里山としての国有林

滋賀森林管理署長  飛山龍一

 稲作のために、ある山野の開墾が千年前に行われたとすると、一世代を二十年として里での営みはわずか五十世代です。それぞれの世代は、里山とどのように向き合い折り合いをつけてきたのでしょう。
 仮に、入会慣行がある又は入会慣行があったような森林を里山と称するなら、滋賀県南部の森林は国有林を含めほとんどが里山と考えて良いでしょう。ただし、一口に里山といっても時代や地域によってその姿は千差万別です。森林が持続的に利用されてきた時代や地域もあれば、林産物等が過度に収奪され荒廃した時代や地域もあるし、放置されたり開発されたりした時代や地域もあります。
 現象としての森林とその背景にある自然や歴史・文化を調べてみるのもおもしろいですね。今後、里山とどのように向き合っていくかを考える上で参考になることでしょう。

<滋賀の国有林の成立 その1>

□国有林の成立は、明治政府が藩有林であった森林を官有林とし、社寺領地についても境内林を除いて官有林としたことが始まりです。また、その他の森林についても、土地官民有区分等により民有林と官有林との区分がなされてゆきます。
 しかし、近畿地方の国有林は九州や東北、北海道の国有林と比べ極めて少面積で、同じ滋賀県でも湖南地域と湖北地域とではその成り立ちが異なります。ここでは湖南地域の国有林について説明します。

■滋賀森林管理署の1〜3林班(林班とは国有林につけられた林地番号)は、高島市(旧高島町)の嶽山の南西斜面で「南山・天狗岩山」と呼ばれているところです。湖西の山の多くは草刈りや炭焼きなどに使用されていましたが、南山・天狗岩山は江戸時代中期頃から嶽山の麓の二集落が入会を巡って山論を繰り返していました。その後、大溝藩は山論が激化したためにここを差留山にしました。明治維新を迎え、山論を繰り返してきた二集落がそれぞれの所有を主張して訴訟を起こしますが、結果は「論所ナル山地ヲ所有セン確証ト為スヲ得サルニ付、地方官ノ処分ヲ受クヘキ事」となり、明治15年に官林指定という行政処分が下されます。

■JR北小松駅の西、比良山の麓に馬ヶ瀬国有林と呼ばれている10林班があります。江戸時代は天領だったところです。国有林と里の田畑との境には猪や鹿の進入を防ぐ猪鹿垣が残っています。猪鹿垣は石を塀状に積み上げたもので、江戸時代の終わり頃に湖西の各地で作られます。村人の労苦を思うと感慨深いものがあります。当時、何らかの原因で猪や鹿が増えたのかもしれません。比良山系は屏風を立てたように南北に続いており、集落も比良山に沿って点在しています。穿った見方をすれば、一箇所で猪鹿垣が作られればその両端で被害が集中することになり、各集落が競って猪鹿垣を作ったのかもしれません。

■大津市街地の裏山17〜28林班は幕府や膳所藩が領有していました。膳所藩の御山も江戸時代中期にはかなり荒廃していましたが、御山方を置き保護監視を行いました。

■59〜62林班は三上山です。徳川秀忠が三上山の荒廃状況を憂い、山への植林と保護を命じたという記録が残っています。三上山に限らず、滋賀県南部の森林はその当時からかなり荒廃していたようです。現在、森林管理署と三上地区は共用林野契約を結んでいます。共用林野制度(前身は委託林野制度)とは、入会慣行を入会権として認めない代わりに、その林野の保護を地元集落に委託し、代償として一定の林産物を譲与する制度です。

■大戸川を挟んで龍谷大学瀬田キャンパスから見える山々が田上山系です。ここにまとまった国有林があります。北に位置するのが竜王山・金勝山、南に位置するのが六箇山・太神山です。いずれも田上地域の集落の入会慣行があったところです。今でも少し岩肌が露出していますが、明治維新前後の林地荒廃は著しく「田上の禿」と呼ばれ全国にその名が知られていました。以下、この地域について少し掘り下げて説明します。


<滋賀の国有林の成立 その2>

□金勝寺の寺領だった山林は明治維新後官有林に編入されます。当山林は複数の集落の入会林となっていて、過収奪のため林地はかなり荒廃していたようです。官有林編入後、下戻し運動を展開した集落もあれば、入会を放棄した集落もあります。

■竜王山・金勝山等の山林は金勝寺の寺領だったところです。後に金勝寺が山科の毘沙門堂の末寺となったため、毘沙門堂門跡が代官をおいて領有していました。幕末「金勝寺年々納高凡取調帳」(小林義胤家文書)によると、金勝寺の立木の十三か年間の売上代金が二千両とあり、さらに荒張村をはじめとする村むらからの一年間の山年貢の合計が、米四九四俵二斗六升とあります。
 林産物を過度に収奪し続けたために、「幕末の天保年間ともなると、十九道山は、上砥山村を山親に十八カ村の立会山であったが、「惣て岩山にて草木生え立ち悪しき」山林であったため、年々の草木の採取により、禿山同然になってしまった。そして、林の価値が失われるにつれ、立会村々は、次々に「上げ山」として入会権を放棄していった。」という状況になりました。そして、金勝寺の寺有林は明治4年の社寺上地の太政官布告により官有地になります。 (補足)十九道山は竜王山の北山麓

■竜王山の北山麓は明治36年に国有林から栗東市側の地元集落に下戻しされます。明治23年に民有林の証拠ある官林は返還するとする農商務省訓令が発出されたのと、近隣で下戻しの事例があったことを受けての下戻し請求(明治29年)だったようです。ただ、下戻しを受けた林地の荒廃は著しく、明治37年には金勝村山林保護組合を設立し(後に財産区になる)、保護・植樹を進めました。現在は、生産森林組合の所有となっています。

■これに対し、竜王山西山麓の一丈野(奥山南谷・奥山北谷)は国有林のまま今日に至っています。荒廃が著しかったところで、明治16年から治山事業が開始され、治山治水事業発祥の地とも呼ばれています。こちらは栗東側のような下戻し運動には至らなかったようです。理由は定かではありませんが、荒廃が著しく使用価値がなかったこと、地租改正に伴う納税を敬遠したこと等が考えられます。


<村の人は山をどう見ていたか その1>

■入会慣行を巡っては17世紀頃から集落間の相論が激しさを増してきます。このため、田上地域でも入会慣行のルールを定めています。正徳六年(1716)、現在の上田上地区の牧庄六ヶ村は、盗み取りを厳しく禁じ、盗人があった場合、罰金だけでなく、盗人の村の請地は被害村請地にすることを内容とする請所山法度を定めます。
 牧庄六ヶ村請所山法度書の事
一、去ル未年奥山請所ニ御願い申し上げ、仰せ付けさせられ下され候ニ付き、尾根・谷長横縄引き、地幅・間数・坪詰、帳面二記し、六ヶ村家数ニ相違無く禄々ニ割り付け、封切りニ境目に立て、之を請け取ること。
一、右の請山え他村□来たり盗み居り候を見付け候ハヾ、其の場所にてはぎとり(剥ぎ取り)、其の上くわたい(過怠)として米弐俵取り申す筈二相極メ置キ申し候。即ち盗人の山ハそ其の村え取り上ゲ、村の支配ニ仕る可き事。
一、山盗人を見付け候ハヾ、右のくわたい米其の村の庄屋より見付け主へ相渡し申す筈、若し、又見逃シニいたし、脇よりし(知)れ候ハヾ、盗人同罪ニくわたい取り申す可き事。
一、村々奉公人、主人の山より外の山を盗り候ハヾ、主人より米壱俵、其の奉公人より同米壱俵宛取り申す可き事。

■また、山道の通行止めもしばしば行われます。他の集落の者が柴や薪を大津などの消費地へ運搬・通行するのを阻止するもので、入会林野から柴や薪が盗まれるのを防ぐ目的があります。その背景にはこの地域における林産物の商品化が読み取れます。


<村の人は山をどう見ていたか その2>

□昭和40年代に里の生活が激変します。当時の村人が山に何を感じていたか興味があるところです。昭和41年に入会林野の権利関係の整理を目的とした法律が成立し、入会林野の多くが生産森林組合や農業生産法人等の所有地となりました。
 以下は、和歌山県の事例ですが、入会林野近代化事例集−第2集− 全国市町村林野振興対策協議会からの抜粋です。

■〜あいさつ〜 昨年(昭和41年)7月、「入会林野等に係る権利関係の近代化の助長に関する法律」が制定されましたことは、わが国の農林業振興のため喜びに堪えません。御承知の通り、戦後の高度経済成長は農村、山村地帯において人口流出による労働力不足や生活様式の平準化をもたらして農林業経営や生活条件に大きな変化を与えておりますが、とくに入会林野は昔日の役割をまったく失い、もはや、地元農山住民ないし、市町村にとってもそのままでは宝の持ち腐れといってよい現状にあります。こうした入会林野について、そこに存する複雑な慣行的権利を近代的な所有権あるいは用益権に転換し、各人をして文字通りの権利者たらしめ、その意欲をもとに農林業の面で高度利用を企画することは、経営規模の拡大が叫ばれ、生産力の拡充が必要といわれる今日、きわめて大きな意義があると存じます。 〜 中略 〜
 この見事なみかん園が昨日まで猪など野獣がちょうりょうする藪山であったことは、誰よりも開拓者自身がその変貌ぶりに驚いている。いまだ2年生の若木であるが、将来、予想される収穫高はおよそ1千万円といわれ、このあたりに展開するこの開拓地の姿は入合林野近代化法の真価をそのまま示している。

□昭和30年代から家庭用燃料の燃料革命が起きて薪炭材生産は急速に縮小します。伐採量に占める燃料材の割合は昭和5年に72%でしたが昭和30年には30%にまで低下します。さらに現在の薪炭材需要量は昭和30年の1/20にまで減少しています。滋賀県下の炭窯数も、昭和40年に1,455でしたが昭和50年には104にまで激減します。
 
□人工林を見る目も今とはかなり違っていました。しばしば「一雨100万」という言葉を耳にしました。立木価格が高く、雨で木が生長しただけでも資産価値が増える。という意味です。立木価格はある時期まで戦後一貫して上昇してきました。例えば、昭和30年に4,478円だったスギ1m3の価格が昭和55年には22,707円にまで高騰します。この時期、薪炭材の需要が急減する一方でパルプ・チップ用材としての広葉樹の需要が急増したこともあり、薪炭林が次々に伐採されてスギやヒノキが植林されました。

□しかし、昭和56年以降立木価格は下落の一途をたどり、平成15年のスギやマツの立木価格は昭和30年の価格と同じです。ヒノキの立木価格も昭和42年の価格と同じです。スギでは最も高騰した昭和55年の1/5にまで下落しています。今日の林業を取り巻く状況を端的に表しています。


<村の人は山をどう見ていたか その3>

□大津市 上田上(かみたなかみ)牧集落の住職さんに話を伺いました。
■六箇山のうち、ヒガシナバタ、田代川沿いのニシナバタ、大戸川沿いのダイドゴシは、江戸時代から牧村が柴や落ち葉を採っていた。江戸時代はオンバダニから田代川までが膳所の殿様の松茸山だった。ただ、殿様の松茸山でも牧村は柴を採ってもよかった。その後、ヒガシナバタ、ニシナバタ、ダイドゴシは国有林になったが、松茸は牧村が採ってきた。

■松茸は10月10日の大津祭りの時期が一番高値になる。昭和30年頃はよく採れた。山から里まで自転車の荷台の両脇に籠を下げ、さらに荷台の上にも載せて運んだ。荷が重くて自転車が後ろにひっくり返りそうになったこともあった。開いたのは蹴飛ばして谷に落としていったもんだ。

■松茸山は入札して採る所を決めた。昔は、個人で入札していたそうだ。それが終戦後、村には班が十一あるが、それが五組に分かれて入札するようになった。その場合も、よく出るところは同じ組が続けて取らないようにした。同じ組の人間はみんな平等で、出そうな日には一斉に山に採りに行った。堅いのは売って組の金にしたが、ワレやヒラキはみんなで分けた。入札金額が大きく、牧村が営林署に払う金額はわずかなので差額が一千万円くらい出た。村の一年分の費用が充分賄えた。

■今は出ない。柴を刈らないし、松食い虫で松も枯れてしまった。営林署は松を伐って杉を植えてしまった。通勤する者も増えて山に行かなくなった。夜勤あけの者が、おばさん達をあつめて行くこともあったが。今は組に分けて入札するようなことはぜず、牧村のなかで何人かが集まって入札をするようになった。だから最初は個人、次に組、そして最後にまた個人で入札するようになった。

■今は、村内で入札しても営林署に払う金額の方が多くて赤字になる。赤字分は村の役員が自腹を切って負担している。そうしないと権利を放棄したとみられて、他者に取られてしまうかもしれない。取られたら、あのときの役員は何をしていたと責められるので役員は無理をしても続けている。入札に参加するように電話したり、高い札を入れるよう酒を飲ませたり役員と入札する人のやり取りはおもしろいものだ。頼むで来てくれ。お前の親父、ずっと札入れとったやないか。昨年は全然採れへんかった。そんなことあるけえ。何回も通ようていたやないか。千円でもええから取ってくれ。といった具合だ。


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