事務局日記(1)(2003年9月〜12月)

2003/12/27
-No.86-

◆方針と施策
 
 ゴミが沢山でます、というより一年分のたまったもろもろを捨てる作業が結構大変。
 日常的にこまめにやっておけば何でもない作業なのに、小泉さんみたいについつい先送りにしたつけが年末に回ってくる。

 私の住む町は、ゴミを捨てるのに、お金が要るのです。
40リットル入りのゴミ袋が10枚で720円。20リットル入りが360円、あと10リットル入りも売っています。
 これが、燃えないゴミと燃えるゴミとで2種類ずつ。

 結構割高感がするので、もうぱんぱんになるまで必死にごみを詰めて「もう入れることかなわず」というところまで入れてやっと捨てます。
 でもそのうち、ゴミになるものは買わないようにしようと思ってくるのが自然ですよね。ゴミの減量にも結びつくし、結構いいアイデアではないかと思える様になりました。

 何しろ、全く考えなしに、毎回大量のゴミを捨てる近所の家とは金額的に違うことで不公平感が生じないのがいいですよね。

 消費税をやみくもに上げて、どこにどのように使われるかわからない事態よりは、目的がはっきりしている分、またゴミを減らそうという意識に結びつくしいいところに着目したものだと感心するのです。
 しかし毎回36円をゴミと一緒に捨てているわけで、何とお金のかかることか。

 そういえば、中学生の時、夜はまた寝なくてはいけないのになぜ朝起きなければいけないのだろう、どうせ排泄するだけなのに、なぜ食べなくてはいけないのだろう、などとものすごいけだるい感覚にとらわれて、担任の先生を心配させたことがありましたねぇ。

 人間、生きているだけで自他に関わらずものすごいエネルギーを要するもので、そんな努力をしてまで生きていく意味があるのか、と時々考えるのは、中学のころからだったなぁとふと 思いだしました。
 
 さて、さっきのゴミ袋が有料化になった件に関してですが、私も常々「方針と施策」という二つのことをセットで考えるのです。

 高速道路を走っていると、時々「渋滞中につき左に寄れ」などという指示が掲示板に点灯します。でもこの時点で左に寄る車はそうそういませんよね。そのうち右側に←の看板や、三角帽子が置かれてやっと車が左車線に入っていく、という状況をよく見ます。

 私には、「方針と施策」をすごく良く表しているものに見えるのですよ。
 だから、ゴミを減らしましょう、というのが、「方針」とすると、ゴミ袋の有料化が「施策」となるわけで。

 子育てもそう。部屋を片づけなさい、といくら「方針」だけわめいても子どもたちは、片づけませんが、「片づけ場所の棚を作る」「片づけたらおやつ」「部屋がきれいになったら次にもっと面白いことをする」等々何かしらの「施策」を設けることで、母親が一方的にわめかなくても部屋は片づくものでして。

 そういえば、小さいときから「分類すること」を覚えた子どもは、幸せです。
 箱の中にごちゃまぜに入ったものは、がらくたかゴミとしての扱いしか受けないけれど、分類さえしてあれば、それは立派なコレクション。
 
 といいながら片づかないのは、ものの方が、収納スペースをはるかに超えているせい。
う〜ん、かたずけとは捨てることと見つけたり。

キャー お金かかるぅ。
 (あし)


2003/12/26
-No.85-

◆財布のお話

やっぱりこう押し詰まってくると、なんだかんだで忙しいですね。

 きのうスカンピンなどと書きましたが、素寒貧という字のごとく、いかにも貧乏って感じですけれどね、さて今日は、お金にまつわるということで財布のお話です。

 秋に財布を買ったらダメ、って聞いたことありません?
 「空き」に通じるからなのだそうです。

 その点、春は、対照的に「張る」に通じるので他人様にお財布をプレゼントするときは、春にすべし。
 また冬も「富裕」に通じるので良し。
 ということは、新春に買うお財布は、大変縁起がよろしい、ということでしょうかね。

 色からいうと、赤はあかんべぇとお金が逃げていくから良くないのだそうですよ。あらまっ。

 「縞の財布に五十両・・・」は、歌舞伎の仮名手本忠臣蔵に出てくるせりふ、お軽が身売されその半金をめぐってのお話ですが、昔から好まれたのは、鬱金(ウコン)で染めた黄色のお財布。

 ウコンというのは、ターメリックとも呼ばれ東南アジアなどでは、根茎を香辛料としてカレーなどに使われるもの。最近では、ウコン茶というのも売っているみたいですね。

 染料の他、止血剤にも使われたそうで、赤字(出血)を出さないためにもウコンで染めたお財布は喜ばれたのかも。
 ではでは今日はこのへんで。
 (あし)


2003/12/25
-No.84-

◆ピンキリってどっちがいいの?

 昨日の駅ビルのケーキ売り場の大混雑といったら凄まじいものがありましたね。どのお店も並んで下さ〜いと長蛇の列で。

 昔は会社帰りのお父さんが多かったのでしょうが、昨日の列には、若い二人連れが目立っていました。ケーキ買ってどこで食べるのでしょ、とついおばさん考えになってしまいましたが。

 そうかぁクリスマスねぇ、と全く忘れていた行事を思い出してケーキでも、と駅ビルに。

 列の後ろはここですよと大声あげる店員や、33番なんて番号札まで発行しているお店も。ショーケースには売り切れも目立ち、あといくつです、と叫ぶ声、、、余りの凄まじさに圧倒されて並びもせずに帰ってきてしまいました。
 う〜んこれは根性ないと、、、、。
 
 ぴんからキリまでという言い方は「一から十まで」の「一」がサイコロのピンに、「十」がキリシタンの十字架になぞらえられたものなんですって。へぇ〜。

 以前からこのピンキリのお話、どっちがいいほうなの?って母に聞いていた覚えが。
 その時の母の答えは、スカンピンっていうからピンの方が悪い、という返事。でもキリの意味がわからず、一度調べて見なくちゃと何十年も懸案事項になっていたことだったところへ、今日聞いたのが上記のお話。あんまりへぇ〜っと思ったので、ついご紹介。

 スカンピンから、キリシタンまであるよ、という文化的、宗教的幅の広さにちょっと感動。  
 正確なところは、どうなのでしょうね。もしご存知の方がいらしたら教えて下さいな。
ではまた。 (あし)


2003/12/24
-No.83-

◆電車の中(その7)
 さりげなく起こすって難しいのよ。

 夜更けての電車の中って、皆さま相当疲れ果てていらっしゃる。特に忘年会シーズンになると余計ですよね。つり革に両手でつかまったまま、必死で眠気と闘っているおとうさんの様子はほんとに気の毒なよう。目の前の席が空いていても座らないのは、きっと眠り込んで乗り過ごした悲しい経験があるのよね?

 私の最寄りの駅は、国分寺駅までの間、2つしか駅がないホンの10分程の区間の終点です。だからどっちから乗っても始発駅。

 乗り込んだ時、終点だというのに降りずに眠り呆けている方がいると何だか気になって、前は真剣に起こしてあげたものですが、(すごぉいおせっかい、と自分でも思う)女性の場合は、肩をポン、とやって「着きましたよ」と一声かければいいのですけどね。

 男性の場合は、起きても駅名を見てまた寝ちゃう人がいるのですよ。つまり、その折り返し区間を何度も何度も往復しているわけでして。
 せっかく起こしても、その人が降りないとちょっと気まずい。
 だけど、もしそこが降りる駅だったら、起こしてもらったほうが嬉しいのではないかと勝手に思い、眠り込んでいる人をさりげなく起こす方法をいろいろ試しているのです。

 つまりちょっと足にぶつかってみたり(えっ蹴っとばすなんてとんでもない、、、)
バッグをさりげなくぶつけてみたり、カサでちょんとさわってみたり、これでも気を使っているのでありますが、功を奏して慌てて降りていく様子をみるとちょっと嬉しい。
 これっていいことしてる?まっおせっかいには違いないですが、
 
 
 資料をひっくり返して、調べながら書く時間がなくて今日もお手軽、電車の中のお話で済ませてしまいました。電車の中ってほんと面白いですよね。ではまた。
 (あし)


2003/12/22
-No.82-

 皆さまお変わりございませんか。
 あと一週間で今年の仕事も終わりですね。慌ただしい毎日でございます。

◆ ヤフーに登録されました。

 皆さまから「検索してもちっとも出てきませんね、」とよく言われ、情無く思っておりましたが、やっとヤフーへの申請が通り登録されました。

「生活と文化 > ボランティア活動 > 環境、自然」というカテゴリに登録されています。
http://dir.yahoo.co.jp/Society_and_Culture/Social_Work/Environment_and_Nature/

 試しにヤフーで検索してみると、文化遺産を未来に、くらいで出てきます。ちょっと嬉しい、、、
そして、Googleにも登録されました。

 なお、登録に際しましては、字数の関係で(あの長い名前は、受付けていただけないのです。そういえば郵便局の口座名もそうでした)「文化遺産を未来につなぐ森づくりの会」で登録されています。
 同じ会ですので、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

 今日は、嬉しいおしらせ迄に。
 ではまた。
 (あし)


2003/12/19
-No.81-

ちょっと気が変わって、法隆寺の話は来週に。
◆ 電車の中(その4)・・・なぜか4が抜けていましたので。

 以前、会社勤めしていた時のこと、その日は朝から気もちが悪くって、でも仕事は山積しているし、いつものように満員電車に乗ってでかけました。

 相変わらずのぎゅーぎゅー詰めの車内に、気持ち悪さが倍にも三倍にも、たまらなくなってハンカチで口を押さえてウッとやったら、あっという間に私の周りがスキスキに。

 あんなにものすごい満員電車の中にぽっかりと、直径60cmぐらいは空いたのですよ。
 どこにそんなすきまがあったのだか、ほんとに不思議。
 
 幸い吐きはしなかったのですが、あれで気持ち悪くさえなかったら「満員電車に楽々乗る法ベストワン!」


 翌朝は、さすがに、あまりのだるさに起きられず、病院に連れて行かれてそのまま入院。

 急性肝炎でありました。
 原因は?と質問した先生。
 「どこか旅行でもしましたか?」
 「、、、え〜と、5〜6週間前に中国に、、、」と言った途端
 「あ、それそれ。」
 で、終了。
 あの〜〜って不安になるくらい簡単な問診。そのまま3週間も入院したというのに。

 26人で行った旅行、みんなと同じもの食べていたのにね、かかったのは私だけで今でも不思議。

 世の中、不思議なことばっかり。
 (あし)


2003/12/18
-No.80-

◆お寺を守るということ
 昨日は、何をやっていたのだか、プリンターとの接続もうまくいかず、メールと電話だけで終わってしまいました。困ったもんです。

 今日は、3時から古橋委員会、六本木です。でもクローバー本店には、もう行きません!

 15日の伊藤委員会では、伊藤先生が法隆寺の「昭和の大修理」時の資料を何冊もお持ちになりました。厚さが3cmも5cmもある薄黄色に変色した保存事業の報告書です。

 それをご自分で今迄何千冊も保存なさっているということにまず驚きました。その中でも古本屋で見つけられたという昭和11年発行の法隆寺食堂(じきどう)の報告書には感激しました。
現在の法隆寺の威厳あるたたずまいからは想像できないほどに痛み崩れそうな建物の写真があったのです。

 丁度福岡の太宰府市で見てきたばかりの観世音寺を思い出してしまいました。
 その観世音寺は天智天皇の発願によって建てられ、完成したのは746(天平18)年。古くは九州の寺院の中心的存在であったものの衰退し、現在は、1688(元禄元)年に再建された講堂と金堂(県指定文化財)の二堂があるのみ。

 写真で見た法隆寺の食堂ほどひどくはないものの、屋根の瓦は雨に打たれ陽にさらされ様々な色に退色し、庇の線も扉も当初のするどさは失われている今、あと何年かのうちには、なにか手を打たないと、、、。

 でも楠や風情ある古木に回りを囲まれ、かつての隆盛を極めたであろう御寺の痛ましさも超越して、そこは静かな落ち着きに充ちていました。

 5mをこす不空羂索観音立像、馬頭観音立像、十一面観音立像、聖観音座像、阿弥陀如来座像、四天王立像、地蔵菩薩立像と座像、大黒天立像、他にも、すべてが重要文化財。
 御仏たちは、収蔵庫に移られ、それはそれはこころ和む柔らかな極楽浄土の世界を醸し出しているのですが、でも主のいないお堂は、淋しい。

 話を現在の法隆寺に戻しますが、あのお寺のいいところは、警備をいわゆるセキュリティの会社に委ねるのではなく、お堂の中にも外にも交代で法被をきたおじさん達が常についていること。

 夜中も警らの方が常に巡回しているというみんなで守っているという体制。南大門の扉が夕方閉まり朝8時に開くまでは、境内の塔頭に住まわれるお坊様方もめったに外には出られないとか。
 そんな体制があって、初めてお堂に仏様を拝むことができるのですよね。

 今も奈良や京都や全国にある沢山のお寺で、収蔵庫ではなく本来のお堂で仏さまにお会いすることができるって本当に貴重な事だと思います。

 時々また訪ねていくと、立派な収蔵庫ができたといって、そこにお移りになっていることがありますが、でも昔のお堂でのお姿を拝観できた自分は幸せだったと思うのですよ。

 だからお子さんたちを、できるだけいろんなお寺に連れて行ってあげて欲しい、と思います。できることなら、仏様は、なにかの特別展など、博物館や美術館に大騒ぎで並んで見るより、やっぱりそのお堂でお会いしたいものです。

 そういう法隆寺にも、元禄時代、江戸まで沢山の仏像や宝物を運んで本所回向院で大々的にご開帳をやったという面白い話が残っています。
 修理資金を捻出するためだったとされていますが、長くなるので、今日はこのへんで。続きはまた明日に。
 (あし)


2003/12/16
-No.79-

◆ついてない日

 昨日は、伊藤委員会でした。
 会場は、伊藤先生が会合などに使われているマンションの一室。
 ちょっとおにぎりをつまんだだけで夕方6時から10時までぶっとうしです。

 主に来年早々法隆寺でおこなわれる調査に関しての打合せでした。日程も決まり、調査対象の建物も決まり、諸注意事項の確認も怠りなく。
 真冬の奈良は、寒いでしょうねぇ。

 長時間にわたる会議のあと、みんなでやれやれと駅に向かう途中、私ははっと気がついてしまったのです。
 ゴミの袋はしっかり握っているくせに、自分の書類かばんを持ってこなかった。それから取りに帰るというオオボケに伊藤先生をはじめ皆さまには大変ご迷惑をおかけしました。

 そんなこんなで家に帰ったのは、12時も5分前。
 夜中にやるべき仕事を途中でもうダメとあきらめ、そのため、今日の仕事が大幅変更、朝からずっと続きをやっておりました。

 なのに、なのに、パソコンの文字の出方がナンか変?と思った瞬間、何度も保存したはずのファイルが消えてしまったのです。どこにもない、、、

 それから不安になって、MOにバックアップの作業開始でなんだかんだ2時間近く、ちょっとまだ立ち直れずに今日の日記を書いています。  もう、、ショック大きい〜〜
 
ではまた、、、。
 (あし)


2003/12/15
-No.78-

◆ 海と川が交わるところ

 福岡では中州にあるホテルに泊まりました。
 那珂川と博多川が両側を流れている中州、その博多川沿いにホテルがあったのです。朝、2階のレストランの窓際で食事をしていたら川の流れが澄んでいて魚が沢山泳いでいるのが見えるのですよ。

 ホテルを出て川沿いの道を地下鉄の駅まで歩いていたら、ん?さっきと流れの向きが逆。確かに朝食の時ビニール袋がぷかぷかと流れていったのに、それとは逆に、つまり上流に向かって、落ち葉や小さなゴミが静かに動いていくのです。

 そうか河口から海の水が逆流しているのね、では魚達はどうなるのかしらと興味津々で今来た道を川にそって引き返すと、大分戻ったところの橋げた近くの水中に、きらりきらりと光るものが。

 面白いことに魚達も引き返すのね。きらりと光るのは魚が何匹も何匹もUターンし元の道?を引き返していくところでした。
 ホントにマラソンの折り返し点のように魚がひらりと身を翻し、その瞬間、しなやかな身が銀色に光る。4~5cmから10cmくらいの細くすらりとした魚。

 集団で、40~50匹も固まって協議中のグループもあるのですが、やっぱりしばらくしたら上流に帰って行くのですよ、一列になって。よぉく見ていたら、上流に戻っていく列があちこちに何筋も。

 川の水の流れと、落ち葉の流れがまるで逆方向に動いている。水中には沢山の流れが入り組んでいるのかもしれませんね。

 それにしても魚達って、どうやって海の水ってわかるのでしょう。身体全体でわりわりと違いを感じるのか知らん、まさかしょっぱい、なんて思わないわよねぇ。

 あんまり面白いので随分眺めていたけれど、さてと歩き出したら、川の水がどんどん汚れてくるのです。ほんの300mくらい川下の博多リバレイン横の博多大橋近くでは、もう川の水はうす緑色に濁っておりました。

 そんなところにさっきの魚はいるのかなぁ、となお見ていたら、いたいた。
 4〜50匹がグルグルと固まって、でもしばらく見てると上流に戻っていくから面白い。あれってリーダーがにぶいのよね。多分。


 福岡は、私の生まれたところ。小学校2年生まで住んでいた町。 あんまりはっきりと覚えてはいないのですが、生まれた家も広い道路になってしまって跡形もないし、それでも懐かしいのです。

 帰りの飛行機まで時間があったので、太宰府にある観世音寺まで行って来ました。
 心が落ち着く本当にいいお寺です。今回絶対行こうと思っていたので大満足でした。
 (あし)


2003/12/14
-No.77-

◆ 福岡に行ってきました。
 別団体の関連で一泊二日で福岡に。

 羽田まで行くのって緊張するのですよね。
13日は少し早目に家をでたはずが、西武線、踏み切りから自転車がでられなかったとかで緊急停止、山手線に乗ったらまた、五反田駅でしばらく停止、はらはらドキドキ、品川で、結局ヤフーで調べておいた遅くとも45分前に羽田着の電車に接続となりました。
私にとってはギリギリの時間。

 京急の羽田空港駅(B3階)は、浜松町からモノレール(B2階)で行くよりもエスカレーターに乗るのが一つ多いのです。

 初めて品川駅から羽田に行ってみた時は大失敗。
 ギリギリかなと思ったけれど、それでも35分前だから大丈夫と、エスカレーターにはゆっくり立って(いつもそう、右側を駆け上がったり絶対しない)おまけに一番遠いJASだったのが不幸のはじまり。
 たどりついた搭乗手続き機の画面には、なんと「受付け終了」と非情なるコメント!
 全くあの時ばかりは、目が点になりました。前の人は大丈夫だったのに、といくら言ってもせんないことで、仕方なく2時間後の飛行機に乗ることに。

 そんなわけで京急羽田空港駅は、要注意よ。(・・・と友人に言うと笑われる)

 今日、羽田から久しぶりに浜松町にまわってみたらモノレールからJRまでの階段にエスカレーターができたのですね。やっと、ですね。またこっちも選択肢にいれよっと。

 新幹線が品川に停まるようになったり、駅の使い勝手も変わってきましたねぇ。いろいろチェックしとかないと。
 と、新しいコースを試みては、なぜか失敗するのですけれど、、、 (あし)


2003/12/12
-No.75-

◆電車の中(その6)

 このまえ、新幹線に乗っていて思い出したことがありました。

 父がなくなってもう7年になりますが、その10年程前父が京都で倒れ、何週間か入院したことがあったのです。毎日食事や排泄の世話に病院に通う母の負担を減らそうと、姉妹たちとローテーションを組んで京都に通ったことがありました。

 その時は私の番、東京駅で並んで自由席にすわり、ほっとしていたら新横浜からぞろぞろと7〜8人の一団が乗り込んできたのです。 中にひどく疲れた様子のおじいさんがいて、よりによって私の席のひじ掛けに腰をかけてしまったのですよ。

 なんだか、京都で父が道端に倒れたところを、通りがかりの人たちが救急車を呼んでくれて命拾いしたことを思うと、同じくらいのおじいさんの様子に放っておけなくて、思わずどうぞと席を立ってしまったのです。

 でも、名古屋についてたくさん席が空くかと思いきや、ただ一席だけがこの一団の近くに空いたのです。多分、私にどうぞ、と言ってくれると思って待っていたら、なんとその一団の一人が座ってしまったのです。

 もう、呆然、何と言ったらいいのか、周りの雰囲気もそれからなんだか気まずくなって、段々に自分自身が、すごく馬鹿に思えてきたのですよ。
 みんな私のことを馬鹿な奴って笑っているのだろうな、なんてそんなことまで考えるようになって、恥ずかしさや情無さやいろんな思いでめちゃくちゃ、足もだるいし、、、

 米原に着いて、やっと私に近い席の二人が立ち上がりました。
 ほっとしている私にそのうちの一人の男性が、「きっといいことがありますよ」とねぎらいの言葉をかけてくれたのです。

 このおひとよしが、なんて目で見られたら、私は立ち直れなかったと思うけれど、この方の言葉には、ホントに救われた気がしました。

 思わず「ありがとうございます」と、その二人を見送っている間に、ふと気がつくとあのおじいさんの一団も降りたようで車内にはもういませんでした。
 「こちらにいらっしゃいませんか」という声に振り向くと、もとの私の席が空いていて、隣に大阪まで行くのだと一団の一人が座っていました。

 「本当にありがとうございました。横浜に住んでいた兄が突然亡くなって、みんなで葬式に出た帰りだったのですが、父があんなに弱ってしまって、本当にご迷惑をかけました。」と丁寧に挨拶して下さったのですよ。
 そして、昔は、山の中でクマに出会って投げ飛ばしたこともある父だったのですが、、とぽつりぽつりお話をなさっていました。
 
 新横浜から米原まで二時間と少し、善くも悪くも、いろんなことを思いましたが、結局は席を変わって良かったのだろうと、でも自分で納得していることでも周りの状況が変わると心ってざわつくのですよね。

 自分は、いいことをしているのだ、といつもいつも信念をもって頑張るのって結構むづかしいこと、新幹線に乗って、そんなことを思っていました。
 (あし)


2003/12/11
-No.74-

◆たまにはケーキでティータイム

 今日は朝から病院でした。 
 例のコレステロールやらトリグリセライド(中性脂肪)の数値がバッチリ下がって、食事指導の先生にも褒められるし、ルンルン。

 思わず帰りがけ、駅ビルに新しくできたお菓子屋さんに寄って、ケーキを買ってしまいました。たまにはいいんですって。(なんてたまの頻度が問題か、、、)

 もう25年も前から有機野菜の会に入って、安全な食べ物をいただいていますけれど、時々友人から、その割にはケーキや甘いものに目がないわねぇ、、と言われるのです。
 そうそう、有機や無農薬の野菜を食べるのは身体の栄養、お菓子は心の栄養なのです。。

 ケーキと言えば、先日古橋委員会の後、法隆寺行きの相談をしましょうと、近くの喫茶店を探したら、六本木クローバーの本店が。
 お洒落なお店の雰囲気に思わず入って席についたら、なんとコーヒー1000円、ケーキも1000円

 二人で思わずうなってしまいましたねぇ。仕方がないので、1000円の紅茶を頼んで、ケーキはあきらめたのですよ。
 こんな 場合、あなただったらどうします?
 (あし)


2003/12/10
-No.73-

◆来年早々法隆寺での調査が決定

 8日、東大千葉演習林長の山本博一氏、奈良文化財研究所の清水真一氏と、13時に法隆寺南大門前で落ち合って、法隆寺管長の大野玄妙師と執事長の古谷正覚師に調査のお願いに伺いました。
 
 東大の山本先生は、文部科学省科学研究班「木造建造物文化財の修理用資材確保に関する研究」の代表者。
 5月の総会時に、協力できることがあれば一緒にやりましょうと申し出て下さったのです。

 そこで当会の「補修用材と技術の委員会(伊藤延男委員長)」との共同調査として、修理用資材の需要解析調査〜木造文化財の修復に必要な木材の規格・品質を明らかにし、これに必要な森林を造成するための基礎資料を得ること〜を法隆寺でさせていただけないかとお願いに伺ったわけなのです。
 奈良文化財研究所の清水様は両方に属していらっしゃるのです。

 いろいろ興味深いお話を伺い、そして調査も認めていただきました。
 古谷様のご案内で収蔵庫内の様々な古材を、見せていただきましたが、奈良や鎌倉、元禄時代の材、雲形肘木や大斗、扉、柱や虹梁、、、おびただしい量の古材がお役目を終えて横たわっているのです。普段は電気もつかない真っ暗な倉庫の棚、、、どの部材にも刻印が打たれ、ラベルが貼られて。

 普通は、1300年前に建てられた、と現存する建物にのみ目がいきますが、その時々の解体や補修工事で取り替えられた材、、、部材の一部を補修しただけで十分使えそうな、まだまだしっかりした大きな材がそのまま保存されてありました。

 頭の中では考えられない程長い長い間、重い瓦や建物を支え続けた材たちが、今、収蔵庫内の暗闇の中に、ゆっくり横たわり休んでいるという気配でありました。今でも思いだすと胸がざわつく。

 補修で取り外された中門の部材、大斗を見せていただきました。柱の上部に位置し、屋根や上層部の重量を支える大斗、その底部には5〜6mmも、めり込んだ跡が円形にくっきりと付いておりました。柱の頭部(それも周辺部)がめり込んだ跡なのだそうです。

 その大斗を角から対角線に計ると660mm、材に直すと少なくとも直径70〜80cmの大木が必要になるだろうとのこと。

 当会では、来年5月にシンポジウムを予定しています。

 現存する建物や古材から、その材を産出した森林の姿を想像するという試みは、私たちに200年後に必要な森林を想定させ、そのために現在何をすればいいのかを、いっそう分かりやすく訴えてくれることでしょう。
とても興味深い発表になるはず、とわくわくしています。

 調査日程は、まだ調整中ですが、多分1月か2月の一番冷え込む時になりそうです。
 8日も収蔵庫を2箇所見せていただいただけで、もう南大門が閉まる時刻に。
 どれだけの日程が必要か事前の段取りが重要になりそうです。
ではまた。
 (あし)


2003/12/07
-No.72-

◆8日は、奈良に出張です。

 昨日早朝に出発。一泊二日して今日の夕方、栃木県喜連川町から帰って来ました。

 雨という天気予報は見事に外れ、6日も曇り空のままなんとかもち、今日は快晴。快適に作業もはかどりました。
 出発時たとえざんざん降っていても予定通りでかけます、という連絡をみんなにはしたものの、やはり雨が降りませんように、という祈りがバッチリ通じた様です。

 今回の宿泊地は、キャンプ場のコテージ。一人2500円也。でも交通費が高速を使うので、一人あたり2500円くらい。お風呂は道の駅の温泉。あと食費でしょ。ボランティアもなかなかにお金がかかりますが、みんなで山仕事で汗を流して、それですごく満足して帰ってくるのですよ。夜は夜で、作業の反省やらその他いろいろとびだして盛り上がるし。

 30年間手付かずだったという雑木林、去年の9月から何度か通っているうちに、随分すっきりとして来ました。
 特に今回の場所は、5月と9月の二回みんなで残したい木に名札付けをしたので、除伐作業もあまり迷わずに進み、結果も良好、気持ち良い一日でした。

 来年は、ヒノキ林の間伐もまた作業行程に復活させましょうかとみんなで相談。少しずつレベルアップをめざします。

 家の近くまで帰って来たら、夕焼けの中に遠く富士山が見えました。今日は、東京の空もきれいでしたね。

 明日は、また早朝から伊藤委員会の調査に関連して、奈良に出張です。
 何人もの方々から、事務局の予定を知る為にこの日記を見ています、とメールをいただきましたので、お知らせまでに。10日に帰って参ります。ではまた (あし)


2003/12/05
-No.71-

◆明日は林業作業で山に

 今日は別団体の会議で、午後から出かけておりまして、夜中にこの日記を書いております。

 明日は、6時に仲間たちと集合して車4台で栃木県の喜連川町に林業作業に出かけます。といっても、あと5時間後には、家を出発しないと行けませんが。

 でも天気予報は、無情にも雨。
 何度か続けてきた雑木林の手入れなのですが、多分林業作業というよりも、雨除けのフライシートの下でのんびり豚汁を作っているのかも、、、
 
 というわけで、今夜はこのへんで失礼します。ではまた。
 (あし)


2003/12/04
-No.70-

◆電車の中(その5)

 雨やどんより曇りの日が何日も続くと、淋しい気持ちになりますが、今日はさっぱりと晴れました。
 秋の太陽に照らされて、乗る風を待つばかりの赤茶や黄色に染まった木の葉が、チカチカと揺れながら白い信号を送ってきます。

 こんな日に、色とりどりに染まった枝をしゃらしゃらと揺らしている木の傍で、逢いたい人を待っているのって素敵でしょうね。
 早くこのお気に入りのベンチに一緒に座って、この風や温かな陽射しを共有しながらおしゃべりできたら楽しいのに、あぁ早くこないかしらん、なんてね。

 人と会う時、満面の笑みを浮かべて「待った?」「いいえ大丈夫よ」なんて言いながら待ち合わせの場所を離れていく人たちって、見ていてこっちまで嬉しくなりますが、意外と少ないものですね。 せっかく会っても、なんかすました人たち、つまらなさそうに見えるのだけど、、

 さてさて、最近は街を歩いていても電車に乗っていてもあまりほほ笑ましい情景に出あうことが少なくなりましたが、今日のお話はどうでしょう。
 
 いつでしたか日曜日午後の電車の中、私の向かいの席に並んで座った4人家族。お父さんが、一番右側に座っていました。その隣は、お兄ちゃん、小学校の中学年くらいでしょうか。次は、お母さん。そして左端は、女の子、幼稚園か一年生くらいかな。

 なにやら女の子がぐずってお母さんの手を叩いたのです。
 何の気なしに見ていたら、そのお母さん、お兄ちゃんをペチンと。
 ムッとしたお兄ちゃんはお父さんをバシッ。
 うとうとしていたお父さん、なんだなんだと話を聞いて、ぐぐっと手を伸ばして女の子をペチン。
 女の子はびっくりしてお母さんをペチン。
 お母さんはお兄ちゃんを、、、と何度も繰り返しているうちに、その4人は笑いだしておりました。

 こんな家族もあるのだと、私も面白く思ったことでした。 


 夕方になって、お日様が隠れた途端に冷え込んで参りますね。風邪などひかれませんようお気を付けて。ではまた。
 (あし)


2003/12/03
-No.69-

◆ 「していい苦労」と「しなくてもいい苦労」

一昨日、新聞のトップで伝えられた、二人の邦人外交官が殺害されたニュースに今日もずっと考え込んでしまっているのです。

 先日、「していい我慢」と「しなくてもいい我慢」について触れましたが、それと同じような意味で「していい苦労」と「しなくてもいい苦労」について書いてみたいと思います。

 私の中では、「していい苦労」というのは、俗に「若い時の苦労は買ってでもしろ」、といわれる、主に自分を深める為の苦労と、自分が守りたいものの為の苦労だと思っていました。
 自分が守りたいものというのには、家族も入るのだと思います。少なくとも私の中では、、

全く唐突ですが、体験談をひとつ
 昔々、子どもがまだ本当に小さい時、階段から子どもを抱っこしたまま転げ落ちたことがありました。
 サンダル履きで行った近くの公園。斜面にコンクリートで作られた、できたばかりの長い長い階段。もう少しで登りきるという時に、下からの声に答えようと、こどもを抱いたまま振り向いたのですが、バランスを崩し、振り向いた格好のまま、それこそ真っ逆さまに落ちたのです。

 空中に体が浮いてこのまま落ちていくのだろうか、という、時間にしたらほんの一瞬の事なのでしょうが、落ちていく時はいろいろ考えるもので、、、本当に考えたのです。

 どうしよう、でもこの子だけは助けないと、とそれだけを考えているうちに、とっさに子どもを足元に押し付けたらしく、それで重心が下がったのが良かったのでしょう。
 私自身は、肩で受け身を取ったような形になり、それでも落下。下の方迄転がり落ちて、やっと止まったのです。
 気がついて見上げれば、はるか上の階段で、小さな我が子がビービーと泣いておりました。信じられない落ち方でした。階段の下で見ていた夫と上の子は、ただぼう然とするばかり。

 幸い、肩と足をしたたか打ったものの、その痛みと大きな痣をつくったぐらいですみましたが、あの時子どもを抱いていなかったら、子どもを助けようと階段に押し付けなかったら、とんでもないことになっている位すごい落ち方だったのです。

 それまで、正直子育てには悩みばかり。こんな母親でいいのだろうかと自信喪失になることも沢山ありました。でもこの時の自分が咄嗟に考えたことを思いだすと、子どもを守る為だったらどんな苦労も厭わない、多分そう言えるのだろうと自信が持てるようになりました。

 今回の外交官の方々の死は、こうした家族でもない、大事なふるさとでもない、日本という国でもない、他所の国の人たちの為に働いている最中の死、傍から見たら「しなくてもいい苦労」の最たるもののように見えるのです。

 ですが、こんな「しなくてもいい苦労」を自分の「してもいい苦労」に変えるのは、「こころざし」のあるなしではないかと思い至りました。

「こころざし」というのは、今の世の中に何か不満を感じ、それを少しでも改善するために何かをやってみたい、ということと理解しています。
 いろいろ伝えられる、亡くなられたお二人の「こころざし」の高さはまことに崇高なものです。

 そんな「こころざし」を持つ方が、その半ばに死ななければならない無念さは、想像に余りあります。今後、二度とそのようなことが起きないようにするのが、国家であり政治の役目なのではないのか、と一市民としては思うのです。

 イラクへの派兵に関しても、国際社会の一員として日本だけがテロに対して傍観することはできないだの、国のメンツ、臆病な国というレッテルを貼られたくないなど他国からどう評価されるか、今後の権益など損得も考えないと等々、いろいろ賛否両論入り乱れているのは知っています。

 でも国家とは、国民の生命を守ってくれる為にあるのでしょう?
 たとえ日本が臆病と言われてもいいではありませんか。それだけ命の尊さを戦争という惨い不条理な体験を通して学んで来た国なのですもの。と一市民であり母親である自分は思うのです。

 それよりもむざむざ他国で日本人の命が奪われるなんて、あってはいけないことですよね。それが不可抗力ではなく、国の命令で、予想されうることとして死に至るようなことがあるかもしれないなんて、考えられない。
 そして、その方々に崇高な「こころざし」をもつという言葉が重ねられないことを祈っています。

 全く個人の意見ではありますが、一市民として、私なりに感じていること、書かせていただきました。こうして声をあげることが大切なのかな、と思うのです。
 声をあげること、文化遺産を守ることも同じですよね。
 (あし)


2003/12/02
-No.68-

◆ いとおしむ心を伝えるって

 スーパーのレジを通る前に、つまりお金を払う前に、売り場のお菓子を食べさせる親がいて、せっかくの躾けのチャンスなのに残念よね、と一昨日書きましたら、何人かから反応がありました。ありがとうございました。

 そうなのですよ。小さい時から、泣きわめけば選び放題のお菓子をものにすることができるその子は、どんな子どもになるのか。
 また、万引きという意識もないままつい手がでてしまうのではないでしょうかねぇ。

 万引きといえば、各地域の小学校のPTAなども校外指導部やら校外委員会、青少対(青少年対策協議会)などでその対策を随分練っているはずですが、あれは親の躾けだけじゃなくお店の対応にも問題があるのですよ。

 というのは、小さな子どもの手の届く低い位置に、いかにも子どもに好まれそうなお菓子を並べてあるのですよね。よちよち歩きの子どもまで自分で商品を取ることができる。
 何度もスーパーや個人商店にもう少し高い位置にお菓子を並べて下さいと要望を出したものですが。改善してくれるお店は少なかったのです。

 それでも万引きを見つけて怒ってくれる店員がいるお店はいい。そこで怒られた子どもは、本当にラッキーだけれど、誰からも怒られることがなかった子どもは、かわいそう。
 その子の持っている社会のルールの物差しが、最初の部分でもうずれてしまうのですものね。

 幼児期の躾けというのは、社会全体で取り組まなければいけないと思うのですが、もう他所の子までに注意する気力がねぇ。(←これがいけない、とわかっていても、若いおかぁさんの反撃に遭いそうで、、、にらまれるし怖いですよねぇ、、注意したほうがおろおろしそう)

 躾けひとつとっても、幼児期に教えられたことが、大きくなっても大事なその人の基礎の部分を形成します。

 同様に文化遺産を大切に、という「基本中の基」の部分って、その家々で大切にしているもの、これは大事なものだからね、とさわらせてももらえなかった幼児体験なんかから作られるのかもしれませんね。

 何かをいとおしむ気持ちが理解できないと、大切なものを失った時の悲しさや喪失感にも思い至らないでしょうし、文化遺産を後世に残す意義などもわかってもらえないのではないのかな。
 大人が一生懸命守っている姿を見せるしかないのでしょうか。
 (あし)


2003/12/01
-No.67-

◆内山 節さんの巻頭言をUPしました。

 いよいよ12月になりました。何となく気ぜわしい今日この頃ですね。
今年こそ仕事も家事も段取り良く終わらせて、上手に年越しをしたいものです。

 二回ほど連続で子どもたちを登場させましたが、
「また、見栄張っちゃって。。。あのお店料亭って言うのぉ?」なんて大きくなった我が子にばらされそうなので、子どもネタはしばらく自粛。
 
>「活動報告」■「会報」ページに、第2号の掲載原稿をUPしました。
○内山 節さんによる「巻頭言」農山村の文化財〜それをどう考えるか
○網田克明さんによる「地域から」語りかける徳島スギ〜地域林業の歴史的考察〜
○飛山龍一さんによる「研究会報告」〜木と人の関わりについて〜
 
 内山さんの巻頭言には、村人たちがつくりあげてきた神社や寺、それを維持する過程の中に、自然と人間の世界の暮らしや自分たちの歴史があった、として最後にこう結ばれるのです。

 「私は、文化的な建造物、文化財を維持する森づくりの大事さが社会的に定着することによって、それが、日本の基層的な精神文化としての地域の寺社建築と地域の森との関係へと、拡がっていくことを期待している。

 地域の自然を呼び込むように、その地の木で社や寺をつくり、そこに地元の人々の技術や労働が投じられる。その姿こそが、日本の農山村社会そのものを示していることに、私たちは気づかなければいけないときを迎えているからである。」

 是非ご覧下さい。

 今迄、ばらばらに考えられていたこと・・文化財や森づくり、地域の自然や文化、そこでの暮らしや地域社会などなど、みんなで一緒に考え直してみませんか、
そんな提案なのです。 (あし)


2003/11/30
-No.66-

◆ 選ぶことと我慢すること

一昨日の続きです。
幼い子どもに食べ物を選ばせる必要はない、という祖母の言葉通りに子育てを実行しましたが、他の面では、子どもに「選ぶ」作業を盛り込んだつもり。

 でも成功した事例は、余りないけれど、ひとつだけ。
 あるとき、新宿に買い物に行って、その足で、別の電車に乗って実家に行くことがありました。

 実家は、小田急線沿線の山の上。駅から15分ぐらいのところですが、だらだら坂を上り、最後に車ならローギヤに落とさないと登れない程の急坂を上らないといけないのです。
 小さな子供たちを連れて行くのは、結構しんどいところにあるのですが、簡単にタクシーにのせるのも贅沢だし残念。

 その時は、新宿駅の近くで、足長育英基金の募金活動をやっていました。
 同じ親としては募金したかったけれど、そんなにお金に余裕があるわけじゃない。そこで、募金のわけを話し、でもここで募金するとタクシーに乗れないけれどどうする?と聞いてみました。

 驚いたことに、子供たちは募金を選んだのです。
 駅に着き、急坂を上って、おばぁちゃんちに飛び込んだ途端に、募金したんだよ、いいことしたんだよ、って口々に報告。

 仕向けるのは、親だけれど、選ぶのは子どもの意志。たいていは親の思い通りには行かないで、がっかりすることの方が多いけれど、その時だけは、ひそかに感動しました。

 「選ぶ」ためには何かを我慢しなければいけない。「選ぶ」ってそういうことだと思う。でも我慢することが別の喜びにつながることを知って欲しいと思ったのね。それを知らないと、我慢することはストレスをためるだけのものになってしまうと思った。

 我慢にも「していい我慢」と、「しなくてもいい我慢」があるのではないかと思うのですが。
 大人になったら「しなくてもいい我慢」をしなければいけない状況も沢山でてくるけれど、子どもの時代には、我慢すればいいことがある、と教えたいと思ったのです。
 
 こんなことを何故いまごろ言いだしたかというと、何日か前にスーパーに行った時、また見たのですよ。

 まだレジを通らない前から、食べたいと騒ぐ子に売り場のお菓子を取って食べさせている親を。(カートに乗せられるぐらい小さい子なのにね、、、)最近、こんな親が増えた気がする。

 お金を払えばいいのよ、と言うのかもしれないけれど、レジを通る迄のほんの少しの時間、我慢すればお菓子が手に入る、という絶好の躾けのチャンスをみすみす逃しているのですものね。

 残念だし、我慢することの喜びを教えてもらえない子がかわいそうに思ったのです。そう思いません?
 (あし)


2003/11/28
-No.65-

◆ 同じものを食べる

 もう10年程前に97才で亡くなった祖母は、あちこちの孫の子育てを見て言ったそうです。幼い子どもに「何食べる?」って聞くのはいけない、と。
 食事は親の考えで食べさせるものだし、子どもは与えられた物を食べればいいのだと、それを母から聞いてナルホドと思いました。
 
 私の育った家は、厳格な父のもと、小さい頃あまり外食はしなかったけれど、たまに家族の誕生日などはホテルでバンと豪華なフルコースなど食べた思い出があるのです。
外食といっても、今のように各自が違うものを注文し食べるのではありませんでした。

 それを我が家も踏襲して、家族に特別なことがあるとちょっと気取ったレストランに行って食事。中華のコースなどは、みんなで同じものを食べられるので、嬉しい。

 先日は、初めて家族で料亭に行ってみました。
 久しぶりに子どもの手元をまじまじと見て、箸の上げ下げがおかしいと口うるさく言って顰蹙をかったのは、おいといて、、、、。

 運ばれてくる料理の一品一品に、口々に、「これは何?」「あ、美味しい」などと話ながら、相づちを打ちながらのひととき。やっぱり楽しいものですね。

 普段は、切り詰めた毎日でも、時に思い出に残る食事をしたい、というのが私の希望。なにか美味しいものを食べたいね、というのが口癖です。

 今日は、「食べ物を幼い子どもに選ばせてはいけない」ということから、「選ぶ」ことも取り込んだ子育てのことを書くつもりだったのですが、長くなるので、また明日。

事務局日記が、時々会と関係ない方向に行ってしまいますが、お許し下さいませ。
会報第2号を、ほぼ発送し終わって、少々気を抜いております。お見逃し下さい。
 (あし)


2003/11/27
-No.64-

◆ 間伐材で作ったベンチのお話

今日は一日でかけてしまいました。
ローカルな話で恐縮ですが、西武線の東村山駅から国分寺行きの電車に乗ると必ず左側に座って、窓から眺めるポイントがあるのです。
 それは、「森林を楽しむ会」という会の仲間たちと作ったベンチ。
 今日は、そこで男の子達が遊んでいるのが見えて、ちょっと満足。

 一昨年の3月、仲間たちと栃木に林業作業に行った際、間伐したヒノキを20数本、山の下まで降ろしました。その後、トラックを借りて日の出町のキリンカンという木工所に運びこみ、あと何度も通ってテーブルとベンチをいくつか作ったのです。

 そして12月、年末ぎりぎりの作業でしたが、小平市の中央公園に設置。ちゃんと穴掘って、セメントこねて基礎部分もしっかり作ったのですよ。以来そこが我々の活動場所のひとつになりました。

 西武線の鷹の台駅を出発するとすぐ左手の斜面に、そのテーブルとあちこち向いた8脚のベンチが設置されているのが見えるのです。多摩川上水、新堀用水が横を流れるいいところです。

 電車で通るたびに、誰かが座っているのを見ると、嬉しくなるのですよ。
 あるときは年配の男性が絵を描いていたり、若者が本を読んでいたり、子ども連れでお弁当を食べている人たちも。

 いつだったか、小平市のグループの集りに出た時に、「ミーティングするのにすごくいい場所見つけた」、って話している人たちがいて、聞いたらそこの場所のこと。
テーブルの回りを囲むようにベンチができててね、って。

 自分たちがやったことが、誰かに喜ばれているって、嬉しいことですよね。

 寒くなりましたが、車窓からそのベンチを見る度にポッと温かい気持ちになるのです。ではまた。
 (あし)


2003/11/26
-No.63-

◆ 病院の待合室

お医者様といえば病院。
月に一度、薬をもらいに病院に行くようになって、本人は至って元気なのにね。受付けで、90番なんて番号札を受け取るとそれだけで病気になるぐらいゲンナリしてしまいますが、ほかの皆さんはじっと座ってひたすら待っていらっしゃいます。

 中には、すっかリ待合室でお友達になったようなおばぁちゃん方が、ぼそぼそと小声でおしゃべり。あそこのお店で何を買ったとか、きのう誰から電話があったとか夫々の日常をえんえんと話しています。
 ふと気がついたように、
「あれ、今日は○○さん、きてないねぇ。」
「そうねぇ。病気でもしてるんだろうか。」

 
 突然いかにも具合の悪そうな若者が、待合室の一員に。
ぜえぜえ言って、苦しそうであります。
診察室から看護婦さんが、入れ替わり立ち替わり出てきて、
「ホントに病人みたいよ。」「大変大変。」

 インフルエンザの予防注射はしなくていいですか?と聞かれました。外国に行く予定のある人は、SARSと間違えられないように、注射しておいた方がいいんですってよ。
 ではまた。
 (あし)


2003/11/25
-No.62-

◆ 夕焼け色のかりんジャム

ここ半年くらい前から、お医者さまに糖分はダメ、といわれて大好きなケーキも余り食べずに控えています。
(えっ?この前おまんじゅう食べてるの見たって?あの、、その、、つい、、、)

 ヨーグルトにも好きなジャムをたっぷり入れて食べるのが好みだったのに、まったくつまらないことで、、。

 ジャムといえば、カリンジャムを作っているおともだちがいるのです。
 何年か前、モリモリネットワークという会の会報に入っていたカリンジャム販売のお知らせに、どんな味なのかしら、と即申込んでみたのです。

 届いたジャムにうっとり。それは素敵な茜色。
 沈みゆく太陽が、その日集めたたくさんの幸せをいっぺんに放出したような夕陽の色、だって暗い夜には持っていけないのですものね。 ん?

 そんな幸せ色の夕方の光りをいっぱい閉じこめたのではないかしら、カリンのエキスと砂糖にレモン汁を加えて煮つめた大人の色。

 まるで赤毛のアンの世界に入り込んだような気分になって、どんな方が作っているのかと、ファンレターを出したのが彼女と知りあったきっかけ。それからもう何度会ったことでしょう。

 その彼女に、頼んでみたのです。
 カリンジャムをヨーグルトに入れて食べたいから、お砂糖半分のジャムを作って、と。そしたら即、返事がきました。
 お砂糖を半分に減らすとジャムが固まらないのよ。
 ジャムの量を半分に減らして食べたら?

 なるほど・・・私のともだちはホントに頭がいい。 (あし)


2003/11/24
-No.61-

◆遠くに見える煙突

 窓から遠くに見えるタイヤ工場の煙突の横に1〜2週間前、突然クレーンが立ちました。確かあの煙突の高さは、110m!と聞いたことがあるのでその高さ分あるクレーンって、、、と驚いて眺めていました。想像できます?

 昨日、なんとその煙突の一番上の部分がはずされ、今日は次の部分がはずされたのです。
 思わず双眼鏡を取りだして眺めてしまいましたが、煙突の上には人がいて、なんだかんだと動いているのです。
 リンゴ園での八段ばしごの上でさえ足がすくむのに、私には考えられない高さ。
 
 府中街道沿いにあるその工場は、緑の工場づくりをめざしていて、もう20年くらい前、長いグリーンベルトを作りました。

 工場の現場の方々がどんぐりを拾い、発芽させ、苗を作って府中街道沿いにず〜っと植えたもの。
 低木、中木、高木を組み合わせて植えるその植樹方法は、当時横浜国大の宮脇昭教授の指導の元におこなわれたプロジェクトでした。

「20年後を見て下さい」、と掲げられた看板の数字が、19年後、18年後、14年後と書き換えられるのを通るたびに面白がって見ていたのですが、本当に今は、鬱蒼とした緑の壁になっていて、中の様子は全く見えないのです。
 
 町の中でも、緑を増やせるという事例のひとつ。
 煙突の話とは、関係ないけれど同じタイヤ工場のお話でした。煙突が取り外される理由を調べてみなくちゃ。
 ではまた。 (あし)


2003/11/22
-No.60-

◆表紙に文章を追加しました。

「日本的な自然と人間の文化を守り、自然と人間の歴史を感じとりながら暮らす社会をつくりたい。
 文化遺産を守ることは、その入り口であり、森を育てることは文化や文化遺産と結ばれている。」

 表紙が淋しいから文章を、という要望に応えて入れて見ました。
 メッセージ性の高いトップページになりましたが、ご感想はいかがでしょうか。
 文章は、趣意書から引用、内山節さんにご加筆をお願いしました。

 概ね好評のこのトップページ、私も気にいっています。
 写真は、若松保廣氏に提供していただきました。この方の写す場面を一度見たことがありますが、昔ながらの黒布をとっぷり被り、動かない。
 大気に渦巻くエネルギーや希望の光を写し取った風景、仏像写真。
 秋篠寺で開催された写真展には静かな、それでいて力強い「気」が充ちておりました。

 話は変わりますが、
 この事務局日記書く人って、あし、の他にもヨーロッパやアメリカの林業にも詳しい森のりすさんやホームページ作成プロのかめさん、うさぎさんや大学院研究科のかえるさん、とびさんもいらっしゃるのですけれどね、なかなか登場してくれませんねぇ。

 あし、がネタ切れになる前にぜひぜひ助勢をお願いいたします。もうすぐ「考えられなくなるあし」より。
 (あし)


2003/11/21
-No.59-

◆ リンゴ園(その1)

一昨日ちょっと書いたリンゴ園。毎年行っているのに、今年は変に予定が入って行きそびれてしまいました。

 本当ならいま頃は、青空の下で、リンゴの収穫作業の真っ最中なのになぁ、、と長野の千曲川沿いに広がるリンゴ園の風景を思い浮かべています。

 私が毎年通うこのリンゴ園も昔は、蚕を飼っていたのですが、生糸の斜陽化とともに、5〜60年前、屋敷のまわりにずうっと植わっていた桑の木を全部伐り、リンゴに植え替えたという歴史があります。養蚕を始めるその前は何百年も続いた庄屋でした。
 
 有機農業にも先駆的に関わられた先代と、20数年前に有機野菜の会の生産者と消費者という関係で知合い、信念あるリンゴの作り方に惚れ込み、以来販売や生産の手伝いに関わっているのです。

 他のりんご生産業者との考え方の違いは味の違いとなって、今でこそファンも増え、特別なリンゴとして喜ばれています。でもそのころは、形や色が悪いだの不ぞろいだの言われてあまり評価されませんでした。
 除草剤は使わない、化学肥料も使わない、袋もかけない。
 さんさんと太陽を浴びたリンゴは、色も形も悪いけれど、その美味しさといったら、初めて食べた人はびっくりするのですけどね。

 リンゴ園での作業の合間、お茶の時間食事の時間、もいだばかりのリンゴを食べながら、その家のおばぁちゃんが毎回「うめぇなぁ〜、ホントにうめぇなぁ〜」とその年の出来栄えに満足している。
 私も食べるたびにその甘さ瑞々しさにびっくりして思わず美味しい!と声が出る。すごく好きな時間。幸せになれる。

 はしご(脚立)にのるのは恐ろしいのですが、でも近くに幹があれば八段ばしごにも登れる様になったのですよ。八段ばしごの一番上に立つと、リンゴの木よりも頭が飛びだして遠く千曲川の向こうの山々が赤茶色や黄色に紅葉しているのが見えるのです。

 青い空、白い雲がふわふわと浮かび流れていく。遠くの山々が白くなっていたり、雪が降っているように陰っていたり。
 養分をできるだけ吸収するように、と葉を落とさないので、緑の葉と黄色くなった葉の中に点々と赤いリンゴ。

 見下ろすと地面はふかふかの土の上に青々と草が生え、木の下で他の人たちがせわしげにリンゴをもいだり運んだり働いているのがおもしろい。

 そんな中で好きなひとときは、夕陽が沈む前にあたりをオレンジ色に染めるとき。リンゴがどれも真っ赤に輝き、みんなの顔もオレンジに染まる。
 今日もよく働いたね、とお天道さまに見てもらっていたような、幸せなひととき。
 そんなとき、作業止め〜と声がかかる。
 夕陽の中では、まだ色づいてないリンゴまでもいでしまうからですって。

リンゴ園の話は、まだまだいっぱいあるけれど、長くなるので今日はこのへんで。
 (あし)


2003/11/20
-No.58-

◆文化遺産を測るって・・・

 一昨日は、補修用材確保策検討委員会が開かれました。
昨日の事務局日記でももちろん触れないといけなかったのですが、あまりに内容が重すぎて濃すぎて、私にはまだ整理できないのです。
 というより結論はまだ出ておりません。
 そんなわけで、ご報告はまだ先と言うことにさせていただきたいと思います。

 文化遺産を守る、未来につなぐことの必要性は、誰もが認めること。
 そこはきっちり押さえられているのですが、本当に千何百年も受け継がれてきた通りに未来につなぐことができるのだろうか。

 技術、資材、原料、すべてに関して妥協せずに。
 せっかく受継ぎ精進を重ねて磨き上げた技術が、本当に生かせているのだろうか。コストや法で規制されている場面は、ないのだろうか。
 資材や原料が手に入リ難くなったといわれて久しい。形だけはそろえても品質的に違ってきているものもあるのではないだろうか。
 
 その時代に生きる人々が、その人の経験や感情や人生すべて注ぎ込んでその時に可能な最大限の力を発揮して作ったもの、それが評価され現在まで守られてきた。様々な人の手を経て修繕もされながら、時代を経て残されてきた。
 だから人の心を打つのだと思うのです。
 守ってきたことに価値を見いだす人だっていると思う。

 先日の見学会でも、説明を受けて初めてその価値がわかった、と若い方々が感想を述べていらした。隠れている部分にだって価値のあるものは沢山あるのですよね。
 良いものを見分ける目、価値のわかる人になりたいと思っていままで生きてきましたが、まだまだ知らないことの方が多くて、若い人達と一緒にへぇ〜、フ〜ンと感動しておりました。

 でも、そんな自分でも、感じ取ることはできるのね。
 妥協したくない、という意志を。
 それに関わった人たちがその時の状況において、きっと最高のものを残したいと精根こめて作られたものが現在残されている文化遺産なのだろうと。

 その価値を金銭で換算するだけではない、ほかに測るものさしはないのでしょうか。
 3.9%だとか6%だとか、数字にしないと日本人って反応しないってホント?(ちょっと飛躍しすぎ・・)
 

 (あし)


2003/11/19
-No.57-

◆ 電車の中(その3)

 リンゴが赤く色づき美味しくなりましたねぇ。
有機野菜の会のご縁で、長野のリンゴ園に毎年収穫の手伝いに行くようになって、もう20年以上になりました。

 何年か前、その長野のリンゴ園からの帰り、日曜日の午後の武蔵野線の車内でのこと、


 2才くらいの男の子を抱いたお父さんが、入り口付近に立っておりました。もうすぐ駅に着くとのアナウンスに、網棚の大きな紙袋を降ろそうとしたら、それが破れて中のものがどっさりとこぼれてしまったのです。

 中身は、木箱に入ったおそうめんやら缶詰めやらなんだかほほ笑ましかったけれど、多分子どもを連れて実家に行った帰りと見ましたが、それにしても大変。
 若いお父さんは子どもを下に降ろして紙袋の補修を試みるのですが、全くうまくいかない。

 車内の人たちも何かないかと手元を探すのですが、そのうち近くに座っていた若いカップルがなんだかもぞもぞし始めた。
 何してるのかなぁ、と思って見ていたら、男性のバックの中身を女性のバックにどんどん入れてるのね。それで、空っぽになった大きなバックをそのお父さんに差し出したのですよ。

 びっくりしました。
 何故かというと日本人じゃなくて、東南アジア、タイかフィリピンの方だったのです。
 若いお父さんは、最初は遠慮したけれど、電車が駅に近づいたのでこぼれたものを急いで入れて何度も何度もお礼を言って、子どもを抱っこして降りて行きました。

 もう何だかとっても感動してしまって、私も何かしなくては、とカゴのリンゴを何ヶか持って、その二人にありがとうとお礼を言いにいったのでした。
 車内の人たちが一斉に笑顔になって、恥ずかしかったけれど嬉しかった、、、というお話でした。
 ではまた。

 (あし)


2003/11/18
-No.56-

◆気持ちのいい日が続いています。
 近くのケヤキの梢も黄色や赤茶色に葉っぱを染め、少しずつ散っていきます。

 3日前に小平霊園の中を通って見ましたが、大きく空に枝を広げたケヤキの並木が、深まりゆく秋の気配を濃厚に閉じこめたようにどこまでも続いておりました。

 さて、行事予定をはじめ、あちこち更新いたしました。
 10月17日付けでご就任いただいた加藤鐵夫様を理事のお名前に加えさせていただきました。
 当会の趣旨に深く賛同していただけて、まことに嬉しく思っております。
 
 お陰様で当会を応援し、一緒に活動して下さる方々も少しずつ増えて参りました。
 ただいまの会員数      (平成15年11月15日現在)
 団体会員( 13 ) 、 個人会員 ( 79    正会員 57・賛助会員 22 )
合計92、という団体と個人の方々にご支援をいただけるようになりました。
 大変ありがたく心から感謝申し上げます。

 どなたでも参加できますし、いつでも新規加入を受付けております。
 どうぞ「志し、知恵、力、興味、好奇心、人脈、資金、他いろいろ 」をおもちの方、お力をお貸し下さい。

 今でしたら、でき立ての会報2号を(手づくりの為、素人っぽくてそんなに自慢はできないのですが)お送りできます!でも会の活動が凝縮された中身の濃さは天下一品。作りながら感動していました。

 今日は、「補修用材確保策検討委員会」がございます。なかなか難しい内容ですが、ひとつひとつ検討を積み重ねて行きたいと思っております。

 ではまた、今日はこのへんで。
 (あし)


2003/11/17
-No.55-

◆ 古民家の耐震性調査及び倒壊実験
 この12日から15日にかけておこなわれた実大実験の最新ニュースです。

 徳島県海部町野江の築78年の民家の耐震性を確認する調査を、徳島県内の林業関係5社で作る「TSウッドハウス協同組合」が行いました。
 民家は、地元の杉材を使い、当時の伝統的な建築技術を駆使しており、過去の南海地震にも幾度の台風にも耐え大きな損傷も変形もないという建物。
 海部町は、徳島県の南端、あの室戸岬まで40〜50kmで行ける、岬の東側に位置する町。台風の凄まじさといったら半端じゃないところです。
 ゆえに「この地域では、ごく普通の家が、小屋組みは見事な立方格子のほか、風の吹き上げや雨水の浸水を防ぐ独特の構造。強風など横からの力に強い構造にもなっている」とのこと。(鈴木有秋田県立大学教授の話、徳島新聞記事より)

 TSウッドハウスの活動は、木材、特に徳島スギの性能に関して、徳島県立農林水産総合技術センターでの様々な実大実験のサンプルを提供するなど研究の積極的な協力を行っていますし、金物を使わない工法、葉枯らし乾燥させたスギを使うことで人工乾燥しない材での木造住宅を目指しています。

 そこが手がけた実験には、上記の秋田県立大学木材高度加工研究所の鈴木有教授、金沢工業大学の後藤正美助教授、京都大学木質科学研究所の小松幸平教授、同大防災研究所の鈴木祥之教授らが中心となり、徳島県森林林業研究所、阿波の街なみ研究会などが協力したのです。夫々の大学の学生さんたちも沢山きて、全部で30〜40人の方々が連日泊まり込みで参加されたとのこと。

 ここに至るまでには、昨年阿波の街なみ研究会の方々の協力をえて、その民家の構造を徹底的に調べ上げる(クギの位置までも)という準備もありました。
 
 今回の結果は、そのうち立派なものが発表されるのでしょうが、私が素敵だな、と思ったのは、国や県、大学が研究するのはわかるけれど、それを民間の林業グループが始めたこと。そして今迄、別々に実験や研究を進めて来られた著名な先生方が、こうしてひとつの実験に一緒に参加されいろいろ議論をされたこと。
 
 これも皆、地域の樹木の特性を生かした安全な家づくりをめざして活動を続ける「TSウッドハウス」の方々の熱意なのだろうと思いました。

 その地域に合った木で家を建てて欲しい。その地域にあった建築基準法があってもいいではないか。そのためにこの地域の家づくりに生かされてきた技術を証明したい、という熱意が人を動かして行くのだろうと思いました。

 当会を最初から応援してくださる三浦千春さんは、このTSウッドハウスの縁の下の力持ち。どうやってこの実験にかかるお金を集めようか、と頭の痛い毎日だそうで、、、、大変なことです。
 (あし)


2003/11/16
-No.54-

◆山登り
 書くチャンスがなくて一週間ずれてしまいましたが、先週の土曜日(8日)は、いつもの山仕事の仲間達と、山登り。
 ハイキング担当のTさんとIさんが企画した「秩父・多摩・甲斐国立公園」奥秩父連邦最高峰(2601m)に登ってきました。

 というとかっこいいのですが、2300mくらいのところまで車で上れるのですよ。でも普段見慣れているスギ、ヒノキと全く違う樹木、(モミ?トウヒ?トドマツ?、、、わからない、、、)が林立する植生がものすごく新鮮でした。
 いつもは2〜3台の車を連ねて行くのですが、今回は出張やら急用やらで参加者は5人のみ。でも一台の車で出かけることができたので、車中の会話も楽しい。

 途中、Tさんが、「昨日、会社でねぇ、マキオ課長のホームページ見てたらさぁ、、」と話しだす。Wさんが、えぇマキオ課長の、、と相づちを打つものだから、なんでTさんの会社の課長さんのホームページをWさんが知っているのだろ、、などと気を取られているうちに、話が見えなくなって。
 ずっと???

 しばらくしてから、ハンドル握りながら聞いていたNさんも、Iさんも私も一斉に気がつきました。「マキオ課長って人の名前じゃないのぉ〜?」

 牧丘町という町の名前なのでした。Wさんは山梨出身で、すんなり牧丘町と理解したので相づちをうったんですって!
 
 勘違いって面白い。
 その日は、山歩きの間も一日中その話。
 夢の庭園、大弛(おおたるみ)峠、あちこちにある看板を見ては、「課長さんが看板だしてるよ」、、、「シャクナゲが咲く頃は素敵よねぇ、いつごろ咲くのかしら」、、、「課長さんに電話してみよう」、、なんてね。
 
 朝6時に小平市役所前集合で、9時前にはもうその駐車場着。
 さぁこれから登るぞ、という段になって、Iさんが、何だかものすごい荷物をよっこいしょって担いでいるのです。
 ???
 山頂に着いて、お昼を食べようとなったら、そのリュックから、まず5人がゆったり座れるシートが出てきて、それからコンロとガスボンベ、お鍋の次には、お水の入ったタンクまで。

 皆さんに美味しいコーヒーをいれてあげようと思いましてね、って。山の上で本格的なドリップコーヒー。馥郁たる香り、なんという幸せ。
 Wさんは、あぁ重かったって、大きな柿を5つも出して。これにも感激。

 普段山登りなんてしない私だけが、一人で、ぁっ酸欠、ちょっと休憩、と休んでばかり。やっとのことで登ったけれど、それでもなんでも素敵な一日でした。連れて行って下さった仲間に感謝。 (あし)


2003/11/14
-No.53-

◆ 菌症栽培は、菌床栽培の間違いでした。

 昨日知ったか振りをして書いた、「ブナシメジは、きんしょう栽培である」件について、菌床栽培の間違いではないか、とご指摘を受けました。全くその通りで、菌床が正しいのであります。謹んでお詫び申し上げます。

『 この形態の始まりは、なめこで原木からおが屑を使用した栽培方法へ移行した際、当時稲の機械植えに使用する木箱と同じようなものを使用したことから、「菌のなえどこ」 略して、菌床と名付けたことから、現在は原木に対するおが屑栽培を菌床栽培と呼んでおります。 ちなみに、英訳はspawn beds です。』という注釈までいただきました。ありがとうございました。

 どんな方々が読んで下さるかもわからないまま、せっせとこの日記を書いておりますが、こうして間違いのご指摘をいただけると、かえってその反応に嬉しくなります。(もちろん間違いは大変恥ずかしく反省しておりますが。)

◆ついでにきのこの話の続きを少々
 最近はきのこの人工栽培が盛んで、スーパーでもそれらしきものが何種類も並んでいますが、個人的には、椎茸などは、できるだけ原木栽培のものを買うようにしています。

 昔、子どもがまだ小さい頃、群馬の山へ椎茸菌のコマ植えの作業に連れて行ったことがあるのです。野菜の会消費者グループの子供たちを8〜9人連れて。ほだ木に、ドリルで沢山あけてもらったその小さな穴に、椎茸のコマを木槌でとんとんと入れ込んでいくのですが、小さな子供たちにもできる作業で、木漏れ日の中、みんな夢中になってやっておりました。

 作業が一段落した後、もう使われなくなったほだ木が捨ててある谷に行き、ここに生えている椎茸をいくらでも取っていいよと言われたのです。

 普通、そのような使用済みの木は、燃してしまうのですが、その生産者は、山に帰すのだと言って、放置しておくのだとか。まだまだ、立派な椎茸がそこかしこにいっぱい生えていて、子供たちと夢中になって取りましたが、さわると木がぼろぼろと朽ちて崩れるのです。

 本当に、土に帰る、山に帰って行くその様は、思い出すたびに心の中がしんとする。
 その時、土に帰ることは美しい、と初めて思ったものでした。
 
 椎茸がキライと言っていた子どももそれ以来食べるようになったのですから子ども心にも楽しかったのでしょう。あれは、いい経験でした。

 お恥ずかしい誤字のお詫びとご指摘いただいたお礼だけのつもりが、また余分な話になりました。  
 
◆◆余分といえば、今朝の読売新聞。
 先日のブナ違法伐採に関して、日本野鳥の会南会津支部が、伐採当時の支署長を森林法違反の容疑で刑事告発する、との記事が出ています。
 こうした地元のつながりの中でここまでいくというのはとても不自然。一体何があったのでしょうか。

 日本野鳥の会本部が、こうした事例が今後起きないようにと、大所高所から注意を促すために乗りだしてくるのならまだわかるのですが、なんだかバックに違う動きがあるのでは、と勘ぐってしまいますが、さてどうでしょうか。

ではまた。
 (あし)


2003/11/13
-No.52-

◆ ナメコとブナシメジ
今日は、きのこのお話です。

ブナからどんなきのこがでるのだろうと探していてブナシメジを調べて見ました。

 ご存知でしたか?今、町で出回っているブナシメジって、本物のブナシメジではないんですってね。
 私たちが良く食べるブナシメジ・・小さなきのこがもこもこと生えている・・は、本名を「やまびこほんしめじ」というのだそうで、それも宝酒造(株)という会社が特許を取得している「きのこ」なのだそうですよ。(http://www.avis.ne.jp/~ogit22/saibai.htm より)

 昭和48年から長野県経済連と本栽培契約を結び、県内農家において栽培されるようになったのだそうです。(ちなみに平成11年より「superやまびこしめじ(宝3号)」に商品名は変更。なお、最近では、新潟県も「越のわらべ」(仮称)として品種登録を出願(2003年3月26日付け)し、現在普及に向けたデータ収集などを行っているのだそうです。)

 いわゆる菌症栽培。ビンの中に入れるオガクズは、スギ、マツ、広葉樹の混合、栄養源は主に米糠、フスマ、活性剤だそうで、ビン詰めしてから収穫まで約4ヶ月かかるとのこと。
 
 本物のブナしめじは、上記のもこもこシメジの形ではなく、すっきり一本。
ディズニーのマンガ映画(ファンタジーって映画、覚えていらっしゃるでしょうか)に出てくる様な可愛いきのこの形で、カサの表面にある大理石様の模様が決め手なのだそうです。「シロタモギタケ」ともいうのだそうで、食味、歯ごたえともに極上とのこと。

 ホームページをいろいろ開くと、こんな誤解を与える商品名で、違うブナシメジを世に広めた某N県(とその経済連)は功も大きいが、罪も大きいかも、、、などと書いてあったりして面白い。

 ナメコはブナの倒木(ときに生木)の表面にびっしりと生え、そしてこの本物ブナシメジは、そんな倒木の中、うろの部分にひっそりとはえているのだそうですよ。

 昨日いろいろ調べているうちに見つけたおまけのお話でした。ではまた。

 (あし)


2003/11/12
-No.51-

◆ ブナが伐採されたわけ・・自分で調べてみた結果

 7日の日記に林野庁の方からいただいた情報を紹介しましたが、その最後に
「なお、伐採されたブナは、従来から地元のナメコ組合に販売され、ナメコ栽培に利用(現地で伐倒木に種菌を打ち、6年ほど栽培)されてきましたが、平成14年度からの南会津の5年計画では、こうしたブナの伐採も全て中止し、現在は、ブナの新たな伐採はありません。」というコメントがありました。

 ブナが伐られた理由として気になったので、自分で調べてみることにしました。
 そこで、新聞記事にあった、只見町と桧枝岐(ひのえまた)村、舘岩村の役場に電話してナメコの業者の連絡先を教えてもらいました。

 夫々の役場の方々は親切にいろいろ話して下さいました。少しずつニュアンスの違いはあっても、いずれも、最近はブナが人気があるから、水源涵養林として残さないといけないし、観光資源としてもなるわけで時代の流れに対応せざるをえないという印象でした。

 記事がでるまでの経過は、世界遺産の選考にあたって町から調査を依頼された、河野京大名誉教授が現地調査を実施中、業者が森林管理局からの払い下げを受けて堂々と木を伐っていた現場に出くわした、ということがこの騒ぎの発端らしいです。

 役場の方に、もし森林管理局がこの施業計画を県知事と事前協議していたら伐採は許可されなかったのでしょうか、と伺ったらそれはなんともわからない、とのことでした。

 めざすナメコの業者も紹介していただき電話でお話しを伺いました。
 何でも、ブナの原木で栽培されるナメコは、品質もいいし、6〜7年原木も長持ちするので、そのブナが手に入らなくなって困っているとのこと。「椎茸のようにコナラやクヌギではだめなのですか?」と伺ったら、木が柔らかくて長持ちしないのだそうで、「味もやっぱりブナの方がいいんだよねぇ。」という返事

 「ほんとに困っているんだよ。私が嫁に来る前から、この家では、ナメコを作っていてね、今もう三代目なんだよ。たいした産業があるわけでもないこんなところで、ナメコ栽培でやっと生活を成り立たせてきたのにね。
 ブナを伐るったって、自然をこわすほどの伐採ではなかったはずだよ。あいだ伐りっていって、間引くように伐るんだよ。山を丸坊主にするわけではないんだよ。」と一気に話してくれました。

 館岩村のホームページを見ると、郷土料理に、赤かぶや岩魚、裁ちそば、はっとう、つむづかり、などと一緒にばんでい餅というのが紹介されていました。なんでも、昔、木地師達が山仕事を始める前に、山の神にばんでい餅を供え、作業の安全を祈願していたという風習からきているのだそうで、ブナの切り株を削って、臼に見立て、うるち米を炊きそこで即席の餅をついたのが起源とか。役場の方に伺ったら、昭和20年から30年頃までは、みんな兼業林家でナラとブナを伐っていたけどね、いまはそんな業者は一人しかいない、とのことでした。

 河野教授は、「原生的なブナ林が残るのは、我が国だけで、ブナを伐採するのは、全く論外の行為」と読売新聞にコメントを出されていますけれど、このナメコ栽培の女性の話を聞くと、なんか違うのでは、と思ってしまうのですよね。

 過去の大規模開発で山の木が伐採されるイメージとは意味合いが違う。
 暮らしの中にあったブナ林とのつながりが、単に『学術的に貴重』だから、という理由だけでそこに住む人たちから取り上げられていいものか、と思ったりするのです。

 環境保全の問題って、本当に分かりにくい。
 今回の新聞記事に対する私なりの結論は、もともとは南会津支署側の手続き上のミスがあったという話。(もちろん許されることではありませんが。)それにセンセーショナルな見出しでブナを伐ることは罪悪と印象づけたマスコミの記事に違和感を覚えた、ということでしょうか。ではまた。

 (あし)


2003/11/11
-No.50-

◆ カナダに行った時のこと

 5年くらい前、バンクーバーからロッキーマウンテニア鉄道でまる二日もかかってバンフまで行ったことがありました。ロッキーの岩山と渓谷にそって、ひたすらゆっくり走るだけの観光列車。

 二日がかり合計23時間の列車の旅は、距離にすると800kmぐらい。旅の最終日にカルガりー空港からバンクーバーまで(約1000km)飛行機で飛んだら、たった35分。がっかりというかまことに情無い気分になったものです。

 車内では、リクライニングシートをゆったりと倒して寝るもよし、周りの景色を楽しむも良し。車両ごとに蝶ネクタイ姿のウェイターがいて、トレイにセットされた朝食やランチを運んできてくれたり、眠りかけるとすかさず毛布を持ってきてくれたり甲斐甲斐しく世話をしてくれるのです。

 時々「外を見て!」と大声で「鹿がいるよ、」とか「この湖は、、」などガイドしているみたい。(なにしろ英語なので、、、周りの乗客が笑っても反応できず淋し〜い)夜になるとカムループス駅に迎えに来た鉄道会社のバスが車両ごとの乗客をホテルまで運んでくれ、また朝には駅まで連れてきてくれる。
 列車が時々ガターンと停まったら対向列車とのすれ違い。なにしろ単線なのです。それが30分も40分も停まったまま、100両以上もの貨車がガタゴト通り過ぎるのを待つのですよ。

◆自然を残すって、、、
 前置きが長くなってしまいましたが、二日もの間、飽きもせずに眺めたのは、車窓の景色。なかでも印象的なのは、延々とつながる岩山とその10cmもない表土に育つ木(針葉樹なんですが)。

 大きく育った木々の間には、実生から育った小さな木がびっちりとその表土に成育していてとてもにぎやか、でもあるところは沢が崩れ、表土ごと流されているのです。 表土がある部分と岩との境目の部分は、まるで木々が陣地を拡大しようと岩山とせめぎ合っているようにもみえました。

 列車はそんなところのすぐ横をゆっくり走って行くのですが、いわゆる治山ダムも砂防ダムも見かけない。人の手が入っていることを感じない。
 どんなに沢が崩れても、恐ろしくなるくらい谷がえぐられていてもあるがままだったのが私には不思議に思えたのです。

 環境問題について、森林は自然のまま放っておけばいいのだと論じる知人がいましたが、(私がみたこのカナダの様に)本当にそれでいいのか、と不安になるのです。

 手付かずの原生林を守ろうとする気持ちはわかるけれど、それならどんな災害が起ころうとも人々の暮らしに影響がでないように、その地域には、家も田畑も村も造ってはいけないのではないかと私は思うのですよ。 
      
 自然を自然のなすがまま放っておける国土を持つ国と、日本の様に、上流で大きな災害がおきるとたちまち川下や漁業にまで影響がでる国土の違いは絶対あると思うのです。

 前回日記にも書きましたが、ブナの伐採が保安林の施業の中でどういう意味あいで伐られる必要があったのか知りたいなと思っているうちに、上記のカナダに行ったときのことを思いだしました。
 またブナだから、残さなければいけない、という意見にも疑問あり。でも長くなるのでそれは次回に。

 なにしろ自分で見てきたことしか判断の材料がないので、狭い世界のことしかわかりません。いろいろ教えていただけたらありがたいと思って書いています。ご意見など情報交換ページに書き込んでいただけたら嬉しいです。。。ではまた。今日はこのへんで。
 (あし)


2003/11/07
-No.49-

 午後この事務局日記送信の際になぜか通信できなくなって、延々4時間も悪戦苦闘してしまいました。一本のケーブルがつながら無くなるだけでまことに不安になるものですね。

◆読売新聞記事に関して
 昨日、お手軽な事務局日記で済ませたら、知人からメールがきました。
 5日朝の読売新聞一面トップ見ましたか?「 林野庁の不法伐採」記事のコメントでもあるかと思って事務局日記をのぞいたらおのろけでしたね、って。
 あらまぁ、お恥ずかしい。申し訳ありません。

 あわてて読売新聞を探して読みました。
 なんでも、林野庁の関東森林管理局 会津森林管理署南会津支署で、森林法で規定されている県知事との協議を行わず、ブナやカラマツ、スギなど24000本を伐採していたというもの。

 ほんとかなぁ、と記事の信憑性を疑って、林野庁側に言い分はないのでしょうかとお伺いをたててみました。
するとすぐにお返事が、、
1 伐採されたのは、平成9年から平成13年の間に、ブナ間伐176本、カラマツ・スギ人工林の間伐約2万4千本だったこと。いずれも森林法に基づく保安林の指定施業要件(伐採・更新などの取扱いの基準)に合致した施業であること。

 地域施業計画でも、間伐の指定がされていて、南会津支署としては計画通りの森林施業を行っていたもので、決して何かの不正行為ではないこと

2 でも、森林法に基づく県知事との事前協議(保安林における伐採)を行っておらず、法律に定めた手続上のミスを犯したということであり、このため関係者も処分されている。

 センセーショナルに取り上げられたため、ブナを2万4千本伐った(実際は176本)とか、伐ってはいけない保安林を伐った(実際は保安林の指定施業要件に合致)とか、事実とは異なる誤解の方も広まりそうで、苦慮しています。
 また林野庁は、国の機関が法令上の手続ミスをしたということを重く受け止めており、「適正な手続が行われていなかったことは誠に遺憾であり、再発防止に万全を期してまいりたい」としている。
 とのコメントをいただきました。

 伐採されたブナの木が176本とはいえ、200年を超えていた木もあったということで、事前協議さえされていれば、残されるべき木もあったのでしょうか。でもなんら問題のない施業要件だったということでもありますし不可解。

 私たち一般市民には、環境省のいう保全と林野庁の考える保全、また学術的に貴重なものと良くいわれる学術的の意味、などもっと知りたいことが沢山あります。

 伐った、いけない、の報道だけでなく、何故伐ったらいけないのかを知りたいと思います。
 違法伐採という言葉の響きはまことに大きく、最初の取り上げられ方で、林野庁は!という批判を受けてしまうのですからマスコミの力は本当に大きいと思います。続編で、森林の意味などもっと多方面から取り上げて欲しいものです。

◆話をもとに戻しますが、この記事で危惧したことは、200年先の市民の考えです。
 当会としては、200年後の大径材の行く末を心配しているわけで、実際、その時に300年400年生の大木を伐るのですから、反対運動がおきないだろうか。ひょっとしたらしめ縄なんか張られて神格化した木だってあるかもしれない。

 だから、その時の為に、これは文化財を補修するために育てた木なのよって、だから伐るのよって看板たてたり周知させる必要があるのだろうと思っているのです。
 
 長くなるので、続きはまた。

 (あし)


2003/11/06
-No.48-

5日の分を6日朝書いています。

 昨日は、某所での会報の印刷や見学会の写真集作成に、朝からでかけて家に帰ったのは夜の11時半。

 普段、夫が帰るのは、夜の10時過ぎでそれから食事という生活に、大変なのはわかるけれど文句いっぱい(心の中で、、、えへ)

 でも、さすがに夕べはこちらの方が遅くて、駅まで迎えに来てくれた夫に感謝。
 今夜は心を込めて夕食を作ろうと思ったことでした。

 ではまた。
  (あし)


2003/11/04
-No.47-

◆ 温故知新と国産材

 今朝は、あちこちの梢をざわざわ鳴らす風が強かったけれど、夜、帰りがけに通ってみたら、案の定トチノキの大きな葉が落ちて道にいっぱい重なっていました。思わずがさがさと踏んで歩いた、、。

 情報交換のページに、先日見学会に参加して下さった方々の書き込みが続いていてとても嬉しく思っています。
そして、建築家の皆さまが、林業への理解を深め、国産材をもっと使わなければ、、と言って下さることが、ほんとに嬉しい。

 林業家の方々が、大径材を育てていくためには、安定した生活が成立していなければならず、その為にも販路、「国産材で家を建てる」ことが必要なのです。

 この三連休に近くの駅駅を散歩して、ついでに100円ショップに入りました。こんなもの迄売ってるの?ってびっくりして思わず買ったのは、四字熟語辞典。

 たまたま目に付いた「温故知新」ってことば。昔のことを調べて知識を得るだけじゃないのね。新しい価値や意義を再発見して、現在に生かすことなんですって。まさにこの会の活動、、。

 とても100円の知識とは思えない、でもこれから四文字熟語を書いたら、あっ100円、って思われそう。でも賢くなれたらいいですよね。ではまた。
 (あし)


2003/11/03
-No.46-

◆毎日が日曜日って、、、

 一昨日からの三連休。ケヤキの梢も大分黄葉してきました。
皆さまいかがお過ごしでしょうか。
 
 私事で恐縮ですが、もう、12〜3年も前のこと。夫が転勤と決まり、単身赴任に泣きました。
 友達も、私も泣いたと二人で慰めあっていたら、「バッカじゃないの?この二人は、、、」と他の奥さん連中にさんざん笑われた。

 旅行は大好きだけど、主人とだけは行きたくない、、という奥さん。聞いて見ると、荷物は主人の分まで持たされるし、やれ駅弁買ってこいだの、場所聞いて来いだの、家より疲れるからだそうな。なるほど。

 せっかく旅行に行っても仕事の電話ばっかりで、、旅先で独りぼっちなんて全然面白くないという友人もいましたね。なるほど。

 一番多いのが、日曜日は疲れるという意見。仕事を持ってる奥さん達は、とくにそうよねぇ。

 だから、定年間近の殿方が、「いやぁ、もうすぐ毎日が日曜日ですわ」と嬉しそうに話されると大丈夫ですか、と少し気になる。

 淋しい思いをさせたから、とおっしゃるけれど、そんな時期を乗り越えた奥さんには奥さんの世界が多分ちゃんと出来ているのにね。
 
 現にご主人の「毎日が日曜日」状態にノイローゼになったり、ストレスで入退院を繰り返している友人もいるのですよ。

◆「えぇっ?どうしよう?」とびっくりしているそんな人におすすめは、山に木を伐りに行くこと。

 いわゆる森林ボランティアという世界、夏は、下草刈りなんて炎天下の作業できついけれど、これからの時期は、木を伐る季節。

 林の中でスギやヒノキを間引いてやる間伐や枝打ちの作業など、バキバキドッシーンと自分が伐った木が、倒れていくのですよ。これは女性もはまる。

 私が所属する会は、最初みんな一人参加だったのに、最近は伴侶を連れてくる人が多くなり、会員38名のうち8組もご夫婦が参加される。最初市報で呼びかけ、集った人たちで始めた会も早5年目になりました。山仕事をしている時の殿方は皆さん力強くかっこ良く見えるし、宿泊しても面白いし、楽しいことばかりです。

◆いいなぁ、と思われる方は
森づくりフォーラムの最新活動案内を是非ご覧あれ。(リンク集にも紹介されています)
http://www.jca.ax.apc.org/morizukuri/pages/katudou_frm.htm

でもこれをきっかけに新しい仲間を作っていくのは、自分次第よ。ではまた。 (あし)


2003/11/01
-No.45-

◆ 選挙
 用事があって車で武蔵小金井近辺を通ったら、あちこちの看板に見慣れた顔が、、菅直人さんと鳩山邦夫さんの選挙区なのですねぇ。大変だ。

 高知県の橋本知事が苦戦しているというのでメールを入れて見ました。

以前、いただいた名刺にアドレスが書かれてあったので、その時も感想など書いてメールをだしたらちゃんとお返事を下さったことがあったのですよ。
 そしてこちらが提案したことなどに関しては、関係部署の方からもお返事が届くのです。

 初めてお会いしたのは、ある町の方々との意見交換会でした。そこに偶然いあわせたわけでして。

 25人くらいの方々が自己紹介を兼ねて、普段思っていることなど知事に訴えると、それをすべてご自分でメモに書き取られ、最後に一人ずつに返答された。
 専門的な事になると一緒にきていた県の担当の方にも返答を求めるなど、丁寧に応えられていたその対応が的確で感心してしまったのです。

 どこぞの知事のように、情無い失言を口走ったり絶対しない。

 たちどころに、お返事が届きました。
 忙しい時でしょうに、こちらは選挙には全然関係ない東京の人間なのにね、、また感激。

 さぁて、こっちは誰にいれようかな、、、。ではまた (あし)


2003/10/31
-No.44-

◆ 新しいもの

29日のNO.42、で新しいものに憧れてしゃにむに進んできた社会が、、、、なんて事を書きましたが、これは、早稲田大学の朝倉征夫先生(教育学部社会教育)の「新しい考え方や原理、原則、製品、システム」の考え方からきています。

「新しい考え方や原理、原則、製品、システムなどは、その安全性や長期的な有効性については、歴史のなかで必ずしも十分に検証されてきたものではない」、と説かれるこの先生の講演を、市主催の講演会で聞き、小学校PTAの講演会や自分の関わる有機野菜の会でお呼びして聞き、大学の授業も一度聴講したほど傾倒。(今を去る事16〜7年くらいも前のこと)

著書に「子どもにとって現代とは」。
最近では、「こどもたちはいま」産業革新下の子育て( 朝倉征夫編著・学文社)がでています。おかぁさんはもちろんのこと、今子育て中のおとうさんにおすすめです。

 今の、激しく産業が変動しそれが政策的に進められていく中で、新しくなければ、生き残れないという社会。奈良に行くとほっとするのは、そこに全く変わらないものがあるからだと自分で思っています。
 
 例えば、お祭りなど、神社の神事や寺の行事を見ていると、千年以上もの間つかさどる人は変わっているのに、その行事そのものは始められたままの姿で目の前に出現する。

そんな古来のままの儀式にたちあうと・・たいてい真夜中だったりするのですが・・歴史に連なるちっぽけな自分を感じ、またそれがたまらなく心地よい。
 私にとって、文化財を残したいという思いは、そんな小さな充足感をこれから後の人たちにも味わってもらいたいから。

 新しいものに満ちた現代社会の対局にある、オリジナルなもの・・原始の最初の・・に魅かれている。

 今日もいいお天気。近くのケヤキの葉が少しづつ黄葉し枯れた葉が、かろうじて枝にぶら下がっています。トチの木の大きな葉も頭の上でがさがさと音をたてて、、、強い風が吹いたら散ってしまうのでしょうね。ではまた。
 (あし)


2003/10/30
-No.43-

◆ 更新しました。

 古橋源六郎さんの講演録(平成11年第7回森林交付税フォーラムにての基調講演、見出しなど若干補足)を論文集に掲載しました。
 新しく団体会員になって下さった、金閣寺、銀閣寺をリンク集に追加しました。

◆ そして、今日からパスワードをはずします。

 どうぞ皆さま沢山の方にご紹介下さいませ。
 せっかくホームページを開いたのですから、「文化遺産」と入れただけで、検索の1ページ目にでるようになりたい、、、というのが事務局のとんでもない高望みですが、、、それにしてもYahoo!とか、Googleとか、いま、開くと世界遺産が1番、京都府のホームページが2番に、、、とてもかなわない天文学的アクセス数。
 一ページめは、全く無理と早々とあきらめて、せめて二ページ目くらいにいけるといいな、、これもまだ高望み、、、。

 というわけで、暇さえあれば、覗いていただけますよう、要は、アクセス数の問題なのだと思います。よろしくお願いいたします。ではまた。

 (あし)


2003/10/29
-No.42-

◆昨日、コンクリートプレハブの話をちょっとしましたが、日本におけるプレハブ工法の最初は、万年真正さんという方。

 今をさること40〜45年くらい前?(ごめんなさい、さだかではありません)銀座のパン屋さんが大久保に新工場を建てた時、この万年さんが請け負って新工法で建築したのだとか。

 それを建築研究所の平賀さんという方が着目、日本のプレハブ工法の先駆けとしてバックアップ。それに大成建設が関わったのだそうです。(これは人から聞いた話)

 私は、町を歩いていてよく目にする万年塀がこの方の発案かと思っていたら違っていました。あれは万代塀といって、それ以前よりあったのだそうな。最近は、万年塀を生け垣に、という運動があるのだそうですね。地震の際に危ないと。

 バブル期のころ、プレハブの工場であらかじめ打設されたコンクリートの板を現場で組み立てるだけの工法は、工期も短く人も少なくて済むし品質も安定しているというので、工場はフル稼働でした。
 でも今は、大きな工場を維持することが大変な時代。最近はカーテンウォール工法の方が目立ちますね。
 それに今のコンクリートの寿命は、50年。大正時代に建てられた東京駅前の丸ビルも80年で取り壊され建て直されました。

 新しい考え、新しい技術、新しい生き方、新しいものに憧れてしゃにむに進んできた社会が、最近ふと立ち止まっているような、そんな気がします。

 昨日、堂宮大工の方から、木の硬さ・柔らかさ・強さ・温もり・冷たさなどは、手で触って・刃物をあてて・実際に組んでみて大工でしたら、手の感触で解かるのですが、、、
 とメールをいただきました。さわっていれば木の重さ、強さなどは見当がつくと。

 新しいものに、流されることなく、じっくりと自分の感覚で物を見、古い建物を蘇らせ、その技術を今の世にも役立たせたい、という「自分は大工です」という方のことばはとても重く響きます。

 いよいよ明日、会誌の2号ができ上がります。楽しみにお待ち下さい。
 
 (あし)


2003/10/28
-No.41-

◆秋の今頃は、奈良で正倉院展が開催されていますね。
 昨日の朝日の「天声人語」にも紹介されていました。

 30代のころ、子育てやいろいろのことで自分を見失いそうになると、気が狂ったように(家族にはきっとそう見えたと思う)奈良に、、、、この正倉院展も東京から日帰りで見に行ったもんでして、、。

 常々、この校倉造なるものを、もっと日本人は見直した方がいいと思っておりますです。

 外側には、三角の部分がとびだしていますが、中に入ると全くの板壁と変わることなく、室内を広く使えるのですよ。
 ログハウスは外から見ると悠々としていて素敵ですが、壁が中にも丸くでっぱる分、室内は狭くなるし、よっぽど広くないと使いにくいのでは、、。

 これは、コンクリートプレハブ(壁式)の建物(あらかじめ工場で壁板や床板、屋根板を作成し現場で組み立てる)の方が、RC(現場で型枠の中にコンクリートを流し込み作る)のように柱部分にスペースを取られないので空間を有効に使える、のと同じ理屈です。

 そんなわけで、校倉づくりの三角柱のキットを作って、組立物置やさてまた別荘などどこか売り出しませんかねぇ。

◆宮崎県の南郷村には西の正倉院といわれる建物が建てられています。

 それまで門外不出とされていた正倉院図を元に屋根瓦や柱などのすべての部材や、瓦の葺き方までを、奈良正倉院と寸分の違いもなく、再現した建物です。

 建築にあたっては、宮内庁の協力のもと、奈良国立文化財研究所の学術支援・建設大臣の特別許可を受け、造営材には、すべて木曾の桧を使用しているのだそうです。
 
 大量の木材を運びこみ、完成までの工程のすべてに昔ながらの工法を駆使し、再現されたということで、道具も昔ながらのものを使っているのだとか。

 つまり大きな木を縦に六等分に割って、部材を一つ一つ作ったわけで、もちろん芯去りでしょう。木目の使い方などちょっと見に行きたいな、と今はこっちの方に興味をもつ様に。ではまた、、。
 (あし)


2003/10/27
-No.40-


◆写真展のおしらせ

 緑の地球ネットワーク事務局長の高見邦雄さんが、毎回書かれる黄土高原だより(NO.229)がさっきmelmaで配信されてきました。
**********************************************
 写真展『中国黄土高原〜砂漠化する大地と人びと』
 10月26日(日)〜11月1日(土) 10:00〜19:00
 JR東京駅・丸の内北口ドーム 入場無料
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
というお知らせです。私は、この写真展を最初に京都駅で見ました。写真集も買いました。

 というのも、4年前の旅行で、たまたまこの黄土高原をバスで通り抜け、がく然とした印象が強かったから。

 うっすらと青く煙る山が見えてきて、近づくと木が一本もないという驚き。緑の草とかろうじて潅木がポツポツと斜面に色をつけるだけ。歩くと舞い上がる砂ぼこりの様な黄土と岩の大地。
   
 耕して天に至る、という段々畑。日本なら背後に必ず森があり、美しい棚田の風景として紹介されるのでしょうが、、、、等高線状態に山の頂までも360度すべてが畑。

水を引くすべもない、天からの雨を待つか、人が運びあげる水でしか作物が育たない。そんなところで育つ作物は、トウモロコシ、ヒマワリ、ジャガイモ、コウリャン、アワ、ソバ、、等それもわずか。

 日本で村おこしにと休耕田に植えるヒマワリとその意味が根本的に違う、と収穫前のヒマワリの大きな花が、枯れて累々と畑に立ち並ぶ様を見て思いました。
 
 大同から雲崗の石窟(高校時代から一度見たいと思っていた地)を見て、五台山へ行く山の中、素人目で見ても、かつて豊かに茂っていたはずの森が、長い年月の間に人為的に失われたのだろうと気がつきました。

 旅の終わりに、たまたま国慶節の準備で華やかな北京に戻ったときのそのギャップ。最近では、有人ロケットを開発するまでの力を持つ中国という国の別の現実。

 バスを目で追っていた老人や、子供たち。あの子供たちは、老人たちと同じ人生を歩めるのだろうか。

彼の地で、畑を耕す人がいなくなれば、それはたちまち環境問題となってこの日本にも影響が出てくるのは私にも分かります。現に酸性雨や黄砂としてもろに降り注いでいるのですから。

 高見邦雄さんの活動は、凄いです。私などは、旅行の途中とはいえ、あの黄土地帯に生きる人々を目撃したのに何もせず本当に心苦しい。だから、せめて、この写真展を皆さまにお知らせしようと思います。是非、ご覧になって下さい。
 (あし)


2003/10/26
-No.39-

◆スズカケの木

 地下鉄丸ノ内線の東高円寺駅のすぐ近く(またまたローカルでごめんなさい)に、「さんしの森」という公園があります。昔々、そこから少し離れたところの高校に通っていたころは蚕糸試験場といって青梅街道に面した門は固く閉ざされ、中には入れませんでした。

 時代が変わり、養蚕の為の試験場も必要がなくなったという ことなのでしょう。建物は跡形もなく取り壊され、公園の中には、小学校が隣接し鴨やカメの遊ぶ池や木々の中を遊歩道ができています。

 沢山の素敵な大木があるのですが、私のお気に入りは、一本のモミジバスズカケの木。プラタナスともいいますね。元の建物の前庭にあたる部分(多分)に位置し、きっと大切にされてきたのだと思います。

 高さは20m以上はあるだろうという雄姿、思いっきり枝を広げ、今の時期大きな葉っぱの陰に丸くかわいい茶色の実をぶら下げています。昨日は久しぶりにその木の下に立ち、ずっと見上げてご挨拶。それだけでもう嬉しい。

 もしチャンスがあったら是非ご覧になって下さいね。ではまた。
 (あし)


2003/10/25
-No.38-

◆午後出かけて、夜10時過ぎの電車で帰ってきました。

 西武多摩湖線の国分寺駅のホーム横(ローカルな話でごめんなさい)に、チョット見かけない木が立っています。今時分は、茂った葉の間から、緑の硬そうな実がブドウの房のように垂れ下がっていて、一体この木はなんという名前かと、いつも見るたびに知りたいと思っておりました。

 ある日、初めてインストラクターについて簡単な山歩きをしたとき、同じ木に出会ってあのホームの横に立っている木が、オニグルミだと知ったのでした。あの時は、嬉しかったっけと思いだしながら、ノートを出して書き込んでおりました。 

 隣のブロックのシルバーシートでは、どこぞのおじいちゃんが、気持ちよさそうに歌っています。最初は鼻歌だったのが、電車が動くほどに調子よく声も大きくなって、、。

 そんなこともとりとめなく書いていたら突然、私のノートのグチャグチャ字を、「イヤァ達筆だねぇ」、とペンまで取り上げて、自分の名前をページいっぱいに書いてフリガナまでふって喜んでいるおじさん。何ごと?と驚いたもののやっぱりほろ酔い気分のニコニコ顔に怒るに怒れず、ついつい話を合わせていたら、次の駅で機嫌よく降りていきました。

 終点で、ずっと歌ってたおじいちゃんも降りたけど、ちらりとみたら、上着の下に赤いチェックのチョッキが見えた。それも毛糸じゃないの、どこで仕立てたのかお洒落して、きっと良いお酒だったのでしょうね。

 なんだかおかしい夜、私まで浮かれて帰った駅からの道でした。 (あし)


2003/10/24
-No.37-

◆電車にのると聞くともなしに話し声が耳に入ってきます。

 年配のご婦人方のお話は、やれ誰さんがどうしたとかこうした、とかいう話が多いみたい。同じトーンのせいかどうか聞いているわけではないのだけれど、いつのまにか子守歌になってしまって、、zzzzzz

 そんな中では高校生くらいの男の子達の話は、たいてい面白い。
  「おいドライブ行こうぜ。」 
  「おぅ、いいなぁ。誰が運転するんだ?」
  「○○がやっと仮免とったんだってよ。」
  「えぇ?危なくないのかよぉ〜」 
  「あいつが一番ましだぜ。仮免とったんだぜ〜」

  「ん????」(この?は、周りで何となく彼らの会話を聞いていた乗客達の?)

 昨日はとんでもない土砂降りの雨と雷で驚きましたが、今日は清々しい青空。嬉しい。
ではまた。  (あし)


2003/10/23
-No.36-

昨日は、会報2号発行の最終打合せの後、上野の西洋美術館に「レンブラントとレンブラント派-聖書、神話、物語」展を見に行きました。(12月14日まで)

 今まで歴史大好き人間できたもののそれは日本史に関するものばかりで、西洋史とんとだめ。宗教画?なるものを見てもその背景や物語がわからない。

 それではだめと誘われるまま主だった展覧会には行くようにしていますが、あの重いカタログを買って家で読んでみてやっとナルホドと合点が行くという、絵を鑑賞する以前の問題。全く情無い話です。
 そんなわけで、レンブラント。行って良かった・・・・。

◆ 文化遺産を未来につなぐ
 来年、1月29・30日(予定)に徳島で、シンポジウムが計画されています。
二日目には国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている脇町で意見交換会も予定されています。

 そのうだつで有名な町並みの中に、寛政4年に建てられた脇町最大の床面積を持つかつての藍商の家である吉田家が公開されています。吉田氏が町に寄贈し、町が修復をした後、一般公開をしているものです。

 この会の団体会員である石谷林業・石谷家も智頭町にその広大な屋敷を寄贈され現在公開されていますが、地域で文化遺産を守る例として、注目されるものと思います。

◆ ちょっと気が早いけれど来年の見学会
  というわけで来年は、滋賀県の琵琶湖。湖北の観音堂を守っている集落をあちこち見て回る見学会を考えています。

 守ろうとする方々の思い。
 所有者がいなくなってしまったお堂や観音様を地域の方々で何百年も守り続けているそのシステムを皆さまに是非ご紹介したいと思っているのです。
 (あし)


2003/10/21
-No.35-

◆見学会が無事終了しました。
 一日だけの方も含めて、参加者26名。
昨年同様、内容の濃いまことに意義深い三日間を堪能しました。
簡単なご報告をさせていただきます。

 一日目、
京都駅新幹線八条口に集合した後、
◆1 西本願寺御影堂(ごえいどう)見学、最上階の見学場所から修理工事中の大屋根を見ることができました。その大屋根の大きいこと。広いこと。屋根に並べられた瓦の美しいこと。
 200年前の土壁を水につけて戻し、また土を足して、壁を塗るという補修の仕方。新しい土だけでは年月が経つと壁が縮むのだそうで、また刻んだワラを土に練り込み寝かすことが大切という伝統の工法。

◆ 2 真言宗総本山東寺(教王護国寺)では、あの五重塔の中に入れていただき、心柱の下がった様子など様々に皆で憶測、推論など夢中で意見交換。金堂や講堂や大子堂(御影堂みえいどう)、大日堂の見学。また特別拝観中の観智院では、茶室や宮本武蔵の絵まで見ることができました。

◆ 3 社寺建築(株)奥谷組資料館の見学はただただ圧巻。展示物の質の高さや量、広さで充実した資料館の他に、ヒノキの香りに満ちた工房内やストックされたおびただしい大径材の量に、もう絶句。貴重なお話を沢山聞かせていただきました。

◆4 夕食は「南禅寺順正」。清雅な京風建築庭園を配した料亭。バスを降り、門からさらさらと流れる水や足元に灯された明かりに誘われて、池まで歩くほどに建物の入り口が。湯豆腐や湯葉料理に感動。
いやいや豪華な一日目でした。

二日目は、
◆ 5 八木町・清源寺にて木喰仏拝観。木喰上人が89才で彫ったという十六羅漢像の世界に思わず見る人は、みな微笑。国宝や重要文化財には入らない、こういった文化財を地域で守っていく為に、遠く離れた都会の人間は何をしたら良いのか、と問題提起をさせていただきました。

◆ 6 綾部市についてからは、由良川沿いに建つ、「ゆらり」という食事所で麦とろ定食。あっさりと麦入りご飯そのものが美味しいと好評でした。建物も築150年の民家を移築して建てられた風情ある建物。

◆ 7 宗教法人大本 長生殿拝観。ただただ美しい、ヒノキの素肌の美しさ心洗われるひととき。日本伝統建築の素晴らしさ。祈りの場は木造でなければ、と強く思います。

◆ 8 美山町着、いそべ旅館宿泊。山里の旅館ならではの食事、マツタケの土瓶蒸しもあって、美味しかったのです。

三日目は、
◆9 京北町、草木紘司様山林見学。山国地方の林業について駆け足でご説明いただきましたが、時間が足りないのがまことに残念。木材市場やヒノキの母樹、ヒワダを剥いた木なども見ることができて大変勉強になった見学でありました。

◆ 10 常照皇寺というお寺に是非と案内されて、、、入った途端にこころ奪われました。なんて素敵なたたずまい。もみじの季節、サクラの季節、を考えただけで、その雅で華やかな光景が目に浮かびます。緑が光り風がお堂の中を吹き渡るのが見えるような清々しい空間の美しさがありました。まことに風情あるいいお寺でした。

◆ 11 昼食は、京都に戻って、大徳寺塔頭内の「泉仙」にて精進料理。全部召し上がるとひとつの鉢にまとまるという鉄鉢料理が好評でした。

◆12 午後は、銀閣寺 新書院と茶室の見学。
平成5年に完成したという新書院、広々としたお座敷。悠々と描かれた富岡鉄斎の襖絵の前でお茶をいただき、お茶室も見学させていただきました。柱の並ぶ幅広な廊下に光りが存分にさしこみ真白な障子を際立たせる美しさ、身が清められる心地がいたしました。

◆ 13 見学会の最後は、八坂の塔。東山に美しい姿をみせている法観寺の五重の塔に登らせていただけるというので、興奮しました。登るほどに、塔の内部の構造がやっと理解できました。木組みの素晴らしさ、心柱の存在感、最上階の欄干から京都の町並みを眺めた高揚感。

まことにこの会ならではの企画に事務局とか関係なく酔いしれた三日間でありました。
これも参加者皆さまのご協力の賜物。厚く御礼申し上げます。
取り急ぎ駆け足で見学会の概要をおしらせいたしました。
 (あし)


2003/10/15
-No.34-

◆庭先にある幸せ

 駅までの道、住宅街を歩いていると、家々の庭先に秋がいっぱい詰っています。
 「今年の春は、遅かったねぇ」とか
 「今年も秋がきてますよ」とか家族の会話にさりげなく季節が挨拶するように顔を出す。
 そんな小さな幸せがムラサキシキブやサンゴジュの実のように、そこかしこに沢山くっついている毎日が、穏やかな秋の陽射しに浮かび上がるのです。

 キンモクセイの芳しいだいだい色の小さな花々はいつのまにか散ってしまいました。
 今年いつまでも咲いていたサルスベリの花もいよいよ終わり、サザンカが咲きはじめ、あちこちの庭先の柿も色づき始めました。
 秋が駆け足で通り過ぎます。
 
 今日は、青空。ぷかぷか浮かぶ雲がかわいい。

 17日からの見学会に向けて、いよいよ明日から出かけます。
 明日は、奈文研と法隆寺に報告やらお願いやらご挨拶に。

 そんなわけで20日まで、この事務局日記はお休みさせていただきます。
 ではでは、それまでごきげんよう。
 (あし)


2003/10/14
-No.33-

今日は、雨。
 寒くなりました。
 昨13日は、恐ろしいくらいどっと降りましたが、まだもんわりとぬるい空気が残っていて、一雨ごとにだんだんに寒くなる、季節の序章の様な雨でした。ところが今日は一気に寒さに突入。
 やれやれ見学会に何着て行こうかしら、全く絞ることができず寒がり人間としては、荷物が増えそう。
 
 16日でかけるまでにやらなければいけないことがたくさんあって、ばたばたと慌ただしい。 
なぜか夕方立て続けに電話がありました。この期に及んでキャンセル、予定変更、問いあわせ。
みなさん仕事で忙しそう。

◆昨日の消防車からの連想。
 幼いころ、消防士の人って火事じゃない時何をしてるのだろう、、と大変疑問に思っていました。だから消防署の前を通るときは、首を長くしてしげしげと中を覗いたりして、、、、変な子。

 ある日、学校に通っていたころ、(つまり遠い昔のこと)電車が多摩川の鉄橋を渡る時、土手に消防車が、ずらりと並んでいるのを発見。窓にへばりついてよく見たら紺の作業着の消防士さん達が、河川敷のグラウンドに大勢集って野球をやっていたのでありました。
 遠い昔の忘れえない光景。いまでも不思議に思う光景。ちょっと興奮した。

 でもフリーの時間でも、遊んでる時でも、いったん火事が起きると飛んでいくという仕事は、実はすごい大変な仕事、と大人になってちゃんと理解しましたので、ご安心を。

 でもあの野球大会の最中に火事が起きたら、それこそ全部の消防車がサイレンならして走り去ったのかもね。なんだか絵本の中の様な光景。  ではまた。 
 (あし)


2003/10/13
-No.32-

◆ 山火事と消火剤

先日来、日本のあちこちで工場や石油タンクの火災が相次ぎました。
 名古屋では某製鉄所、栃木では某タイヤ工場、苫小牧では某石油タンク、その前に三重でゴミ処理場のタンクがいつまでも消えませんでしたよね。

 某タイヤ工場の火災では、東京から化学消防車などが25台も応援に行ったのだそう。北海道の有珠山爆発時に次ぐ応援体制だったそうで、東北自動車道をサイレンならしてすっ飛ばして行ったのかしら、とテレビで見たあの凄まじい黒煙と消防車25台が並んで走る雄姿を思わず想像してしまいました。

 知人にそんな話をしたらまさかあちこちの消防署から何台かずつ派遣されたのだからそれはありえない、との話。
なるほど、ではでは、無事に鎮火した後は並んで帰ったよね、、としつこく想像。
カーンカーンと鐘を鳴らして帰る感激すべき情景を、、、、。

 新聞によると、タイヤ工場の消火には東京消防庁の無人走行放水車が出動し爆発の危険がある中をすごい威力で消火に大貢献したのだそうです。
 お陰で消火に際して死傷者がでなかったのは何よりと思いましたが、それでもみすみす10億円分の新品タイヤまで燃えてしまいました。
 
 そんなこともあって、今、日本で足らないものは、「タイヤ?!」、ではなく、「消火剤」なのだそうな、、、。
 こんなとき、また大きな火災がおきたら大変!特に山火事は怖いですよね。

林野庁様。消防庁様。
 山火事が起きると、テレビのニュースを見ているだけの我々は、どうしようもなくてただただ早く消してほしいと祈ることしかできません。
 もしも山火事が起きた時のためにも、ぜひぜひ各都道府県に山火事対策用の大量の消火剤を準備しておいて下さいませ。

 ところで、その消火剤って成分は何でしょう。火事がおきたらそんなこと気にしていられないけれど、でもちょっと気になったので、、、。
ではではまた。
 (あし)


2003/10/10
-No.31-

昨日 の続きで
◆ ケヤキの話

 彦根は琵琶湖の東にあり、湖東と呼ばれておりますが、琵琶湖の北部は湖北と呼ばれ、観音信仰の里としても有名です。
 
 特に高月町の渡岸寺(どうがんじ)には、国宝の十一面観音がおられ、奈良・聖林寺の十一面観音、室生寺の十一面観音とともに私の大好きな仏様、どうしてこんなところにこんな立派な仏様がいらっしゃるのか、と嬉しくて彦根に遊びに来た友人や親戚家族を必ずといっていいくらい連れて行っておりました。

 最近、またこの渡岸寺を訪ねてみて、驚いたのです。
 高月町のこのツキは槻という字から来ているそうで、もともとこの近辺は、ケヤキが沢山自生していたとのことでした。

 よく見たら頭上高くに大きく枝を張る木は、まさしくケヤキ。その大樹が何本も何本も境内を薄暗く覆っているのです。
 お堂も伺ったら大正時代にケヤキで作られた建物。80年以上経っているのです。
 
 彦根に住んでいたその頃は、木についてもお堂についても何も興味を持っていなかった。
 地元の人たちが、どんな思いでどんな仕組みを作って守ってきたかも何も興味なかった。
 興味をもつ、もたないで人生って変わりますよね。
 もちろん興味をもったほうが、楽しいことがいっぱいあるなぁ、と思う今日この頃。

 興味がなかったら、ケヤキは、アオとアカと2種類あって、アオは主に里で育った木、どちらかというと緑っぽい。建築材料としては、アカと呼ばれる山で育った木の方が好まれる、なんて絶対知りえないことよね。

 知ってどう、、、ってことはないけれど、、それでも何だか嬉しい。
ではまた。

 (あし)


2003/10/09
-No.30-

 昔子育てで夢中だったころ、彦根に住んでおりました。

 その頃は、公園でこどもを遊ばせるのも大事な仕事。気のあった母親同士とりとめなくいろんな話をしていました。
 サクラの花に香りがついていたとしたらどんな香りが合うかしら。梅の香り?フリージア?
クリの香り、、それは、いやよねぇ。

 サクラの香りについては、どこで合意したか覚えていないのですが、好きな木は何?という問いに、私は、ケヤキ、と答えたのです。冬、裸の梢を思いっきり空に伸ばし、寒風にさらされながら春の小さな芽を枝枝にいっぱいつけている。

 友達は、いやだぁ、木の名前はわからないけれど、枝に葉っぱをいっぱいつけて枝垂れるように立ってる木あるじゃない、私はあれが好き。ふ〜〜ん、どんな木なのでしょ。

 何年もたって、東京に戻り、親同士で久しぶりに会ったとき、その友人が言いました。私が好きって言った木ね、ケヤキって名前がついてた、と二人で大笑い。

 今日も気持ちのいい日。
 白い雲の奥には、薄い空色が広がり穏やかなおひさまの光が注ぐ秋の日です。
 近くのケヤキが風にざわざわと乾いた音をたてていて、ふとそんな遠い昔を思い出しました。
 (あし)


2003/10/08
-No.29-

大阪に行くと、エスカレーターには、右側に立って左を空けないといけないので、戸惑います。東京は、逆で、左側に立って、急ぐ人用に右側をあけることになっているから。

 一緒に歩いていた大阪の人に、どうして大阪は右側って決まったのかしら?って聞いたら「そりゃ簡単や、東京が左やからや」と、いとも単純な答。
、、、、、、。

 昨夜巨人の原辰徳監督が最後の試合を甲子園で。そして満員の阪神ファンの前でお別れ挨拶。日本シリーズ阪神ガンバレ!に万雷の拍手。
、、、、、、。 (あし)


2003/10/08
-No.28-

◆ シカやクマも日本の伝統食!

最近文化財のことばかり書いていると、頭の中が、ぶんぶんしてくるので、今日は、ちょっと違うことを書こうと思います。
 先の土日に大阪で、『エコサーバー』というセミナーがありました。
 以下は、そのセミナーの概要です。(長いので興味ある方だけ読んで下さい)

◆岐阜大学の加藤正吾先生、元金沢大学の玉井直人先生からの講義は『環境と自然』
 酸性雨やフロンによるオゾン層の破壊の話、地球温暖化、森林問題、野生生物、自然破壊、帰化植物、森林の放置問題と保護、環境ホルモンや汚染物質についてなどなど、内容の重さに聞いているだけでもう疲れてしまいました。

◆島根大学の北尾邦伸先生からは『持続可能な社会の構築』
 これからの社会に生きるためには、ローカルな視点でものをみるという思想を作っていくことが大切。
 また内山節さんの「自由から自在へ」という考え・・自在さの追及こそが市場経済の組み替えを促進するのではないか・・を紹介。

 そして森林を「多面体」的なものとしてとらえ、林業的営みを包摂した森林・林業・山村コモンズを公共性の観点から了解しあいその公益的役割についての合意を市民社会の中で培っていくことが必要ではなかろうか。そしてそれには市民社会から動くこと、また都市生活者として何ができるかを熱く講義して下さいました。

◆ 龍谷大学の吉村文成先生には『東アジアの中の日本』
 文化人類学が他の学問と違うのは、「時間の感覚を持っているから」という。

「歴史にみる東アジア」の講義は、地球が形成され、人類が生まれ、膨大な時間の流れの果てに今ここに我々が立っていると、そして未来につながっていることを頭の隅においておくべきと説かれる。
 環境問題をひとつひとつの現象とみるのではなく、大きな視点でとらえることの大切さを示唆して刺激的でした。

◆ 奈良女子大学の上野邦一先生からは、『日本の伝統建築』の講義を。
 木造の建築物、日本は針葉樹と照葉樹とを性質によってたくみに組み合わせて建物を作り上げてきた、木の文化の国であると講義。

◆ 日本の伝統食を考える会・宮本智恵子先生は、『日本の伝統食について』
 日本の伝統食というのは「日本人が昔から食べつないできた食べ物と食べ方のすべて」であり「時代・地域・階層によって違いがありつつも日本の風土に根ざしながら今日まで継続してきたもの」

 この昔から、というのはいつごろからかというと、縄文時代からだというのです。
 縄文時代の食料は豊富で、イノシシ、シカ、クマ、カモシカ、ウサギ、タヌキ、キツネ、などたべていたのだそうな。魚は、クロダイ、スズキ、ブリ、サバ、マグロ、、、堅果類には、クリ、クルミ、トチ、、、
 シカやクマは日本の伝統食の食材だったのですよ。。。

 お米の優位性や水田の有効性、森林とたんぼの共存についても有意義な講義でした。

◆ 東京農工大学の佐藤敬一先生から「森林を測る」「樹木・森林の基礎知識」という講義内容。

 最後に検定試験というのがあって合格者はエコサーバーという資格を取得できるという二日間のセミナーでした。
 
環境問題を考えるのに歴史から食生活、文化や建築まで様々な角度から考えさせるテキストはすべて先生方の書き下ろしです。

◆ 最後に、、、、
私もこのテキストに「日常の不安」として拙文を書かせていただきました。
 (前略・中略・様々な日常の不安を羅列したあと・・・・・)地球環境全体に関わる問題に個人はどう対処すればいいのだろうか。 
 しかしもっと不安なのは、地球環境よりも、私たちが暮らすこの社会よりも、個人の健康よりも、人としての誠実な生き方よりも、まだまだ企業の論理、経済性が優先されるのではないかということ。そして、一番大きな不安は、この社会がどの方向に行こうとしているのかが見えないことかもしれない。

 このエコサーバーはそんな不安の中に暮らす私たちに、21世紀の目指す「持続可能な社会」とは何かを教えてくれる筈だ。

 まず何が起こっているのかを知ることで、自分たちが進むべき道を見つけることができる。それから一歩を踏み出せばいい。それは今までの生活スタイルからの脱却かもしれない。社会システムの見直しかもしれない。この社会を良くしたいと願う、同じ方向に向かって進む人間が多ければ多い程そのベクトルは大きくなる。目標さえ定まれば、明るい未来は見つけられる。

◆このセミナー 東京でも、今度の土日開催されます。(10月11・12日渋谷・大学生協渋谷会館にて)興味のある方は、ご連絡下さい。03-5307-1102 JUON(樹恩) NETWORK事務局
 (あし)


2003/10/07
-No.27-

 昨日は、「補修用材と技術の委員会」の二回目が開かれました。
そこで、今後の方針がだいたい決まり、調査の方法も話し合われました。

 とりあえず今年度は、どんな材が使われていたのか品質についての調査をする予定です。

 200年後の為の必要量調査に関しては、今でさえ忙しい先生方がボランティアで実行するには時間不足、人に頼むには、経費が膨大にかかることが予想され不可能との結論。どこかで資金を調達するべく尽力することになりました。科研費や助成金、可能なところをあたり、予算がつけばついただけ気長に取り組むことになりそうです。

 昨日も話にでたのですが、文化財の現場、林業の現場、製材の現場、建築の現場、一般市民などなど、それぞれに理解を深める為には、翻訳者が必要だろう。
 たとえば、文化財に使われている部材を材木に換算するためには、木取りの専門家がいたほうがいい、、という具合。
 調査って一口に言っても、いろんな人が関わって、はじめてできることなのでしょうね。

 ちなみに木取り(きどり)というのは、「原木の丸太から無駄なく角材・板材などに取り分ける製材作業をいう」んですって。
(木の家に住むことを勉強する本・巻末の木造住宅用語辞典より)ではまた。

 (あし)


2003/10/06
-No.26-

毎日書きますと言ってる端から、三日間も空いてしまいましたお許し下さい。

 3日は来年1月に開催予定の研修会について徳島県の担当の方と打ちあわせ。
 林野庁にも伺いましたが、ボランティア支援室というのができて、私のような一市民の問い合わせにも丁寧にお返事をいただけて嬉しい。お忙しいところご説明いただきました皆さまには大変感謝しています。(これに関してはまた改めて)

 その足で、自分が関わる別団体のセミナー参加のため大阪へ。大変有意義なセミナーで企画立案側の人間としては満足しながら昨夜遅くに帰ってきました。(これに関してもまた別の日に)

今朝このホームページを開けてみて、当会へのご意見ご感想を、と情報交換ページで呼びかけていますが、全く反応無しで、ちょっとさびしい。、、、、、というのもきっと何をしようとしている会なのかいまいち分かりにくいからなのでしょうね。

 一言でいえば、「山に文化遺産補修の為の大径材を育てて欲しい」ということ。
 特に今問題になっているのは、150年200年生以上の木(主にヒノキやマツ)を所有する林業家の方々(国有林も含む)に、「200年先の文化遺産補修用材として使えそうな木があったら切らないでほしい」と訴え、そのための制度の見直しや方法・方策を考えよう、というもの。

◆200年先に大径材が必要な理由
 国宝重文の大型木造建築物というのは、木造であるがゆえに1000年以上も現存しています。(コンクリートだったらせいぜい80年しかもたないのに、、先日建て替えられた丸ビルが築80年でした。)

 法隆寺は1300年、唐招提寺は1200年。しかしそれは80〜100年ごとの小修理、300〜400年ごとの解体を含む大修理というメンテナンスの技術でもってしっかりと受け継がれてきたのです。

 そして日本の国宝・重要文化財の建物(その数3000棟)の大修理は19世紀末に始まり1950年代にほ ぼ終わり、次のピークが200年後と言われています。(→活動報告→会報第1号、巻頭言伊藤延男著)
 どんなに立派な技術があっても、その時原材料(大径木)がなければ文化遺産を補修することができない、という危機感が文化財行政に関わる方々から強く発せられているのです。

◆「補修用材と技術の委員会」
 では、その200年後に『どんな樹種が必要か、その品質、その長さ太さの材がどの位の量必要になるのだろう』それを研究するのが、伊藤延男代表率いる「補修用材と技術の委員会」(後藤治副委員長、近藤光雄副委員長)
 
◆「補修用材確保策検討委員会」
 伊藤委員会で出てきた「200年先に必要な樹種や品質、部材の製品としての量」を山側の立木に置き換え、(200年の間に間伐すれば立木の数は、四分の一にもなることも含めて)今の私たちが、必要量の立木を確保するためにどういう手を打っておいたらよいのか、を検討する古橋源六郎代表率いる「補修用材確保策検討委員会」(内山節副委員長、速水亨副委員長)

 古橋委員会では、たとえ今文化財に指定されていないものであっても、地域で大切に守り継がれたきた文化遺産を核として地域のコミュニティを再構築させる為に地域の林業家や住民や行政やみんなで考えていこうとする活動にも取り組む予定です。地域材を使ってこそ、という活動にも結びつけられたらいいと思っているのです。

 と、形として二つの委員会が発足し、それぞれ研究会をもち始めました。
 今夜は、伊藤委員会の第2回目。
 なるべく早く活動報告に掲載したいと思っています。ではまた。
 (あし)


2003/10/02
-No.25-

◆ビーデの木と二宮尊徳像

 小笠原の父島に住む友人からメールがきました。29日から30日にかけて小笠原近くを通過した台風16号に関しての内容でしたが、やはり随分被害が大きかったようです。

 「小笠原の場合、西から北へ、島の西側を台風の中心が通過するときが 風も強く 海が荒れて、被害も多くなるのですが、今回はその‘典型的なパターン’でした…。」とのこと。

 何より残念だったのは、中学校にあった二宮尊徳像(なつかし〜い)に寄り添うように立っていた大きなビーデの木(沖縄で言うデイゴの木だそうです)が風で倒されてしまったんですって。

「春ごとに紅く 優雅な花を咲かせていたのに、でもそばの金次郎像をかばうように懐に抱くように、強風に きりきりと枝と葉をあおられて、幹全体が回転するようなかたちで、悲鳴のような不思議な声を出しながら…ゆっくりと倒れていった」んですって。
 
 添付されたデジカメの写真には、大きなビーデが幹をもぎ取られる様に根元からへし折られ、沢山の枝えだをバンザイするようにして倒れた真ん中に、薪を担ぎ本を読みながら歩く金次郎少年の像が、本当に守られるように立っておりました。

 「真夏にも 涼しい木陰をつくっていたベンジャミンの大木も根こそぎ倒されてしまった」とのことですが、校舎には全く被害はでなかったそうです。
 父島の中学校に行ったことのある人は、きっと残念がることでしょう。
 
 この事務局日記の9月22日(NO17)で、りすさんも書かれましたが、自然の猛威の前では、何もできない。
 それにしても毎回ニュースで報じられる度に思うのですが、地震や台風や大雨、津波もそう、日本ってものすごく危ない国。核の恐怖ももちろんあるけれど、自然の脅威も忘れてはいけませんよね。ではまた。
 (あし)


2003/10/01
-No.24-

 日曜日の夜遅く(11:25〜でした)テレビ朝日「素敵な宇宙船地球号」で速水林業が特集されました。ご覧になった方はきっと同感して下さると思いますが、本当に美しい森なのです。森の中には、太陽の光が縦横にさしこみ下層植生のシダ類が地表を覆い土が流れるのを防いでいます。

 なかでも感心したのが、生息する生物の多様さでした。天然林との比較においてもその種類の多さは断然勝っていて、適正に管理された人工林の素晴らしさを示していました。
 (この数字など、どなたか補足して下さいな)

 
 沢山の命あるものが生きている森。ふと思いだしたことを書いてみたくなりました。
◆ 森といのち

 以前、「森」関係のシンポジウムでアウトドア生活の実践で著名なS氏が、神戸の「サカキバラ事件」に触れて、小さい時、虫やカエルや小さい動物を殺してないからこんなことするんや、と言っていました。いわばガス抜きや、、小さいときのガス抜きは必要なんやという乱暴な発言でした。

 私は客席で絶叫しそうでしたが、最後に秋田の林業家、佐藤清太郎さんが、発言して下さいました。

 自分の森には、幼稚園の子ども達が毎月遊びに来る。そのなかの一人の子が、森に入ってすぐ、ありんこの列を見つけて踏みつぶした。何度も何度も。だけど帰る時、その場所を通りかかって「ありんこさんにもおかぁさんがいるんだよね。ぼく悪いことした。」と言ったのだという。
 森の中で保母さんがどういう言葉かけをしたのかは知らないけれど、森は命の大切さを学ぶところでもあるのだ、という趣旨でした。

 ほっとしました。なぜなら子育てに自信のない母親は、S氏の様な発言を実践してしまう可能性だってあるのですから。現に私も公園で、ありんこを踏みつぶす子どもと、止めもしない母親の姿を目撃しました。

 S氏のいう「ガス抜き」の話から、昔はよくやったな、とカエルの腹を割いたりトンボの尾をちぎったり、と夢中で話しまくる方々に私はよく質問します。
 そんなに面白かった虫取りをどうしてやめたの?
 いつごろやめたの?
 なぜ猫を殺そうとは思わなかったの?

 「ガス抜き」が大事なのではなく、子どもが虫と遊んだり魚をとったりするときに、むごいことしたらなんねぇぞ、かわいそうなことはするなよ、蝉取りもいいけど夜には逃がせよ、そんな周囲の声かけが大切なのだろうと思います。

 大人たちが命の大切さを常に語りかけることで、幼い者たちは自分のやったことへの心の痛みを知り、その心の痛みが、残虐な行為を忌避させる原動力になるのだと思います。

 社会的に著名なS氏の言葉の足らなさには今でも憤慨しているのです。
 (あし)


2003/09/30
-No.22-

 毎日この欄を埋めるのは大変。ただいま諸作業に追われております。
 昨晩3時までかかって10月の見学会参加者への最終ご案内を24通作成。
 今日発送します。まだバスには、2名座れますので、ご希望の方はご連絡を。

 今日は午後、国土緑推に報告書類を届けに行く予定なのに、まだ書類ができ上がっていないのです、、、、 
 今午前10時27分!ではまた。
 (あし)


2003/09/28
-No.21-

◆今夜23:00〜23:30 テレビ朝日系「素敵な宇宙船地球号」で速水林業が特集されます。

 速水林業・速水さんは、当会の共同代表のお一人でもあり、その森林は、国際的な森林認証制度(FSC)を日本で最初に取得した森林でもあります。

 適切な管理がされた人工林の美しさを、皆さまに是非知っていただきたいと思いご紹介させていただきます。
 ホント お勧めです。

◆なお参考までに:森林認証制度とは、
 (Forest Certification、木材認証制度/ラベリング制度とも呼ばれてきた)は、独立した第三者機関が、森林管理をある基準に照らし合わせてそれを満たしているかどうかを評価・認証していくものです。

 現在、世界中全ての森林を対象とし、ラベル付けを伴う形で実際に実施されているものとして、FSC (Forest Stewardship Council、森林管理協議会)があります。
 (詳しくは、速水林業ホームページに→リンク集に掲載)
 

 (あし)


2003/09/26
-No.20-

 今朝、北海道で大きな地震がありました。
 家具の固定やガラス対策などこちらも大地震に備えておかなければ。

 今日、情報交換ページの「林業受難時代」で大間違いを発見。
 私ったら、風吹いて桶屋が儲かる、を雨降って、、なんて書いているのですよ。自分で?と気がついて、一人で大笑いしてしまいました。あぁやだやだ、お恥ずかしいことで。

 HPの開設にあたって、何か毎日変化がないとおもしろくないということで、何でもいいから書いてみたらと事務局日記を書くことになりましたが、まことにお粗末で穴があったら入りたい気分。お許し下さい。
 というわけでこの欄を書いて下さる方をもっと増やしたいと思っています。ぜひぜひお助け下さい。
 
 それでも当HP一般公開10月1日の予定です。

 技術的なことについても、いろいろご指摘いただきありがとうございました。ナルホド、と思うこと多々あり、少しづつ修正しながらもよりよい形に作り上げたいと思っております。
 今後ともご意見などいただけますようよろしくお願い申し上げます。
 (あし)


2003/09/25
-No.19-

文化遺産とCO2
今、事務局で仕事をしていたら、何とかコーポレーションという男性からの電話。
 なんでもインドネシアでチークを植林している会社で、ふつうなら30年かかるところを当社の技術があれば10年で伐採可能な太さになる。そこで利益をあげることでインドネシアにオランウータンのジャングルを作りたいし、日本の林業再生へのお手伝いもできる???というもの。どなたかの紹介で私の名前や電話番号を聞いた様なのですが、ちょっと(だいぶ)趣旨が違うようなので、と丁重にお断り申し上げました。

 最近、「環境ビジネス」とか「森林ビジネス」とかの言葉がちらほら聞こえてきますが、私はあまり好きではありません。
 なぜなら、その「ビジネス」という言葉のもつ響きに、いままでの経済効率やコストを追及する余り様々な暮らしや文化を切り捨て、その結果今の社会の仕組み全体を負のスパイラルにむけてきたものという雰囲気を感じてしまうのです。

 「ビジネス」はお金で価値が計られるもの。
 ですが私たちは、お金で計られる以外にもある価値を再認識したいと思っているのです。多分それは、日本人が大切にしてきたものではないか、と思っているのです。

 CO2の排出権の問題にしても、どこかの町有林のCO2排出分を海外排出権市場で販売するとかしないとか、森林にこういう「ビジネス」までからんでくるのは、とてもしんどいことに思えます。

 でも、現存する木造文化財の大きな建物って、ものすごい量のCO2を(それも1000年以上も前のを)その中に閉じこめているんですって。法隆寺や唐招提寺などの古いお堂に入るととても不思議な、しんとした気持ちになりますが、あれってひょっとしたら1300年、1200年前のC02のせいかしら?

 (あし)


2003/09/23
-No.18-

イノシシとトタン板
 今年の7月、徳島の山の中で地元の方々と炭焼きをしていたら、軽トラックが横の道を通っていきました。
 私には、こんな山のもっと奥に入っていく人たちがいるんだなぁ、くらいの関心しかありませんでしたが、さすがに地元の人たちは不審がりました。夫婦者みたいだったなぁ、香川ナンバーだったなぁ、と話しておりました。あとで、降りてきた軽トラの荷台にトタン板が何枚か積まれているのを見たが、最初に見たときはあったかな?と言いだす人がいて、ちょっとした騒ぎになりました。そのあとで奥の山の持ち主が調べに行ったら、道路脇に積んでおいた(捨ててあった訳ではない!と言っていましたが)トタン板がごっそりなくなっていた、とのこと。
 最近香川でもイノシシの被害が深刻で、田んぼの囲いに使うんだろうなぁ、、というのが皆さんの結論でしたが、だからといって人の山の中、それも徳島まで来て、資材を持っていかんでもなぁ、、と愚痴ることしきりでした。
 情報交換の欄、小春さんの林業受難時代、の書き込みで思いだしました。

 徳島では(三好郡では)、今年は、野うさぎが増えた、とのこと。以前野うさぎ退治にハクビシンが導入され、しばらくはめっきり減ったのに、最近なぜかハクビシンの数が激減したことが原因なのだそうです。
 ぴょんぴょんと野うさぎが山の中に逃げていきましたが、あれもまた農作物に悪さするのでしょうねぇ。
 (あし)


2003/09/22
-No.17-

台風15号は太平洋の沖合を通っていき、今日は心地よ風と抜けるような青空を紀州路にもたらしました。八丈島では風速59.5mとか、先日の14号が宮古島を通過したときは74.1m吹いたとニュースが報じていましたが、いつも台風が通過した森林を思い浮かべます。

私も平成2年に大きな森林被害を受けました。1年半に渡って倒れた木を伐り続けた覚えがあります。丁度台風被害の1週間後ぐらいに当会の共同代表をして頂いている内山さんが訪ねて来られて、荒れた森林の一画で私の父と対談されたことが記憶に残っております。

台風被害は実は目に見えて倒れたり、折れたりするばかりでなく、木の内部に外から見えない傷を作ります。風で大きく撓ったときに年輪が剥離したり、しわが寄ったりして、製材品としてノコギリで挽くと木の表面に微妙な横じわが出たりします。ひどいときは年輪に沿って樋の様にパカッと剥離してしまいます。伊勢湾台風の被害がつい先年まで出ていました。

今は平成2年の被害が森林に残っています。むろんこちらはプロですから、怪しい木は全て切り倒して、強度的に問題がなければ、理解して使用してもらいますし、駄目なものは問題のない使い方をしてもらいますが、ともかく台風はやっかいなものです。

これも、自然と歩む林業の宿命と思っていますが、大きな台風が天気図に現れるとその進行予想が気になってしまいますし、私の住む紀伊半島を避けてくれると、ホッとしながらも、台風が通過している地域の森林所有者の顔を思い浮かべながら、大きな被害のないことを祈ります。

風速59.5mは秒速ですから時速に直すと約214.2km、74.1mでは266.76kmとなります。ヒカリやノゾミの上にスギやヒノキを立てて走るようなものですから、この風が吹けば木は倒れます。風に強い森林をどう育てるかと議論がありますが、実際上記のような風速を体験すると自然の猛威に驚愕し、「人為の及ぶところではいなー」と言うような気がして参ります。

結局の所、しっかりと間伐し一本一本の木にしっかりと根を張ってもらって、自分自身で風に耐える状況を作ってもらうしかないと思っています。後は倒れた木を無駄にしないように、速やかに搬出できる技術を持った人と機械、そして林道や作業道の整備につきると思います。

文化遺産の建物を見るとその風雪に耐えた姿は心を打つものですが、その建物に使われている木は、その太さに至までにどれだけの台風や雪に耐えて育ってきたかを考えると木で出来た文化遺産は本当に大事にしたいなという思いに至ります。 (りす)


2003/09/22
-No.16-

20、21日の土日は、地域の仲間と作るボランティア団体の活動で、栃木県塩谷郡喜連川町の里山保全作業に出かけてきました。

 朝の5;30に家を出て、車6台、東北自動車道を走って現地着。今回で5回目。毎回9:00には作業開始するのですが、昨日朝は生憎の雨。大きなフライシートで屋根を張り雨宿りの場所を確保することが最初の作業となりました。

 幸い雨が止んだところで、除伐作業開始。チェーンソーを使う組、ノコギリで伐る組、それぞれに山仕事で汗をかきました。

夜は、一日の作業をみんなで反省。これは山側に倒したい、と2方向からロープで確保したのにも関わらず、予想外の重量で全く逆の谷側に倒れたり、ホントにむづかしいと実感しました。安全第一でやってはいるのですが毎回が研さん努力、心配の連続です。

 それでもいつも、一泊二日で一人5000円とか10000円とか(泊まるところで値段が変わる)自分持ちなのに、ホントに参加するのが楽しみで、、と皆さんが満足して下さるのが嬉しい。

 雨の為予定した作業の半分もできず、続きは次回(12月初め)に行うことで解散。捻挫した足首がまだ少し痛むけれど、無事終わってホッ。 (あし)


2003/09/18
-No.14-

 来月17日から19日までの見学会。
 参加者の申込みやキャンセルがあるたびに一喜一憂しています。現在24名の参加ですが、マイカーでの参加もあって、あと3名バスには乗車可能。
 今回は、二日目に宗教法人大本の長生殿への見学、拝観を予定しています。

 高校時代井上靖さんの「敦煌」や「天平の甍」などが大好きだった自分が大学に入って知ったのが高橋和巳の一連の作品、「我心は石にあらず」「悲の器」、なかでも「邪宗門」には心引かれ、時の日本政府に弾圧され神殿をダイナマイトで破壊された大本教のことがいつまでも心に残っておりました。

 一昨年、無農薬紅茶の製造所見学に藤枝の山の中まで行った時、(これもいつか書きたい)桐生から同行なさった方が、おばぁ様からの大本の信者だったという偶然で、現在の綾部の御神殿を見学させていただいたのです。

 御神殿の復興は信者の方々にはまさに悲願そのもの。平成4年に竣工したそれは京都御所がまっさらのヒノキで建っているという雰囲気で、厳かで清々しく、美しい建物でした。

 京都の社寺建築の伝統技術の粋を集めて建てられた、その気品ある建物を山側の方々にもぜひ見ていただきたいと思ったのです。

 大正時代、大弾圧され破壊された教団の新しい神殿を見学コースに入れるについては異論もありましたが、京都仏教会の事務局長さんが、「京都の宗教会議でも一緒に活動し、深い信頼を得ている宗教法人大本さんの御神殿見学は大変素晴らしい。」の言葉で実現することになりました。
 
 これから問題になるのは、お城など歴史的な建築物の復元や補修という新しい大型木造建築物や宗教団体の本部や記念館の新築など、ただでさえ少ない天然林からの大径材が使われるかもしれないこと。 
 新しい建物には、現在日本で入手できる国産材を使って、現代の知恵と技術を駆使して建てて欲しい。でも古い建物を補修するためには、その技術も使いながら残していかないといけないし。技術を残すため、人を育てるためには、これから先にもずっとそうした建物が建てられ続けなければなりません。難しい問題が沢山あります。

 でも、まず見て欲しい。
 木の素晴らしさ、木を生かす技術の素晴らしさを。そしてそれが祈りの場であることを。

 というわけで募集継続しています。参加希望の方、御連絡下さい。

 (あし)


2003/09/17
-No.13-

 群馬の友人からメールをいただきました。昨年、内山代表も関わった『群馬ビジョン』を形にする県民活動を始めた、と。
 中でも新規林業従事者と森林ボランティアのネットワーク、プラットフォームづくり。民俗・暮らし、生態・動植物、活動・交流の3側面からなる「森林地図」づくりも手がけているそうで、注目したい活動です。

「プラットフォーム」という言葉は、面白いですね。介護の業界で最近、「ステーション」という言葉を聞きますが、(出張所、支部の意?)イメージしやすくわかりやすい気がします。(そういえば、昔市電の停留所を「安全地帯」って言ったっけ。)

 ところで良く使われる「ネットワーク」って言葉、建築用語って御存知でした?もともとはNASAで生まれた手法と聞きましたが、工程管理に使われる工程表のことなのですよ。バーチャート工程表(横棒線で表す)よりも、様々な工程との横の関連がわかりやすく表記できるので便利です。

 書き方は、一つ一つの工程の○(イベント)に向けて矢線(アロー)でつないでいきます。その矢線の下に必要日数を記入、同時進行する他の工程との関連も書き込まれ、最終的に最短日数の(クリティカルパス)工事日程を読むことができます。

 明治末から昭和にかけて進められた国宝や重要文化財補修の次のピークは200年後と言われています。
 それに向けての補修用材確保の為に、このネットワーク工程表を考え手を打っておくというのが私たちの活動でしょうか。森だけでなく様々な伝統技術との連携も必要になるのです。 (あし)
 


2003/09/16
-No.12-

 今日は、事務仕事です。会費を納入して下さった方々へ、領収証を書いたり、ご紹介いただいたところに資料を送付したり。
 会報二号の編集や手直しなど、いろいろやっているうちに一日があっという間に過ぎていきます。
 電話が鳴って見学会のキャンセルまで。う〜ん。いつまでもこの暑さでは、体力も消耗するというもの。

 皆さま、あとすこし頑張ってこの残暑の時期を乗り越えましょう。

 (あし)


2003/09/15
-No.11-

 昨夜は、朝日マリオン大ホールで開催された「春日大社 若宮おん祭の芸能」を見に行きました。

 今年『若宮ご出現一千年』にあたるのだそうで、それを記念して初めて外に出ての公演なのだそうです。なお「おん祭」は、今年で868回目とのこと。

 お目当ては、舞楽。
 東京にいると、宮内庁式部職楽部の舞楽を時々見るチャンスがありますが、宮内庁内で行われる場合は往復ハガキで申込んだり、劇場の場合はチケットを予約したりと結構面倒。
 
 そこへいくと南都楽所の舞楽は「おん祭」に行って、寒さと人込みさえ我慢すれば必ず見られる。しかもタダ。師走の奈良の寒さは格別で、ダ太鼓のドーンドーンという音は夜の冷気を打ち震わせ、篝火は空に向かって、生きているかのように火の粉を舞い上げるのです。耳に溢れるほどの楽の音は、やはり間近で聞くのが最高ですが、なにしろファンとしては、はずせない東京公演。いまだに頭の中で「蘭陵王」や「落蹲」の旋律が渦巻いております。

 参考までに:「おん祭」は、毎年12月17日の午前0時から夜の12時近くまで、24時間、若宮様と共に動くのが正道。二泊三日は必要です。はい
 (あし)


2003/09/15
-No.10-

 9月14日の日記
 昨日今日、「森の“聞き書き甲子園”FOXFIRE IN JAPAN」協力者研修会というのに参加してきました。(高校生たちは、15日まで)

 アメリカで、FOXFIREというのは、枯れ木に生える苔などが発する燐光のことをいい「自然という教師が人間に与え続けている知恵の象徴」と信じられているのだそうです。
 そして30数年前米国ジョージア州の小さな町の高校の先生が、国語の授業のプログラムとして、生徒達が、自ら取材をし、それを雑誌として出版する授業方法を考えつきました。
 その最初の出版物は、生徒達が自分たちの祖父や祖母、コミュニティの年長者から、伝統的な技術・知恵などを聞き書きしたものを記録としてまとめたもので「The Foxfire magazine 」と名付けられたことに由来しています。

 伝統文化や技術がすたれていく危機感が叫ばれている日本でも、と昨年この活動が始動し、今年はその二回目。

 東京に、北海道から沖縄まで全国から選ばれた100人の高校生が集められ、二泊三日の研修が行われました。各地で推薦される名手・名人達100人から聞き書きするために必要な技術や方法、練習、心構えを学ぶ等の研修です。  
 今年からは、地域のNPOで協力することができないかと、全国から20カ所のNPOが推薦され、参加したという次第。

 日本でも、ぜひ根づいて欲しい運動とは思いながらも、地域から自発的に出てきた動きではないだけに、仕組み等を作り上げるのはまだまだ大変なことと推察するばかり。

 この有識者会議と同じだと思ったのです。

 「何とかしたい」と願う人たちの熱い想いや連携があってはじめて、失われつつある伝統技術に光りを充てて行くことができるのだろうと思いました。
 想いを大きく結集するために必要なのは、やはり想いしかないのではないかしら。勿論、資金がなければできないこととは思いますが、、、。
 (あし)


2003/09/12
-No.9-

「補修用材確保策検討委員会」の第2回目に参加しました。そこで事務局の方に「コメント書いて下さい!」と言われました。○○さんに頼まれると断れないですよね。。。皆さんも同意して下さると思いますが。。

 この委員会は文化財補修等に必要な適切な材質の太い木を森林に残し、必要な方々にスムーズに手渡す仕組みを作る事だと思っています。
 一般の建築には余り使われないですが、宗教団体の本部や記念館、自治体が歴史的な建築物の復元や補修という新しい大型木造建築物を計画すると、銘木屋とよばれる人たちが活躍して全国から太い木を集めてきます。銘木屋さんはどこにどんな太さの木が残っているか、よく調べています。
 文化財補修に使われる木材がこれらの新しい建築に全て使われてしまうのではと思うこともあります。実際に直径1mを越えるようなヒノキは本当に少なくなっています。元来ヒノキはスギと違いやせた土地を好み、成長も遅いので簡単には大径木にはなりません。
 ちょうど私の森林で100年の林を間伐しています。直径が40cmまでです。でも、今朝伐られた木を見て「誰がこの木を使ってくれるのだろう」考えていました。
 太い木を伐るとき、理由は如何に関わらず、林業家であれば心に少し悲しさがよぎります。   
 (りす)


2003/09/12
-No.8-

昨日「補修用材確保策検討委員会」の第2回目が開かれました。

200年後の補修用材確保の為に、政策的に今できることを探ろうという趣旨で様々な立場からの検討がなされました。

 先月行われた「補修用材と技術の委員会」でもどのような樹種、品質、材の長さ太さ、どの位の量が必要か等の調査の為の方法が検討されました。

 調査で出てくる200年後に必要な量は、製品としての量なのです。山にしてみるとその何倍の木が必要なのか、今まで試算されたことが無いのです。 

 例えば、「芯去りで36cm幅の板材を取る木はどれだけの太さが要るの?」「200年後に300年生の木を、50本(1ヘクタールあたり)残そうとするなら、今から200年の間に150本間伐する必要があるため、現在100年生の木が200本なければいけない。」という具合。
 間伐も計画的に徐々にやらないと年輪の揃った高品質の材は生産できないのだそうです。ふうぅ〜。 
 (あし)


2003/09/10
-No.7-

稲葉さんの職場を間違えておりました。稲葉さんが、現在所属される部署は保存計画研究室ではなくて「情報企画研究室」です。4月からそれまでの国際情報研究室に企画調整業務が加わって情報企画研究室となり、その室長となられたとのこと、訂正させて頂きます。

 先日来火星の大接近が騒がれておりましたが、昨夜は、月と火星が大接近。丸い月のすぐ斜め下に小さな☆が輝いておりました。

 明晩は中秋の名月、奈良の猿沢の池では采女祭りが行われます。天皇に愛され幸せだったはずなのに、冷たくなった天皇の心変わりを嘆いて、猿沢池に身を投げたという采女を偲び、花扇や花扇使をのせた龍頭船が猿沢池を回った後、花扇を水面に浮かべるという雅な行事です。

 7日から昨夜まで別団体の会議で大阪へ。帰り道10cmの段差に転んで捻挫するというハプニング。雅とは、かけ離れた我が身にあぁ、、、。
 (あし)


2003/09/06
-No.6-

昨日、何ヶ月ぶりかで東文研の稲葉さんと電話が通じました。といっても電話が故障していたわけではなくて、この稲葉さんの職場は、独立行政法人文化財研究所東京文化財研究所の中の国際文化財保存修復研究センターの保存計画研究室で、稲葉さんはそこの室長さん。といってもいかつい方を想像したらとんでもない、どこにそんなパワーがあるの?と思う程きゃしゃな感じの魅力的な女性です。火曜日にアフガニスタンから帰ってきました、来週は中国です、、と、つかまえるのが大変な方。世界の文化遺産の維持保全のためにこうして日本の方々が頑張られていると思うと誇らしい気がしますが、担当の方々のご苦労はいかばかりか。7月に亡くなられた松本修自様は昨年春まで、ここの室長さんでした。病を押しての苦しいお仕事だったのではないかと思うばかりです。
 文化遺産を守ることは、世界平和に通じること、と説かれるのは法隆寺の大野管長さん。(当会HPに収録>活動報告>シンポジウム>発言要旨)「強い者だけに都合のいい和を唱えるのではない、本当に世界の平和に大切な共通の価値を見つけるのが私たちに課されたこと。お互いの理解を深めるためにもその地域の文化遺産を認め、守ろう」と訴えておられます。
 (あし)


2003/09/05
-No.5-

 いつまでも続く暑さの中で爽やかな秋の気配が待たれる今日このごろ、このホームページ作成に関わらせていただいて思いました。今年の春、お花見に行った小平霊園で(ちょっと風情ないけれど近いのです)お墓の石を見ていて思ったこととつながるのですが、石っていつまでもつのかしら、、。京都のお寺に行った時400年経って表面がはがれてきたものがありました。それでも400年子孫に名前を残すことができればいいのかもしれない。コンクリートの墓石ってさすがに無いみたい。そういう意味で、このインターネットという世界は、どれだけ存続させられるものなのでしょう。少なくとも新聞や雑誌や本など紙を媒体とするものに比べたら果てしなく残りそうにも思えるけれど、時々のパソコン故障の頭の中もマッチロケになる時を思い浮かべると一瞬で消えてしまうものかもしれない。とにかく先の見えない時代に生きているということを実感するのです。残り少ない夏の日を必死で鳴く蝉の声を聞きながら、どの蝉が鳴いているのかも知らないまま、この私という実体が存在するのは後何年か、そんなことを考えているのもまた面白い。まだまだ陽射しのきつい夏の午後、、。 (あし)


2003/09/04
-No.4-

名前のところを開けてみてうさぎさんがいるのに大笑いしてしまいました。
 さてうさぎさんになってくれる人に、そろそろ連絡してもいいでしょうか? (あし)
日にちの訂正、テストです。 (あし)


2003/09/03
-No.3-

「一人の意見を受けて一日に三人が更新」することは可能です。

更新フォームの「名前」のところに、ためしに2人分を追加してみました。この「名前」を各自が選択し、事前に教えられたパスワードを入力すれば、その人のコメントが反映される仕組みです。 (かめ)


2003/09/03
-No.2-

 お盆過ぎまであんなに涼しかったのに、残暑厳しい毎日です。毎年春がもうすぐなのに寒い3月と秋がすぐそこってわかっているのにまだまだ暑い9月は苦手。さらりと冷たく光り輝く秋の空が待ち遠しい!
 さて、この事務局だよりは、あと二人ぐらい入っていただきたいと思っているのですが、そうすると一人の意見を受けて一日に三人が更新、ってこともありうるのですよ。できますか? (あし)


2003/09/02
-No.1-

 いともあっさりと月が9月に変わりましたが、皆様お変わりございませんか?

 さて新しく文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議のホームページを立ち上げるべくただいま準備中でございます。

 本格的に立ち上がった時に、何を書こうかと戸惑うのもナンなので、まぁ練習として文章のスタイルを決める為にも書いてみることにします。

 この4.5日で、会員の皆さまに事務局通信を発送しました。

 9月2日現在、会員数
 個人正会員55(14年度より16人増)
 団体正会員09(14年度より1団体増)
 個人賛助会員22 (14年度より12人増)、全体で86と順調に増えておりまして、誠にありがたいことと感謝しております。

 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 (あし)