗悪林相地等を対象に水源をかん養するために森林の造成等を行うものである。また、森林整備法人については、森林所有者による整備が進みがたい箇所を分収方式で整備してきたものであるが、現在、都道府県毎にそのあり方が議論されている。しかしながら、今、公的実施を拡充して進めなければならない対象は、現在の助成制度のもとでは放置されている間伐のほか、複層林施業や針広混交林施業にしていくための抜き切りや下層の植栽、天然更新等の適切な実施を図ることである。</p>

<p>　このような対象とすべき箇所がどの程度あるかは、どのような施策によるべきかということも念頭におきながら実行に当たって調査する必要があるが、現在の状況を見れば相当量の規模になると見込まれる。<br />
これらについて公的実施を行う場合、相当規模に及ぶ実行と併せ、その過程で小規模分散的な森林所有を集約化し、まとまりを持った施業団地の形成を図るとともに、路網の整備等を進め、森林施業を継続的に行いうる基盤を作り上げること、また、産出される木材についてその供給が、生産、加工、流通の合理化を進め国産材の有効利用を図るシステム作りに資するものにすることを考えなければならない。つまり、現在の停滞した状況を打開するためには、現行の助成において森林所有者等の負担を求めて整備を行うことが困難な森林が増加してきており公的実施を拡充する必要があるが、このことは、単に公的に実施するということではなく、そのことにより、地域の森林の管理、経営のあり方を改革し、より効果的、効率的に実行しうる基盤を作り上げていく必要がある。公的実施により将来においては、森林所有者等がより自主的に森林の管理、経営を行いうるようにしていくことが重要である。</p>

<p>　以上のようなことを行っていくためには、これまでの枠組みのほか、森林所有者等との調整、現地に即した実行計画の作成や作業の実行等を行っていく組織と仕組みを構築することが必要となる。</p>

<p>　もう一つの問題は、皆伐後の跡地が放置されていることである。そのため、伐採に当たっては市町村長に伐採の届け出が必要とされていたのに対し造林の方法等についても合わせて届け出るようにされたところである。しかしながら、伐採後３年以上放置されている森林の面積は、２５千haにのぼり前回調査より増加している。このため、実態についての詳細な調査を行い、この制度の効果を見極めつつ、造林推進方策の見直しや一定面積（例えば５ha）以上の皆伐については、伐採後の造林等を条件にした許可制にすることなど実効ある対策がとられる必要がある。</p>

<p><strong>４．新たな森林管理システムの構築</strong></p>

<p>　以上の通り、公的実施を中核とする新たな森林管理システムを構築することが必要であるが、公的実施については、往々にして非効率になったり、創意工夫が生かされなくなったりという面がみられる。また、森林所有者等の公に対するよりかかりが生じ、森林所有者等の自主的な努力が放棄されることが懸念される。従って、このシステムを担う組織と仕組みの検討に当たっては、公的実施の実行と併せ森林の管理、経営の基盤を作り上げていくという目的はもとより、森林の多面的機能の発揮に関する総合的な技術的能力、事業実施の効率性，実行結果の評価、情報公開の確保に配慮し、効果的、効率的で、かつ弾力的なものになるようにする必要がある。</p>

<p>　これらのことを前提に試案的な具体の構想を示せば次の通りである。</p>

<p>　この組織においては、森林所有者等との調整を図るとともに対象森林の実態把握、実行計画の作成、作業の実施、実施結果の検証等を行うことが必要である。そのため、組織としては現場密着型にすることが肝要であり、少なくとも森林管理の基礎となる流域毎に設置することとする。</p>

<p>　この組織（仮称：流域森林管理センター。以下、「センター」という。）においては、とりまとめ役として経営能力を有する管理職のほか、総合的な技術的能力を持ち調整、調査、実行指導等を行いうる最小限の職員が必要になる。これら役職員は、森林問題を自らの問題として使命感を持つ者が望ましく、任期制とし公募によることも検討する。この場合、地方公共団体、森林組合、民間事業体、ＮＰＯ等からの出向もありうる。なお、調査や作業の実施等業務の実行については、委託等によりできるだけ民間の活用を図ることとする。</p>

<p>　センターは、地域の森林の状況を把握し、間伐や複層林施業等のための抜き切り、下層の更新等が実施されず放置されている森林がまとまっている区域（例えば、区域面積３０ha以上、計画期間の作業面積１０ha以上）を対象に、森林所有者の集約化、中期の実行計画（５年間程度）の作成を行う。実行計画では、対象となる区域、所有状況、行うべき箇所別の森林施業等を明らかにする。</p>

<p>　実行計画に基づく作業の実施については、民間事業体等に委託して行う。事業体等としては、森林組合や素材生産業者のほか事業実行体制を有する大規模森林所有者や新規参入者が想定される。委託の実施は、競争による。この場合、適切な実行とともに各事業体等の創意や自主的努力が生かされる仕組みとして、具体的な事業計画に基づく提案型競争によることとする。提案に当たっては、例えば作業道の具体的な計画や作設方法、間伐の選木及び搬出方法等の作業実施の計画のみでなく、それに伴い生産される材の販売のあり方についても検討を求めるとともに必要な経費や収入の見込みを明らかにさせる。なお、販売先等の選定をどのようにするかは極めて重要である。例えば、間伐材が公的に供給される故に販売先や時期が硬直化し、販売先において供給過剰となり値崩れを起こすようなことを生じるとすれば問題である。供給の安定化をいかに需要の確保につなげていくかが課題であり、そのことにより国産材の有効利用を図るシステム作りに資するようにすることが必要である。</p>

<p>　センターにおいては、事業体から提出された提案を審査し委託先を選定する。また、実行結果を検証し、今後の改善に資する。なお、発注については、単年度限りでなく、５カ年程度をとりまとめた上で単年度分を行う。</p>

<p>　このほか、森林所有者等の自主的な取り組みを促進するため、森林所有者等が他の森林所有者の森林を集約化し、公的実施に見合う事業を行う場合には、対象地の状況を調査し、事業計画を作成して事業実施を申請できることとする。センターでは、対象地が公的に実施すべきところであるかを見極めつつ、提出された計画を審査し適切で効率的な実行が確保しうると認められる場合には、実行責任者の明確化、実行結果の報告、開示等を義務付けた上で必要な経費を交付し実行させる。</p>

<p>　センターの活動については、できるだけ公開するとともに、専門的な第三者による委員会を設け、評価を受けるものとする。</p>

<p>　センターの運営については、国、都道府県、市町村が協力して行うこととする。予算措置のほか、国はセンターの実行状況を集約し、全国森林計画に示す大流域における実行結果の調整を行う。また、都道府県と市町村は、地域森林計画及び市町村森林整備計画の実行の観点から必要な指導を行うとともに実行を審査する。この場合、森林整備等により発揮される多面的機能は広域に及ぶものであること、また、森林の所在する地方公共団体の財政事情は概して厳しいこと等を勘案すると、国の役割が重要である。なお、経費としては、作業の実行のほか、森林現況の把握、森林所有者の同意取り付け、審査、実行結果の整理と評価等に要するものについて手当てされることが必要である。これまでは、実行のための経費に重点がおかれ、これらのソフト的経費の必要額が手当てされてきたとはいえないが、実行を適切に行っていくためには、これらに要する経費について、これまで以上に配慮されることが必要である。<br />
経費については、国等の予算措置のほか、上下流の関係団体をはじめ他からの寄付を受けたりするようなことにも努めるとともに、木材の販売代金は組織の収入として費用と相殺できることとする。その意味では、森林所有者等には森林施業を行うことによって費用を負担することがないと同時にこの施業に伴う収入もありえないことになる。このため、本制度の実施については、森林所有者等への強制ではなく、申請によることを原則とし、本制度と従来の助成制度は併存し、森林所有者等が選択しうるものとする。なお、この仕組みは、以上のことからすぐに森林所有者等に直接的な利益をもたらすことにはならないが、森林整備が進むことにより将来的にはより効率的な林業生産活動を行いうる基盤を作り出すことにもつながっており、森林の管理、経営に無関心な森林所有者等への普及と参加の働きかけを積極的に行うことが必要である。</p>

<p>　また、この進捗により公的実施については、将来的には縮小、廃止していくことになろうが、このセンターの活動により森林管理のために必要な仕事とそれを行うためのシステムが定着することになる。<br />
このような公的実施のほか、センターにおいては、必要に応じ、流域全体の森林資源状況の把握や森林計画の作成の受託、流域における木材供給計画の作成等流域の森林の管理経営の全体的とりまとめに関する業務を行うことも可能である。</p>

<p>　以上、新たなシステムの意味と内容を示すため具体的な構想をあげたが、この構想が実現されるためには、センターの法的位置づけ、既存組織との関係等についてさらに検討する必要がある。その場合、センターが国、都道府県、市町村の助成を受け、地域の森林管理、経営に指導的な役割を果たすことからすれば、都道府県及び下流域を含むそれぞれの流域内の市町村が中核となって公的な組織が設置されることが望ましいが、協議機関として設置されている現在の流域森林林業活性化センターの拡充や森林組合、森林整備法人等の既存組織の活用等も含め、期待される業務内容を踏まえつつ地域の実情も勘案し検討されることが求められる。</p>

<p><strong>５．国産材利用の促進</strong></p>

<p>　次は、森林整備の進捗に伴い供給される国産材の利用の促進である。</p>

<p>　わが国の木材需給量のうち国産材の占める割合は２割程度にすぎず、製材用でみても３割程度である。現在では、国産材価格は外材に対し必ずしも高いものとなっておらず、その中で、このように国産材の需要が外材に比較して減退してきた主な要因は、</p>

<p>@質の揃った材が量としてまとまって安定的に供給できていない。</p>

<p>A生産、加工、流通の各段階におけるコストが高い。また、そのため立木価格にしわ寄せが行き、生産意欲を減退させている。</p>

<p>B最終消費者及び施工業者等への働きかけが少なく､それらの者のニーズの把握が十分でない。<br />
等があげられる。</p>

<p>　このうち、@については、国産材の供給可能量は年々増大しており、さらに新たな森林管理システムが実現すれば、センターが供給の下支えをしうることから、安定的な供給を行う基盤が整備されることになる。Aについては、供給側における安定的な生産、供給と合わせて、加工・流通部門における企業の自主的な努力を進めることを基本として合理的な加工・流通に変わりうるのではないかと期待される。<br />
そのためには、第一に、センターを中心としてそれぞれの流域における供給可能量（樹種、長径級別の大まかな供給量）の集約・提示、販売結果の分析による効果的な販売の徹底、加工・流通業者における需要側の工務店、設計者、消費者等との連携の強化、それらを踏まえた自らの経営方針の確立とそのための具体的取り組み等が求められる。</p>

<p>　このような企業等の自主的な合理化努力を進めるとともに、今後の国産材の需要確保のためには、Bの需要者側への働きかけをどう進めるかが重要である。</p>

<p>　このことから第二は、木の良さを生かした木造住宅の提案についてである。これまでの木造住宅は、構造に木が使われているものをいい、極端にいえば、家の中では、どの住宅もビニールクロスで壁が貼られ、一般市民が木造住宅か鉄骨住宅かを見極めることができなかった。もちろんコストダウンは必要であるが、住宅に木を使うことの意味が提示されてこなかったといえる。従って、洋風化した生活習慣に対応する消費者ニーズを考慮しつつも、まず、本来の木造住宅とはどのようなものか、どのように使えば、健康的で人間の感覚にフィットする木の良さを生かすことができるか、どのようにすれば耐久性や耐震性が高まるかなどを追求しそれを具体的に示していくことが必要である。最近、桁や梁の木材が見える「あらわし」の住宅や柱の径を太くした住宅等が見受けられるようになってきたが、構造だけの木造住宅ではなく、新しい木材使用住宅を提案していくべきである。</p>

<p>　第三は、そのことと合わせ、木を使う意味等について最終消費者等に説明と情報開示を行っていくべきである．現在の一般市民等には、木の特性等についての知識や経験に乏しく、木の性質や樹種による違いなどについてほとんど理解されていない。それだけでなく、木材価格についても常識を持ちあわせていない。これらのことは、市民側の問題だけではない。木材業界自体が旧来の慣習に固執し消費者に説明する姿勢を欠いている。例えば、産地や柱一本当たりの価格を表示することが、業界の利益を損なうとの意見もある。しかしながら、国産材の需要拡大をしようとするならば、信頼される製品の供給と合わせ、国産材のことについて科学的データも添えながらわかりやすく説明するとともに、樹種、価格に加え、品質、強度、乾燥割合、産地等について個々にできるだけの情報開示をしていく必要がある。また同時に、例えば、木の使用が地球環境の保全に役立つと主張するとすれば、関係者自らが、木材資源の有効利用や木質廃棄物の減少と活用に取り組むことが必要だろう。そのような活動の中で、木材業界等の主張が消費者に理解されるものとなる。</p>

<p>　第四は、住宅以外の木材利用の拡大についてである。これまで国産材需要については、木造住宅を中心にして議論されているが、今後の住宅需要については、人口の減少、住宅ストックの増加、住宅の長寿命化等に伴い、新設着工量は減少すると見込まれている。このため、今後伸びが期待されるリフォームへの対応はもとより、大型建築物や事務所、商業施設、鉄筋コンクリート施設の内装等に加え、木材を無駄なくかつ二次利用等多段階な利用を進めることも念頭に、ローカルエネルギー源や家畜敷料等としてのバイオマス利用やさらに現在想定されないような新しい木材の使い方も含めて、住宅以外の需要拡大を図る必要がある。そのためには、技術開発が重要であるが、施工の簡略化、設計者や行政等への働きかけ等の努力が求められる。</p>

<p>　第五は、行政の支援についてである。以上のような国産材の需要拡大のためには、木材産業等の自らの努力が重要であるが、木材産業もほとんどが中小・零細企業で既にみたような状況の中、日々の経営に追われ、新たな活動に取り組む余裕を失っている。このため新しい活動を行政がリードすることが期待される。特に林野庁はもとより他省庁、地方公共団体等においても積極的に取り組まれることが求められるが、ここでは、それぞれの行政主体が率先して「木材使用宣言」をされることを提言する。宣言は、建物の建築をはじめ各種公共事業等の実施において、まず、木材の使用を検討することを原則にすることである。事業の実施に当たって、木材が使用できるか、経費の比較や法規制を含めて、できないとすればその理由は何かを検討し、木材の使用が可能なところでは木材を使用することを原則として確立してもらうことである。それにより、行政主体の姿勢が明確になり木材利用が普及すると同時に、木材の利用上の問題点や改善すべき点が明らかになる。</p>

<p>　第六は、国産材利用を進める仕組みの構築である。持続可能な森林経営については、その実施を推奨する森林認証、ラベリングの制度が進められ、環境物品の利用については、グリーン購入法が制定されている。今後においては、環境報告書等の公表を含めさらに企業等の環境行動が活発化することが予想される。欧米では、建築分野においても、使用建材やエネルギー効率等を評価しエコ建物を推奨しようとする動きが活発化しており、わが国でもウッドマイルズやサスティナブル建築等が動き始めている。このようなことを参考に、木材利用の推進に資する効果的な環境行動評価の仕組みを検討することが求められる。森林や環境への関心の高まりは木材の見直しにも関係することとなるが、それを具体的行動につなげる仕組みを作り出す必要がある。</p>

<p><strong>６．求められる早急な実行</strong></p>

<p>　農林業の衰退等により、１９８０（昭和５５）年に５２７万人いた山村の人口は、２０００（平成１２）年には４５１万人まで減少している。このうち、６５歳以上の高齢者の占める割合も　２８％にのぼっている。また、全国の林業労働者数も同様にこの間において　１７万人から７万人に半減している。さらに、森林所有者についても、不在村所有者の割合が増加し２５％に達している。</p>

<p>　山村は疲弊し、森林の管理・経営は危機的状況にある。このまま事態が推移すれば、わが国全体の人口が減少する下で、高齢者の割合が高い山村の人口は､さらに急激に減少する。その結果、山村は社会性を喪失し、山村に残されたわが国固有の文化や伝統は失われることになる。そして森林や農地は､自然化していくことになるだろう。森林の多面的機能の高度な発揮を図っていくためには、既に述べたように人間の手入れが必要であるが、そのことが放棄されることにより、これまで長期をかけて造成してきた路網は寸断し､森林にはつる類等が繁茂し、崩壊や風倒木があちこちに見られるようになる。同時に、森林から人間は拒否され、森林はますます人間から遠い存在となる。いわば、このような状況は、山村にとって問題であるだけでなく都市にとっても様々な災いや好ましくない事態をもたらすことになる。そして、問題の悪化に気が付いた時、放棄した森林を改めて人間にとって有用な森林にしていくことは容易なことではなく、多大の労力と経費が必要となる。それだけでなく、その時には、所有境界を明らかにすることができる人さえいなくなっている可能性がある。</p>

<p>　また、森林の管理・経営を行うための技術は、一朝一夕に身につくものではない。体に山の仕事が染み込み一人前の労働者になるためには、数年を要すると言われるが、これからの技術者は、作業をするだけでなく、森林施業や森林植生、野生鳥獣等についての知識を持ち、機械の運転やＩＴ技術等をマスターし、森林の中で自立的に活動することが求められる。林業労働者の２５％は６５歳以上の高齢者となっており、これからの若い技術者にこれまでの知識と経験を引き継ぎ養成する機会は時間とともに狭められていく。</p>

<p>　今こそ現状を打開し､新たな森林の管理・経営の確立を目指す時である。先送りすれば事態はますます悪化するだろう。</p>

<p>　公的実施の拡充を中心とする新しい森林の管理・経営システムの構築を図るためには、これまで以上に財政的な負担が大きくなる。極めて大まかには、森林整備に公的に負担されている現在の額に対し１．５倍以上が必要になるとされる試算もある。ただし、対象とされる箇所がどの程度にのぼるかはさらに調査する必要があるとともに、これまで以上に実行の効率性を追求すべきことを考えなければならない。いずれにしても、国も地方公共団体も財政的に厳しい中、新たな財政的負担を捻出することは容易ではない。がしかし、事態はそのことを必要とする段階に来てしまっている。地方公共団体では、森林整備に取り組むための費用について十分でないにしても独自に課税しようとする動きが広がっている。国においては環境税の議論がされている。また、一方では、この実施により今後の森林の管理、・経営のための基盤が整備されるとともに資源的な成熟が進むことを勘案すれば、一定の制約を設けながら森林所有者等の自発的活動を誘導していく形に移行させていくことも可能になると想定される。従って、このことが今求められる喫緊の課題であることを踏まえ、この１０年間程度を緊急的な期間として特別に対応されることが考えられるべきである。そしてこのことは、京都議定書においてわが国が約束した炭酸ガス６％削減における森林吸収３．９％の目標確保にもつながっている。国際的に森林吸収量として認められるのは、適切な管理・経営が行われている森林に限られるのである。</p>

<p>　国において実施した｢緑の雇用担い手育成対策｣においては、都市等から新たに林業に就労したいとする若者が多数にのぼっている。政策が実現されれば、それを実行する担い手は育ちはじめている。</p>

<p><strong>おわりに</strong></p>

<p>　森林の多面的機能の高度かつ持続的な発揮を図るためには、森林を公共財として国民全体で支えていくことが必要であり、森林整備の方針を決定する森林計画への国民の参画、公的実施の拡充による新しい森林管理システムの構築及び、森林整備に伴い生産される木材の利用の促進を図る方策について提言した。</p>

<p>　この提言が実施されることにより、それぞれの地域の実情に応じて、大径の針葉樹が屹立する森林、ヒノキ等の針葉樹とコナラやカシの広葉樹が混ざり合った森林、ブナやカエデの四季の変化に富む広葉樹の森林等、多様で活力のある森林が整備されていくことになる。</p>

<p>　国民と森林との関係が希薄化した現在、改めて森林との結びつきを作り出そうとする活動が活発化している。自発的に森林作業を行おうとする森林ボランティア、森林の中で自然を体験しようとするグリーン・ツーリズムや森林環境教育、山村に長期滞在する山村留学等々である。そして、今回の提言は、さらに濃密な森林と国民の関係を作り出す。それは、個人的な保健休養や癒しということだけでなく、森林と人との関係に思いを馳せ、現在の生活のあり方を考えていくことにつながっていく。</p>

<p>　そのことは、また、山村のあり方にも大きな影響を与える。山村は、これまで都市化、工業化されていく社会において、いかにそれに乗り遅れないようにするかが課題だった。しかし、これからは、公的実施の拡充とそれを契機とする国産材利用等の展開により山村に雇用が創出されるとともに、地域の自然や景観、伝統や資源を大切にしつつ環境にできるだけ負荷を与えず、いきいきと暮らす社会を作ろうということになるだろう。そのような山村には、都市住民が新たな価値を見出し、交流が活発化するだけでなく定住を希望する者も出てくる。それは、打ちひしがれた山村の住民に自信をもたらすことになる。</p>

<p>　それらに伴って、緑豊かで美しい日本が再生するとともに、森林と田畑と木に育まれたわが国の文化の新しい展開が始まることになる。また、このことは、カーボンニュートラルな循環型社会の構築に寄与することになる。そしてそのようなわが国の美しい自然とそこで展開される文化的な営みは、国内のみならず国際的にも評価されることになる。</p>

<p>　森林整備の公的実施の拡充等のためには、これまで以上の財政的負担が必要になるが、その効果は森林の適切な管理､経営による多面的機能の高度な発揮にとどまらない広がりを持っている。国民の理解を得ながら、今こそ、現状を打破し新しい地平を切り開く思い切った政策の実施が重要である。</p>

<p>　本提言を足がかりに、新たな森林管理システムの構築に向けて国民的論議が巻き起こり、国民的コンセンサスが形成されることを期待してやまない。</p>

<hr>

<h3>新たな森林管理システム（概案）</h3>

<p><strong>１．対象地</strong></p>

<p>森林所有者等が森林整備を実施するとされているもののうち、放置されている対象事業の作業地がまとまっている箇所(例えば、区域面積３０ｈａ以上、計画期間の作業面積１０ｈａ以上)で森林所有者等の申請するまたは同意が得られる箇所とする。</p>

<p><strong>２．対象事業</strong></p>

<p>基本的には、間伐及び複層林施業の伐採、樹下植栽等の更新、保育作業とする。ただし、皆伐施業の主伐、植栽等の更新、保育作業については、対象地内の小規模なものを含むことができる。</p>

<p>なお、事業を行った箇所については利用制限(例えば１０年間の保全)を設ける。</p>

<p><strong>３．組織</strong></p>

<p>地域森林計画の流域毎に森林管理組織（仮称:流域森林管理センター。以下、「センター」という。）を設置する。</p>

<p>センターは、オープンな形で選定される長と、必要最小限の職員で構成する。</p>

<p>センターの役職員は任期制にする。役職員には、技術的知見と実行に対する指導力が求められる。</p>

<p><strong>４．業務</strong>センターは、次のような業務を行う。</p>

<p>@森林所有者の参加確認、集約化<br />
A実行計画の作成と森林所有者の同意<br />
B作業の実施<br />
C実施結果の検証<br />
D経費の確保<br />
E関係者及び国民への説明、調整　<br />
Fその他森林計画の作成作業の受託等</p>

<p><strong>５．事業の実施</strong></p>

<p>作業は、民間事業体等に委託して行う。</p>

<p>センターが作成する中期の実行計画(例えば５年間の計画)に基づき、中期間の実行を担う事業実施者を公募する。</p>

<p>民間事業体等は、中期のものと当該年度のものに分けて、森林施業、作業道の作設、生産の見込と販売等の実行、必要な経費等を事業計画としてとりまとめ提出する。なお、販売については、販売の仕方を明らかにして収入についても計上し、必要な経費と合わせて収支を明らかにする。</p>

<p>提出された事業計画等により、センターで事業実施者を選定し、毎年度、年度毎に実際の契約することとする。</p>

<p>事業実施者は、実行が終了した段階で実施結果を報告する。</p>

<p>センターでは、実行結果を検証し、必要がある場合は、補正作業をさせる。なお、実行結果に問題があるものについては、次年度以降契約からはずすこともありうる。</p>

<p>このほか、森林所有者等が、他の森林所有者の森林を集約し公的実施に見合う事業を行う場合には、自ら事業計画を申請して実施することもできることとする。</p>

<p><strong>６．評価</strong></p>

<p>実行計画及び実行結果を第三者として評価する専門家等からなる評価委員会を設ける。</p>

<p><strong>７．経費</strong></p>

<p>必要な経費については、国、都道府県及び市町村からの毎年度の拠出による。そのほか寄付等を受けることができる。また、木材販売による収入があれば充当する。</p>

<p>センターは、実行計画に基づき毎年度必要な予算を都道府県、市町村に申請する。</p>

<p><strong>８．都道府県等への報告</strong></p>

<p>センターは実行結果及び決算をとりまとめ、第三者委員会の評価を受けた後、都道府県、市町村等に報告する。都道府県はそれをとりまとめ国へ報告する。</p>

<p><strong>９．事業実施状況の公開</strong></p>

<p>センターは実行計画の作成、事業実施者の選定、実行結果の検証及び決算等については、できる限り公開する。それにより、特に流域内の関係者及び住民等の意見を聴取する。</p>]]>
</content>
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<title>スミス記念堂の保存活用をめぐる市民運動とまちおこし </title>
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<modified>2005-03-25T13:27:41Z</modified>
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<summary type="text/plain">はじめに  　昭和6年（1931）、彦根高商が産声を上げてからまだ日が浅く世界恐...</summary>
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<![CDATA[<p>はじめに <br />
　昭和6年（1931）、彦根高商が産声を上げてからまだ日が浅く世界恐慌の嵐が吹き荒れるなか、高商のすぐ近く、彦根城の濠端に日米の善意の人々の手によって美しい和風教会堂が建てられた。それは建設者の名にちなんでスミス記念（礼拝）堂という。だが、やがて戦後高度経済成長を経て平成の世となると、その建物とその周囲にいた愛すべき人々の記憶は忘れ去られ、市の道路拡幅工事の前に、無残にもそれは取り壊され売り払われる運命にあった。</p>

<p>　この小稿は、その小さな建物を破壊から救いだし、保存活用してまちづくりの核にしようと奮闘してきた市民たちのささやかな記録である。それに加わったのは大学人や政治家ばかりではない。近所の主婦も、商店主も中小企業の社長さんや社員達も、お茶やお花の先生や生徒も、お寺の和尚さんも神社の神主さんも、学生も、建築家も、マスコミ･出版関係者も、矢も立てもたまらず、この運動の輪に飛び込んでいった。</p>

<p>　戦前大正末期から昭和初期の彦根には、このスミス記念堂という建物の周辺に、今でも我々を感動させ、これからの進むべき道さえ示唆してくれるどのようなドラマが潜んでいたのだろうか。そしてそれを知った現代に生きる我々は、そこにいかなる価値を見出しどんな思いでこの建物を残そうとしたのか。さらに建物に新たな命を吹き込むことで何を創ろうとしているのか。その過程で市民達は行政とどう対峙し、葛藤し、協力しながら、何を学びつつ曲がりくねった長い道を歩んできたのか。</p>

<p>　これらをひとつひとつ書き記していこう。</p>

<p><br />
</p>]]>
<![CDATA[<p>１． スミス記念（礼拝）堂とは </p>

<p>　スミス記念礼拝堂１）は、昭和６年（1931）、日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師で彦根高等商業学校の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミス氏が、地元の大工宮川庄助氏と協力し、両親への感謝の思いと両国民の平和交流を願って、世界恐慌下にもかかわらず日米双方から多大な醵金を集め、良質の吉野のヒノキ材を用いて建設したもので、彼の名にちなんでスミス記念礼拝堂と呼ばれている。</p>

<p>　アメリカイリノイ大学を出て、明治36年28歳の時にキリスト教伝導を目的に来日したスミス氏は、広島高等師範学校で英語教師を3年間務め、その後福井・金沢・京都等で布教活動に携わった後、昭和元年から11年（1926〜1936）まで彦根に滞在し、彦根高商の英語教師を務めながら教会での布教活動や様々な文化活動を展開している。特に彦根城の美しさと彦根の人々に魅せられた氏は、両親を記念するとともに、隣人愛を説くキリスト教の普遍的精神と彦根の風土や日本的精神を調和させた独特な礼拝堂の建設を祈願し、それを日米の多くの善意に支えられて実行に移したのである。<br />
（※添付写真は、スミス記念堂創建当時、昭和6年〜10年頃のもの。中央にスミス夫妻が見える。画像をクリックすると拡大写真へ）</p>

<p>　したがってこの礼拝堂にはキリスト教の精神を伝える十字や葡萄の文様が、戸・梁・釘隠し・瓦等に施されている一方、建築の本体はあくまで伝統的な寺社建築の様式に則り、花頭窓・屋根・唐破風等には彦根城にならった形状を取り入れて、和を基調としつつも東西の様式が渾然一体となった独特の美しさを醸し出している。建築には、氏とともに信者でもあった彦根の大工宮川庄助氏が携わり、信者以外の多くの人々の協力も得て進められた。実際スミス氏は自ら設計と建築を行える専門知識と技術を持ち、彦根の礼拝堂のほか敦賀の牧師館、京都教区内の教会堂・会館・牧師館、金沢の牧師館等の建設や修繕に携わっている。建築費はすべて醵金（総額は現在の3億〜6億円）で、米国から３分の１の費用が寄せられ、スミス氏も１万ドル、また宮川氏や彦根の篤志家からも様々な献身的な援助を得ている。この建物は、その独特の様式と美しさから、建築上も県の『近代和風建築調査』や松波秀子氏の論考２)によって高い評価を得ている。</p>

<p>　この建物は、外部の屋根の一部に損傷を負っていたとはいえ平成8年（1996）の秋になっても内部は良質の檜が赤光を発して輝き、ほのかに木の香を漂わせて清浄な空間を保っていた。建物のそこかしこに施された和と洋の本来相反する要素は、実にしっくりと違和感なく溶け合い、葡萄や十字の文様は自己主張が強すぎて、それを包む伝統的な日本の建築様式の雰囲気を潰してしまうということはけっしてない。むしろ両者は寄り添いあい、互いにその魅力を照らしあって輝いていたのである。</p>

<p>　 花頭窓を開けると、彦根城が望まれ、濠をわたってくる風がさわやかな空気を室内に運び込み、日の光が花頭窓の庇を通じて柔らかに降り注いでくる。こうしてこの建物に込められた両親への愛や東西両洋の文化の相互尊敬の精神は、彦根城濠端という景観に溶け込んで清浄な癒しの空間を作り上げていたのであった。</p>

<p>２．P・A・スミス氏の思想と人柄 <br />
　スミス氏の日本での活動や思想・人柄等については、まだまだ解明されていない部分が多いが、戦後信者達が編纂した『スミス先生の思い出』（1954）によって、そのいくつかの特徴点は掴み取ることができる。</p>

<p>　スミス氏は何よりもまず敬虔なキリスト教徒であり熱心な伝道師であったが、来日したキリスト教伝道師に往々にして見られた西洋キリスト教文明を普遍的な高度の文明とみなして、日本の伝統的な文化を低く劣ったものと蔑むような態度はけっしてとらなかったという点が注目される。スミス夫人は夫の思いを「日本人の性格、日本文化の中にある、よいものを育成することを願っていた」と評している。</p>

<p>　 スミス氏が日本人や日本文化の中に見た「よいもの」とは何であったかは氏自身の言葉では語られていないが、それが彦根などで親しく接した人々との交流の中にあり、文化の具体的形としてはスミス記念礼拝堂に結晶した寺社建築等の日本の伝統的な様式美に代表されるものであったことは間違いなかろう。</p>

<p>　 しかし、だからといって氏は、近代日本の行ったことすべてをも手放しで礼賛していたわけではない。氏は「非常に日本を愛され、日本人の気持ちをもって郷党の人たちとつき合いました」と評されたが、生徒の１人が昭和１4年の夏スミス氏と最後に会ったときの思い出として語るところによれば、スミス氏は「日本の運命について心配せられ」、日中戦争についての話題に及んだ時には「先生がしょっぱなから日本軍非難をはじめられ、・・・日本軍の行動の非なる点についてはわたしより詳しく知っておられた。・・・先生が特に強く非難されたのは、南京における日本軍の暴行であった」と述べたという。このように大陸進出に突き進む軍国日本の暗黒面にはけっして同調せず､厳しいまなざしを崩さなかったことがわかる。 </p>

<p>　日本の国民国家形成やアジアへの軍事的進出が天皇中心の国家神道と密接な結びつきがあったことを想起するならば、スミス氏は礼拝堂建築のモデルとした寺社建築の中に、国家神道の精神を見ていたのではなく、そのもっと奥にある日本の庶民が郷土のそこここで産土神に対して抱いた祖先崇拝や自然崇拝のこころ、またそれと長年月をかけて融合・合体した本地垂迹の仏教思想にあったことが推測される。それが氏の見た礼拝堂の建築に結実させた「日本人の中の良いもの」であったと私には思われてならない。氏はこうして、日本文化に満腔の敬意を払いながら、いや払うが故になおさら近代帝国日本がアジアで繰り広げた「暴行」に対しても厳しい批判の眼を向けることができたのである。 </p>

<p>　また『スミス先生の思い出』のなかには社会主義運動に邁進していた学生に対する興味深い接し方を記した部分も現れている。その学生の追憶曰く、「こういう問題（社会主義運動）に対するスミス先生の態度は、徹底的にリベラルなものであった。先生は、信仰を失わないこと、だからキリスト教社会主義を研究すべきこと、学生は１人前とはいえないから、兎に角学校を卒業すること、学校を卒業した以上、良心に従って何をしてもそれは自由であることーこれらのことを繰返し繰返し云って居られた」という。 </p>

<p>　そしてその学生が社会運動で逮捕投獄され、釈放後も将来の生き方として「金が続く間、徹底的にマルクスを勉強したい、それからその結論に従って行動したい」と述べると、氏は、週６日マルクスを勉強した後日曜日を休むこと、そして教会へ出席したあと夫妻と食事をともにすることを条件にその生き方を認めてくれたという。そして３年以上この生活を続けたこの学生は、マルクス主義者ではなく牧師となることを人生の途に選ぶのである。このように氏は、年下の学生であってもその思想と人格を尊重し、社会主義にも理解を示すリベラルな思想の持ち主であった。</p>

<p>３．スミス氏の諸活動 <br />
　スミス氏は、彦根では彦根高商の当時の校長矢野貫城氏と深い親交を結び、聖書研究会等を開くとともに、日曜学校、高等科男女生徒のためのクラブ、彦根高商学生のための集会、夏期修養会などの活動を展開し、夫人も近所の婦人たちを集めて婦人会や料理講習会などを開き、教会周辺やスミス氏の居宅は、高商の学生や地域の人々、子供達や信者以外の人々も含め様々な人が出入する自由な文化交流の場が形成されていた。</p>

<p>　こうした教会に即した諸活動とともに、特に氏が草の根の国際交流とでも言うべき活動を行っていたことが注目される。その一つは、彦根の小学校とアメリカの故郷の小学校との交流である。昭和9年（1934）5月3日付の大阪朝日新聞の滋賀版には「日米児童の握手　彦根西小学校からお返事と作品を贈る」という見出しの記事が掲載されている。これによるとスミス氏の紹介で来彦したアメリカ、イリノイ州ディクソン市郊外のスミス・スクール校長エム・パーソン氏夫妻は、彦根西小学校を親しく参観した。それが縁となって同年4月、スミス・スクールでは当地の案内書や絵葉書などとともに児童の手になる作品30点余を彦根西小学校に贈り、そこには「わが親愛なる日本の友よ！」と呼びかけた「児童のいたいけなる横文字手紙」が添えられていた。西小学校の児童もこれに喜び、早速児童による答礼文を作り、また図画・手工品・書方などの作品30余点をスミス氏に託して贈ることが報じられている。同紙では「太平洋を遠く隔てた日米小学校児童の手で固く結ばれてゆく国際親善の佳話」と評している。</p>

<p>　日米の小学校児童の交流としては、昭和2年、実業家渋沢栄一とそのアメリカ人の友人シドニー・ギューリック氏との間の取り図らいで、総数1万2千個の青い目の人形が、日米親善大使として全国の小学校に贈られ、その返礼として日本の各地の小学校から日本人形や手紙等が贈られるという交流があったことが知られる。</p>

<p>　このスミス氏を介した西小学校の事例は、こうした全国的な青い目のアメリカ人形をめぐる交流の後もなお彦根という一地方の小都会において独自の国際交流が育まれていたことを示す貴重な事例であるといえよう。</p>

<p>　しかしスミス氏の眼は、遠い故国との国際交流ばかりでなく、身近にあって呻吟するアジア同朋の民にも温かく注がれていた。同じく大阪朝日新聞滋賀版の昭和8年（1933）5月5日付の記事には「朝鮮人学校彦根に開設　親日米人スミス氏の篤志」という見出で、人類愛の立場からスミス氏が彦根地方に居住する百数十名の朝鮮人同胞のために「純東洋風な聖愛教会堂で」朝鮮人学校を開設する旨が伝えられている。彦根高商の学生等数名が講師となってまず日本語をそして地理・算術・商事等を教えるほか、聖書の話をしたりキリスト教伝導も行うもので、すでに約60名の講習希望者があると報じている。</p>

<p>　彦根高商を昭和10年に卒業し、グリコに入社後はおまけ係として様々な豆玩具を考案しグリコの隆盛を導いた宮本順三氏の回想録『ぼくは豆玩』のなかにも、「人口3万ばかりの彦根にアメリカ人のスミス牧師が教会内に朝鮮人学校を開き、十歳から二十歳くらいの生徒に、朝鮮語と商業、算数、地理などを高商の学生達が先生となり教えていたのである。」３）と記されている。また、昭和8年5月30日の彦根高商『学報』には「同胞への警告　内朝融和を標榜する　朝鮮人学校訪問記　知識の獲得と宗教的精神修養へ」と題する記事が掲載されており、「此の人口三万前後の彦根に朝鮮人専門の教育が提唱され、恵まれざる同胞のため、犠牲的奉仕をなさんとする篤志家の出られたことは真に同慶に堪えないものである」として、「朝鮮人学校」の訪問記が綴られている。その記事にはまず、スミス氏が、東小学校の日向先生と諮ってクリスマスに際して裕福な市民から古着を集めて貧しい朝鮮の人々に配っていたこと、さらにより精神的補助をなさんとして、朝鮮人への教育の必要性を痛感し、朝鮮人宅を訪ねて賛同を得て学校開設に至った事情が明らかにされている。そして開校した朝鮮人学校の実態についても、次のようなきわめて具体的な内容が綴られている。</p>

<p>　１． 毎週火曜日と金曜日の2日、夜７：30〜９：30に授業が行われていること。<br />
　２． 生徒は、昼間仕事を持ち働いている10歳から30歳を超える朝鮮人で、その数は50人くらいであったこと。<br />
　３． 授業科目は、日本での生活に不自由ないようにするための日本語教育と、日常生活に必用な商事的知識獲得のための商事要項・算術・地理が設けられ、彦根高商の学生2名（方君と鹿野君）が教師を務め朝鮮語で授業を行っていたこと。 <br />
　４． 毎月1回夫婦・子供を伴った親睦会が開かれ、さらに宗教的な修養も目指されていたこと。 </p>

<p>　このように、この朝鮮人学校は、単なるうわべの国際交流ではなく、働く社会人のための社会人教育という面と親睦や修養といった精神的なケアも目指されていたことがわかる。スミス記念礼拝堂の前で写された当時の写真には、スミス夫妻を囲んで彦根高商の学生、市民・婦人・子供達、それにアメリカ人と思われる人々が集まっているが、特にチマチョゴリをまとった朝鮮の夫人と思しき人の姿も見出される。始めになぜこの夫人が映っているのかが不思議であったが、これも朝鮮人学校などの活動の賜物でったことが判明した。 </p>

<p>　日本がアジア太平洋戦争に突入し、中国や欧米と戦闘状態に陥る数年前まで、東西の国境を越えた互いの文化を尊重しあえる交流が、彦根という一地域の人々の中にたしかに育まれていたことは、昭和初期の戦前社会の中にさえ草の根の民衆レベルの平和的国際交流の可能性が胚胎していたことを示す一事例として貴重であろう。</p>

<p>　 以上スミス氏の人物・思想・活動を要約すれば、隣人愛・博愛を説くキリスト教への深い帰依、両親への敬愛、彦根城や寺社建築に代表される日本の伝統文化への尊敬、近代日本帝国が日中戦争で犯した「暴行」への厳しい批判、思想の自由を尊重するリベラリスト、日米の子供達の相互交流と朝鮮人学校の開設に見られた日・米・アジアの草の根の国際交流等として表すことができよう。 </p>

<p>U　スミス記念堂保存運動の経緯<br />
◆平成８年９月〜同９年１月―道路拡幅工事による撤去阻止から彦根市による一時保管地並びに恒久移転地提供の確約獲得までー<br />
　スミス氏は戦時色がいっそう強まった昭和14年（1939）12月、健康悪化のためアメリカへの帰国を余儀なくされ、同20年1月17日にオハイオ州イエロー・スプリングスにて死去するが、遺言によりその遺骨と遺髪の一部は､彼が何よりも愛した彦根の教会に納められ、死してなお彼の魂は彦根の地に留まることを欲したのである。しかしながら、戦後日本が高度経済成長を遂げやがてバブルの絶頂にまで上り詰めて多くの日本人が金儲けに狂奔していくにつれ、日米戦争の忌まわしい記憶も風化していき、またスミス氏の日本と日本人への思いや彼が精魂傾けた和風の教会堂のこと、そしてその周囲に育まれた草の根の国際交流の輪のことなども、やがて人々の記憶から遠ざかり、彦根聖愛教会の信者数そのものが減少していくにつれ、スミス記念礼拝堂は風雨にまみれて屋根は崩れるままに放置される状態に置かれていった。そうしたなか彦根市の道路拡幅工事が礼拝堂の敷地を横切るため、平成８年（1996）９月には解体されて他県へ売り払われる運命にあった。</p>

<p>　このような状況にあって滋賀大経済学部の学内誌『月報』の表紙に「近江ゆかりの近代化遺産」としてスミス記念堂の貴重な文化遺産としての価値とその建設の由来、さらに保存を訴える記事（筆者執筆）が掲載されると、この建物の保存と活用を求める動きが急速に学内外に広まっていった。上記記事を見た本学部森將豪氏は、地元新聞に事態の状況を知らせスミス記念礼拝堂保護を訴える記事の掲載を要請するとともに、彦根市議会議員に協力を求め、議会でこの建物に対する市の方策を質し、あわせてその保護を訴える質問がなされた。</p>

<p>　これに対し市の回答は、道路拡幅工事のため建物保護はできず図面等の記録に止めるというものであった。また取り壊し工事は年内にも着手されることも明らかにされ、こうした状況を新聞各紙がいっせいに報じた。</p>

<p>　このままでは、文化の相互尊敬と国際平和の精神に貫かれた貴重な建築文化財が失われてしまうという危機感が学内外につのり、学内からは教官50名以上の署名を集めて彦根市長に保存活用を訴える要望書が提出されるとともに、教会に対しても他県への売却中止と礼拝堂の保全が粘り強く訴えられた。10月から11月にかけて、礼拝堂において建築の専門家を交えての説明会、建物見学会が開催され、移築のための募金集めも開始された。こうした状況はNHKの朝のニュースでも放映され、運動の輪はさらに一般市民や学生にまで広がっていった。滋賀大経済学部の学生紙陵水新聞ではスミス記念堂の特集記事が号外として編まれ、一般学生にも保存運動に加わる者が現われるようになっていった。</p>

<p>　こうしたなか、大学関係者としては滋賀大経済学部の教官に県立大学の教官も加わり、市民からは数人の建築家、大学周辺のキリスト教関係者・寺院の住職・神社の神官、茶道・華道の関係者、企業家、商店主、マスコミ関係者、出版業者、主婦等が集い、さらに市議会議員では１党を除く全会派が、また県会議員も２名が参加して、「スミス記念堂を彦根に保存する会」が結成された。教会側も保存運動の趣旨に大いに理解を示すようになり、他県への売却中止と礼拝堂の建物・付属備品・植栽等一切を「保存する会」へ無償譲渡するという英断が下された。「保存する会」への移管がなされたことにより礼拝堂の宗教色は一切払拭されることとなり、以後この建物はスミス記念堂と称することとなった。このことがさらに広い市民層への支持につながり、運動は現実的な解決に向け大きく一歩を踏みだした。</p>

<p>　12月にはいると「保存する会」ではチャリティー・コンサートを開催し、運動の経緯を示すビデオ上映やこの運動に理解を示された大津市の若代孝三氏のフルート演奏が行われ、参集した170余名の市民に深い感動を与えた。市に対しても広い市民層を結集した「保存する会」の構成員や規約等を示し、町づくりに活用したいというスミス記念堂の将来的な活用法も説明しつつ粘り強い交渉が進められた。そして、定例市議会において「保存する会」の役員である市議から記念堂の保存活用に対し善処を求める提起がなされると、市はついに９月の市議会での「記録保存にとどめる」という答弁を撤回し、差し迫る道路拡幅工事から建物を退避させるための一時的な保管地と将来的には町づくりに資するための適当な恒久的移築地を提供する旨の回答を示したのである。</p>

<p>　ここにようやくスミス記念堂は彦根市内の適当な地に移築保存されることが公的に確約されたのであり、「保存する会」では、これを受けて早速、有力会員で文化財を取扱う専門の建築家の協力を得て、翌平成9年1月、市が提供した保管地に、将来の移築を念頭に置いた記念堂の解体・収納を完了した。この時までに募金は、約500万円に達しており、解体移築費は全額その内から賄われたのである。しかもその費用は解体を請け負った建築業者の献身的な行為で通常見込まれる経費の半額以下に留められたのである。 </p>

<p>◆平成９年２月〜平成11年８月―彦根市による恒久的移転候補地の提示までー<br />
　こうしてスミス記念堂は彦根の地に保存されることが決まったが、その後市からは恒久的移築地の提示はようとしてなされなかった。保存する会では、移築地の条件として、１．歴史的建造物にふさわしい土地で、スミス記念堂が彦根城の形状を模して濠端に建てられていたことを考慮して城が遠望できる場所が望ましい、２．なるべく多くの市民が利用でき観光やまちおこしにも活用可能であるためには市の中心部の一角が望ましい、３．駐車スペースや付属の植栽を備えることができる広さが確保できるところを、市側に要望した。保存する会のメンバー達も移築候補地を求めて市内の空いている市有地を、時には巻尺持参で実測しながら具体的に検討を加えていったが、いずれもすでに駐車場などに利用されているか、都市計画の中で宅地の移転代替地等のために確保されている場合が多く、その予定を見直してまで移築地の提供が図られるということは無かった。また平成14年度から移転が始まるとされていた彦根市民病院の跡地の一角かあるいはそれに付随し濠端に位置する看護婦宿舎跡地を移築地に要請したが、市は利用計画が未定な土地についてあらかじめ特定の建造物の移築を約束することはできないとして、これも話がまとまらなかった。</p>

<p>　そのほか、市内の町内会や商店街、あるいは個人から土地提供の申し出があり、その都度面積の広狭、位置関係、移築後の管理運営の問題等々具体的な検討がなされ、なかにはまとまりかけた町内会の場合もあったが、地理的に市の中心部から外れる等の理由からいずれも実現には至らなかった。</p>

<p>　「保存する会」では、このように移転地特定の努力を重ねつつ、並行して保存運動の意義を広く世に伝える運動も行っていった。平成9年5月にはスミス記念堂をまちおこしに活用するための市民フォーラムを開催した。講師にはスミス記念堂を建築の学会誌に紹介されてきた建築家の松波秀子氏を招き、スミス記念堂の建築上の意義について講演が行われ、そのあと町おこしや国際交流といった様々な観点からこの建造物の今後の利用のあり方について意見交換がなされた。会場には、建設当時のスミス記念堂の写真や運動の経緯を示す年表、室内に置かれてあった天子像などが展示され、200余名の来会者に運動の意義は着実に広まっていった。</p>

<p>　同年10月には青年会議所主催の「夜学」においてスミス記念堂が取上げられた。講師には、スミス記念堂の建設に直接携わった大工の宮川庄助氏のご子息で建築家の宮川弘氏を招き、この建物が特に唐破風や花頭窓などに彦根城の形状を採り入れている点や氏の記憶に残る建設当時の様々なエピソードが具体的に紹介され、出席者のこの建物に対する理解と愛着はさらに深まった。さらに「保存する会」のメンバーの中には、毎年山草会を開催し、その収益を移築費のために提供したり、また個人的ネットワークを活用してこの運動の意義をアピールし、常に運動を盛り上げまた募金収集に勤しむなど、地道な努力が続けられた。</p>

<p>　こうしたなか翌平成10年にかけて、市内の町内会や商店街、あるいは個人から土地提供の申し出があり、その都度面積の広狭、位置関係、移築後の管理運営の問題等々具体的な検討がなされ、なかにはまとまりかけた町内会の場合もあったが、地理的に市の中心部から外れる等の理由からいずれも実現には至らなかった。 「保存する会」では平成11年（1999）にはいると、市に対しては、移築後の利用のあり方についてより具体的な活動内容と管理方法を記した青写真を提示し、さらに市議会では「保存する会」のメンバーによる再度にわたる移築地の早期提示を求める要請がなされた。</p>

<p>　このような様々な努力がようやく市を動かし、平成11年8月末、市は現在俳遊館として利用されている旧彦根信用組合本店の建物の隣地を買取り、これを移転候補地として提示した。市は、俳遊館とセットで今後の活動を考え、スミス記念堂の日常的な管理も俳遊館と一緒に市の方で行う用意があることまで内示しており、ここにようやく恒久地への移転が具体的日程に上ったのであった。</p>

<p>◆平成11年9月から平成14年２月までー彦根市による移転候補地提示から市民病院跡地利用検討委員会の答申提出までー<br />
　「保存する会」では上記の市の提案を受け、同年9月早速この移築候補地の是非を検討した。会員の意見はほぼ半数ずつ賛否両論に分かれた。反対意見は、第一に、市の提示地が狭すぎ駐車場も設けることができず、また講演会や演奏会などを催した場合にも隣地に騒音等で迷惑がかかることが十分予想されること、第二に、彦根城も臨めず、またスミス記念堂の建物も遠望できないことから、文化財的建造物の立地としてはふさわしくないこと、第三に、市の西部に居住する者から見ると立地が東方に過ぎ、本来記念堂があった場所からも離れている、等であり、市の提案を留保あるいは断って、やはり当初よりの希望地であった市民病院跡地を実現すべく努力すべきであると主張された。</p>

<p>　これに対し賛成意見は、第一に、確かに反対論者の言うように最適地とは認めがたいが、市が資金まで投入して購入した土地であるから、すべてが満足できなくても市民の町づくりに資する方向で今後実質的に利用していくことのほうが肝心である、第二に、狭いといっても植栽等も不十分ながら備えられ、立地も市の観光の中心地キャッスルロードから歩いて行ける所にあり､他の観光スポットとも近い、第三に、俳遊館とセットにして利用を考えれば、二つの建物の相乗効果が期待でき、さらに日常的な管理の面でも市に頼れるので安心である、等であり、市の提案を受け入れて、移築費の収集という次のステップに進むべきであると主張された。</p>

<p>　「保存する会」の会長である筒井は、両者の意見を勘案した結果、両者理があるが、すでに保存運動が始まってから3年が経過し、運動を担う市民達にもあせりと重圧感が増し、これ以上確保できる保証が定かでない市民病院跡地を求めて２年以上先まで待つことは、すべてを手弁当で行っている市民運動員達には耐えられず、この保存運動はそれまで持ちこたえられない恐れがあると判断し、上記賛成論の趣旨を個人的意見と断って、地元紙近江同盟新聞に掲載し、会員諸氏を始めこの運動を応援してきた多く市民に理解を求めた。しかしながらこの判断は、それまでの会員諸氏の献身的な協力によって保存運動が進められてきた経緯に鑑みる時、一身を二肢に引き裂かれる思いであり、会の和を何とか保ちたいと思いつつもこの時を措いてはこの問題の解決はありえないという思いに駆られてなされた、まことに苦渋の決断であった。</p>

<p>　このように「保存する会」が市の提示した移築地をめぐって賛否両論に分かれて呻吟している時に、そうした対立を解消し一挙に問題を解決できる良策が提起された。それは、市内に現存する他の近代和風建築の保存を図ろうとする複数の有志者達の動きが現実化し、その建造物を所有者から買い取ってその地にスミス記念堂も移築し、ともに町おこしのための施設として活用していこうとする民間サイドからの働きかけであった。</p>

<p>　そしてこの予定移築地は、前述の「保存する会」が要望していた移築地としての条件をすべてクリアーした理想的な環境にあり、なによりも「保存する会」の一致した支持が取り付けられるため、会としては市に対しては提案地への回答を保留したまま、この民間プロジェクトの成り行きをしばらく見守ることにした。</p>

<p>　しかしながら、このプロジェクトもなかなか成功裏には進まなかった。深刻な不況が進行するなかで、対象となっている建築物と土地の売買をめぐっての折合いがつかず、結局約１年を経ても実現の運びには至らず、当分凍結するという事態に立ち至り、スミス記念堂の移築もふたたび暗礁に乗り上げた状態に舞い戻ってしまった。</p>

<p>　市の提案も受け入れるには至らず、民間の移築地提供も頓挫し、「保存する会」の運動もこの間表面上は大きな進展を見せることなく、時はすでに平成12年度も終わろうとしていた。だがこうした運動の膠着期間に「保存する会」の面々もただ手をこまねいて座視していたわけではなかった。ある商店主は店先に募金用のガラス箱を置いてお客さんに保存運動への理解と協力を求めつづけた。毎年春の山野草会では引き続いて収益金の寄付を申し出てくださった。またある人は、毎月1万円づつ善意の寄付を続けてくださった。これらはいずれも、この市民運動の灯を灯しつづけなくてはいけないという市民の心からの善意の賜物であった。</p>

<p>　会長の筒井も歴史研究者という立場から、スミス記念堂の保存運動をもっと広い近代化過程の中に位置付けた史蹟・文化財の問題、すなわち近代化を特徴づける建造物・史蹟等を総括した近代化遺産の問題として、その保存活用のあり方を捕らえ返すための研究活動を深めていった。滋賀大学月報表紙「近江ゆかりの近代化遺産」の連載を続けながら県下各地の近代化遺産を実地に見聞して回っていたが、平成10年・11年度に滋賀県教育委員会が行った「滋賀県近代化遺産総合調査」に、「保存する会」の一員でもあった滋賀県立大学（当時）の石田潤一郎氏（建築学）を始めとする他の多くの専門家（産業考古学、土木学等）とともに参加する機会を得、より専門的な見地から県下の近代化遺産の調査に従事する事ができた。その調査報告書は平成12年3月に刊行されている４）。</p>

<p>　また平成12年（2000）7月には、そうした調査研究の成果も取り入れて、京都民科歴史部会の大会報告において「地域史のなかの近代化遺産」をテーマに報告し、彦根城周辺に多様に残る近代化遺産の紹介とその一つであるスミス記念堂の保存運動を広く学会員に紹介した５）。続く12年秋からの彦根市教育委員会主催の生涯学習通信講座「歴史発見　彦根ゆかりの近代化遺産」を担当し、50名余の受講生に対し５つのテーマに分けて彦根の近代化遺産の建築的特長や建設の歴史的背景を解説し、スミス記念堂の保存活用の意義と運動の経緯等についてもあわせて報告した６）。</p>

<p>　こうした活動を行いながら時は早平成13年を迎え、市民病院の移転は翌14年に迫っていた。会員達が当初より望んでいたその跡地の利用検討委員会も市民からの公募委員も含めていよいよ８月にスタートした。ここに及んで、「保存する会」では改めて一致団結して当初からの希望である市民病院跡地での記念堂の再建を求めていくことを確認し、市側にこの旨を伝えるとともに、10月には跡地検討委員会にスミス記念堂を市民のための諸施設の一つとしてぜひ活用していただきたい旨の意見書を提出した。この時点で、市が提示してくれていた俳遊館隣地については、その好意に大いなる感謝を示しつつ正式に辞退申し上げた。</p>

<p>　「保存する会」ではさらに、史談会やワイズメンクラブ等の主催する講演会等で、彦根城周辺に残る様々な近代化遺産と町づくりをテーマに講演する機会を得、その場でスミス記念堂の市民病院跡地での保存活用も併せ訴え、一人でも多くの市民の賛同を得るための活動を展開していった。公開で行われた跡地検討委員会にも「保存する会」のメンバーが必ず傍聴に行きその議論の行方を真剣に見守った。</p>

<p>　このような活動が奏効したのか、10月23日第3回市民病院跡地利用検討委員会のもとで開かれた市内各団体からの意見聴取会においては、彦根市ボランティア団体連絡協議会・彦根文化連盟・彦根夢京橋商店街振興組合の３団体から、病院跡地利用でのスミス記念堂の移築活用を望む意見が文書で明記されて表明された。今やスミス記念堂の移築活用問題は、市民病院病院跡地を利用した新たなまちづくりをどのようなものにしていくのかという大きな問題として広く彦根市民一般が関心を寄せる事柄となった。</p>

<p>　こうして市民レベルでこの問題への関心が高まり行くなか、翌平成14年(2002)2月17日に行われた7回目の最終検討委員会では、彦根市長に提出すべき跡地利用に関する答申書の内容が検討され、スミス記念堂の移築活用に関しては、複数の委員が要望を表明して、答申書に具体的利用例としてカッコ書きで答申書に明記される旨が申し合わされた。地元紙『近江同盟新聞』もこれをもって「跡地の一角にスミス記念堂が移築される見通しは濃厚と思われる」（2月18日）と報じた。</p>

<p>　そしてついに2月28日、「跡地利用検討委員会」より彦根市長に「跡地利用基本計画の基本となるべき事項について」と題する答申書が提出された。そこでは「彦根の歴史文化を学習・体験する交流の場」の整備内容と施設イメージの具体例として、「スミス記念堂の移築活用」の文言が固有名詞として唯一特例的に明記された。</p>

<p>　これを受けて「保存する会」では、彦根市長と市議会議長あてに、この市民の声を集約した答申書を最大限に高く評価する立場から、スミス記念堂の市民病院への移築を改めて強く求める旨の要望書を提出した。ここにようやく、当初よりの念願の地である市民病院跡地への移築がより実現可能性を増した形で立ち現れてきたのであった。 　</p>

<p>◆平成14年3月〜16年3月（現在）までーＮＰＯスミス会議の立上げから恒久的移築地確保までー<br />
　この秋には、この答申を受けて市が病院跡地の具体的利用方針を打ち出すであろうといわれ、「保存する会」でもそれに標準をあわせてこの運動の意義を、彦根に多様に残る近代化遺産の保存活用問題の一環として今一度市民に向けてアピールすることを企図していた。14年度(2002)の滋賀大経済学部産業共同研究センター主催のフォーラムにおいて、筒井は「彦根の近代化遺産」と「近代化遺産を生かした彦根のまちづくりを考えるースミス記念堂の保存再建運動を中心にー」というテーマで、9月と10月の２回に分けてフォーラム開催の機会を得た。また11月に開かれた観光まちづくりをめぐる記念シンポジウムにおいてもスミス記念堂の保存活用をめぐる市民運動の実践について報告することができた。</p>

<p>　こうした取り組みはなされたのであるが、保存運動の進展にとって憂慮すべき状況もあらわになりつつあった。その一つは、上記の産研センター主催フォーラムの参加者は2回とも30名台というきわめて少人数にとどまっていたことである。これまで「保存する会」が主催した講演会やフォーラムなどでは参加者は常に100名以上、多い時には200名以上に達していたからである。これは、このフォーラムに向けた「保存する会」側での宣伝等広報活動がほとんど行われなかったこと、また病院跡地利用に関する答申のなかにスミス記念堂が盛り込まれたことから、「保存する会」のメンバーには一種の安堵感とこれまで運動を継続してきた疲労が重なり、活発な動きが見られなかったことによるものであろう。ここには、「保存する会」が会員有志のヴォランティア活動によって支えられ、きちんとした事務局のもとで広報・啓蒙活動が取られる体制が整えられていなかったという脆弱な組織面での体質が露呈したとも言える。</p>

<p>　いま一つは、この秋にも発表されるのではないかと期待されていた市の跡地利用の具体的方針は依然として明らかにされず、むしろ財政赤字の深刻化のなかで旧市民病院の建物は取り壊さずに他の利用に供すべきであるといった意見が市役所内外で囁かれるようになってきたことであり、せっかく提出された跡地利用のための答申が反故にされてしまうのではないかという不透明な雰囲気が漂いはじめていたことである。</p>

<p>　こうして状況の不透明化と運動する側での主体的力量の低下という不安定要因がふたたび保存運動の前途に立ちはだかろうとしていたのである。それを打ち破り、運動をさらに高次の段階に引き上げる力が市民の中から立ち現れてきた。それは彦根の中堅の企業家達が組織した「彦根経済イノヴェーション会議」（HEIM）という団体で、今後の企業経営革新や地域経済・文化振興等をはかるための活動を精力的に志向しているグループであった。彼らは彦根の経済の中核を担うだけでなく、かつてＪＣの中心的メンバーとして『全国城下町シンポジウム』7)の開催といった彦根の特性を活かしたまちつくり活動を精力的に展開してきた人々でもあった。</p>

<p>　そのリーダーの一人である小出英樹氏からHEIMが企画する経済問題の学習会の講師依頼を筒井が受けたところから、「保存する会」とHEIMとの接点が生まれた。小出氏等は、積極的にスミス記念堂の保存運動への協力を申し出られ、「保存する会」もまたこれまでの運動の経緯と到達点を話し、事務局が定まらないという組織の持つ脆弱面をも説明した。両者の間で協議が進められた結果、この運動は単なる文化財建造物の保存にとどまらず今後の彦根のまちおこしの起爆剤になりうる大きな可能性を秘めているという認識で一致し、それを現実のものにするには、組織をより強固にし、運営をより開かれた明確なものとして、さらに多くの市民に運動の輪を広げていくことが必用で、そのためにはこれまでの任意団体である「保存する会」を発展的に解消して、きちんとした事務局を備えた特定非営利活動法人＝ＮＰＯを立ち上げることが不可欠であるという結論に達した。</p>

<p>　ＮＰＯの名称は、様々な市民がスミス記念堂を核としたまちづくりという理念のもとに出会い、知恵と力を出し合って衆議を尽くして運動をすすめていくという思いを込めて「スミス会議（Smith Meeting）」とし、設立総会を平成15年6月14日に開催することができた。その目的には、「滋賀県彦根市及びその周辺に存在する文化財的価値の高い建築物及び構築物を保存・再築・維持するとともに、当該建築物等の周辺地域のまちづくりに関する事業を行い、もって滋賀県彦根市及びその周辺の地域性を活かした個性あるまちづくりに寄与すること」が掲げられた。具体的事業としては、文化財的価値を有する建築物及び構築物の調査、保存、再築及び維持と運営、そうした建造物に関する市民への啓発、それらに関する書籍の発行及びインターネットを活用した情報発信、さらに青少年を含む市民への歴史・文化・経済・人物・特産物等に関するセミナー等の開催と国際協力活動の積極的推進を掲げたのである。いずれもかつてスミス氏が記念堂を核に行っていた、文化活動・社会教育活動や国際交流の活動を踏まえ、それを現代的なまちつくりの課題に発展させたものであった。ＮＰＯスミス会議の役員は以下のようなメンバーでスタートした。</p>

<p>　理事長　　　筒井正夫（滋賀大学経済学部）<br />
　副理事長　　森　將豪（滋賀大学経済学部）<br />
　副理事長　　小出英樹（キントー社長）<br />
　副理事長　　木村泰造（木村水産社長）<br />
　　　理事　　辻　博史（辻法律事務所副社長）<br />
　　　理事　　田中由一（田中印刷社長）<br />
　　　理事　　片岡哲司（双葉荘社長）<br />
　　　理事　　野路井宏之（北野野寺住職）<br />
　　　理事　　宮川弘（八幡高等工業学校教諭）<br />
　　　理事　　大舘路子（大舘古美術店店主）<br />
　　　理事　　杉原正樹（北風写真館社長）<br />
　　　理事　　田島一成（衆議院議員）<br />
　　　理事　　谷口典隆（彦根市議会議員）<br />
　　　監事　　北村昌造（彦根商工会議所会頭、栄昌堂印刷社長）<br />
　　　監事　　大森修太郎（元彦根商工会議所専務理事、中央パーキング社長）</p>

<p>　こうした陣容を得てＮＰＯスミス会議は、「保存する会」の時とは明らかに段階を画する強固な運動体として生まれ変わった。第一に、法律事務所を構える辻博史事務局長のもとに事務局が置かれ、恒常的に事務・会計管理と組織統括が図られるようになったことである。第二に、印刷業を営む田中由一氏と雑誌編集出版業を営む杉原正樹氏が広報を担当することで、スミス会議からの情報発信が格段とスムーズ且広範囲に行われるようになったことである。第三に、結集した多彩な人々が広範囲にわたる人脈を形成し、行政―経済界―大学の連携が以前にもまして強固になったことで、より多くの市民層や行政当局に強い影響力を与えるようになったことである。</p>

<p>　このような新たな組織のもとスミス会議は次のような活動を展開していった。</p>

<p>　第一に、主に広報担当者が主導して、インターネット上でのホームページ開設、ニューズレターやメールマガジンの発行、さらに広告や地元紙上での宣伝活動等が精力的に展開されて、ＮＰＯスミス会議の目的と活動内容が逐一正確に広い市民に伝えられていったことである。</p>

<p>　第二に、戦前の新聞雑誌等の資料調査を通じてスミス氏の社会的活動や国際交流活動の実態がより深く解明されたばかりでなく、スミス記念堂以外の多様な近代化遺産の調査・発掘作業がすすめられてこの運動が単にスミス記念堂の保存活用ばかりでなく広く近代化遺産の保存活用によるまちおこし運動へと発展していったことである。まずヴィジュアルな絵地図に簡潔な解説を付した「彦根近代化遺産マップ」が作成され、正会員や会員・市会議員を対象にした例会ではそうしたマップ等を用いて「近代化遺産の学習会」が開催された。さらに10月26日に行われたＮＰＯスミス会議認証記念のオープンセミナーでは、スクリーン上に映された近代化遺産の解説が建築上また歴史社会的背景から説き起こされるとともに、彦根に数多く残る近代広告史を彩る近代化遺産として秀逸なデザインと彩色に富んだ引札の展示会も開催された。さらに、県立大学の学生たちによってスミス記念堂をスミス氏とともに造り上げた彦根の大工宮川庄助氏の人と生涯が、生きた聞き取りの成果をもとに明らかにされた。こうして、スミス記念堂を始めとする近代化遺産が、彦根の近代史の生き証人であり、それを深く知ることで彦根への愛着と誇りを獲得し、明日のまちおこしにも活用できる宝なのだという認識が人々の中に深まっていったのである。</p>

<p>　第三に、こうして運動が大きな広がりをもって前進する中でスミス記念堂の移築地の具体的な確保がなされたことである。市では、助役を中心に各部署の責任者を配した市民病院跡地検討委員会を内部に設けてその検討に入っていたが、スミス会議では、担当者に幾度の交渉を求め、14年２月に出された答申どうりにスミス記念堂を市民病院跡地の中で活用してもらいたい旨を訴え、特に、全体の跡地利用に大きな支障の出ない看護婦宿舎跡地の提供を強く求めた。そしてついに、市は、平成16年(2004)1月７日、記者会見を開いて市民病院の跡地利用の基本方針を明らかにし、看護婦宿舎跡地については「再建へ向け市民活動が本格化しているスミス記念礼拝堂（スミス記念堂）の建設地として考えられる」と明言したのである。</p>

<p>　ここに幾多の変遷と葛藤を経たスミス記念堂の移築先の確保という難題が、「保存する会」設立時からの長年の宿願の地である、濠端沿いの看護婦宿舎跡地という最もまちおこしの展開のために理想的な土地を与えられて解決を見たのである。こうした成果をもたらす上で、市当局と粘り強い交渉に当たった小出英樹氏・木村泰造氏・森將豪氏並びにスミス会議の市議会議員の方々の並々ならぬ努力とそれらを支えた事務局並びに広報担当者達、これに対し今後のまちおこしの発展という大局的観点から見事に応えてくださった市当局の皆様の決断に、改めて深甚の感謝の意を表すものである。 </p>

<p>まとめにかえて<br />
　以上スミス記念堂の保存運動の経緯を見てきたが、ここでこの運動の特徴をまとめておこう。</p>

<p>　第一にこの運動は、彦根城の形状を随所に取り入れた伝統的な日本建築であるスミス記念堂という本物の文化財建築物を都市開発による破壊から守り、彦根の濠端の美しい歴史的景観を後世に残すことを目指したものである。思えば高度経済成長期以降、大規模で無秩序な都市開発によってどれだけ美しい歴史的景観が損なわれ、貴重な建築文化財が失われてきたことだろうか。スミス記念堂を残すことは、そうした社会風潮に抗し、真に歴史的伝統に裏打ちされた文化的重みのある都市景観を形成していこうという市民運動にほかならない。しかも戦前昭和恐慌という困難な時代に、日本および彦根の文化とそこに暮らす人々をこよなく愛し、死してなお遺骨や遺髪を彦根に残した外国人が、私財を投げ打って建てた美しい日本建築を、戦後の日本人がその価値も恩も忘れて葬り去ることなどできようか、そんな思いが人々を駆り立てていったのである。</p>

<p>　第二に、スミス記念堂を単に伝統的な建築物とだけ捉えるのではなく、明治以降の近代化の過程で形成された近代化遺産の一つであると把握することにより、彦根城周辺に多様に残る貴重な近代化遺産の保存活用のための運動として発展していったことである。この中で、彦根という地は桜田門外の変による直弼暗殺以降停滞を余儀なくされたという誤った歴史認識から脱して、産業・交通・教育・文化等さまざまな分野で貴重な近代化の推進がなされたことが明らかとなり、それが具体的な建造物への着眼を通して市民の生きた歴史意識となり、現代につながる郷土への誇りとなって徐々に定着していったのである。</p>

<p>　第三に、この運動が掲げた、スミス記念堂の建設にこめられた東西両文化の相互尊敬、平和祈願、国際交流、親子愛の尊重といった精神が多くの人々の共感を呼んだことである。自国の文化への愛着を欠いたグローバリズムという名に隠された欧米礼賛主義でもなく、その反発からくるすべて丸呑みで日本を賛美する国粋主義でもなく、自国の伝統文化の尊重の上に立脚した欧米とアジアをともに固有の価値あるものとして相互に尊敬する精神こそスミス氏から学びうる貴重な財産であり、それこそ民族紛争がいまだに絶えず、家庭や地域の崩壊現象を日々目の当たりにしているこの世界で、ぜひとも必要なものだと人々が感じ取り、一つの平和運動としてこの運動が捉えられていったことである。スミス記念堂はそこうした精神が美しい建物として具現化したものであり、この建物を守ることはそこに込められた精神を守ることであるという意識を多くの人々が共有できたことが貴重である。</p>

<p>　第四に、この運動が単なる歴史上の文化財の保護を目的としただけではなくて、そこに込められた精神を将来の町づくりに生かすことが重視され、さらに広く存在する多様な近代化遺産を含めて、地域の歴史と誇りを探り、国際交流や文化活動・生涯学習といった今日的事業のための核として活用していくことが企図されたことが指摘できよう。この運動が市民による市民のためのまちづくり運動として進展した所以である。こうした性格を持ちえたからこそ、彦根市も当初の方針を変更して、市民参加のまちづくりの一環として「保存する会」やＮＰＯスミス会議の要望にも前向きに応えていくことができたのである。</p>

<p>　第五に、この運動では、従来の「保存運動」や「市民運動」なるものに往々にして見られるように行政当局の政策を厳しく批判する一方で、当然のごとく移築のための用地も費用補助も管理運営の面倒までも丸抱えで要求するといった、官に頼りきった運動のあり方ではなく、土地のみは公的な要素が重要なため市の用地提供を求めるが、移築費は自ら募金等によって捻出し、移築後の管理運営にも自ら責任を持って関っていこうという、自立・自助・連帯の精神を持って推進された点である。低成長下の経済状態の中で、財政赤字に呻吟する地方や国の援助に安易に依存するのではなく、行政当局と協力を図りつつも市民自らの汗と力と知恵で既存建造物の再評価と再利用をはかり、まちづくりに資していこうとするところにこの運動の特徴が見出せる。</p>

<p>　第六に、この運動には実に多様な市民層が参加したが、その各々が専門領域や独自のネットワークを活かした活動を展開した点である。市会議員や県会議員等の政治家は、議会での要望・質問、行政当局との折衝に大いに力を発揮し、新聞記者を始めとするマスコミ関係者や印刷出版に携わるもの達は、運動の経過や意義、到達点をあらゆる報道媒体を用いて逐一報道し、この運動の意義と経緯を広く市民に知らしめる役割を果たした。建築家は、貴重な文化財建造物の専門的評価ならびに解体撤去から移築にいたる技術とノウハウを提供してくれた。幸い彦根には伝統的建造物を専門領域とする優れた建築家が存在し、このことが保存運動の確固たる支えとなった。まちづくりに熱心な企業家たちはこの運動の発展を物心両面から支え、ＮＰＯという強力な組織体を生み出す原動力となった。また茶人・華人・商店主・宗教家等は、日常的な幅広い文化的・人的ネットワークを通じて運動の広がりを図るのに貢献した。熱心な主婦層もまた市民層への草の根のネットワークを活かして常に運動の下支えとなった。そして大学人は、運動の理念を明確にし、方向性を確定するとともに、市民の日常的な利害関係から自由な立場にいたために、多様な市民層の利害を調節し各々の得意分野を生かしながら全体を一つに束ねるのに一定の役割を果たすことができたといえよう。</p>

<p>　上記のような7年間に及んだ市民運動の結果、平成16年1月ようやくスミス記念堂の恒久的移築地は濠端の彦根城を望める旧市民病院看護婦宿舎跡地と決定した。ＮＰＯスミス会議のメンバーは現在400名近くに達し、集められた募金は900万円強に達している。</p>

<p>　しかし、この事業の本格的な展開はむしろこれからである。5000万円以上を要する移築再建費用を集め、美しい濠端の地にスミス記念堂を多くの市民が集い憩える場として蘇らせ、生涯学習・文化・国際交流といった真に市民にとって必要な事業を市民が主体となって運営できるような組織と体制を構築してゆかねばならない。さらに彦根城周辺に残る他の価値ある近代化遺産等の建造物や優れた景観の保全と現代的な活用もスミス会議が目指すまちつくりの一環である。その実現のためには、これまで以上に多くの有為ある市民の力が必要である。</p>

<p>　これからも幾多の困難が待ち受けているだろうが、私は決して悲観していない。これまでもそうであったように、これからもまた多様な市民が知恵と力を出し合い、協力し合ってゆけば必ずや乗り越えられると信じているからである。</p>

<p>　歴史を知り、歴史に学び、それを真に誇りうる郷土の創造に結びつけていくことが、今我々に課されているのである。</p>

<p>追記<br />
　今回の報告では、議会質問等をなされた政治家の方々の氏名や解体に携わられた業者名などは、伏せさせていただいた。いずれ、この移築再建運動が完成した暁に、改めて公表させていただこうと思う。御寛恕を請いたい。</p>

<p>※NPOスミス会議については以下を参照されたい。 <br />
　 URL：http://www.smith-meeting.com/ <br />
　 e-mail：ml@smith-meeting.com </p>

<p>注 <br />
１)　以下のスミス記念礼拝堂についての建築の特徴、由来、スミス氏の略歴･思想・人柄等については、『スミス先生の思い出』玉川学園出版部、昭和29年による。<br />
2) 松波秀子「昭和初期における日本聖公会の和風教会堂建築について」『日本建築学会大会学術講演　　集』平成4年8月・同5年9月　　<br />
3) 宮本順三『ぼくは豆玩』1991年、山三化学工業株式会社、51頁。 <br />
4) 　滋賀県教育委員会『滋賀県の近代化遺産』（寺西正裕・石田潤一郎・筒井正夫・神吉和夫・三宅宏司・村上康蔵執筆）平成12年。 <br />
5) 「地域史のなかの近代化遺産」『新しい歴史学のために』Ｎo.245号、2002．２。 <br />
6) 筒井正夫「歴史発見講座　彦根ゆかりの近代化遺産」テキストT〜X、彦根市教育委員会、平成12年。<br />
7) 例えば、その活動の一端は、彦根青年会議所編『まちづくりゲームOLD＆NEW』1989 　年、株式会社ぎょうせい発行、となってまとめられている。 　 <br />
<hr><br />
（筒井正夫　プロフィール）<br />
1955年横浜生まれ。一橋大学大学院後期博士課程終了、現在、滋賀大学経済学部教授。専門、日本近代史。近代日本地域社会の経済・社会・政治・文化の研究。その他、近代化遺産の研究・保存運動にも従事。彦根市史、高月町史、愛知川町史等に従事。 </p>]]>
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<title>八世代先見据えた森作りを</title>
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<modified>2005-03-25T13:27:41Z</modified>
<issued>2005-03-10T06:05:54Z</issued>
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<summary type="text/plain">「哲学者」と聞いて、私たちはある種、固定したイメージを抱きがちだ。だが今の時代、...</summary>
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<dc:subject>uchiyama</dc:subject>
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<![CDATA[<p>「哲学者」と聞いて、私たちはある種、固定したイメージを抱きがちだ。だが今の時代、人里離れた山村に暮らし、自ら畑を耕作しながら思索する哲学者の姿をイメージするのは難しいかもしれない。内山節（たかし）さんは、東京のほか群馬県の上野村に生活の拠点を置いて、生きる人間の視点から思索を続ける実践的哲学者だ。現在、立教大学大学院教授として教鞭を執るほか「文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議」の共同代表として、神社仏閣の木造建築を未来に受け継いでいくために不可欠な樹木の育成プロジェクトに取り組んでいる。　 （聞き手＝山本伸裕記者） </p>]]>
<![CDATA[<h3 align=center>〜　内山 節氏（哲学者・当会共同代表）のインタビュー　〜</h3>
<h4 align=right>(2004年７月10日『中外日報』より転載)</h4>

<p>――哲学者でありながら、村での「半定住」生活を続けられているというのはユニークですね。</p>

<p><br />
内山　私が群馬県の上野村にもうひとつの拠点をもつようになったのは七〇年代の前半あたりからで、以来東京と上野村を行ったり来たりする生活を送っています。今は一年のうち、東京と村とその他の場所とでそれぞれ三分の一ずつくらいでしょうか。</p>

<p>――そうした生活を決意するようになった経緯を教えてください。</p>

<p>内山　生まれは戦後の住宅地の一角、東京の世田谷なんです。新興住宅地でしたから周囲には古い言葉でいう「俸給生活者」が非常に多い。特に戦後の高度成長期というのはサラリーマン的価値観で一色に塗りつぶされていったような時代ですね。子供に対しては高学歴志向をもち、いい企業いい職場に就職していくのを理想としていた時代。そうした雰囲気の充満した街の中で暮らしていましたから、戦後社会の中で思考力を失っていく人々の姿がよく見えた。親たちの話っていうのは偏差値がどうだの、どこの高校に入るだのそんな話ばっかりでしたからね。でも、人間にはほかにもたくさん考えるべきことはあるわけで、もっと人間に力があって生き生きしている世界があるはずだ。そういう思いを中学生のころからでしょうか、抱き続けていたんですね。</p>

<p>　私は釣りを趣味にしていましたから、よく山間地域なんかに出かけて行きました。そうすると、そこには実に絵になっている人たちの姿がある。そうした人たちの姿が私にはある種の憧れでもあった。 　そんなことを感じているうちにたまたま群馬県の上野村に釣りに行ったんです。そこは見事なまでに「素晴らしき寒村」で、私はこの村に自然の風景と労働の情景が重なり合う情景を見つけだしたんですね。</p>

<p>――当然、今の生活のあり方と内山さんの哲学は密接に結びついているわけですね。</p>

<p>内山　哲学に限ったことではないんですが、学問というのは観察者の目でものを見ることを要求してきます。観察者の高みに立って客観的にものを見るという姿勢を要求してくる。私にはそうした学問のあり方に不満があって、つまり観察されている側の人たちのものの見方とか考え方とか、そこから組み立てられていく学問というものがあって当然だという思いがありました。経験がなければ出発していくことのできない学問、そういった学問のあり方に私は関心があったんです。 </p>

<p>――それで身をもって村の生活を経験してみようということに？</p>

<p>内山　本当に経験するということはできないのかもしれないですけど、実際に自分の身をその中に置いてみる。内部からものを見て考えていくということを擬似的にでもいいからやっていかないといけない。そうした気持があったし、今もあるということです。哲学というのは本来そういうものだったはずなんです。</p>

<p>――その言葉の通り、内山さんは思索者であると同時にさまざまな実践的な活動にも携わっていらっしゃいます。</p>

<p>内山　ＮＰＯ（非営利団体）的な活動などにもいくつかかかわっています。その中のひとつ、これはＮＰＯではないが、「文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議」というものを約二年前に立ち上げまして、将来の神社仏閣の建築材の供給に必要な森を育てるという取り組みをしています。</p>

<p>――その取り組みについて詳しく教えてください。</p>

<p>内山　木造建築の場合、周期的に補修をしていく必要があります。場合によっては建物すべてを解体して土台から作り直していかなくてはいけない。たとえば法隆寺ですと三百年に一度くらい大改修をやらなくてはならない。法隆寺はそうやって千年以上保たれてきているわけです。だからその背景には森で育ってきた三百年の木があり、千年を超える技術の伝承がある。つまりそこには永遠の時間が形成されているということです。</p>

<p>　昔の人というのは千年くらいの単位、あるいは永遠の世界でものを考えたり行動したりすることが案外できたんですね。ところが現代というのは、永遠どころか十年先もわからない。私たちは今年とかせいぜい来年の計画とかに追われて暮らしているだけで、千年の発想、まして永遠の発想などできなくなってしまった。</p>

<p>　木造建築の文化財を考えていく場合、この先数百年とか千年とかの時間単位でそういったものを支え続けていこうとする精神が失われてしまう。ある程度長持ちする木造建築、それが普通の住宅であっても樹齢百年くらいの木がほしい。文化財に使われているようなものとなると、最低でも樹齢二百五十年くらいの木がほしくなるんです。特に神社仏閣の大きな建築には柱にものすごい重量がかかっているわけで、あれだけの重量を支えるためには充分な強度をもった檜が必要です。 </p>

<p>――とすると天然林で育ったような木でないと使いものにならないということでしょうか？</p>

<p>内山　もともとは天然林の木を使ってきたんです。ところが、今は檜を天然で出せる場所というと木曽しかない。その木曽にも大きな木はないというのが現状です。だから、これからは否応なく人工林の木を使わざるを得ない。天然林で育った木の場合、人工林で育った木に比べて非常に木目が詰まっています。昔使っていた文化財の木というのは、一ミリの間に木目が三本くらいある。そういった木をこれから文化財のために安定的に提供していける森は、日本にはもうないと言ってしまっていいでしょう。</p>

<p>　それは人間が木を切ってしまったからという言い方もできますが、もうひとつは人間はもう二百五十年なんていう長い時間とつきあっていくことができなくなっているんですね。もっというと、五十年、百年ですらつきあうことができない。そういう社会に変わってきている。そうした社会の中で二百五十年の木をどうやって残していくか。私たちの課題です。</p>

<p>――二百五十年といえば、約八世代先の仕事ということになりますね。</p>

<p>内山　一般の人々がそのような長い時間を保証することなんてほとんど無理です。では国家にその保証をしてもらうのはどうだという意見は案としてはあるんです。けれど国家でさえこの先二百五十年存続するかというと、そうそう楽観視はできない。そのような長い時間を保証できるところはもはや神社仏閣のような世界にしかないんです。 </p>

<hr>

<p>■　内山　節 （うちやまたかし） </p>

<p>昭和二十五年東京生まれ。哲学者。立教大学大学院教授。ＮＰＯ法人「森づくりフォーラム」代表理事。著書に『時間についての十二章』（1993　岩波書店）『貨幣の思想史』（1997　新潮社）『哲学の冒険』（1999　平凡社ライブラリー）『里の在処』（2001　新潮社）など多数。 </p>]]>
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<title>歴史的建造物の保存に、今なにが必要か</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.bunkaisan.jp/articles/archives/2005/03/post_3.php" />
<modified>2005-03-25T13:27:41Z</modified>
<issued>2005-03-09T06:08:23Z</issued>
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<![CDATA[<p>　このところ、我国の森林についての議論が盛んである。シンポジュームやセミナー等があちらこちらで開催されているし、それに関する記事を、新聞、雑誌、テレビ等々でよく耳にし、目にもする。</p>

<p>　それは外国産木材に圧され、国産材が売れなくなっていることが根本的な原因のようである。伐採しても採算がとれない間伐採、価値を失った山での労働、都市文明への知識の偏向。つまり今、日本の森は放置される危機にあるという。檜と杉の単一木を一斉に植林し、四十年で一斉に代採する、経済市場原理に基づく山づくりのつけが今問われているのであろう。</p>]]>
<![CDATA[<p>　これからの「森の再生」が模索される今、我々が携わっている文化財建造物保護の世界に目が向けられている。二百年、三百年先の文化財修理用資材を供給する森。つまり超長伐期の森づくりの象徴として引き合いにだされるのである。</p>

<p>　一方、その文化財建造物の世界も大きな課題を抱えている。それは修理用資材が不足していることである。現在指定されている三千八百余棟の国宝・重要文化財の九割は木造であり、それらは風雨にさらされ、また地震、台風等の災害や虫害の被害を受ける宿命を持っている。</p>

<p>　従って、歴史的建造物を長く維持保存していくためには、どうしても、必要な時期における、適正な修理が欠かせないのである。だから我々修理技術者の存在もまた必要とされている。</p>

<p>　ところで、我々は文化財修理における基本的な理念を持っている。それは、建造物の形、用いられている材料、工法、そして環境をオリジナルと違ったものに変えないことである。この四つの要素のうち、特に、形と環境については、現状変更という厳しい手続きを経なければならないが、その他についても監視の目を厳しく、これらは厳格に守られているといって良い。</p>

<p>　明治三十年発布の「古社寺保存法」以来、これまで永々と保存修理が続けられてきた。古代、中世の社寺建築に始まり、近世、明治建築と移ってきたが、古建築に使われている木材をみると、鎌倉時代までは檜が圧倒的に多く、その後は文化財建造物の対象の拡大とともに、工具の発達と相まって、地産地消が顕著となった。その土地の良質な資材が使われるようになったのである。欅づくり、ヒバづくり、栂づくり等がそれである。</p>

<p>　さらに近世になると、長押・天井板・床柱は杉、鴨居・小屋梁は松、あるいは敷居を桜に等、木材は適材適所に使われるようになった。現在の修理は近世社寺建築中心から、近代和風建築、近代化遺産に変わろうとしている時期にある。以上のことで解るように、最近の文化財修理には多種多様な木材が最も必要とされているのである。ところが今の我国の森や里山に、応える能力はないようだ。</p>

<p>　文化財建造物の課題は修理用資材の不足にあると述べた。この代表として檜皮がよく取りあげられる。確かに昭和三十四年の伊勢湾台風、同三十七年の第二室戸台風で被害を受けた建物の屋根の修理が現に待たされているのである。このことのシンポジュームや危機を訴えた記事もよく見かける。</p>

<p>　また、大径材についても、品質の低下、納期の遅れ、乾燥の問題等。特に、松の大径材については危機的状況にある。入手が困難なため、しかたなく他の材種に、あるいは外国産に変更したりする例があった。修理の基本理念を脅かすまでにきていると言えよう。檜皮や大径材等の資材は不足していると言ってもいいかも知れない。</p>

<p>　他の資材はどうであろうか。国産漆は価格の面から外国産に淘汰され青息吐息であることは広く知られている。茅は地元の良く管理された茅場から供給されることがなくなり、品質が大きな問題となっている。</p>

<p>　こうしてひとつひとつの資材の現状を精査すると、すべての資材が供給不足として統括することはできないようだ。むしろ、資材それぞれに固有の課題をかかえていると整理したほうがいいかも知れない。しかし、さらにじっくり追求すると、共通したものが見えてくる。結論を急ぐため詳しい説明は避け、課題を整理してみよう。</p>

<p>一、　資材の品質が近年著しく劣化していること。<br />
二、　修理用資材の生産、流通に関する情報が滞っていること。<br />
三、　施工に要するコストが高くなってきたこと。<br />
四、　生産、施工に競争原理が働かず、技術の低下が見られること。</p>

<p>　共通点はこの四つにまとめることができる。さらに課題を探っていくと、行き場を失って、文化財に収斂するしかない伝統技術の姿が見えてくるのである。</p>

<p>対策はあるのだろうか。茅を例にとってみよう。昭和四十年ぐらいまでは、地域の人々によって良く管理された茅場があり、そこから良質なものだけが供給された。つまり、二、三年に一度は火入れされ、毎年共同で刈り取られる。虫のいない、均質のものができる茅場のことである。施工も「結」の制度があって、地域住民による相互扶助があった。つまり、労働は地域のなかで共有と交換が行われていたのである。</p>

<p>　だから施工に要する費用は安価であったし、また用いられる資材は良質なものであった。さらに茅を葺く職人にとっては適当な競争があり、技術を怠ることはできなかったのである。</p>

<p>　このことから茅を取り巻く課題解決の鍵がボランティアや地域共同体が参加する、地域社会のシステムの再構築にあるのではないかと気づく。もちろんそれは、伝統文化が重んじられる共同体であらねばならない。人々は歴史を軽視したことで限りなく傲慢になった四十年代以降の自分を知っているはずであるから。他の資材もそれぞれ解決の道はあるだろう。それは多分どれだけ裾野を広げられるかにかかっているように思う。</p>

<p>　我国の国土は世界では群を抜く森林率である。先進国では特異な存在だという。日本人のアイデンティティの一つは、何万年も育まれてきた森にあるに違いない。それにもかかわらず、植物性資材とそれを採取、加工、施工する伝統技術に危機がある。このことは昭和五十年頃からずっと議論されてきたが、今、漸く森と、木の文化を代表する文化財建造物との関係が関連して語られはじめている。</p>

<p>　現代の人類における最大の課題は“いかに持続可能な社会をつくっていくか”にあると言われている。日本の森と文化財のもつ課題がそれぞれ解決された時は、歴史と文化に価値を見い出し、そして環境保全に優れた、資源循環型社会システムの先駆的モデルが構築されたことになるのではないかと思うのだが。</p>

<p>　　　　　　社寺建造物美術協議会編集 H16.6.30発行「すいかずら」第１２号より </p>]]>
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<title>世界文化遺産と保存専門家の自己啓発</title>
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<modified>2005-03-25T13:30:07Z</modified>
<issued>2005-03-08T13:27:56Z</issued>
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<summary type="text/plain">　今日文化遺産保護の分野における最大の話題は、世界遺産に関するユネスコの事業であ...</summary>
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<dc:subject>ito</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　今日文化遺産保護の分野における最大の話題は、世界遺産に関するユネスコの事業であろう。世界遺産とは、「世界遺産条約」の規定により、世界遺産一覧表に登載された記念工作物・建造物群・遺跡及び自然環境のことである。1972年の条約発効以来、世界遺産の数は順調に増加して、1999年末に登載された新規物件を加えると、630件に達しており、この内の約70％が文化遺産に属している。この文化遺産について話を進めてゆこう。</p>]]>
<![CDATA[<p>　世界遺産条約はユネスコの新しい行政制度であり、その効果は一覧表に登載された世界遺産を保護することに限られていて、他の通常の文化遺産、自然遺産に及ばない。にもかかわらず、世界遺産条約の理念は世界の総ての文化遺産の保護に適用可能であることを強調したいと思う。世界遺産条約は文化遺産保護の哲学及び実務の発展に新しい1ページを開いたと云っても過言ではないと考えている。世界遺産条約が｢人類共通の遺産｣という新しい理念を持ち込んだことだ。その後、世界遺産のシステムは、文化遺産保存の従来の方法に対し大きな変化を求めてきた。</p>

<p>　1994年、ユネスコ後援によるオーセンティシティに関する奈良会議が開催され、そこで採択された奈良文書の本質を掲げると、｢世界文化遺産は、地理上、気候上あるいは環境上の諸条件のような自然条件と文化的、歴史的背景との脈絡の中で保存されるべきであり、こうして、真の意味におけるオーセンティシティが守れる」ということであり、この原則に尽きると言えるだろう。ここに於いて、ベネチア憲章に明示された-元論的保存理念は大幅に修正されたのである。</p>

<p>　ここで、東アジアの人々に特になじみの深い木造建造物に関し、いかに保存の概念が変化したかを考えてみよう。木造建造物は材料が腐朽し易いために、規則的な間隔で大規模な保存工事を必要とする。これは、ヨ-ロッパでは普通である最小限保存措置法とは全く異なった保存法だ。ICOMOSは、この問題を長期間、その国際特別学術委員会に於いて討議し、遂に、1999年メキシコにおいて開催された総会で「歴史的木造建造物保存のための原則」を採択した。この原則のなかには、何らかの保存措置は、優先的に伝統的な手法に従い、且つ、ある-定条件の時には、保存のためには全部又は部分的な解体とそれに続く組立が必要であるということを、最小限の保存措置の意味に解することがあり得ると記述している。なんと素晴らしいベネチア憲章の修正ではないだろうか。我々は、他の材料でできた建造物に就いても同様に柔軟で実際的な原則の採択を望んでいる。</p>

<p>　このように、今や文化遺産保存のやり方の決定は、その文化遺産が所在する国の関係者による判定に大きくゆだねられている。特に、保存専門家の任務はますます大きくなっているのだ。保存のヨ-ロッパ的やり方が我々のものと如何に異なっていようとも、それは、前世紀以来獲得された経験の貴重な蓄積として尊重すべきである。言い方を変えれば、それは人類の英知の結晶とも云えよう。我々は、ベネチア憲章を読むとき、多くの重要な文言を見出すことができる。保存作業に従事する専門家は、充分寛大且つ意欲的にヨ-ロッパ方式から広い知識を求めなければならな い。</p>

<p>　今後、保存工事は、自然条件と文化的、歴史的背景に沿って行い、究極的には全国民、少なくとも文化人の総意に叶うようにしなければならないが、他方では、作業のやり方は、世界のさまざまな地方から来る人々が、理解できるものでなければならないだろう。特に、真摯な討議を通して、世界の保存専門家の間での充分なコンセンサスを得ることが最も重要であろう。</p>

<p>　この目標に向かい、保存専門家には絶え間ない自己啓発の努力が求められると同時に、同じ希望と悩みを共に持つ専門家の間での絶え間ない対話が必要である。</p>

<p>　私は、ユネスコ・アジア文化センタ-が奈良に文化遺産保護協力事務所を創設して、アジア太平洋地域の専門家の間の知的交流を推進することは時宜を得た事業であると確信している。奈良は、８世紀における日本の首都であり、今も世界遺産「古都奈良の文化財」をはじめとする文化遺産の集中地区である。加えて、奈良及びその周辺には、各種文化遺産の保存専門家が多く働いている。奈良はこの事業の推進に-番良い所なのだ。</p>

<p>　知識と経験を交換するに当たっては、教師と学生の区別を考慮することは必要でないだろう。総ての参加者は、或る場合には教師であり、他の場合には学生であるべきだ。こうして参加者は自己啓発を進めることが出来るだろう。 </p>

<hr>
（伊藤延男　プロフィール）
1925年生まれ。愛知県出身。1947年9月東京大学第一工学部建築学科卒業後、国立 博物館、文化財保護委員会、奈良国立文化財研究所、文化庁、東京文化財研究所に 勤務し、その間文化庁文化財保護部建造物課長、同文化財鑑査官、東京国立文化財 研究所長を歴任。平成元年から７年まで神戸芸術工科大学教授、平成11年より13年 まで（財）文化財建造物保存技術協会理事長。国際的にもイクロム（ローマ国際文 化財保存センター）日本政府代表、イコモス（国際記念物遺跡会議）執行委員、副 会長、同木の委員会副会長等をつとめる。 東京文化財研究所名誉研究員、神戸芸術工科大学名誉教授、（財）文化財建造物保 存技術協会顧問。 文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議代表。
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<title>21世紀の森林・林業政策の課題と展望 </title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.bunkaisan.jp/articles/archives/2005/03/21.php" />
<modified>2005-03-25T13:27:41Z</modified>
<issued>2005-03-07T06:15:11Z</issued>
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<summary type="text/plain">〜平成11年2月4日 岩手県一関市における第7回森林交付税フォーラムより〜  　...</summary>
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<dc:subject>furuhashi</dc:subject>
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<![CDATA[<p>〜平成11年2月4日 岩手県一関市における第7回森林交付税フォーラムより〜 </p>

<p>　ただいまご紹介をいただきました、古橋源六郎でございます。平成３年に和歌山県本宮町で、中山町長さんのご発想のもとで生まれましたこの森林交付税構想が、その後、森林交付税創設促進連盟による運動といたしまして全国的に広まり、昨日伺いますと、822の市町村にまで広がっておるということは、誠に同慶の至りでございます。</p>]]>
<![CDATA[<p>　私もかねてから、国土保全の見地から、そして地球規模におきます人類の安定の見地から、この山村振興という在り方について、何か見直しをしなければならないということでいろいろ考えておりました。そういうことでこの皆様方の運動に大変興味を持ち、かつ心強く見守ってきたところでございます。また、運動は平成５年には本宮町で第１回のフォーラムを開催され、その後平成７年、私もいろいろとご指導をいただきました黒澤群馬県上野村村長さんをヘッドとした調査研究専門委員会によります森林交付税の理論的な裏付けもございまして、フォーラムは回を重ねる毎に盛大を極め、本日に至っておりますことは誠に喜ばしく、心からお祝いを申しあげたいと存じ上げます。それと同時に、このようなところまで発展をさせてこられました森林交付税促進連盟の関係者の皆様方に、心から敬意を払うものでございます。そして、このように発展しつつある森林交付税フォーラムの第７回の大会におきまして、一昨年、林政審議会で答申をいたしましたけれども、その答申を踏まえまして、常日頃私が考えております森林政策、林業政策の一端を申し述べる機会をいただきましたことにつきまして、心から感謝を申しあげたいと思います。</p>

<p>　本日はレジメといたしまして資料、参考１、２というのをお配りしていると思います。その資料の参考１「わが故郷と明治の米」という所に書きましたように、私は東京生まれではございますけれども、終戦の年の昭和20年の12月、中学１年生の時でございましたけれども、私の伯父であります先代が死にまして、子供がありませんでしたので、私がその跡を継いだのであります。継いだ場所は愛知県の東北端にございます、奥三河の稲武町というところでございまして、本日は町長さんはじめ、町会議長さん、あるいは隣村の方々もお出でになっておられます。北は岐阜県、東は長野県に接しまして、南は木曽山脈に属します段戸山系に連なり林野率は90％を超えている典型的な山村であります。相続して以来、先祖祭りであるとか、あるいは夏休みに故郷に帰りまして、山村の生活の実態を見たり、山村振興に努めてきた先祖の話を聞いたり、山村振興を事業内容の一つとしております財団法人古橋会の仕事にタッチするようになりまして、小さいながらも、この先祖の名を辱めないように、私も山村振興に力を尽くさなければならないというふうに考えた次第であります。</p>

<p>　その後、大蔵省で６年間農林関係予算の編成に関係したり、あるいは石川県で総務部長を務めまして、山村の実情というものをいろいろ見せていただきました。さらに退官後は、高木文雄元国鉄総裁が会長をしておられまして、本日のパネルディスカッションのコーディネーターであります森巌夫教授もその役員をしております財団法人「森とむらの会」の役員とならせていただきましたおかげで、山村問題につきまして多くの有識者の方々や、あるいは現地で大変苦労しておられる方々といろいろお話し合いをし、議論する機会がありまして、私なりにも山村についての考え方、山村振興についての考え方をまとめることができたのであります。</p>

<p><br />
私が「森とむらの会」で、条件不利地域の農林業政策、あるいは国土保全奨励制度というものを座長として研究、発表いたしました。まさにそういう時に、この森林交付税促進連盟の運動が始まり、そしてその運動の進展が重なっているのでございまして、私の考え方は、この森林交付税に関する調査研究委員会の報告と基本的に相通ずるものでございます。</p>

<p>　条件不利地域農林業政策研究は、農林省からの委託に基づきまして、３年間の研究成果を踏まえまして、平成５年３月に発表したものであります。その考え方の大筋は、お手元にございますように平成３年、農林公庫月報に寄稿いたしました参考２の、「山の幸の再認識」で述べたところでございます。その中で、森林の公益的機能の発揮のため、新しい観点からの山村振興が必要であるということ、特に山村住民の所得の総合的確保、及び生活基盤の整備のための定住条件の整備などの総合的施策が必要であるということ、また、その施策の一つとして、市町村の権限、財源の強化、特に中山間地域の特色を考慮した地方交付税の配分方式を検討すべきであるということを指摘したところであります。</p>

<p>　国土保全奨励制度の調査・研究は、宮崎県の松形知事からの委託に基づきまして、森巌夫教授にも直接参加をしていただき、私が座長となりまして、平成６年３月、報告書を提出したものであります。これは宮崎県の県北５カ町村の、いわゆるフォレステピア構想の実情にかんがみまして、国土保全という見地から新しい政策や、その担い手である山村の人たち、とりわけ若者の定住を促進するため、「人」あるいは「地域集団」に焦点を合わせまして政策を検討したものでございます。主な内容といたしましては、林業労働者の就労条件を向上するため、全国1200の過疎山村に夫々一つの基金を作って、林業従事者の通年雇用を確保する。そのために公的年金制度、あるいは医療保険制度を国民年金から厚生年金に移す、あるいは国保から健保に移す。雇用主負担が発生することから、通年雇用するためにかかる雇用主の負担増というものをその基金を通じて負担をして、通年雇用をしてもらいたい。それから森林の公有化を含む、新たな森林の管理システムというものを考えるべきだという内容を提言したところであります。</p>

<p>　以上の２つの報告の考え方は、平成９年12月18日の林政の基本方向と国有林野事業の抜本的改革に関する林政審議会の答申の中に多く取り込んだところであります。</p>

<p><br />
１． 森林・林業にとっての20世紀と今後の課題</p>

<p><br />
　さて、本日の議題であります21世紀の森林・林業政策の課題。大きな話を出してしまったのでありますけれども、まずこのことを考えるにあたりましては、20世紀は一般的にどういう特色を持った世紀であったか、そしてそれは21世紀にどうなるのであろうかということを考え、次にそのような特徴を持った20世紀は、森林・林業政策の見地から見て、どのような世紀であったか、そして21世紀は森林・林業政策の見地から見てどうなるだろうか、いや、どうあるべきであろうかということを考えてみたいと思います。</p>

<p><br />
(1)20世紀に対する一般的評価と21世紀の展望</p>

<p>　今年は1999年でありまして、20世紀はあと２年。20世紀に対します評価、あるいはそれに対する展望も、各有識者の間で、新聞、テレビ等でいろいろ報告、発表されているところであります。これらの意見を参考としながら、この21世紀の展望につきまして、私の願望を含めまして、若干お話をいたしたいと思います。</p>

<p>イ.　国際政治面</p>

<p>　20世紀につきましては、ある人は破壊の世紀と言っております。２つの世界大戦、多くの紛争、特に民族運動による紛争や独立がありました。ナチズム、スターリニズムによる大量殺戮、原爆投下等、従来とは質の異なった破壊が行われました。戦争に勝つために各国は工業化を競い、そのために環境は破壊されました。またある人は、共産主義国家が誕生し、そして崩壊をした世紀。資本主義の共産主義に対する勝利の世紀と言います。それは19世紀がビクトリア朝のイギリスの世紀であったように、アメリカの世紀であったという人もあります。さらに別の観点から、20世紀はイデオロギーの世紀である。ファシズム、共産主義、自由主義といった政治的イデオロギーによって、国民や国家というものが大変な影響を受けたと。そしてその結論は、それらの対立のなかで自由主義、個人主義が勝利をした世紀であると言う人もおります。</p>

<p>　21世紀の政治的な面においてはどうなっていくであろうか。２つの大きなベクトルが今動いているというふうに感じます。１つは、世界全体が一つの統一の方向に向かおうというベクトル。そしてそれに対してもう１つ、宗教であるとか民族という動きによる統一の妨害になるベクトル。この２つが、今いろいろな形でその兆しが出てきておりますけれども、21世紀はそういうものが大きく動いてくると思われます。</p>

<p>　まず最初に、その統一の考え方はどういうことに依存するかと申しますと、国連であるとかＯＥＣＤ、その他の国家間協力体制が、大きな世界政治構造へ、統合ということに有効に機能するかどうかということにかかっております。アメリカは確かに21世紀に覇権国家として入っていくでありましょう。しかし25年後、中国、ＥＣ、そしてまた日本がそれに対してどういう位置付けになっているであろうか。あるいは、南北問題というものはどういうふうにそれらの問題に影響していくであろうかというようなことについて、われわれは考えていかなければなりません。</p>

<p>　できる限り世界の統一という方向に進んでもらいたいのでありますけれども、しかし民族の自立とか、宗教活動の活性化によります紛争が発生をいたします。旧東欧の社会主義国を中心といたしまして、民族問題が再燃をいたしております。また経済のグローバル化が進みますと、国家という意識というものが非常に薄れてまいりますし、それに伴いまして紛争が発生しやすい環境になってまいります。民族が、今までの一定地域内に限定して閉じこめられた時代ではございませんで、民族問題は各国のいろんな所に広まっております。また宗教は、社会の近代化に伴って人々の宗教離れを来すというふうに考えられていたのでありますけれども、近代社会の欠落部分を埋めるために、この宗教というものが再び人々の心を捕らえております。宗教間の対立であるとか、あるいは宗教派内の対立というものが、これから起こってくる可能性がございます。そういうふうになりますと、20世紀が難民の世紀だったというふうに今言われておりますけれども、この難民という問題、そしてまた移民問題というものは、今後21世紀においても深刻化するというふうに考えなければならないと思うのであります。</p>

<p>　そうした時に、われわれは、いろいろな紛争が予想されているという時のために、まず食糧の問題をどうするか、エネルギーの問題をどうするか、そういう問題について常に国民として考えなければならない。食糧の問題を考える時に、この森の問題を離れて考えるというのはおかしいというのが私の持論であります。</p>

<p><br />
ロ.国際経済面</p>

<p>次に、国際経済面におきます経済と情報のグローバル化の進展した20世紀と今後の展望であります。経済の面におきまして世界は緊密に一体化し、国の国境線であるとか、あるいは地勢的な地形を越えた形で結びつけができました。貿易の自由化による、そしてそれはＧＡＴであるとか、今はＷＴＯ、そういうものの動きによりまして、商品は全世界に流通をいたしました。資本主義はその独自のイデオロギーとして、市場原理主義を内在しております。そして、物の流れと同じく、お金の流れはIMF体制と為替金融の自由化、それによって貿易の自由化のもとに資金的な裏付けがなされると同時に、資金自身が投資資金として、どんどん世界を動いております。インターネットでわかるように、世界的に広がる情報のネットワークによって、瞬時に情報が伝わります。テレビの衛星放送によりまして、政治的意向によって情報を鎖国化する、情報を閉じ込めるということはなかなか困難な時代になってまいりました。</p>

<p>　21世紀はこれがどうなるでありましょうか。経済と情報のグローバル化は、今後一層進展するものと考えられます。完全に摩擦のない市場を前提とする限り、いわゆる経済問題も、この市場メカニズムによって、市場原理によって効率的に解決されると思います。</p>

<p>　しかし、摩擦のない完全な市場というのは理論的にあり得ても、現実には存在しないのであります。最近新聞で読んだところでありますけれども、巨額な投機資金を扱って、今回の東南アジアにおきます一連の経済危機をもたらしたとも言われておりますけれども、その大手ヘッジファンドのジョージ・ソロスは次のように言っております。「市場とは、ある個人が他人と物などを交換することを単に映し出しているものにすぎない。市場は環境とか平和の維持といったような、人類共通の価値観を代表するものでも、内包するものでもない。そうした環境とか平和の維持といった事柄は市場価値の外におかれているが、こうした価値観は人類にとって不可欠なものである。マーケットメカニズムは大変効率的なシステムで、市場は万能であるという考え方もあるが、市場は人類不変の価値観を持たないという点で不完全である。市場原理主義は、多くの点で非人道的な残酷なシステムを内蔵している。」そういうことを、あのソロスが言っているのであります。私も、市場の力が弱者に対する暴力となることもあり得るというふうに考えます。人口が増大し、異常気象によって食糧危機が起きる。そうした時に市場メカニズムによれば、市場価格がどんどん高騰して、その結果、需要と供給は安定するかもしれません。しかし、その時に食料を買えない人たちは結局死なねばいけない。こういうことになるわけでありまして、その市場均衡というものは、貧者の飢えということになるわけであります。</p>

<p>　秩序無き木材の貿易が進めば、環境問題が発生して、輸出国における森林資源が枯渇をする。そしてそれを受け取った輸入国におきましても、環境が国土保全自体が侵されるようになれば、非常にゆゆしいことであります。</p>

<p>　市場の力が、一国の伝統であるとか、文化であるとか、社会的システムというものを急速に崩壊させるとき、これも問題であると思います。このような場合におきましては、市場経済、いわゆる効率性と、市民社会、そこには自ずとその社会における社会的正義というものがありますけれども、それとの調整の問題が発生いたします。</p>

<p><br />
20世紀は効率性重視に振り子が振れたと私は考えておりますけれども、21世紀には公正性というものをある程度重視し、それをもう少し考えた、そしてその方向に振り子を戻す、このようなものがあってほしいというふうに思います。そういうようなことを考えている方もおりますので、21世紀というものはイデオロギー闘争が終焉をしたということではなくて、社会的正義か効率か、あるいは市場か国家かというようなことを巡りまして、多くのイデオロギーの対立というものが起きる可能性がございます。</p>

<p>　この問題は、国家による市場に対する規制の問題というものに発展をいたしまして、国際的枠組みのなかで、市場と国家との関係をいろいろと試行錯誤し、改革を繰り返しながら、その間の妥協点を見いだしていくことになると思います。木材であるとか、あるいは食糧の貿易問題に関しましてもこの問題があるわけでございます。この点については後ほど申しあげたいと思います。</p>

<p><br />
ハ、科学技術面</p>

<p>　次に、20世紀の評価の第３は、科学技術面における評価であります。20世紀は科学的に飛躍的発展を遂げました。そしてそれは科学の統一が進んだ世紀とも言われております。20世紀の始めにおいては、物理学者、化学学者、生物学者、それぞれあまり相互の関係を考えておりませんでした。しかし現在、原子の力によっていろいろな化学現象が分析されておりますけれども、その原子の力関係を証明するのは物理の法則であります。あるいは、生命のいろいろな過程は遺伝子（DNA）によって理解され、その遺伝子、ＤＮＡという化学の力によって今証明されようとしております。こういうように、科学の統一が進んだ世紀、そして原子物理学、素粒子理論、遺伝子工学、情報工学、宇宙科学等が発達をいたしました。さらに技術の面におきましても、通信では無線電信ができ、交通の面では自動車、飛行機、最近では宇宙まで行くロケット、宇宙船ができました。情報の面におきましても、20世紀にはテレビ、映画ができ、そしてエネルギーにおきましても原子力発電ができ、また物質におきましてはナイロンができました。そして半導体ができてコンピューター、ロボットというような大変な技術の進歩が行われました。21世紀は、それがさらに一層進展するものと期待されるところであります。</p>

<p>　今後期待しておりますことは、核融合であるとか、あるいはエネルギー問題の解決のための超伝導物質の発見であります。そういうような科学技術の進歩というものを、林業の面におきましても、品種改良であるとか森林管理、流域管理に適応する可能性が出てまいります。後ほど申しあげますけれども、通信技術の進歩によって過疎地域におきます医療において、画像診断等の飛躍的な進歩というものが図られる可能性があります。</p>

<p>　わが国の場合では特に科学技術の進歩を考えると、創造力のある人間を養成する必要があると思います。20世紀というものは規格大量生産の時代でありました。そしてそれと同じように、人間につきましてもある程度質が高く、しかし統率のとれた、そういう画一的な教育を、明治から130年経っておりますけれども、そういう教育というものを重んじてまいりました。しかし今、1990年代になり情報化が進み、知識集約化が進み、サービス化が進み、多元性重視の社会になってまいりました。そしてその時に日本は、メガコンペティションと言われるように、大競争時代に遭遇したわけであります。そういう時に付加価値の高いものを生産していく、そうしなければ、われわれの生活水準を下げないで、活力ある福祉社会を建設していくことはできないのであります。そういうような意味において、これから申しあげます、個人の個性というものを尊重し、そして個性を活かすという男女共同参画社会と、森林環境というものが非常に重要であるというふうに私は考えております。</p>

<p>　森林という所は創造力の源泉であるということが言われております。外国に行きましても、ベートーヴェンが歩いたウィーンの森、あるいはグリークが作曲をしたベルゲンの森の家、みんな緑に囲まれております。そういう所の中で、新たな創造力が生まれてくるというふうに私は考えております。</p>

<p><br />
ニ、社会面</p>

<p>　次に、男女共同参画社会形成の世界的運動が高まった20世紀ということについて、社会面からの20世紀の考え方であります。18世紀の後半から産業革命が進展をいたしました。そして、新たな商工業階級が発達をしてくると同時に、女性の政治への参加権の要望が強くなってまいりました。しかし、最初にその要求が出てきたフランス革命の時には、それを主張した女性は処刑をされておるわけであります。19世紀になって、その運動というものがいろいろ行われましたけれども、不幸のうちに実を結びませんでした。しかし20世紀前半になりまして、各国で婦人参政権が確立をしてまいりました。戦後まで遅れたのは、ラテン諸国の、イタリアとかフランス、そしてわが国でありましたけれども、わが国も1945年４月10日に、婦人の日でありますけれども、総選挙で婦人が選挙権を行使いたしました。20世紀後半になりますと、実質的な男女平等を求め、社会的、文化的に形成された性別、これをジェンダーと言っておりますけれども、そのジェンダーに偏りのあるいろんな社会的システム、男は仕事、女は家庭と、いった考え方、そういうものを是正していく必要があるという考え方が国際的にも高まってまいりました。1975年、国際婦人年世界会議で、世界行動計画、1985年、国連婦人の10年ナイロビ世界会議におきます、婦人の地位向上のためのナイロビ将来戦略、1995年、北京世界女性会議におきます北京宣言及び行動綱領というようなものがあります。このような動きというものは私は21世紀にますます広がっていくというふうに考えます。</p>

<p>　男女平等という憲法第14条の考え方、そして、個人の尊厳と能力を尊重し、男性も女性もその個人の特性に従っていろんな選択の自由を持つという憲法第13条の考え方であります。そして女性が、政策方針過程へ平等に参加をするということは、いろんな人の意見をできるだけ多く政策に反映させることで、バランスのとれた社会をつくっていくために必要なことであります。</p>

<p>　これはわが国の場合、特に重要であります。私は男女共同参画審議会の関係の仕事を６年以上やっております。今度この審議会は男女共同参画社会基本法の内容について答申をいたしました。私はこの審議会の基本法検討小委員長でありましたが、この通常国会にその法案が提出される予定であります。特にわが国の場合におきましては、少子高齢化が進んでくる、あるいは国内経済の成熟化によって、高度経済成長は望めなくなる。そして男性もいろんな新しいライフスタイルというものを求めなければならないし、国際化が進展して競争が激しくなる、家族形態が多様化する、地域社会にわれわれ男性もいろいろ関わらなければいけない。こういうふうになってまいりますと、わが国の場合この男女共同参画社会の形成は特に重要であります。</p>

<p>　これは、森林整備の考え方からいえば、農業も同様でありますけれども、森林整備の担い手として女性というものにどんどん参加をしていただかなければならない。その条件はいろいろとこれから整っていくというふうに思います。あるいは山村計画の場合に、私が外国に行きました時には大変多くの女性が、ドイツにおいてもアメリカにおいても山村計画に積極的に参加をして意見を述べておりました。山村生活の各方面で女性の活動が期待されるわけであります。</p>

<p><br />
（２）森林・林業の見地からみた20世紀と21世紀の展望</p>

<p><br />
イ、 自然環境と人間との調和</p>

<p>　それでは20世紀というものを、もう一回森林・林業という見地から見るとどういうものであっただろうか、そして21世紀はどういうふうに展望したらいいかということを考えてみたいと思います。４つの視点から申しあげたいと思います。</p>

<p>　まず第１は、自然環境と人間の調和であります。20世紀は自然環境と人間との対立が深まり、種々の弊害が発生し、世紀末に至って地球規模での両者の調和のための努力が始まった世紀というふうに将来位置付けられるかもしれません。20世紀の特色は、規格大量生産の非循環型工業化社会であります。そこにおける経済システムは大量生産、大量消費であり、大量廃棄であります。そこにおきます価値観は集中であり、画一であり、量であります。その結果、再生不可能な天然資源を消費し、そしてＣＯ2 などの温暖化ガスが大量発生をいたしました。</p>

<p>　20世紀というものは、木材が他の資源で代替された時代、そして弊害が出た時代というふうに考えられるかもしれません。弊害といたしましては地球温暖化、大気汚染、酸性雨、景観の喪失等、いろいろであります。地球温暖化は、海面の上昇によって陸地が減っていく、それによって高潮が起きたり、いろいろな水害が発生をいたします。あるいは温度が高くなることによってマラリアであるとか黄熱病であるとか、そういうようなものがわれわれの社会においても現実のものとなる可能性があります。異常気象が発生いたします。</p>

<p>　そしてまた、温度が２度上がりますと、地球の植生の３分の２が変わってしまうというふうに言われておりますが、それが非常に急激になりますと、植生の変化というものが温度の気象に対応できなくなり、世界の森林はますますおかしくなり、そしてさらに異常気象が増加をするということであります。</p>

<p>　そして食糧の危機というものが出てまいります。熱帯、亜熱帯地域におきまして異常な害虫が発生をする。そういうことによって食物がとれなくなり食糧危機が発生する。こういうことを国連の機関が発表しているところであります。　そういうような危機を回避するための対応策として、クリーンエネルギーの利用であるとか、リサイクルであるとか、人口抑制であるとか、省エネであるとか、製品寿命の長期化であるとか、いろんなことが言われております。1992年５月、地球サミットの直前、気候変動枠組み条約が採択をされました。これは、先進国は2000年までにＣＯ2 などの温暖化ガスというものを1990年レベルまで抑制をしようという、これは政策努力目標でございました。これに対して1997年12月の京都会議におきましては、今までが2000年までを政策努力で、かつ先進国ということで決めていたものを、2000年以降の法的拘束力を持つ削減目標というものを設定したのであります。2008年から2012年までの5年間平均で、1990年レベルに対して少なくとも５％以上削減をすると。日本は６％ということになります。その場合植林をしたり、あるいは再植林をしたり、また追加的人為活動（森林経営等）ということがカウントされることになっております。</p>

<p>　21世紀は、経済資源ではあるが環境に優しい木材の利用を高める資源循環型社会が形成され、環境財としての森林の機能が重視される世紀となることを私は期待をいたしております。そうしなければ人類に将来はないと思っております。そしてそれは、木材を他のもので代替することが困難となり、そして木材への依存が高まる世紀であろうと思います。21世紀における経済システムは適量生産、適正消費、極小廃棄であり、そこにおける価値判断は、集中に対して分散であり、画一に対して多様であり、量より質ということになるのであります。その結果、炭素が循環する地球に優しい資源循環型社会が形成され、また経済的資源である木材を生産する森林の持続的経営の必要性とともに、森林の公益性、特に環境財としての機能が重視されるであろう、あるいはされなければならないというふうに考えるのであります。</p>

<p><br />
　わが国の森林・林業政策にとって、20世紀はどういう意味はどういう意味を持っていたのか、そして21世紀の展望を申しあげたいと思います。20世紀はわが国の地勢気象条件に適応した、森林との共生という長い歴史のなかで、持続可能な森林経営を放棄した一時期がございました。しかし、それを世紀末に反省したという世紀であったと思うのであります。わが国における森林と人との共生の歴史というものを、若干申しあげたいと思います。</p>

<p><br />
　縄文時代、わが国は落葉、照葉樹林に囲まれておりました。そして、われわれの先祖はそれにぴったりと合った森の文化というものを形成しておりました。青森県の三内丸山遺跡に参りますと、彼らが使った食器はトチノキを使っております。きめの細かいトチノキであります。それから船は、水に浮く、軽くて、しかし水に強い杉の木を使っております。住宅、これは非常に腐りにくい栗の木を使っております。それぞれの用途に適した、木材を利用しております。そして、森林というものを崇める、尊ぶ、拝むという心がございました。西洋でいろいろ話を聞きますと、森林というものは、そこに悪魔がいる、狼がいる、魔女がいる、われわれは人類の力によってそれを征服していくんだ、開拓していくんだ、畑を作るんだ、そういう考え方が強いのであります。しかしわれわれの心の中に森林というものを崇め尊ぶという考え方が脈々として残っていると思います。</p>

<p><br />
　弥生時代に入りまして、お米の文化が定着をいたしました。その時に、水田の畦畔に、矢板として木材を使う、あるいは灌漑用水路にも板を使っております。森林の下草や落ち葉であるとか、そういうようなものを肥料として水田に使っております。森林から流れ出た豊かな川と、そういうものに感謝するために様々な民俗信仰であるとか民俗芸能というものが発展をいたしました。この時代に、西洋での畜産というもの、特に羊というようなものの導入が行われなかったことは、我々の先祖の大変な知恵であるということを学者が言っております。稲作というのは、森の中の栄養分のある水が水田に連なり、そして水田が、普通の畑作でありますと連作障害が起きるのを防いでいます。このあいだのＮＨＫでありましたように、畑作であれば単作　　　物をつくっていると、どんどん土壌が痩せていって、そして土壌が風で飛んでいってしまう。水田の場合には毎年毎年稲を作れて、そして肥料が森から供給される。そういう何度も使えるというようなことにおきまして、大変土地生産性も高いし、わが国の将来の食糧の安全保障を考えたときに、大変有効なのであります。</p>

<p><br />
　さらに飛鳥時代、遷都がいろいろと行われました。あるいは奈良・平安時代に入ってお寺が造られました。そういう時にどんどん木材が伐り出され、さらに戦国時代になりますと、お城を造るということのために木材が使われました。しかし７世紀末には我が国では世界に先駆けて伐採禁止令というものが出ております。９世紀中頃には造林というものが行われているという資料がございます。このように、森と共生するという考え方は、わが国の中には近代まで一貫して残っていたのであります。江戸時代に入りまして、藩有林というものは木材の供給、藩財政への参考とともに、治山・治水という考え方から管理、経営がされておりました。商品経済が発達いたしましたので、あるいは大火事が何度もあったということから、森林の価値が高まったために、森林資源を消費はいたしましたけれども、しかし、各藩は厳重な伐採禁止令というものを布き、そしてまた植林というものを行っておりました。</p>

<p><br />
　明治維新になって、わが国は、特にドイツ式の一斉皆伐林業というものを導入いたしました。わが国の一部で行われておりました杉、檜の林業というものが全国的に普及いたしまして、わが国に従来からあったブナ、ナラの広葉樹林に変わって一斉に針葉樹林が植えられたのであります。そして戦時中、森林組合というものは山林所有者が強制加入ということをさせられました。そして伐採を割り当てられました。そして森林が荒廃をいたしました。さらに戦後の復興期、高度成長期にかけまして、森林の需要増に応えるために供給優先という考え方で、特に国有林を中心といたしまして、成長量を上回る伐採というものが、そしてそれも皆伐が行われました。そしてそのあとに、一斉に針葉樹の植林が行われたのであります。　特に国有林につきまして、森林を持続的に維持するためのコストは、われわれの生命、生活を維持するための保険料だという考え方が少なくなって、森林が金の成る木というふうに考えました。それが私は今日におきますいろいろな問題発生の原因であるというふうに考えております。</p>

<p><br />
　そこで、20世紀の反省でありますけれども、われわれは公益的機能の重視という考え方に立ちました。そして、1996年11月29日に資源基本計画によって森林を公益的機能の重視という方にたって分類し、林政審議会の答申においても公益的機能という考え方に切り替えていったのであります。</p>

<p>ただ、国際的に考えられていない森林の保全機能ということについて若干申しあげたいと思います。1992年の６月にリオデジャネイロで地球サミットが行われました。そのあと森林原則声明というものが発表されました。そのときの森林の機能というものの文章を見ておりまして私は感じたのでありますけれども、読んでみますと、「森林資源及び林地は現在及び将来の世代の人々の社会的、経済的、生態学的、文化的、精神的な必要を満たすため、持続的に経営されるべきである。これらの必要は、木材、木製品、水、食糧、飼料、医薬品、燃料、住居、雇用、余暇、野生生物の生息地、景観の多様性、炭素の吸収源、貯蔵源のような森林の財及びサービス、及びその他の林産物に対するものである」。私は森林機能の中でもっとも基本としている森林というものの国土保全機能というものがこの中に抜けているのではないかということに疑問を持っているわけであります。考えてみると、我が国の地勢というものは太平洋プレート、あるいはフィリピンプレートというものが大陸のプレートにぶつかって、地震が起こり、摩擦によって火山が噴火する。そして土壌というものは火山灰質で非常に壊れやすい。そこへモンスーン地帯でありますから梅雨がある、台風が来る。そしてプレートが盛り上がっておりますから非常に急激な山地で、川の水は急いで流れ落ちる。しかし１億2000万人の人が平野地に住んでいる。こういうような所では森林の公益的機能、いわゆる国土保全的機能というものは、まさに我々の生命の安全に関するものであります。</p>

<p>　しかしヨーロッパの場合、それほどの森林勾配、河川の勾配がないからなのか、あるいはもう山の方はすっかり岩になってしまって、山崩れということは問題ではないのか分かりませんけれども、私はそういう国土保全機能に関する考え方を林野庁に聞きますと「いやぁ、例示として挙げていないだけです。」と言っておるんであります。われわれがこれから木材貿易について交渉していく時に、わが国のこの国土の特殊性、森林の持つ重要性というものについて、世界にもっとアピールをしていかなければならないというふうに私は考えております。</p>

<p><br />
ロ、 効率と公正の調和</p>

<p>　その次に第2の視点として、効率と公正の調和という点であります。これは貿易問題であります。20世紀は木材貿易競争の激化に伴う市場経済と、市民生活の安全と、その間で調整問題が発生をいたしました。そういう世紀だったと思います。そしてすでに国際熱帯木材機関というところにおきましては、西暦2000年までに、持続可能な経営が行われている森林から生産された木材のみを貿易の対象としようという動きがございます。さらにまたＦＳＣ（森林管理協議会）というところでは、そういうような持続可能な森林から切り出された木材木製品だけにラベルを貼ろうという認証ラベリングシステムの動きが出始めております。</p>

<p>　しかし、この21世紀、そういうものを考える時に、まず21世紀の木材貿易の見通しというものについてわれわれは考えなければいけないと思います。今後の木材貿易につきましては、天然林につきましては、これはいろいろな専門家の意見があると思います。天然林の北米材につきましても、オレゴン州に行きますと向こうは大変な国有林の伐採制限をやっておりました。南洋材につきましても資源が枯渇をしてくる。そしてある程度製品の輸出もそんなに増えてくるわけではないと思います。シベリアの方を見ましても、わが国に安定的に供給できるだけの余力があるかどうか、あるいはシステムができるかどうかという問題がございます。</p>

<p>　そして今後われわれが注意しなければならないのは、外材輸入の圧力は人工林の問題であります。ニュージーランドであるとかチリとかアメリカ南部におきまして、生産条件が良い所で、人工林でつくられた木材及びその製品を輸出してまいります。それで、これは決して地球規模の問題として弊害が無いという主張が出てまいります。これらの問題につきましても、輸送するときに炭素税がかかればある程度の競争条件は弱くなるかもしれませんけれども、しかしそういうところはいろいろな努力をしてくると思います。そしてさらにまた、低品質材をいろいろなボード類であるとか合板であるとか、そういう集成材であるとかパーティクルボードであるとかにして持ってくる、それが非常に安く入ってくるということが考えられます。そういうような意味を含めまして、総合的な木材加工というものについて、われわれはもっともっと今後注意していかなければならないと思います。</p>

<p>　天然林の問題は地球環境問題との関係で、木材貿易の中に出てくる可能性は従来よりは少なくなるかもしれません。21世紀におきましては、森林は地球温暖化防止、国土保全の見地から重要であるという認識が出てくると思います。しかし、新たな木材貿易に関する協定というものを世界貿易で作るべきだというふうに私は思っております。まだこの問題につきましては、アメリカであるとかカナダとか、林産国はこの世界貿易協定を作ることに反対をいたしております。熱帯森林については先ほどのようなＩＴＴＯというようなところでそういう取り組みが行われておりますけれども、世界的規模における木材の貿易問題について、まだまだ各国の利害が反してできておりません。しかし各国が相互理解をするために、私は国際交流というものが必要であり、そのためにわが国の森林の実情、地勢条件、気象条件というものをもっともっと外国の人たちに理解してもらえるような努力をする必要があると思っております。</p>

<p><br />
　森林というのは先ほど申しあげましたように、同じ水系の中において、上の方に森林があり、その途中で水田がその水を利用して稲を作っております。農林一体の法則、これは私がかねてから言っているものであります。そしてその水田というものはまた、国土保全的な機能を持っております。今、国民が何となく食糧に不安を持っているというのは、わが国において、これから異常気象、あるいは世界の人口が増えたり、あるいは周辺で紛争が起きたときに食糧は本当に安全に確保されるのであろうか、こういうことだと思います。私はもう一回、ひとつは国土保全という見地から、流域毎に、流域に必要な保安林のみならず、もう少し広く保安森林というもののゾーニング（地域指定）を行い、そしてその下における水田のなかで、国土保全の見地から必要な水田というものをもう一回見直しをしていく計画を作るべきだ、指定をするべきだというふうに思います。そしてさらに、国土保全的な水田の他に、その周辺に日本全体として最低限、国民の食糧として必要な水田というものはどの程度あるべきか、そういうふうなものをもう一回流域毎にゾーニングをし直して、水田というものを森林と一体となって維持をしていくという政策が、なければならない、こういうふうに思っております。</p>

<p><br />
　そのためには、何も私は今、食糧自給率の向上というようなことで、お米をどんどん作れといっているのではありません。水田としての機能を維持するようなこと、そしてその水田が機能するためには山の方での森林というものを維持しなければ水ができないのでありますから、一体となって森林を維持し、水田の機能を維持する、そして水田に水を持ってくるいろんな土地改良施設、そういうものの維持管理ということを適正にやるべきである。そういう潜在的食糧自給率にみんなは目を向けて、国民の期待に応えていかなければいけない。それが農林省の重要な仕事であるということを、私は農林省に言っているのであります。</p>

<p><br />
ハ、 高度情報化の進展と技術革新</p>

<p>　第3番目に、高度情報化と進展の技術革新という点について申しあげたいと思います。高度情報化ということは、生産と経営のプロセスの高度情報化であります。これを21世紀において森林管理、流域管理において適用することが必要であります。森林の情報システムとして、ＧＩＳ、ジオグラフィック・インフォメーション・システムというのを今構築中であります。森林の位置であるとか、あるいは形状という図面、地図情報、それに林齢であるとか樹種であるとか蓄積、そういうような数値や文字情報を一緒に、一元的に管理いたしまして、これらの情報について検索や分析を行いますとともに、様々な地図、情報等を出力することができるようなシステムであります。そういうようなものをどんどん整備していく必要があると思います。そして、製材所が行います流域管理の面では、市場動向の把握であるとか、そこからのマーケットへの情報の発信であるとか、木材加工における複合経営というもののために、この高度情報化が使われなければならないというふうに思います。アメリカにおきますウェア・ハウザーの様な、コンピューター管理の大きな製材所を流域の河口に造るということもひとつかもしれません。しかし最近は、先ほども申しあげましたように、非常にボード類で安いものが入ってきます。そういうことを考えると、山元におきましての木材加工というものはコンピューターを使って製材の他に、低質材を使った集成材であるとか、ボード類を加工する工場を一緒に造る、そしてそれの燃料としては木材のくずであるとか、そういうようなバイオマスを利用して火力発電というものを小規模に造っていく。そういうようなことによって山元における林業の発展を図らなければならないと言う学者もございます。そういうようなことは非常に複雑な事業でございますので、コンピューターを使わなければいけません。私は流域管理におけるコンピューター利用というものをもっともっと進めなければならないというふうに思います。</p>

<p>　技術革新の面においては、研究開発の推進、特に遺伝子工学における品種改良。春になってきますと花粉症がでてまいります。花粉症の少ない杉をいろいろ研究しております。いろんな形での遺伝子改良によって、針葉樹でも椎茸がなるようなものができないかとか、過去において私は林野庁に言って、できたのですけれども、コストが高かったのであります。それから、間伐材の利用による新素材の開発、そういうようなことができないかというふうに考えております。</p>

<p><br />
ニ、 男女共同参画社会の発展と森林整備</p>

<p>第4番目といたしまして、男女共同参画社会の進展と森林整備、及び山村計画への女性の参加があります。今後ますます林業労働における機械化が進展をしていくと思います。あるいはまた、コンピューター化が進んでまいります。女性はそういう方面に適性があります。そういうものにどんどん女性に参加をしていただかなくてはいけない。そして山村計画の段階において、生活の観点からの女性の意見を取り入れる。各地域におけるいろんな活動を見ておりますと、女性がいろいろ食品加工業や林産物の加工業について大変活躍をしておられる所がございます。そういうことでの女性の知恵を拝借するとか、山村地域における景観の維持ということのために女性の力が必要であります。</p>

<p>　そこで、以上のような20世紀の評価、21世紀というものを見たときに、21世紀のわが国の森林・林業政策はどういう目標を考えたらよいのかという点について、３つの目標を考えております。</p>

<p><br />
２． 21世紀の我が国森林・林業政策の3つの目標</p>

<p>（１） 益的機能の発揮</p>

<p><br />
イ、公益的機能の理解と森林の分類</p>

<p>　第１が公益的機能の発揮であります。第２がわが国の森林資源の成熟化への対応、３つ目が少子高齢化の進展に伴う森林整備担い手対策の推進であります。公益的機能の発揮の点につきましては、７つの機能を林政審答申でまとめました。大切なことは、なぜ公益機能が発揮されるのかというメカニズムというものをみんなが理解しなければいけないということだと思います。なぜ日本の森林ににこういうような機能が必要なのかということについて、皆に分かりやすく理解してもらわなければいけないと、そういうことを強く言っておりまして、最近、林野庁も中学校の副読本として、森林は地球環境を守るということで、「森林資源を活用した循環システムの構築を目指して」という中学校の副読本的なものを作りました。大変分かりやすく書いておりますけれども、こういうようなことをもっともっと都市住民の人にも分かってもらわなければならない、それが第１であります。木材の特性についても、みんなに理解してもらう必要があります。</p>

<p>　そこで資源基本計画による森林の分類でありますけれども、資源基本計画におきましては、水土保全というような山地災害防止、水源涵養の機能を50％、森林と人との共生を22％、そういうような意味において、公益的機能を72％認めたわけであります。そして資源の循環利用ということで、木材利用といたしましては28％であります。森林と人との共生というのは、生活環境保全であるとか、健康文化的機能であるとか、生物多様性の保全ということであります。生物多様性の保全ということはどういうことかと言いますと、まず４つありまして、遺伝子の保全であります。それから、それより大きな種の保全であります。種がいろいろ重なった生態系の保全であります。第４番目に、最近はその森林の景観の多様性ということも、この生物多様性の保全の中に入れておるということをちょっと付け加えておきたいと思います。</p>

<p><br />
ロ、国有林の公益的機能の発揮</p>

<p>　そこで、こういう公益機能の発揮のなかで、国有林の公益的機能の発揮はどうあるべきかということであります。国有林の改革につきまして、林政審でまとめましたものとして若干基本的な考え方を申しあげたいと思います。国有林に対しましては、いろんなところでずっとくすぶった批判がございます。私はそういう方々のいろんな批判を耳で聞いたり、あるいは文書で読みました。そしてある時ふと思いつきましたのが、リンカーンのゲティスバーグの演説であります。Government of the people, by the people, for the peopleであります。</p>

<p>　国有林の管理、経営の基本は、国有林を国民の共通財産と考えなければいけないということ。国民の参加によって国有林というものを維持していかなければいけない。それから国民のために管理、運営していかなければならない。こういう考え方が国有林経営者の中に欠けていたのではないか、こういう反省から、私はいろいろな方策の見直しをしたのであります。国民の共通財産ということは、国有林というものは林野庁職員のものでもなければ、林野庁職員労働組合のものでもないし、林野庁から木材を買ったり、林野庁に資材を提供する人たちのものでもない。国民の共通財産であるということであります。しかし、そういう共通財産というものは税金等で賄っていくのであるから、ある程度その範囲を限定しなければなりません。それはいろいろと議論をいたしまして、その結果、公益的機能の発揮が特に要請され、かつその範囲が広域にわたる森林管理というもの、特に複数県にまたがる基幹的な森林や、水源涵養上重要な水系下にある森林については、国民共通の財産として、基本的には国が保有するべきであるということを考えたわけであります。国有林というものを地図で見てまいりますと、特に東北地方に国有林が多いのであります。これは明治政府の時に、土地から税収を取り上げるために、明治６年に地租改正が行われました。その後、明治９年に官民有区分ということが行われまして、国有林と民有林の区別をいたしました。そのときにこちらの方は明治政府に反対した藩が多かったものですから、藩有林がどんどん国有林に編入をされました。従って、東北地方では軒先国有林というように、すぐ民家の隣まで国有林があるという地域がございます。私はそういう過去における事情はありますけれども、本当に国家として管理すべきは、国家として必要な部分に限るべきであって、それ以外の土地で、地元において、その管理運営をきちんとするという所が出てくるならば、そういう所にお任せするべきであるということを主張いたしました。しかし「現実にはそんなものありませんよ。」というのが林野庁の主張でありました。しかし、所によってはそういう所が出てくるというふうに私は思うのであります。</p>

<p>　次に、国民の参加による管理ということであります。国民のものである以上、林野庁だけがそれを運営するのではなくて、国民参加によって国有林野は経営されなければなりません。参加ということであれば、その参加の前提といたしまして、国有林野の情報、経営内容というものが国民に明らかにされなければなりません。いわゆるアカウンタビリティーということであります。従いまして、そういうようなことのためのいろいろな提言もいたしました。さらに、林野庁の今までの職員の態度というものについて、いろいろと私は直接批判をいたしました。アメリカの国有林は、マダラフクローを保護するためどんどん伐採を制限し、向こうの職員はどんどん体質を変えて、林野の職員はその地域住民と環境問題をともに学ぶという態度が非常に強く、広報官というものを設置しております。林野庁職員が地域の方々をパートナーとしてともに学ぶ。そしてある時は知識のある人たちが地域の人たちの相談に応じることが必要です。</p>

<p>そのためには、林野庁職員が１年とか２年でどんどん変わっていくのではなくて、地域の皆さん方や市町村長さんとじっくりお話ができる程度、少なくとも３年以上その地域で勉強し、努力をするということがなければならないと主張したのであります。さらに、国有林野というものをボランティアの方々に開放するということも必要であるということを申しました。今度、平成11年１月１日からスタートいたしました、国有林野の管理経営基本計画におきましては、国民参加の森というものができまして、それの名前は「ふれあいの森」というそうであります。</p>

<p><br />
　次に、国民のための管理ということでありますけれども、世論調査によりますれば、国有林につきまして、これは木材生産機能よりも公益的機能の重視というものを非常に多くの人が希望しておるのであります。その結果、計算をさせまして水土保全、森林と人との共生の機能重視の国有林の割合はかつて46％であったものが、この計画によりまして79％、８割までが公益的機能発揮という方向になりました。そういたしますと、従来のように木を切ってその金によって公益的機能を発揮していくということができなくなりました。従って、従来の独立採算性の特別会計というものを直しまして、一般会計からの税金導入による特別会計制度というものを創設したのであります。さらにまた、国民のための国有林野である以上、簡素効率的な運営をしなければなりません。従いまして、国の行う事業というものは、森林の保全管理、森林計画、治山等の業務に限定いたしまして、伐採、造林等の事業の実施は土地の民間の方々にお任せするというふうにしたところであります。以上の申しあげましたことは、国有林野事業の改革関連法の中で答申の実施を見たところであります。これに基づきます国有林の管理基本計画、中央の管理基本計画は、本年１月１日にスタートいたしました。現在、流域毎の地域管理経営計画というものが、目下市町村長さんたちのご意見を伺うという段階でありまして、この４月１日からスタートをする予定であります。</p>

<p><br />
ハ、民有林の公益的機能の発揮</p>

<p>　次に、民有林に対する公益的機能の発揮であります。民有林政策の基本的な考え方は、まず民有林の特質と地域の実体を踏まえつつ、資源基本計画に示された森林整備の考え方を実施に移していくことであります。私有林というのは、森林所有者の意志に基づいて行われるというのが基本です。従いまして、公共の利益に反しない限りにおいて、それは経済的利益を主に追求するのでありますから、その森林所有者の意識に任せよう。まず林業生産活動の活性化を通じて健全な森林整備を助長するよう政府は努力するべきであります。公益的機能につきましては、強制ではなくて誘導策を通じて行うべきであるというのが基本的な考え方であります。公益的機能発揮のための施業の推進といたしましては、間伐等の施業の推進、複層林施業や里山林整備の推進、あるいは保安林制度の活用、森林の公有化等であります。森林の公有化等につきましては市町村長さんたちにも関係がありますので申しあげておきたいのでありますけれども、保安林というのはまさに公益的機能を高度に発揮をすることが求められる森林についての指定の制度であります。しかし、森林の管理が不十分で森林所有者の自由な意志のみに委ねていては、最低限の公益的機能の発揮すら困難な場合があります。そういう場合の制度として、市町村長さんであるとか都道府県知事による、荒れ果てた森林については整備の勧告、調停という制度が現在ございます。しかし使われた例はございません。しかしこういうものについて私はもっともっと発動されなければいけないというふうに思います。あるいはまた、地方公共団体、林業公社との分収林契約も進めていただかなければなりませんし、あるいは森林所有者と協定を結んで、その森林について助成をするということ。あるいは協定を結んで地方公共団体が植林をしていくことも考えられるでありましょう。以上のようないろいろな努力をしても、どうしても仕様がないという時には、森林公有化ということが必要なのではないかと私は考えております。公有化については、財源対策などいろいろな問題があるかもしれません。</p>

<p><br />
　さらにもうひとつ、森林荒廃の予防的な問題について私は林野庁に言っております。市町村長さんたちが今一番苦労しているのは、不在村地主の存在であります。相続をして都会に出ていった子供たちが森林も均分相続をする。そしていざ、その森林の整備を町村の事業としてやろうという時に、その方々の所在が分からない。分かっても整備に反対する。そういうような時に私は、相続の時に山に残って森林を整備する人たちに、都市に出ていっている人たちは委任をするという契約を結ぶ必要があり、そういうようなひな形の契約を林野庁に作ってほしいと思うのであります。もしそれが荒れておったならば、地元に残っている責任者ならば分かるわけでありまして、そういうようなことについても地道な努力が必要であるというふうに考えております。また農地のような林業を営む後継者への生前贈与の制度も必要です。</p>

<p><br />
（２） 森林資源の成熟化への対応</p>

<p><br />
　その次に、我が国の森林資源の成熟化への対応ということであります。成熟化に対応した森林整備、これは我が国が戦後植えましたものが今後順次伐採期になってきたことにより必要になってまいりました。そして森林の健全な育成、循環という質的な整備が必要になるということでありまして、適切な保育、間伐による森林の活性化、複層林施業の推進、２番目が林業生産活動の活性化、即ち林家等の経営類型に応じた活性化、経営類型といいますのは林業主業の経営、あるいは複合経営、あるいは零細なものたちの森林組合主導型の経営、そういうものに応じた活性化をしなさいということです。さらに林業金融の充実、林業税制の充実、低コスト林業の推進というようなことも活性化のため必要です。低コストについては、我が国は特に地形が急峻であり、亜熱帯に属しますので灌木とか雑草が生える。あるいは所有規模が零細であるというようなことから、外国に比べてコストが高くなりますけれども、低コスト林業の推進ということが必要であります。</p>

<p>　その次に、成熟化への対応として森林資源の有効活用ということが必要であります。国産材の加工、流通の合理化と利用促進、そのためには加工流通の合理化、木材乾燥の促進、特に葉枯らし乾燥から機械乾燥にいたるまで、今、林野庁に強く言っておりますことは、我が国における安い乾燥技術の開発ということであります。国産材の高次加工化、プレカットとか、あるいは集成材。国産材の利用促進対策といたしましては、いわゆる設計家との連携、木造住宅や建造物を造るような設計家というものを養成していく必要があるとか、公的な施設においてもっと木材を使うというような運動を起こすとか、そういうようなことであります。森林空間の総合利用ということは、成熟段階に入った我が国の森林空間というものを有効に利用するために必要です。そのためには森林浴の場、ボランティアが森林づくりに参加する場、都市と農村との交流の場、教育の場、これは宮崎県の五カ瀬村の学びの森学園の例であります。中高一貫教育、皆様ご案内の通りであります。あるいはそういう所に研究施設を設置する必要があるということであります。</p>

<p><br />
（３）担い手対策</p>

<p>　</p>

<p>　第３番目に、少子高齢化の進展に伴う森林整備の担い手対策の推進ということであります。通年雇用、そして専門家の養成、プロ集団というものを作っていく必要があることです。その中のリーダーの要請ということが必要であると。そしてそのための新しい山村対策が必要であるということであります。</p>

<p><br />
３． 3つの目標達成のための4つの推進方策</p>

<p>（１）流域管理システムの形成</p>

<p><br />
　以上の３つの目標の達成のために、４つの推進方策が必要であるということを考えております。第１は、流域森林管理システムの形成であります。森がはぐくむ川の効用ということはどういうことでしょう。レクリエーションの場であり、飲用水を含む生活用水であり、農業用水であり、工業用水であり、発電用水であり、漁業の助けなどです。森林に覆われた水源地である上流域と、その受益地である中・下流地域というものは河川によって縦に結ばれ、古くからそこで流域単位の生活、あるいは文化というものが営まれていたのであります。森林にかかる問題というものは、流域単位で第１次的に解決しなければならない、そしてそこにこそ地方自治の原点があるというのが私の信念であります。</p>

<p>　そして、流域森林管理システムの目的でありますけれども、関係者の利害調整と合意形成が必要であります。国有林と民有林の間、大規模森林所有者と小規模森林所有者との間、川上における素材生産業者と木材の加工業者との関係、公益的機能と経済的利益との問題、あるいは上流地域の住民と下流地域の住民、いろんな流域を巡りまして利害の対立がありますが、それの合意形成を図っていくのが流域森林管理システムであります。そのためには、第１に国有林、民有林一本の図面の作成が必要です。ここまではＧＩＳによって行うということで、林野庁と合意したのでありますけれども、まだ１つ林野庁と合意していないものがあります。私は流域のもとの民有林、国有林を包括した一体的な森林計画を作成しろということを強く言ったのでありますけれども、まだこれは可能性について検討するということで、私も今回は降りてしまいましたけれども、これは民有林と国有林というものが将来にわたって、一体的に地域において協調していくならば、そういう森林計画というものを作っていかなければならないと思います。民有林の地域森林計画というものと国有林の地域管理経営計画、こういうものの一体化というものを考えなければいけない。そのために今、色々な両者の連携はやりますということを言っておりますけれども、一本化が最終目的だと私は思っております。第２に下流受益者を含めた流域林業活性化協議会の活性化が必要です。これは今回流域森林・林業活性化協議会という名前に改めました。第3に下流住民への情報の開示、第4に森林整備のための基金の造成、これは森林法の改正によりまして、森林整備協定の中に基金というものが明示されました。第5に高度情報化社会における流域森林管理等の司令塔や加工施設を造ることであります。</p>

<p><br />
（２）市町村の役割の強化</p>

<p><br />
　そして2番目の体制として、森林整備に果たす市町村の役割強化であります。役割強化が必要となったのは、なぜか。それは森林の質的な変化があったのであります。従来は木材に対しまして需要が非常に高かったために、木材の伐採であるとか造林についてある程度の適正化が必要でした。従いまして、都道府県が中心で、国、都道府県、森林組合、所有者という連携が必要だったのであります。しかし、現在においては、木材に対する需要というものは落ち込んできたため、全体としていかに効率的な森林経営を行っていくか、きめ細かな地域に即した指導が必要になってまいりました。個々の森林所有者への指導、監督、そしてもう一つ、流域森林管理システムのもとにおきまして、市町村長さんに重要な役割を演じてもらわなければならないことから、市町村の役割が重用視されてまいりました。市町村とした理由は、すでに間伐、保育等においてそれだけの実績があるということ、そして個々の森林の現況について、地元においてもっともそれを熟知しておられ、そして地元におかれて森林所有者、森林組合、農協、あるいはそれの関係者、そういう方達と常に連携をとっておられるということであります。強化の内容といたしましては、市町村の森林整備計画の計画内容が拡充され、間伐、保育に限らず造林から伐採に至る、森林施業にかかる総合的な計画となったこと。それから計画を立てる主体といたしまして、従来は都道府県知事が指定した市町村に限られたのでありますけれども、今回は民有林が所在する全ての市町村が計画を策定しなければならないことといたしました。さらに権限の委譲といたしまして、都道府県知事から市町村長さんに、森林施業計画の認定、伐採の届け出の受理、伐採計画の変更命令、施業の勧告等というものをお願いしたわけであります。そしてそのためには人的、財源的措置の必要性であります。</p>

<p><br />
市町村、地方自治のためには３つの「げん」が必要だとよく言われております。権限の「ゲン」であり、人間の「ゲン」であり、財源の「ゲン」であります。人的措置といたしまして、従来市町村の林業関係職員の施行体制の整備につきまして、地方交付税の基準財政需要額の単位費用といたしまして、林業行政にかかる職員数を１名として計算をしておりました。それで林野庁、我々の他にも皆さん方の要求もあり、今回の森林法の改正に伴います市町村森林整備計画の作成作業であるとか、森林施業計画の認定事務の増加もありますので、林野庁はもう１名、２名にしてほしいという要求を自治省にぶつけたわけであります。現在自治省におきましては、平成11年度の地方財政計画におきまして、全国ベースで約500人を増やすということを考えているようであります。これを受けまして、単位費用の算定にいかに反映させるかということを２月の地方交付税法の改定に向けて作業中であるというふうに聞いております。</p>

<p><br />
　次に、財源の関係であります地方財政措置の問題でありますが、この点は先ほども申しあげましたように、だいぶ前から私が指摘しているところであります。皆様方からのご要望もございました。林野庁はこれらの点を自治省に要求いたしております。ひとつは市町村におきます林業行政費につきましては、今はその他の産業経済費ということで、水産業とか、鉱業関係費との合算によって算定されていることから、林業行政費として独立した項目としてほしい、そして測定単位に森林面積を引用してほしいという要求をしていたのであります。</p>

<p><br />
　しかしながら、今回の自治省の回答では、交付税制度の簡素化というものが叫ばれているということのなかで、林野行政費としての独立ということ、あるいは測定単位の変更というものは困難であるということのようであります。しかし、平成10年度に新たに創設されました国土保全対策にかかります経費につきましては、これは普通交付税のなかで600億円、これにつきましては森林面積の採用ということによって措置をしております。平成11年度の600億円もそのように措置されるということでご了承をいただきたいというのが自治省の回答のようであります。　</p>

<p><br />
（３）新しい視点からの山村対策</p>

<p><br />
　次に、新しい視点からの山村対策について申しあげたいと思います。私は従来の山村対策の背景には、平地に比し不利な生産条件、あるいは都市に比べて遅れた生活条件、そういうものは気の毒だ。従って恩恵的に援助をしてあげましょうという考え方があったように思えてならないのであります。従来の都市との均衡というものはそういう考え方だったと思います。</p>

<p>　しかし、森林の面積の６割を抱えている振興山村、そこで国土保全、さらには水資源涵養、地球の温暖化防止という機能を持っている、そういう公益的機能を担っている山村に対して、国民全体が感謝の気持ちで積極的にそれを評価して、「どうかよろしくお願いします。」という気持ちにならなければならないというのが、私の山村対策に対する基本的な考え方であります。従来からのいろんな過疎立法、山村振興法、あるいは辺地法、いろんなものを読んでみますと、そういう考え方がどうも薄れているというふうに思います。</p>

<p><br />
　山村対策の内容といたしましては、所得の安定的、総合的な確保が第１であります。</p>

<p>一つは山村地域における基幹産業である農業と林業、こういうものをまず安定化させる必要があること。そのためには農業、林業一体化で考えなければいけない。そういうことで、林政審議会において私は山村地域においては農業協同組合と森林組合を一本化すべきであると主張しました。それが現在の法律上ではできないなら、できるように改正しろと言ったのでありますけれども、大変強硬な組織団体からの反対がありまして、それができませんでした。しかし私は、そういうことを希望するところがあるならば、そういうところで規模拡大をし、そしてそういうところで若い人たちが通年雇用をできるような事業を行う。それこそがまさに山村の振興のためになるという信念を今も持っております。</p>

<p><br />
　それから第６次産業化ということも必要であります。１次産業は農林業でありますけれども、農林産物の加工業、そしてそれについては、その食品の安全性ということをよく証明して都市に売っていく。そしてその販路をちゃんと確保していくと。ただ作っても販路がなければ失敗をいたします。それから、その他に３次産業としてグリーンツーリズムによりますきれいな民宿というものを整備していく。あるいは自然環境にマッチした試験研究機関であるとか、研修施設であるとか、そういうものを誘致するということも必要でございましょう。</p>

<p>　さらに３番目として、林業就業者の通年雇用化ということが必要であります。そのためには、通年雇用を行う事業体、あるいは第３セクターを含みます林業事業体がいろいろと経営を多角化して、経営基盤を強化していかなければいけない。小さな土地改良事業等もそういうところが請け負って、そして職員を通年雇用化していくことが必要でありましょう。しかし通年雇用化をいたしますと、最初に申しあげましたように、雇用主は国民年金から厚生年金に変わりますので、雇用主負担がかかる。国保から健康保険に変わりますので、また健康保険料がかかる。労災の他にそういうような保険料を負担するのは大変で、そのために事業体の赤字というものが出てまいります。従いまして、私はそのために基金を積んで、金利は少ないのでありますけれども当分の間原資を食ってでも、地元に「あなた方は通年雇用をするんです。そのために基金がここにあります。従って安心して勤めてください」と、こういうような基金というものを働いている人の近くにおくということが私は象徴的に必要であると、こういうふうに考えております。</p>

<p>　今回の森林・山村に係る地方財政措置の中の600億の中の国土保全対策、ソフト事業、これは第３セクターに対する助成というものも含まれているようであります。そういうものを十分ご利用いただきたいと思います。しかしそれを通年雇用に使えるということをおおっぴらに言ってもらっては困るというのが自治省の考え方でありますけれども、しかし使っても文句は言わないと、私はこういうふうに思っております。</p>

<p>　次に、生活環境の整備であります。住宅等の整備、これは、農山村におきます住宅というのは都市と違って、生活の場と生産の場とが一緒になっているものであります。そういうものに対する設計の配慮、そういうものに対する公的な援助をするときの基準というものをもう少し緩和すべきであると思います。</p>

<p>あるいは交通通信網の整備。これは災害対策の時の問題であるとか、あるいは医療のための通信というものを確保すれば、健康診断の時に画面診断ができるわけであります。教育文化の充実ということの中では、子供が高校になっていくと寄宿舎に移らなければいけなくて大変お金がかかる。そのために生活のために親子そろって集落から出るということがございます。そういうことを防ぐためにちゃんと奨学金を作るべきではないかというふうに思います。医療福祉の充実ということも必要であります。（財）古橋会はかつて、山地で病院を経営しておりました。しかし大学の医局が最後には医者を派遣しなくなりましたので、今はやめて懐古館にしておるのでありますけれども、医療福祉の充実ということは大変重要なことであります。（注：現在診療所開設）</p>

<p>　それから、山村住民のニーズの行政への反映ということが、非常にこれから重要になってくると思います。私はオレゴン州へ行きました時に、その地域でいろんな方々とお話をする機会がありました。そこで、オレゴン・ルーラル・ディベロップメント・カウンセル、農山村開発協会という、制度がありました。アメリカで39の州でそれが設けられているようでありますけれども、その州の職員、そういうものが集まりまして、その地域の振興策に地域毎に取り組んでおるのであります。そして、１カ月に１回程度、その会議を州の各々の地域で開きまして、そこでいろいろな方々の意見を聞くという機会を作っております。そして住民のニーズに耳を傾けて、それに応じた対策をとる。特にその当時はマダラフクローというものの禁止がございまして、国有林伐採の制限が非常に急激に行われました。そのために、山で働く人たちの職業が非常に脅かされました。そういう時に対してそういう山の人たちの不満、あるいは需要をどうやってとらえて対策を講じていくか、それに対して国有林当局というものは非常に熱心に活動をしておりました。さらにまた、その下の組織として、地域レベルにおきましては農山漁村改善協会というものがありまして、それは民間の人々も、商工会議所的な方々であるとか、そういうような方も入って、その地域の声というものがそういう行政に反映されるような仕組みを作っておりました。男女共同参画について、男女共同参画オンブズパーソンというものが必要であると同様に、私はその様な山村オンブズパーソン的な人間というものを地域で作っていく。そして地域の不満を吸収していくという制度が必要だろうと思います。</p>

<p><br />
　次に、ホの21世紀の山村であります。今まで、江戸時代、我が国の人口は3000万でありました。それが今１億2000万人になっております。そのうち9000万人の人たちはどこに行ったか。皆、山から離れて、臨海地の方へ行ったのであります。結果として山村は過疎化を生じました。今、人口が日本全体として将来減少していく中で、いろいろな問題が発生をしてきております。最初に申しあげましたように、循環型社会というものを作る、木の文化というものの伝承をしながら、皆が安心して生きる社会というものを作っていくためには、もう１回、森林での居住というものを皆が考えるという時にきたのではないかと思います。</p>

<p>　そして今、高度情報化社会になっておって、そういう地域との時間的な距離、距離は遠いかもしれませんけれども、都会からの利便との関係において時間的な距離は少なくなってきたというふうに思います。そういうような意味において、もう１回山村を居住の場として見直すということが必要ではないかと思うのであります。</p>

<p><br />
（４）国民参加による森林整備</p>

<p>　</p>

<p>　次に４番目に、国民の理解の上にたった、国民参加による森林整備の推進であります。21世紀の循環型社会形成のためのライフスタイルの変更の必要性について、まず国民の理解が必要であります。量から質、それに伴いまして物質的充足から心の充足、そのために保健文化的な森林の機能が必要でありましょう。簡素な生活ということが必要かもしれません。画一から多様へと、キャッチアップ時代後の創造力ある教育というものが必要であると申しました。そのために、森林空間の利用ということも考え直さなければなりません。集中から分散、今申し上げましたように、都市生活から山村生活というものをもう１回見直しするときがきた。そして、森林の公益的機能の発揮のためには、受益者である国民の参加が必要であります。参加の前提として、森林の機能、木材の特質の理解が必要であります。そのためには、林業基本法と森林法の抜本的改革が必要だと思います。近く、また林野庁長官以下幹部が集るので１回話をしてくれというので行きたいと思っておりますが、今の林業基本法には産業政策的な考え方が非常に入っております。森林法にはある程度環境的な政策が入っております。しかし、これを一本化して国民全体の中において、森林・林業というものを考える法律が私は必要なのではないか。単なる都市と農村と山村との均衡という考え方ではなくて、公益的機能を考えた抜本的な基本法というものをつくるべきである。特に、あまり言いたくはないのですけれども、林業基本法というのは事務官、森林法というのは技官、両者の間がうまくいかなければ、この山村振興はできないのであります。今度、農林省がこの行政改革の中において中山間地域について責任を持つ官庁となりました。もっと総合的な視点に立った政策を立てるようなシステム、法律が必要であると、私は思っております。</p>

<p><br />
　それから、学校教育、社会教育も重要です。実際の体験により森林の機能を理解することが必要です。頭の中で考えたのでは駄目なのであります。経験をする。土砂降りの雨というのはどういうものかということを、実際に上から水を浴びせる。そして、木があるとそれがどういうふうに柔らかく下の地面に伝わるかというような教育であるとか、そういうような教育というものを実際にする必要があります。</p>

<p>　そして、特に言っておりますのは、都市における森林博物館を設置することです。あるいはそれがお金がかかってできないのならば、科学博物館の森林コーナーをもっと充実すべきである。そして、最近、農業土木の方では、水田についてそういうことを、現地において田園博物館構想というのができてきているようでありますけれども、私は都市において、なぜ森林が公益的機能を発揮するのかというメカニズムが子供たちに分かるような模型を作って、ボタンを押せばこうなるからこうなんだと分かるような、そのようなものをつくるべきだと文部省に要求をしたいと思っております。</p>

<p>　それから山村におきまして、現場に即した教育機会の提供であります。山村において、流域単位で、あの山の上に降った雨がどういうふうになって、何年後にこの地下水のここに下りてきている、そして、ここに水田があって、この水田も森林と一緒になって国土保全的な機能があるがゆえに、この流域の下流地域の工場であるとか人々は、どういうふうに利便を受けているのか。そしてまた、漁業の人たちはプランクトンが発生するから、漁業がうまくいっているのだ。そういうようなことが分かるように、現場で教育をする必要があると思います。</p>

<p>　過去において、汚水処理の時に、町村長さんたちの中で、汚い汚水を実際にろ過した後に、その水をとってそこで鯉を泳がせている事例がありました。こうなるのだということを実際に証明することによって、その汚水処理施設がそこにできたという例がございます。</p>

<p>　現地において、そういうことを実際に教育する施設をつくっていく。そういうことを説明する人がいればいいのであります。</p>

<p><br />
　国有林の情報公開。これも必要なことであります。先程も申し上げましたように、国有林を地域とともに学ぶ。そのためにはフォレスター、森林官というものが地域の子供たちにも教える必要があります。実際に「学びの森学園」では、国有林の人たちが子供たちにいろいろな森の機能のことを教え、昆虫を教え、木の種類を教えておりますけれども、そういうようなことが必要なのであります。</p>

<p><br />
　そして３番目に、受益者である国民の森林整備への参加ということが必要であります。それは労働力の提供ということも必要でありましょう。そのためにボランティアによる提供も必要でありましょう。しかし、ここに問題がありまして、ボランティアの中でもいろんな技能程度があります。技能のない方に整備されると経営者はかえって困ってしまうのであります。従いまして、やるべきことは技能の認定。どの程度の技能があるのか、経験があるのかということが分かるようなことを、今、都道府県なり、あるいは地域によって認定をしていただきたいと思います。</p>

<p><br />
　その次に資金的協力であります。上下流の協力、基金の問題は申しました。あるいは下流地域が植栽の資金を提供することです。かつてはいろんな所で、農民が山に木を植え、あるいは漁民が山に木を植えたという例がございます。それから、税を通じた協力でありますが、今回、国有林の公益的機能の発揮にかかる経費について、一般会計繰入を行ったのはその例であります。それから森林交付税というのも、その１つの例でございましょう。森林の公益性というものは、水源涵養だけにとどまらない。一般的な、もっともっと広い、普遍的なものなのであります。従って、交付税という一般財源によって措置すべきであるという皆さん方の考え方というものは、大変説得力があると思います。しかし、なかなかこの運動の実現というものは、私は水源税で２回も関係をしたのでありますけれども、思わぬところに敵が出てきてできなくなったり、その時に腰砕けになる方々も多いのであります。どうぞ、こういう問題も考えていただきたいし、将来、炭素税という問題が必ず地球温暖化の関係で出てくると思います。「反対が多いのでやらない。」と言っておりますけれども、北欧においてはこれは当たり前、この炭素税は我々が生命保険の保険料を払うのと同じものだという考え方でやっております。</p>

<p><br />
おわりに</p>

<p>最後に、若干時間を超過しますけれども、２、３分お話をして終わりにさせていただきたいと思います。</p>

<p><br />
　昨年12月に、私は林政審議会の答申を出しまして、最近、この答申に基づきまして国有林野事業改革関連法、あるいは森林法の改正が成立いたしまして、先祖に対して報告でき何となくほっとした感じでございます。私の曽祖父の源次郎暉兒（テルノリ）、あるいは祖父の源六郎義真がおりましたけれども、山村振興に一生を捧げてまいりました。明治11年に私の曾祖父が濃尾大演習に招かれまして、名古屋の方に出たのであります。途中の峠に伊勢神峠というのがあります。その伊勢神峠に来てこの下流地域を見ますと、そこには水田がいっぱい広がっている。そこで我が曾祖父は、どうして神様はこんなにえこひいきをなさるのだろうか、山の民も里の民も同じ国民でありながら、どうしてこういう幸不幸というものが起こるのだろうか、と反問したのであります。帰りに、またこの伊勢神峠に帰って参りました。そして悟りを開きました。山の民には樹木を神様が与えてくださった。平地の民には農産物を与えてくださった。海辺の民には魚と塩というものがある。それぞれその所に従ってその誠を尽くすと、そういう者に幸福を授け賜うのが神様のお志であるというふうに悟ったのであります。その時に作った歌が「玉幸う（タマチオウ）　神のまにまに仕えなば　貧しき人の世にあらめやも」というものであります。そして、その後、100年計画の植樹を実行をいたしました。さらに農林一体ということで、全国に先駆けて、農談会を開催いたしましたが、それが帝国農会の基礎となりました。そういうものをつくって、自分たちで自立してこの山村を守っていこうということを考えたのであります。</p>

<p>　私も故郷に帰りますと、この曾祖父が植えました100年以上の林の間を歩むのを大変楽しみにしております。その時に木の間からいろんな声が聞こえてまいります。先祖の声でございます。「お前たちは、我々先祖が一生懸命に育てた森を荒らしているのではないか。健全な姿で世の中に引き継いでいきなさいよ。」というふうに聞こえてならないのであります。</p>

<p>　日本の森林を守っていくためには、先程も申し上げましたように、地元の市町村の方々、そういう方々が中心となって、情報を発信しながら、全国民の支持を得て運動として進めていく必要がございます。森林が衰亡した文明というものは、必ず衰退をしていく。それが歴史の教えるところでございます。森林を守るためには「権限、人間、財源」の３つを確保していくことが必要で、そのための基礎条件づくりが重要です。そのためにこの森林交付税特別促進連盟がますます発展されることを心から念願いたしまして、お話を終わらせていただきたいと思います。 <br />
<hr><br />
（古橋源六郎　プロフィール）<br />
1932年生まれ。愛知県出身。1955年東京大学法学部卒業後大蔵省に入省、農林主 計官、関税局総務課長をはじめ、総務庁長官官房長、総務庁総務事務次官、石油公 団副総裁、国家公務員共済組合連合会理事長等を経て、現在内閣府男女共同参画会 議議員、（財）ソルトサイエンス研究財団理事長、（財）日本交通安全教育普及協 会会長。（財）森とむらの会副会長、文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識 者会議代表を務める。 元林政審議会会長。 </p>]]>
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<title>山里紀行　＜第１３４回＞ 一次産業の未来</title>
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<modified>2005-03-25T13:27:41Z</modified>
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<summary type="text/plain">(平成１４年６月５日発行の「山林・No14１７」より転載)  　上野村の畑では、...</summary>
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<![CDATA[<div align=right>(平成１４年６月５日発行の「山林・No14１７」より転載) </div>

<p>　上野村の畑では、六月に入ると、いろいろな作物が大きく葉をひろげている。「別に作らなくてもいいのだけれど」と言いながら、誰もがそれなりに畑作をつづけている。</p>]]>
<![CDATA[<p>　いまでは、村人の九割以上の人たちが、農業収入を得ていない。ほとんどの人が私と同じような農業をしていて、作物は自家消費用と贈答用に回されている。それに、食生活の変化で昔ほど野菜を食べないから、自分の分くらいなら店で買っても、それほど負担になるものでもない。</p>

<p>　それでも村人は畑を耕しつづけている。村の人間としては、そうしないと何となく村で暮らしている気がしないから。それもあるだろう。だが、それだけが理由でもない。上野村の大多数の人々にとっては、農業は産業ではない、というもう一つの面が。</p>

<p>　私が上野村を訪れるようになった三十年ほど前には、農業で生計を支えている人々がいっぱいいた。どこの家でも、農業はそれなりの収入をもたらしていた。ところが中国から農作物が入りだした頃から、主産物であった蒟蒻などの価格が暴落する。山間地で作られる作物は何もかも価格が下がり、村の農業は深刻な状態にたたされた。</p>

<p>　といっても、その頃村人を苦しめていたのは、収入が減る、という問題だけではなかった。自分の労働が、バカにされているような気がしたのである。誇りをもって作ったものが、子どもの駄賃のような結果しか生まない。それが、自分の労働に対する現代社会の評価だとすれば、自分は何のために労働をしているのか。</p>

<p>　二十年ほど前になると、多くの村人が出荷をやめている。それから数年がたつと、ほとんどの人が出荷に応じなくなった。そのかわり、農業を楽しみ、作物を自分で利用し、作物の価値がわかる人々に、あげてしまうようになる。そのほうが、市場経済の評価にさらされるよりよい。そうやって、村人は、自分の労働の誇りを守ろうとしたのである。</p>

<p>　このことが、誰もが農民である、という雰囲気を維持させたのかもしれない。市場経済の動きに左右されることなく、誰もが畑を耕しつづける村が、こうして生まれた。もちろん、それは、一面では残念な現象である。しかし、それでも、村人はみな農民というかたちが守られた結果、農業と結びついている祭りや習慣も、畑を作っているがゆえに得られる農民たちの共有された世界も維持されている。多くの人々が市場経済に影響される農業から離脱した結果、守られている村の世界もある。</p>

<p>　もしかすると、それは、これからの一次産業のひとつのあり方を示しているのかもしれない。なぜなら、一次産業は、産業として成り立つことも重要だけれど、産業として成り立つ、成り立たないにかかわらず維持されることは、もっと重要だからである。なぜなら、一次産業を誰もがしなくかってしまったら、村に暮らす人間としての誇りも、一次産業があるからこそつくられる村の雰囲気も、村の文化や行事、祭りも失われてしまうだろう。それは村という地域の衰退につながる。</p>

<p>　そして、もっと積極的に述べれば、地域社会と深く結ばれた一次産業は、どのようなかたちであれ、非市場経済的な部分に包まれていなければ、これからは存続しえないのではないか、という気が私にはするのである。市場経済の論理だけで一次産業をおこなおうとすれば、国際競争にも巻き込まれるし、価格競争にもさらされる。それは、多くの農家の敗退をもたらすだろう。この道は、地域とともに歩んできた一次産業を衰退させるだけである。</p>

<p>　むしろ逆に、私たちは、一次産業は非市場経済的な価値や役割をもっているとき、存続しうるのだと考えたほうがよいのではないだろうか。たとえばそれは「産直」などにもいえることで、「産直」は農民と消費者が市場経済の論理を超えた別の価値で結ばれることによって、農民の収入の安定をも実現させていこうとするシステムである。つまり、一次産業は収入を確保するためにも、非市場経済的なものに包まれている必要があるのではないだろうか。私はそこに、グローバル化していく市場経済に対抗するローカル経済の、可能性があるのではないかと考えている。</p>

<p>　おそらく林業でも同じことがいえるだろう。市場経済の論理を超えた価値を提案し、その価値を守ろうとする人々の結びつきが、これからの経営としての林業をも支えていくことになる、と。</p>

<p>　とすると、課題は、この非市場経済的な価値の維持を、どのようなシステムによって保証するか、であろう。もしかすると、その役割をはたせるのが、今日のボランティア、NPO、ネットワークといったものではないだろうか。</p>

<p>　ローカル性に立脚した一次産業は、その外側にNPO的なまといをもつことによって、これからは持続できると私は考えている。 <br />
<hr><br />
（著者紹介）</p>

<p>■　内山　節<br />
　・・・ジャンル・領域は、自然哲学・農（山）村社会学</p>

<p>■主な著書・雑誌記事等</p>

<p>『自然と労働』　農文協<br />
『自然、労働、協同社会の理論』　農文協<br />
『自然と人間の哲学』　岩波書店<br />
『時間についての12章』　岩波書店<br />
『自由論』　岩波書店　他<br />
『山里紀行　山里の釣りから』日本経済評論社<br />
『里の在処』新潮社<br />
『森にかよう道』新潮社<br />
『貨幣の思想史』新潮社　他 </p>]]>
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<title>森林から生まれた文化 </title>
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<![CDATA[<p>　コンピュータネットワークがもたらすグローバリゼーションは経済のみならず、社会の仕組みにも変化をもたらし、現代文明そのものが揺らいでいる。20世紀とは異なる価値観が伝統や家族、信仰に対峙しつつある。「文明」というシステムが揺らいでいるなかで、その基盤をなす土壌ともいうべき「文化」は時間を超越し、その気候、風土、民族にとって普遍的なものとして存在し続ける。グローバリゼーションの荒波の中で人々はそのアイデンティティを求め、自らの基盤となる文化を確認しようとする。日本社会では再生可能な生物資源をふんだんに利用した「木の文化」をその特徴としてあげることができる。西欧文化と本質的に異なる循環型社会を築いてきた日本文化を最も端的に表現しているのが、法隆寺に代表される木造建造物である。こうした木の文化を育んだ背景に豊かな森林があり、この森の恵みを巧みに利用してきた伝統工芸技術があり、その表現形として壮麗な木造建造物がある。しかし、多くの国民にとってこうした木造建造物とこれを支えてきた森林との関係を連想することは困難である。</p>]]>
<![CDATA[<p>　 近年、森林の多面的機能が評価され、国土保全や水源涵養に加えて「文化的機能」が示されている。森林が現代人に与える精神的影響については健康科学の観点から研究がなされているものの、大きな時間的広がりの中で森林が有する文化的価値については評価されているとは言い難い。すなわち、温暖かつ湿潤な気候の下で形成された日本の森林が優れた材質の樹木を育み、長い年月をかけて文化的建造物の資材となってきたことについて十分な分析がなされていない。奈良・平安時代に建造された建物の資材が一体どのような森林から供給されたのか？こうした森林は日本のどこにどれだけ残されているのか？このような疑問に応えるのに必要な情報を我々は十分に持ってはいない。</p>

<p>　 人類の文明が発祥した頃、陸地の多くは森林で覆われていた。現在もおよそ3割を占めている。しかし、森林の最大の産物である木材を用いて大型建造物を築いてきた文化はあまり多くなく、その中で日本の木の文化は世界に類を見ない高い水準を誇っている。この木の文化を理解することは日本という地域とその民族を理解する上で非常に重要である。</p>

<p>　世界の森林は現在も毎年900万haの割合で減少を続けており、その原因は貧困や人口の増加を遠因とする無秩序な用材や薪炭材の伐採、家畜の過放牧や農地への転用などである。今後も食糧,住居、燃料の確保のため森林への圧力が高まるであろう。これに対して、わが国では国土の２／３が森林で覆われており、世界で群を抜く高い森林率を維持している。文明の発達とともに森林の減少が続いてきたが、なぜ、日本だけが高い文化を保ちつつ、豊かな森林を守ることができたのであろうか？そして、高度な木の文化を築くことができたのであろうか？このことは私たち日本人が世界の中でのアイデンティティを見出すために見逃すことのできない重要な点である。わが国の急峻な地形が、他の用途、特に農用地への転用を阻んできたのは事実であるが、森林の再生力の高さにも注目するべきである。東アジア地域の東端に位置し、豊富な降水量と温暖な気候に恵まれ、インド亜大陸から続く暖温帯林とユーラシア大陸の北部から連なる冷温帯林が交じり合った多様な樹種からなる森林は、気候の変動など環境の変化に対応できる柔軟な構造を備えている。こうした森林から、ケヤキ、クリ、クスノキ、ヒノキ、スギ、マツなどの耐久性の高い、優れた構造材を見出したのは日本列島独特のものである。さらに、檜皮のように樹皮の耐水性を利用して屋根を葺くという発想や漆、和紙といった植物性資材の独創的な活用法は日本文化に固有のものである。現在わが国で世界文化遺産として登録された建造物の大部分が木造建造物である。また、国宝・重要文化財に指定されている3600棟強の建造物の約90パーセントが木造であり、また、約23パーセントの屋根が檜皮葺きで、約12パーセントが柿葺葺き、約10パーセントが茅葺きである。したがって、重要文化財建造物のほとんどが木造であり、約半数近くの屋根が植物性資材で葺かれていることになる。</p>

<p>　西欧文化を象徴する構造物が石や煉瓦造りのため再構築を想定しない一回限りの有限のものであるのに対して、わが国の木の文化では植物材料を使用しているため、樹木が再生することにより繰り返し同じ物を構築することができる。伊勢神宮の20年おきの遷宮が最も典型的な事例である。こうしたやり方は構造物も無限のものであるという考えに基づいている。わが国の優れた木造建造物は多様で豊かな森林なくして成り立ち得ないもので、世界の他の地域と大きく異なる土壌を有していると言うことができる。われわれはこの点に注目するべきである。有限な資源の中で21世紀の世界はその進むべき方向を模索しているが、自然と共生することを原点におく日本の木の文化はこれに重要な指針を与えることのできる優れた文化であり、木造建造物はその象徴として評価されるべきである。そして、日本の森林はこうした木造建造物を後方から支援する存在として評価されるべきである。このことは森林の新たな価値の創生に繋がるものである。</p>

<p>　 このような日本文化を維持してゆくためにはどれだけの資材が必要であって、どのように森林を維持してゆかねばならないのかを明らかにしておく必要がある。</p>

<p>　 例えば、檜皮について述べれば、檜皮葺屋根資材として生木のヒノキから採取した樹皮で、樹齢70〜80年生以上のヒノキから採取する。採取した後、新たな樹皮が生成されるまでに最低８年間を要するため、採取周期は８〜10年である。初回の採取の樹皮は「荒皮（あらかわ）」と称し、檜皮材として使用できる割合は２〜３割であり、２回目以降で初めて本格的に檜皮材が採取できる。現在、国宝と重要文化財に指定されている檜皮葺の建造物は728棟であるが、これを維持するために年間約 3,500平方メ−トルの屋根の葺き替えが必要とされている。このための檜皮材は210トンになる。ヒノキ立木1本から採取できる檜皮材は平均6キログラムであるので、毎年3万5千本の高齢ヒノキを用意しなければならない。これを10年周期で行うためには、10倍の35万本のヒノキ立木が国宝と重要文化財の檜皮葺屋根の維持に必要である。このような文化財に指定されていない檜皮葺も多数存在しており、檜皮材採取に必要なヒノキ立木本数はこの数倍になるものと考えられる。一方、檜皮の材料となる高齢級のヒノキ林は所有者にとって貴重な財産でもある。この高価値なヒノキ林が樹皮採取によってもその価値を損なうことがないことを十分に検証しておく必要がある。 </p>

<p>　奈良の法隆寺は日本の木造文化財を代表する建築物である。この法隆寺の主要な構造材はヒノキである。ヒノキ材は年輪が明らかで細かく、特有の芳香と光沢があり、耐久性が高く、かつ長年強度が維持される。加工しやすく、狂いにくいという特徴を併せ持ち、中世以前の木造建造物の大半はヒノキを用いている。現在、我が国のヒノキ人工林は250万ヘクタールにのぼるが、大半は若齢であり、植栽時の林分密度が低いため天然木と比較すると木目や強度の面で懸念が残る。木曽ヒノキは良質な天然木の代表とされるが、こうした天然林を維持するには適度な伐採による更新面の確保が必要である。豊臣秀吉時代の強度な伐採が現在の木曽ヒノキを生み出したが、徳川時代以降の保護政策はアスナロの更新を促進させ、ヒノキの後継樹の確保は十分であるとは言い難い。例えば、木曽谷の赤沢自然休養林は木曽ヒノキ天然林で有名である。ここではそのシンボルである木曽ヒノキは手厚く保護されており伊勢神宮の神木を除いて、伐採の対象にはされていない。しかし、その結果として多くの人々が訪れる自然休養林にはヒノキの後継樹が育っていない。多くの人の目に触れるところから積極的にヒノキを切り出して、著名な木造文化財の修復に使用し、実際に熟練した原皮師により檜皮を採取し、樹木にどのような変化が生じるかを示す必要がある。そして、林床の明るくなった森林でヒノキの稚樹が育つことを見てもらうべきである。適切な森林管理の必要性を広く国民に訴えることが必要であり、こうした一連の動きが広く国民の目に触れる場として「木の文化の森」の設定を提案する。 </p>

<p>（ 「林木の育種」206号（2003年1月）に掲載） </p>]]>
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<title>世界遺産における文化的景観の保護 </title>
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<![CDATA[<p>　日本では、世界遺産の保護の現場で使われている「カルチュラル・ランドスケープ（cultural landscape）」という言葉を「文化的景観」と訳しています。この文化的景観という言葉の意味を、この月報の読者の皆様はどのように解釈されているでしょうか。</p>]]>
<![CDATA[<p>　つい数か月前、私の勤めているイクロム（文化財保存修復研究国際センター）という国際機関で、この文化的景観の保護に関する専門家研修のカリキュラムについて話し合う準備会議がありました。そのとき会議の参加者の一人から、この言葉が示す概念の定義にまだ慣れていない人々は、この「カルチュラル・ランドスケープ」という言葉を「ナチュラル・ランドスケープ（natural landscape）」、すなわち自然景観に相対する人工的な景観のことと狭い意味に解釈してしまうかもしれないとの指摘がありました。すなわち景観を自然の景観と人工的な景観の二つに分ける、その一方のみを示す言葉という訳です。確かにほぼ同じ内容を示す遺産の概念を単に景観（ランドスケープ）と称している場合もあり、例えば二〇〇〇年一〇月に欧州会議で採択された「欧州景観条約」はそうした例の一つです。</p>

<p>　イクロムの専門家研修は、参加者を世界遺産関係者だけでなく広く多分野から募ります。またこの研修は自然遺産の保護の分野にも参加者を募りたいと思っています。ですから、研修の表題が一般の人々にどのような印象を与えるかには気を使います。私は、この文化的景観という言葉が示す概念を、それが育ってきた世界遺産の場で学びました。つまり概念を言葉より先に学びましたから、こうしたことには思いが及びませんでしたが、しかし言葉が示す内容をはっきりさせておくことは重要なことかもしれません。詳しくは後に述べますが、結論から申し上げますと、文化的景観は自然景観と人工景観の両方を含む、そして自然遺産と文化遺産の境界に位置する遺産の定義です。</p>

<p>　世界遺産関係の会議を含め国際会議は、英語を主たる言語として開かれる例が圧倒的に多いのが事実です。そしてどうしても議論はその時に用いられている言語の制約を受けてしまいますから、つまりは英語そしてその語源となるラテン語が持つ先天的な意味に引きずられ、ともするとこれらの言語圏での言語論・歴史論に陥り、遺産の保護を現時点で公平に論ずるという本来の主旨からはずれてしまうことが多くあります。私はこのことを、例えば文化遺産のオーセンティシティ（真実性）に関する会議、モダーンあるいはモダニズム建築（近現代建築）の保護に関する会議などいくつかの国際会議で痛感してきました。文化の多様性を大切に考えなくてはならない立場からは、こうしたことにならないよう会議の主催者・参加者ともども十分に注意しなくてはならないことです。</p>

<p>　幸いなことに実態が先行する文化的景観については、先に述べたような概念の知名度の問題を除き、余りそうした問題が生じることはないのかもしれません。しかし非英語圏・非ラテン語圏の我々が受身になってしまうことがないよう、議論の内容をきちんと自らの言葉で消化し、国内の身近な遺産の保護に役立て、また世界に向けて発信していくことは重要なことと思います。このことは最近特に気になっている事柄ですので、少し本題からはずれることになりましたが、まず初めに述べさせていただきました。</p>

<p>＊　＊　＊</p>

<p>　さて世界遺産と文化的景観の問題に戻りたいと思います。文化的景観の保存は世界遺産条約の専売特許では決してありません。例えば日本の名勝の保存にみるように、主だった国々は、もちろんすべてではありませんが、それぞれに内容の差はあれ何らかの形で景観の保存の制度を持っています。しかし自然遺産と文化遺産の両方を同時に扱うことのできる世界遺産条約の場において、文化的景観は、単なる美しい景色という概念を超えてその特色を最も効果的に発揮し、保存の世界に積極的に働きかけてきたように思います。</p>

<p>　世界遺産委員会が文化的景観を世界遺産の対象として正式に導入することを決めたのは一九九二年に米国サンタフェで開かれた第一六回委員会の時です。この時に世界遺産委員会は、世界遺産条約の実行のために自らが定めている運営指針を改訂し、全部で八条からなる文化的景観の認定と保存に関するガイドラインを追加しました。文化的景観は、ここでは、「人間とその自然環境の交流をさまざまに表現するもの」と定義されています。この場合の表現は物理的なもの、精神的なものを問わず、重要なことは交流という無形の部分に遺産の価値を見出していることです。</p>

<p>　運営指針は、文化的景観の例を大きく三つのカテゴリーに分けて説明しています。最初のカテゴリーは、最も古典的な景観の定義、人が意図的に作り出したいわゆる庭園や公園などです。このカテゴリーは、文化的景観の定義を新たに導入しなくても十分従来の文化遺産の認識で認識され、また保存されてきた遺産のタイプです。世界遺産委員会が文化的景観の新たな定義を明文化し、広く普及させる必要を認めたのは、むしろ残る二種類の遺産の認定・保存のためです。</p>

<p>　人はその長い歴史の間、自然と共生し、自然の恩恵を受けて生きてきました。残る二つのカテゴリーはいずれもこの人と自然の共生の歴史をより積極的に評価する遺産ですが、前者が物質的なものに、後者が精神的なものに重点を置いている差があります。前者、すなわち三つのカテゴリーの二番目は、人が自然に手を加えながら、どのように自然とともに生きてきたかを示す遺産です。自然利用あるいは土地利用のさまざまな形態を対象とするこのカテゴリーの遺産を最も分かりやすく示しているのは、例えば棚田だと思います。重要なのは自然との共生の証拠で、人の一方的な自然破壊を示すような自然利用の例を加えることを想定していません。また自然という枠組みからは少しはずれますが、世界遺産の場での文化的景観は、巡礼道や運河のような文化の交流の証となるような線状の遺産も含めています。フィリピンの棚田やオランダの埋立地に示されるように農業景観はすでに世界遺産リストに登載され始めていますが、まだ漁業、遊牧に関連する文化的景観は登載されていないように思います。</p>

<p>　そして最後は、これが文化的景観の中で最も注目を集めているところですが、人と自然との精神的な交流、人が自然とどのように対話してきたかを象徴的に表す遺産です。人の自然への怖れ、あるいは親愛といったものが、宗教、文学、芸術などの形をとってあらわれる、その無形の部分に価値を見出しています。詩歌や絵画などに繰り返し引用され、その民族や文化にとって重要な意味を持つ景観などがこれに含まれます。そしてこのタイプの遺産を最も分かりやすく示すのは、多くの民族が原始時代から共通してもつ聖なる山の概念だと思います。いわゆる既成宗教に限らない、より生活に密着した自然への尊敬です。多様で豊かな文化を背景とした数々のアジアの信仰の山は、このカテゴリーの遺産を代表する役割を期待されています。</p>

<p>＊　＊　＊</p>

<p>　それでは文化的景観は、どのようにして世界遺産の場にとりこまれることになったのでしょうか。そしてどうしてこんなに注目されることになったのでしょうか。少しその背景について文化遺産の側から考えてみたいと思います。世界遺産は、世界遺産でない遺産の保存の世界から隔絶したところに存在している訳ではありません。世界遺産は世界遺産となる前に、そして世界遺産となった後もその遺産が所在する地元の人々の遺産であることに変わりはありません。また保存の専門家も両者を同時に扱っています。世界遺産の場は隔離された世界では決してなく、保存の世界一般での出来事の先端的な部分をすくい上げ、世界遺産からのメッセージとして分かりやすい形で私たちに投げ返すという役割を担っていると私は考えています。</p>

<p>　いま文化遺産の保存の世界には大きく二つの動きが認められると思います。一つは文化遺産とは何かということを問い直す動きです。建築や考古遺跡など、文化の多様な表現のうちの物質的な部分のみを個々に遺産として認定してきた過去から脱皮して、文化の多様な表現を総体的にとらえようとする動きです。その背景には、文化の多様性への配慮が存在します。形の美しさや、歴史的影響の大きさに依存すると、どうしても優品主義に陥り、結果として大文明のとりわけ欧州の建築・考古遺産にリストが偏ってしまいます。文化的景観の世界遺産の場への導入に前後して、１９９０年代初めから世界遺産委員会は、どのようにしたら世界遺産リストの不均衡を是正して、世界の多様な文化の表現をとりこむことができるか考えてきました。世界には、その文化を恒久的な材料で表現しない民族が数多くあります。農耕や狩猟、漁業など自然の利用形態、また口承などで歴史が語り継がれている文化が数多くあります。文化的景観は、こうした形態の遺産をすくい上げるという期待をになって導入されました。無形の価値の認識、自然環境への連携がテーマです。文化遺産の保存の専門家が組織する世界的な団体であるイコモス（世界記念物・遺跡会議）の次回総会のテーマは、遺産の無形の価値で、アフリカ・ジンバブエで開かれる予定です。</p>

<p>　そしてもう一つの動きは、遺産の保存を専門家だけの閉じられた技術的な世界から、遺産の保存を支える地元社会を含むより大きな社会の枠組みに連携させ、自立的な遺産の保存のシステムを育てようとする動きです。ここでは開発や観光がキーワードとなります。世界遺産委員会での既存の世界遺産の保存状態についての議論では、遺産そのものの物理的な保存よりも、それを支える地元の伝統的な社会の崩壊、遺産周辺での大規模な道路や橋の建設などインフラ整備、大資本による観光開発が問題になる例が増えています。文化的景観は、人を取り巻く自然環境が対象で、その利用形態であれ象徴としての役割であれ、地元の伝統的な文化との関係を重視しますから、社会のゆるやかで人間的な発展、土地利用の急速な変化の抑制、伝統的土地利用の多様性の維持に貢献することが可能です。この特集の副題である昨年九月に日本で開かれた「アジア・太平洋地域における信仰の山の文化的景観に関する専門家会議」でも、聖なる山は伝統的にその利用が制限されているところから、その環境保全への貢献への期待が議論されました。文化的景観はここでも大きな役割を期待されています。細かいことを申し上げれば、世界遺産条約の上では文化的景観は現状では文化遺産の側に区分されています。しかし実態として、自然環境を媒体として文化遺産と自然遺産の境界領域に位置する文化的景観は、双方の専門家の交流を促し、文化遺産の保存の側にとっては、とかくおきざりにされがちな文化遺産の保存の問題を、環境保全と同列に並べて考えるまたとない機会を私たちに与えてくれています。先に文化的景観は文化遺産と自然遺産を同時に扱う世界遺産条約において最も効果を発揮していると述べた理由です。 </p>

<p>＊　＊　＊</p>

<p>　世界遺産が有名になるにつれ、その功罪が専門家の間で議論されることが増えてきたような気がします。多くの人の、それもマスコミや資金を潤沢に持つ援助側の関心が世界遺産に集中することが、とりわけ文化遺産を、世界遺産とそうでない遺産の二つに二分してしまったとするものです。一般の人々の文化遺産に対する認識を、せめて自然遺産と同じ程度にまで高めることができたらと、文化遺産の専門家は考えています。誰にとっても、世界遺産であるグレートバリアリーフの海水の汚染を、子供たちの飲む身近な水の汚染の問題に直結させて考えるのはそれほど難しいことではないのに、また大規模開発の際には環境アセスメントが必須であることは開発者側にも十分周知されているのに、文化遺産の側にはそこまでの認知度はまだありません。例えばアンコールの遺跡を訪れる日本人観光客のどれほどが、遺跡の保存と、周囲のすばらしい自然環境、そしてそこで遊ぶ子供たちの生活を直結させて考えてくれているでしょうか。これも文化的景観の議論の普及が世界遺産の保護の現場で期待されている役割の一つです。 </p>

<p>（文化庁月報２００２年１月号より転載 ） </p>]]>
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