事務局日記(3)(2004年7月〜12月)

2004/12/25
-No.222-

◆ 修復の手帖(Vol.2)
 100年先の修復を考える

 14日の京都でのシンポジウムに(社)全国社寺等屋根工事技術保存会の皆様が 多数ご参加下さいました。

 9月末に当会が実施した第3回見学会の初日、多賀大社で檜皮の葺き替え工事を見学させていただいたので すが、少しずつずらしながら屋根に檜皮をおき葺いていく、その気の遠くなる程の手間をかけた大変な作業に心打たれたばかり。
 山でヒノキ の立木から皮をむく「原皮師」モトカワシの大野豊さんのお名前もありました。

 そんな屋根工事に関わる方々とお目にかかるのを楽しみ にしていましたが、でも当日は、いつもながらばたばたと用事に追われて失礼することばかり。結局、ご挨拶もできず残念無念でございました。

 日本の文化財を修復する為に、(財)文化財建造物保存技術協会(略して文建協)という大変大事な組織があります。
 ここからこ の10月に「修復の手帖」2号が刊行されました。これがまた、1号同様素晴らしい本なのです。
 もちろん、内容が国宝や重要文化財の建物の 修復に関わる事柄なのですから、建物も関わる人たちも一級品。いぇ特級品。いぇいぇ超極上品(こんなランクあるの?)なにしろ最高級。
 ど の写真を見てもどの文章を読んでもこころ打たれる。
 文化財保存に関わる人々の熱意や編集者の想いがにじみ出て来る様に思えるのです。

 まだお求めになっていない方は、文建協にお問い合わせを。
 修復の手帖刊行委員会 TEL 03-5800-3391 税込みで1260円。( これだけの内容の本がこの値段なんて絶対安い!お勧めです。)

 突然、どうしてこの本の話をし始めたかというと、この編集に関わった のが「のぶ企画」代表の関美穂子さん(本名後藤美穂子さん)。
去る12月17日未明 肺血栓塞栓症により南アフリカに向かう機中で意識を失 い亡くなられたのです。享年36歳でした。

 この衝撃的なニュースに言葉もありませんでした。修復の手帖刊行に全精力を注がれ完成さ せ、やっと精神的にも解放された矢先のできごと。そばにご主人がずっとついておられたことだけがただ一つの救いですが、それにしてもあまりに痛 ましいできごとでした。

 編集者として、原皮師の大野豊さんとのインタビュー記事を関美穂子さん自身が書かれています。

  人と会うって大切なこと。
 大野さんにもお目にかかりたいと思っていながらかなわず、関さんのお名前も常々伺っていながらそのチャンスがな くとうとうお会いできなかった、、、
 
 人と会うことにもっともっと貪欲であらねば。
 若い頃から引っ込み思案。気持ちを奮い立たせ ないと人に会えない。(ひとはまさか?と言いますが、実際は違うのですよ、、)そんな反省もこめて、今つくづくそう思っているのです。

  せめて関美穂子さんが残された大きな仕事。文化財を残したいという想いがすべてのページにあふれている「修復の手帖」ご紹介したかったのです 。
 (あし)


2004/12/23
-No.221-

◆ 悲しみの中で

 今日の東京は、晴天です。裸の梢に優しく風が吹き渡り、植木鉢に植えたスミレたちが、幸せ色の薄紫の衣装をまとっ て日ざしの中で揺れています。

 あんなに暑い夏の日々、ざわざわと揺れていたケヤキも一枚残らず葉を落とし、太い枝から細い梢の先 までツンツンと、青い空に向かって希望に満ちた線を描いているのです。
 見下ろせばその小さな林内は、枯れたススキが薄茶色や綿色に地 面を覆い、ふかふかの布団の中で冬のお陽様がゆったりお昼寝しているよう。
 空気は冷たいけれど、なんて穏やかな午後なのでしょう。

 だけど、心は重く沈んでいきます。
 お世話になっている方の奥様が36歳という若さで亡くなられたという知らせ。
 
 な のに空はなんて綺麗。日ざしはこんなにも暖かい。


 このような悲しい時に映画の話なんて不謹慎とお叱りを受けるかもしれません が、、、
 「イングリッシュペイシェント」という映画をご覧になったことありますか?
 あらすじと言ったら、『第二次世界大戦下の、北アフリ カを舞台にした作品で、撃墜されたイギリスの飛行機から、全身に火傷を負った男が助け出された。
記憶を失っていたために“英国人の患者” と呼ばれることになった彼は、収容された野戦病院で看護婦ハナの介護を受け、少しずつその記憶を回想する。
それは人妻との、砂漠での熱 狂的な恋の物語だった、、、』
 というもの。

 あちこちにちりばめられた映像が美しく、その幾つもの情景がずっと目に焼き付いてい るのですけれど、
 中に、瀕死の重傷を負った人妻が洞窟に横たえられる場面がありました。恋人は「必ず戻ってくる」と約束し、三日三晩、砂 漠を歩き続け、町についたけれど捕らえられ、それでも愛する人の命を救いたい一心でやっと戻って来るのですが、時既に遅く彼女は息絶えていた のです。

 この場面がずっと心に残っていて、たった一人で暗闇の中、死に直面する彼女の孤独や悲しみや恐怖、考えただけで戦慄して いました。

 死に向かうときは誰かに側にいてほしい、ずっとずっと手を握っていてほしいと思うけれど、でもみとる人の辛さを考えるとなん とむごいことでしょう。
 いくつものつらい訃報に接する度に残された方々の悲しみを想います。
 
 悲しみを共有することしかできま せんが、残された方々の心が少しでも平安に戻られる日がきます様に。
 心からお悔やみ申し上げます。
 (あし)


2004/12/21
-No.220-

◆ 京都でのシンポジウム

 14日早朝に京都のシンポジウムの為出かけてから、六日間も家を空けておりまして、やっと19日の晩、家にた どりついてホッ。昨日は一日ボォ〜ッ。
 18〜19日は、以前より関わる別団体の集まりの為、徳島県の池田町(あの池田高校のある町)まで行 っておりました。

 行きは、東京―阿波池田間をJRで、京都で途中下車をし、シンポジウムや翌日の企画が終ってからは、実家の母との お墓参りにつき合ったりで日を重ね結局5日間かかって18日に岡山から土讃線で阿波池田着。
 帰りは19日に高松空港から、55分で羽田着で ありました。

 そういえば、ANAが別棟に引っ越してから初めての羽田利用。
 飛行機を降りてからは、聞きしに勝る長い通路であり ましたよ。あの動く歩道の片側に椅子でもあればいいのにねぇと思うくらい、、、でもきっと歩道から降りる時、転ぶでしょうねぇ、わたし、、、

 京都のシンポジウムは大変に充実しておりました。

 今回の共催団体は、文部科学省科学研究費研究班「木造建造物文化 財の修理用資材確保に関する研究」のグループ。
 当会の設立に関わってはじめて同じ趣旨で研究を続ける先生方がいらっしゃるのを知った のです。
 というのも、当会理事の有馬孝禮さん(現宮崎県木材利用技術センター所長、今年3月までは東京大学大学院教授、檜皮の報告を された斎藤幸恵さんは有馬先生の愛弟子です)。清水真一さん(現東京芸術大学大学院教授、今年3月までは、奈良文化財研究所建造物研究室 長)のお二人がこの科研メンバーなのです。

 そんなことから、研究代表者である東大教授の山本博一さんをご紹介いただき、法隆寺や 木曽の調査も共同で、また今回のシンポジウムも共催という形で開催することができました。こうして同じ目的の為に協力させていただけることを大 変嬉しいと思っています。

 シンポジウムには当会代表5人のうち、伊藤延男さん、大野玄妙さん、速水亨さん、古橋源六郎さんの4人が( もうお一人は内山節さん)、また有馬孝禮さん、後藤治さん、近藤光雄さん、清水真一さん、鳥羽瀬公二さん、飛山龍一さん、西澤政男さん、という 理事が7人も、そして駆けつけてくださった会員の方々も集結し当会としても大変充実したものになりました。

 特に法隆寺の大野管長に は、最後に主催者として「文化遺産を守るものとしての責務。木造建造物を未来に引き継ぐための諸問題。様々な問題を克服し共々に人類の将来 の為に文化遺産を引き継ぐことを皆様と考えていきたい。引き継ぐ努力をして参りたい。」と力強い挨拶があり、最後まで熱心に耳を傾けて下さった 参加者の大きな拍手の中で閉会となりました。

 シンポジウム内容に関してはまたぼつぼつと紹介させていただくつもりですが、しばらく 間が空いてしまったので、取り急ぎ、簡単なご報告をさせていただきました。
 それではまた。
 (あし)


2004/12/12
-No.219-


◆ やっぱり冬です。

 前回まだ暖房を使っていないと書いたら、夜中はこたつが離せないという人から、ほとんど東京にいなかった んじゃないの?とご指摘あり。
 そうかもしれない、、と反論できず、、、

 でもおとといも昨日も半コートを抱えて、ブラウスとカーディ ガンだけで歩くくらい暖かでしたが、打って変わって今日は寒かったですねぇ。やっぱり冬。

 駅までの、トチの木が片側に10本程植えら れている道を歩くと、さすがに枝に残る葉はあとわずか。
 道には、大きな葉っぱがいっぱいたまっておりました。
 トチの葉は、風に吹か れてがさりと落ちる。
 夜は人がいるようで怖いでしょうね。

 小さな枯葉が密やかに落ちる音には心がどこかで反応する。
 肩 に髪が落ちる気配にも似て人目を忍ぶ秘め事のよう、、、

 昨日地下鉄に乗ったら、枯葉が一枚床に落ちておりました。
 どうやって 入り込んだのか、最後に迷い込んだ地下の暗闇。
 葉っぱの一生を思わず想像してしまいましたが。
 とにかく冬。暖かくしなければ、、
 (あし)


2004/12/09
-No.218-

◆ 200年とは言わないけれど

 近頃聞こえてきた小ばなし
 「防衛庁長官がイラクのサマワを視察したんだって?」
 「そうそう 、サマワは安全だって首相に報告したみたいだよ」
 「だけど、宿営地近辺の視察だけで、半日しかいなかったっていうじゃないか。それだけで 安全かどうかわかるのかい?」
 「わかっちゃ困るから半日で帰ってきたんだよ。」

 この小ばなしを聞いて
 「そうか、いいとこし か見せないもんな」とすぐ納得しちゃうのは視察担当係のお役人。

 自民と公明はやっぱり半日だけサマワに行って陸自宿営地で花束も らってたけど、なんで民主は行かないのかな。
 事前にまともに調査して報告を出すくらいの政党ってないのかなぁ。
 パフォーマンスは あってもなんか納得できないねぇ。

 我々の会のように200年先を見るのはしんどいけれど、
 先を見ない世の中って、、、、

今日の風景
 雨上がりの雑木林は情緒的。明るいグレーの空に、黄色や茶色に色変わりして残り少なくなった葉と細い梢が浮き出 ています。
 ケヤキの梢は、赤茶色の葉っぱをちろちろと風にふるわせ名残を惜しんでいるかのよう。ふっと小さな葉が枝から離れて散ってい きます。

 やっぱり冬が来るのよね。今年は暖かすぎてちょっと覚悟が足りないかも。
だって、もう12月に入ったというのに、まだ一度 も暖房使っていないなんて信じられます?
 ではでは風邪等ひかれません様にお気をつけて。
 (あし)


2004/12/08
-No.217-

◆ちょっと京都まで

その前に、タイヤキの食べ方その2。
 前回のタイヤキの正式な食べ方の話を聞いた方から、
 アンコの入 っていないシッポを最後に食べるなんていやよね。
 アンコがたっぷり入った頭を最後に食べて甘い幸せ感をできるだけ長く味わうのが正式よ、 という反論をいただきました。
 タイヤキの食べ方にもいろいろあるのですねぇ。
 まっ、お好きな食べ方でお召し上がり下さい。

  昨日は、病気で入院手術した先輩(といいますか大事な方)のお見舞いに長野県富士見町にある富士見高原病院まで行ってきました。仲間の運 転する車に乗せてもらって5人で出かけましたが、中央高速を走り小淵沢で降り昼食をとって病院まで丁度片道3時間。やっぱり1日仕事でありまし た。  
 まだ紅葉の残った山々を、帰りには富士山をフロントガラスの正面に見ながら晴れ渡った空の下を走りました。

 どんなに 健康に気を使っても何が起こるかわからないのですよねぇ。それでも見舞った方の元気そうな様子に少し安心しましたが。
 突然倒れるという のは、あって欲しくないこと、考えるだけでも恐怖です。
 体だけは大事にしなければと、寒々とした木々の梢を眺めては思いますよね。
 
【12月14日京都でのシンポジウム】

 来週、12月14日(火)は当会と文部科学省科学研究費研究班「木造建造物文化財の修理用資 材確保に関する研究」グループとの共催シンポジウムが開催されます。会場は、京都駅中央郵便局西側にある「キャンパスプラザ京都」。入場無料 です。

テーマは「文化遺産を未来につなぐ森づくり」
◆修理現場からの問題提起 今西良男氏(奈良県教育委員会)
◆研究報 告:檜皮採取は樹木にどのような影響を及ぼすのか?
◆研究報告:現存する大径材と流通の実態
◆研究報告:文化財建造物修理の 現状と考え方

◆パネルディスカッション  
 「これからの文化財維持に求められるものとは?」

 詳細は、行事予定をご 覧下さい。
ちょっと京都まで、と言うのは無理かもしれませんが、可能な方は是非ご参加下さい。お待ちしています。
 (あし)


2004/12/06
-No.216-

◆ 秋晴れの休日

 土日(4日〜5日)は、地域の仲間たちと栃木県喜連川町での里山保全作業に行ってきました。
 朝6:00に小金井 公園横に集合、関越自動車道で矢板まで、目的地の作業場所には9:00少し前に到着。天気予報は雨でしたが運良く空も晴れてきて。

  みんなで休憩場所に大きなテントを張った後、チェーンソーで間伐する人、ササの抜根をする人、堆肥の作場を作る人、熊手で落ち葉を集める人、 袋に入れて運ぶ人、残す木に名札をつける人、看板を立てる人、お昼ご飯を作る人、何にもしない人もいてみんないろいろでホントに面白い。
 
 コナラ、クリ、リョウブ、サクラ、マツ、スギ、ヒノキ、ホウノ木、アオハダ、エゴの木、ガマズミ、ムラサキシキブ、ヤブムラサキ、、、
 全部 を全く思い出せないのですが、いろいろな木が勝手に生えてる雑木林。
中に常緑の木が、、

 これは何の木?
 シラカシじゃな いかなぁ。
 アラカシの木も似てるけどね。
 わからない時は、ゴマカシって言っとけば、、、
 エェ?それオカシィ!とムカシオトメ。

 なんて馬鹿なことをずっと言い続けている人の頭ン中はシャレコウベって言うんですって!

 この年代のおじさんたちってほ んと駄洒落好きよねぇ。という私も同じような年代で。
 40代1人、その可愛い男の子(皆勤賞)が6歳。あとは50代と60代4人の総勢18人でありま した。汗まみれでドロドロの人もいれば、笑ってるだけで1日終っちゃった人もいて、こんなに自由な会も珍しいのでは、、。
 作業終了後はみん なで近くの温泉へ。
 
 翌朝はだんだん晴れては、きたのですが、夜中の強雨の為足元が悪いので作業は無し。雑木林の中で、はらはら と風に乗って舞い散る落ち葉を肩や手に受けながらの学習会。
 なぜ山に手入れが必要か、ちゃんと講師役の人もいるのがこの会の素晴らし いところ。
 少しずつ間伐が進み、山に陽が差し込み稜線と青空が見える様になった林に喜びを見いだし始めた私たち。それにひきかえ、誰の ものだか両隣のヒノキ林は真っ暗に立ち枯れている様な危ない林なのですよ。
 手入れできたらいいのにね。

 帰りは道の駅で、お 昼を食べてお買い物。
 考えてみたらものすごくお金落としているのですよ。私なんか名物の喜連川パンを3000円も買ったし。娘が喜ぶのでお 土産に、あと野菜と花の苗も、食事代もいれたら夫と二人で8000円も使っておりました。

 道の駅では、それぞれ、そこでそれを食べない と落ち着かない、という好物があって、私は、アイスクリームなのですけれど、ある人は、タイヤキにおでんだそうで。
 「タイヤキの食べ方はね 、まず頭から食べて、最後にアンの入っていないシッポのカリッとしたところを食べて仕上げとするのが正式である。」などとのたまわっておりました。

 皆様はどんな休日をお過ごしでした?ではでは、、、
 (あし)


2004/12/03
-No.215-

◆美は構造にあり

 パネルディスカッションの内容は後回しにして、翌日の見学会で強く心に残ったのを三つあげるとすると。
 一つ は、有馬先生が所長をされておられる宮崎県木材利用技術センターの見学でした。
 先日見学させていただいた筑波の森林総研と同じ様に( 規模は違いますが)木材利用に関する研究が種々されていて、研究者の方々のお話も楽しく興味深く聞かせていただきました。
 そして私はこ の管理棟の建物の構造にすっかり心奪われたのです。

「美は構造にあり」私の好きなことばの一つですが、外観は和風の建物。でも屋 内の片面に、お寺や神社に見る様な優美な屋根の線が出ていて、そういえば今まで内側からこんなに伸びやかな屋根の線を見たことはなかったこ とに気がついたのです。コンクリートとはまるで違う美しいライン、、、

 お寺や神社であれば、太く力強い梁や桁や束などの小屋組がいっ ぱい出ているはずなのですが、そこにはボール紙で作った模型の家の様に、一体化した一枚の大きな屋根が乗っているだけでその大空間を作って いるのです。

 棟から外壁上部(軒桁)まで、14mのスパンをとばす為に考案された横広の登り梁が、せいせいと、たおやかな線を描いて 天井いっぱいに並べられておりました。説明を伺ったら、そのボックスビームと呼ばれる登り梁は、箱型の長い筒のような形状に集成材を貼り合わせ て作られたものでした。
 オビスギの柔らかな特性を活かしたその部材は、軽やかに美しく屋根を支えているのです。

 棟からの反 対面は、(そちらが建物の正面になるのですが)桁行方向貫ラーメン構造による耐力壁のない全面ガラス張りの壁面。さんさんと差し込む晩秋の光 が屋内を柔らかく包んでおりました。
 この工法が集成材でしか成立しないのであれば、集成材もいいかもしれないと初めて思った建物でした 。

 部材の交点を卍型にずらして接合させた(ほとんど金物を使わない木造)研究棟の建物の構造も興味深かったし、嬉しかったのは、こ れらを設計した稲山正弘さんとお話しできたこと。
 現代アートの延長の様な奇をてらう新建築の建物はあまり好きではありませんが、稲山さ んの設計はシンプルで素直に心ときめく建物でしたよ。

 「先駆的役割を果たすため、林業・木材産業の活性化と木材利用の新しい可能 性に寄与、、」と木材利用技術センターのパンフレットに書かれてありましたがそのヒントがたくさん含まれている建物や廊下の美しさ、一見の価値が ありますね。(もう建築界ではさんざん騒がれたのでしょうが、何しろ初めて見たものでして恥ずかしながら今頃ご紹介)

 学校や公民館、 駅舎、プラットホーム、いろいろなところにこんな建物が建てられたら素敵でしょうに。
 駅の建物って新しいものはどうもなじめない。北京駅は 重々しすぎるし、京都駅は京都らしくない。プラットフォームだってどこも味気ない。でも地方の駅に行ってほっと郷愁を感じるのは木造の優しさのせ いだと私は思うのですけれどね。

 駅舎とプラットフォームに木をもっと使ったらいいのにと思うのですよ。
 洒落た木造プラットフォ ームの造形と部材を諸外国にも売り込むのってできないのでしょうかねぇ。

 (あし)


2004/12/02
-No.214-

◆宮崎にて「スギシンポジウム」
 
 昨12月1日から羽田空港はANAが第2旅客ターミナルビルに引っ越したとニュースで騒いでいました が、羽田に行くのにまた緊張しなくちゃ。

 というのも今回宮崎に行くとき、うっかりJALとANAと間違えてエスカレーターを上ってしまいあ のビルの端から端まで延々と歩いたばかり。トホホ(モノレールに乗る時から既に勘違いしてた!一度取ったJALの航空券をANAにとり直したのに JALと思い込んでいたのが敗因なのですが。というより普段からぼけてるのかも、、、と改めて自覚しました。トホホホホ)

 今朝、ラジオで そんな場合どうなるか、とレポーターが実際荷物を担いで移動して何分かかるかやっておりました。結果は早足で歩いてほぼ10分。無料のシャトル バスに乗っても同じくらいの時間がかかるそうで、ぎりぎりで行って間違ったら最後、もうその便には乗れないかも。
(緊張しますよねぇ〜〜。皆 様もお気をつけ下さい。)

 27日―28日は宮崎に行ってきました。
「第7回木の建築フォラム/都城 スギシンポジウム2004
オ ビスギにみる現代技術によるスギ材の利用とその展望」
に参加してきたのです。
 木の建築フォラム代表であり、当会の理事でもある有 馬孝禮先生が仕掛けられたシンポジウムですもの、行かなくちゃね。
 
 27日早朝こんな予定たてるんじゃなかったと足腰痛む我が身に ムチ打って出かけましたが、なんのなんの、行って良かったと得した気分。
 りんご園で悟った、はしごをまさに一段登った様な気分でありまし た。
 
 文化財の補修用材として望まれるのは、300年400年生の大径材ですが、そのようなエリートの木が山で育つ為には、間伐材だっ てしっかり売れないとね。
 林業が成り立っていかないと文化財の補修も成立しない話なのです。

 その為には、木材の需要がもっ ともっと喚起されなければなりませんが、木材生産高が日本一の宮崎では県をあげてそれに取り組んでいるというので大変興味をもって出かけまし た。
 とにかく27日のシンポジウムと28日の見学会、どちらもまことにハイレベルな内容でありました。資料集がすごい。興味ある方は、木の建 築フォラムにお問い合わせを(03-5144-0056)

 どれも興味あることばかり、その中で印象に残ったのを少しだけお知らせすると。
  宮崎大学農学部の北原龍士教授の基調講演の中で、オビスギ(飫肥地域から算出されるスギを総称してオビスギという)には、アカ、トサアカ、タノ アカ、ゲンベエなど15種類もあるということを初めて知りましたし、宮崎近辺のスギには油分が一般のスギに比べて3倍もあるというのも驚きでした。
 そして宮崎のスギは成長がいいと言われていますが、その成熟部分に関して言えば年輪巾が広くても力学的には何の心配もない、のだそう です。

(また長くなりますので続きは明日に)
 (あし)


2004/12/01
-No.213-

◆頑張って、一段高く登ってみると

 23日から4日間、長野のりんご園に収穫の手伝いに行ってきました。昨年も延々と情景を書いた覚え がありますので省略しますが、今年は暖かかったのです。はしごを上ったり降りたりの作業をしているとすぐに暑くなってきて、汗ばむくらい。長袖シ ャツに袖付きエプロン、手ぬぐいを姉さんかぶりにしてというスタイルで、今年もたくさんりんごをもぎました。

 はしご(脚立)に登るのは大 部慣れたとはいえ、八段バシゴの一番上に乗るのは怖いのですよね。りんごでいっぱいになったかごを持って降りるのがまたまた怖い。
 六段 バシゴの一番上でもちょっと緊張。でもいつも思うことは、もう少し、と手を伸ばしても届かないりんごが、勇気を出して一段登ると、なんだ、というくら い楽々もげるのですよ。

 一段登る度に視界が広がって、八段バシゴの一番上に立ち、りんごの木から上に顔をつき出すと紅葉した千曲 川沿いの山々が見え、頭上に青い空と白い雲が高く大きく広がるのです。

 りんご園では、隣のりんご園との間になんの柵も境界線もあ りませんが、何年も通っているうちに土の感触で私にもわかるのです。有機栽培で、もう何十年もやってきたそこのりんご園の土はふかふかと柔ら かい。うっかり隣の畑に迷い込んでもすぐわかるのですよねぇ。

 そんな話をそのりんご園の方にしたら、「そうかね、隣の畑の土はそん なに固いかね。」「へぇ〜、お隣の畑に迷い込んだことないんですか?」「う〜ん、迷ったことないなぁ」そこで生まれ育ったんですものね。
 そん な他愛のない話をしながらの作業が楽しい。

 とびさんの「木馬のお話」面白かったですね。
 これからもちょくちょくご登場願いまし ょう。
 (あし)


2004/11/30
-No.212-

当会の事務局長は、全国を飛び回ってちょっと疲れているようなので、今日は代理を務めます。 とび

 木馬(きうま)

 滋賀 県は伝統的に木馬が盛んだったところだ。木馬牽きは坂本の日吉大社周辺にたくさん住み、遠方まで出向いていた。和歌山から架線による集材が 入ってすたれてしまった。

 木馬道は山の斜面に鍬で細い道をつけ、小丸太を敷いただけのもの。横に敷く小丸太、これを盤木と言うが、 間隔は2尺くらい。リョウブの木が滑るので重宝された。リョウブ1本いくらで別買いすることもあった。急斜面ではスピードを落とすために、杉や檜の 丸太を四つ割にし、とがった方を上に向けて並べた。

 木馬の橇には樫の木を使った。樫の良い木を見つけ、板にして囲炉裏の上で乾か したものを使った。橇の長さは9尺。前、中、後ろに穴を開け、ここに貫を通し込み栓をして固定した。進む方向を安定させるために橇の向きをハの字 に固定する。橇の前の間隔は1尺2寸、後ろが1尺6寸。スキーでいえば下手なボーゲンのような格好だ。また、橇を安定させるために両方の橇の板 を若干内側に倒しておく。

 橇の上に丸太を直接載せると載せた丸太が滑るので、橇の上に横木を敷いてくさびで留める。この敷き木は 杉の割ったものを使いマクラと呼ぶ。このマクラの上に丸太を縦に並べて積んでゆくが、だいたい丸太なら4〜6石、薪なら50〜80束程度を運ぶこ とが可能だ。

 木馬に積んだ丸太の一番上の一本だけ2尺ほど前に出しておく。これを梶棒といい、ハンドルであり、ブレーキになる。まず 、梶棒にくさびを打ってこれを片手で持ち木馬の梶を取る。また、木馬道の上方の根株にワイヤの端を結びつけ、このワイヤのもう一端を橇の下か ら通して、さきほどの丸太に巻き付ける。急な斜面では三回、緩斜面では一回巻き付け、人が木馬の前でワイヤを弛めながら下ってゆく。手動のケ ーブルカーのようなもんだ。持ち手は軍手だとワイヤに取られてしまうので脚絆などで挟んだ。ワイヤを締めれば簡単に木馬は止まった。ただ、急に 止めると木馬の後が振れるので危ない。危ないときは必ず山側に逃げた。
 斜面の緩いところでは、引組というロープを丸太に引っかけて牽い た。

 橇の下に油を塗って火で炙ると良く滑った。また、盤木にも油を塗っておく。油は菜種油や廃油を使った。盤木を踏んだりしたら大変 だ。盤木を踏んだ杣とよく喧嘩をした。その日一番に下る木馬は盤木に朝露がついているのでよく滑る。良く滑る木馬を牽くのは楽しいもんだ。でも、 重い木馬を担いで上がるのには難儀した。

 行程も重要だ。一日に二往復か四往復の行程の現場なら里で昼ご飯が食べられる。ところ が、三往復行程の現場なら山で食事をとらなくてはならないので嫌われる。

 木馬牽きは頭に手ぬぐいを巻いて粋な姿。一目惚れする若 い女性もいた。若いうちは木馬牽きをやり、それから杣をして、年配になると割木(薪)を扱った。木馬牽き、杣、割木をする人がチームを組んで山に は入りるが、作業の開始時には山入り、途中で中山、最後にしまい山といって親方の家で一杯やった。

 大津の花街には、芸者が多いと きで40〜50人いた。女郎は100〜150人いた。御輿担ぎは、町の衆では肩がそろわないので坂本の衆を頼んだ。御輿の担ぎ方は30人。坂本の 衆は祝儀をもらっていろんな所に出向いたもんだ。京都の八坂神社にも行っていた。担いでいる姿が勇壮で、芸者や女郎が二階から手ぬぐいを投 げてきた。もらった手ぬぐいを山で自慢したもんだ。大津の祭りは五月が多い。だから五月は山仕事が全くはかどらなかった。

 大津近 辺で木馬を牽く人はいなくなった。若いときにやったことのある者も今はかなりの年配だ。関西電力関係の仕事を受けて働いているが、やっぱり山の 仕事だ。 


2004/11/22
-No.211-

◆来週まで
 11月19日、第5回合同委員会が開かれました。
 今までの論点を整理しながら、どう提言を導き出せるかの検討を続けまし た。
 次は、12月14日京都にてシンポジウム。そして、1月25日第6回合同委員会の予定です。

 今日日中、当ホームページに於い て、サーバー業者の設定変更があり何ヶ所かが見られなくなりましたが、夜には、無事復旧しました。
 表紙の事務局日記タイトルがでなくなる など、まだ若干不具合が残ってはおりますが、二三日中には復旧の予定です。
 今まで、サーバー同士の相性が悪かった(?)のでしょうか、 なぜか当ホームページを一部の方々は見ることができませんでしたが、今回の設定変更で改善されたと思います。
 また年内に少々のリニュ ーアルも考えております。

 さて、明日から26日まで長野のりんご園に収穫の手伝いに行ってまいります。
 その後27日〜28日は 宮崎まで。よって、事務局日記も来週まで(あし)は、お休みさせていただきます。
 
 また、情報交換欄へ皆様からのご投稿をお待ちして います。
 雪うさぎさんも、どこに行ってしまわれたのでしょう。雪が降るまで隠れていらっしゃるのかな。また書いていただけると嬉しいのです けれどね。
 りすさん、とびさんもどうなさっているのでしょう。青空に張り出したケヤキの梢もだいぶ黄色や赤茶に変わってきましたね、散り敷 く落ち葉を踏む度に秋の音が深くなります。ではまた
 (あし)


2004/11/20
-No.210-

◆ 馬鹿な話でごめんなさい

 以前こんな小ばなしがはやったことがありましたよね

 某国の首都で、若者たちが酔っぱらって 、広場で叫んだんですって。
 将軍様は馬鹿だぁ、って
 そしたら警官が走って来たので、あわててみんな逃げたけれど、後で一人がこう 言ったんだって。
「聞いたかい?あの警官なにわめいているのかと思ったら、国家機密漏洩罪で逮捕する、って言ってたんだぜ!」

 つい最近、ドコゾの国で大統領の選挙があって、その選挙結果に失望した某国の新聞は、あの国の国民の半分は馬鹿だって書いたんですって!

 またそのドコゾの国とすごく仲良しの国の話だけど
 やっぱり若者が、この国の首相は馬鹿だぁ、とわめいたら、道行く人たちが、「 今頃そんなことわかったのかい、馬鹿なやつ」って言って通りすぎていくんだって。

 一番の馬鹿は誰なんだろ。
 (あし)


2004/11/17
-No.209-

◆ 守るものがあったらいい。

 この思いは、9月の見学会で紹介した湖北に行く度に思うのです。
 村の人にとっては、「大変だよぉ 、人も少なくなってるしさぁ。」とおっしゃるけれど。
そうですよねぇ。ある集落では、本堂の建替えに一軒あたり100万円という大金を出したと伺 いました。都会では考えられない負担額!
 当番の方にとっては、予約の電話を受けると仕事も中断して、鍵を開けにいかないといけないし。

 だけど、都会に出て行っても定年になって帰って来る人もいるよ、観音様をお守りする為にね、というお話を伺うと幸せだなぁって思うの ですよね。
 普段公開していないお堂を開けていただいた時、「お忙しいのにすみません。」と謝意をのべると「いや、私たちも皆さんがいらしてく ださるとこうして観音さんに会えるでの。嬉しいんですわ。」と観音様を見上げていらっしゃる。
 「よういらして下さいました。」とねぎらってくださ ることばに、来て良かった、という気持ちになるのです。

 昨年夏前、湖東三山の西明寺に参詣した時、ご本尊の背面側のお部屋で、心 惹かれる仏様に出会いました。たくましい獅子に乗られた文殊菩薩様が、うす暗いお堂の中でひときわ輝いておられました。他の仏様に比べたら小 さなお像だったのですが、そのきりりとした気品になぜか引き寄せられ、ずっとたたずんでおりました。お堂の隅でずっと見ていたのでしょう、警備の おじさんが寄ってきて、「この仏さんはなぁ、江里康慧さんという仏師さんが彫られたものです。」と教えて下さいました。
 
 なんとその一 週間前に、北海道の斜里町でお目にかかったばかりの方だったのです。木曽の天然ヒノキの大径材が無くなるのではないかと大変危惧しておられ ましたが。
 その江里様が彫られた仏様の美しいこと、素敵なこと。こんな仏様が地域のお堂にいらしたら本当に一生懸命お守りするでしょうと 思いました。

 すぐに江里様に熱烈なファンレターを出したのは申すまでもないことですが、その後、江里様から入会申込が送られてきた 時には、ほんとに舞い上がり天にも昇る心地でしたよ。
(江里様のホームページはリンク集「平安仏所」をご覧下さい。)

 ちょっと脱 線しましたが、
 建物だけを守らなくちゃと思ったらしんどいかもしれません。
 信仰心がなくちゃ、といったらそれまでですが、でも湖北の 観音堂のようにこころ惹かれる仏様がいらっしゃる場だったり、徳島では人形浄瑠璃の舞台としても大事な場所でした。彦根ではスミス記念堂として お堂が再建に向けて動き始めましたし、引田でも伝統的建造物を中心としての町おこしが始まりました。

 当会の2本柱の一つが、「文化 遺産を核として地域のコミュニティーを再構築する」こと。
 改めて思うのですよね。むかしから守り継がれてきた文化遺産は、ほんとうにその 地域の核になりうるし、充分にその力を持っているのだと。
 (あし)


2004/11/14
-No.208-

◆ 守るものがあるっていい。

 今日は、地域の仲間たちと作っている会の定例作業日。
 朝9時から小平市にある中央公園の一角 の整備作業。土留めの整備と二年前に設置したベンチの塗り替えを行いました。

 三年前の春、会員の実家の山の整備にみんなで栃木 まで出かけていって、ヒノキ林を間伐。
 でも間伐された材が、そのまま山に放りっぱなしではもったいない。そこでそのうちの26本を担いで山 から降ろし、トラックを仕立てて運び、とりあえず日の出町のキリンカンという木工所におかせてもらいました。そのあと何度もみんなで通って、8ヶの ベンチと一つのテーブルを作り、暮れに公園に設置したもの。市からも感謝状をいただきました。(その後大木をそのまま使ったベンチとテーブルが 増えましたが。)

 以来、大体月に一度集まって周辺整備をしています。
 また人づてに頼まれると竹林の間伐に出向いたり、栃木 の喜連川の里山整備にも行ったり結構忙しいのです。

 最初、その一角は、多摩川上水際の大きな鬱蒼とした木々に覆われて、湿って 昼でも薄暗い場所だったのですが、手を入れる度に光が入り、階段状の土留めも整備され季節の草花で彩られる心和む空間になりました。

 私たちが作ったベンチに坐って親子でお弁当を食べていたり、本を読む人、写生をしている人等見かけるとそれだけで嬉しくなるのです から、不思議なのですけどね。

 先日夜10時のNHKのニュース番組で、新潟県中越地震で被害を受けた魚沼神社の阿弥陀堂(築400年 だそうで)を地域の方々が応急処置をしたという話が紹介されていました。

 釘を一本も使っていないという重要文化財の建物。修理する にも釘を使わないことを条件に教育委員会からやっと許可をもらったとのこと。この大変な時に、文化財どころじゃないだろう、という雰囲気の中、氏 子代表の池田さんが奔走する様子が写っていました。

 地域の建築関係の人たちと、知恵を出し合い、ひびが入ったり曲がってしまった 束の応急処置。雪が降る前になんとかしておかないと、と自分の家の片付けも後回しだったのだそうです。
 毎年夏祭りが行われるお堂。ここ が壊れてしまっては祭もできない、と。

 都会に住む私の様な新住民には、代々守ってきたという神社もお堂もないのよね。だから「自分 たちがやらなければ誰がやるか、といって地元の方々が立ち上がる」というお話にものすごく感動してしまうのです。守るものがあるっていい。

 近くの公園整備にだって、喜びがあるのですもの。これが代々守ってきたお堂だったらもっと一生懸命になるのかもしれない。家に戻り 玄関で、靴底の泥を落としながらそんなことを思いました。守るものがあったらいいだろうな。
 (あし)


2004/11/11
-No.207-

◆ 昆虫少年

 9日、一日がかりで筑波の独立行政法人森林総合研究所まで行ってきました。
 家から、牛久駅まで丁度2時間。そ こから迎えに来ていただいた車に乗って。

 門を入った途端に違う世界に入り込んだみたい。たくさんの木々、常緑のみどりや茶や黄色 や紅葉に彩られた枝枝が秋の日差しの中に揺れ、正面棟の赤煉瓦色のタイルも映える素敵な研究所でした。

 あちこち見学させていた だきました。そしてたくさんの方々にお会いできて楽しかったのです。中でも嬉しかったのが槙原さんという昆虫研究の大家にお目にかかれたこと。
 玉虫の厨子の話をしていたら、タマムシには、211も種があるんですよ、とかカミキリは750種、そのうち600種は押さえたけれどね、とかありと あらゆる数字がインプットされているらしくてお話が尽きることがなさそう。

 研究室の中の膨大な標本もちらりと見せていただきましたが、 あっちにもこっちにも視線を動かすところ全部が昆虫の標本で、、、頭の中が変になりそうに虫がいっぱい。

 その前に見せていただいた 、Fさんの木材標本の研究室には、何列もの棚に様々な種類の標本がずらりと並んでいて。世界中から集められた標本数の多さはもちろんのこと、 木材片と花や葉の標本、データがすべてその索引番号で探し出せる様になっているのだと保存整理の手法も自慢なさいます。

 でもFさ んが面白かったのは、その槙原さんの研究室に、ご自分が学生時代に集めたというこれもおびただしい数の蝶の標本があるのだと見せて下さった こと。美しい、宝石の様に緑に輝く羽や青い羽、黒い線の模様が綺麗な白や黄色の蝶がきちんとピンで留められて並んでる。幾箱もの標本をいとお しそうに嬉しそうに説明して下さる表情がもう昆虫少年そのもの。

 周りの方々もそんなFさんを冷やかしながら、ご自分の専門が何々で、 と嬉しそうにおっしゃる。
むかし昆虫少年や植物ハカセ、そんな方々が集まってるのね、この研究所は、、ってなぜか私まで嬉しくなってしまい ました。

 いよいよ帰る段になって、タクシーを待っていたのですが槙原さんまで側にいて下さって、その間、他の皆さんも槙原さんの側に いるのが嬉しくて仕方がないって感じ。
 どんな組織も年齢や経験を積むうちに様々な役職もこなす様になるもので、研究から外れてくるのは 不本意かもしれないけれど、仕方がないのでしょうね。

 でも槙原さんは、ずっとずっと研究一筋。私たちの憧れのひとなんですよ、と皆さ んが口々に教えて下さるのです。当の槙原さんは、論文を書かなきゃならんので寝る間も惜しくて仕方がないとまじめにぼそぼそとおっしゃる。 

 研究、ってここまで没頭できるものなのですね。標本を集めることが研究の基本ですと伺ったけれど、どれもこれも地味な作業。希少種 の存続を願う研究者もまた人間社会から見たら希少種かもしれない、などと失礼なことを考えてしまいましたが、でもそんな社会の方が変なのだと 思うのですよ。

 帰りの電車の中も、翌朝目が覚めてからも、今も、槙原さんや槙原さんを囲んでいたみなさんの素敵な笑顔や、あの日 言葉を交わした方々のお顔を思い出してほんわかしています。なにか惹かれ合う匂いがあるのかもしれませんね。あの方々。
 
 今、昆 虫少年や植物ハカセのこどもたちに会わせたいな、あの方々。
 そして見せたい、あの研究所。
 (あし)


2004/11/08
-No.206-

見学会の報告を書く予定ですのに、今日もまた違うこと。

◆ こころにトゲが刺さったまま

 だいぶ前になりますが、「父と暮らせ ば」という映画を見ました。
 最初、どういった内容か知らずに、友人に連れていかれるまま、全く予備知識もなく見たのですが、だから最初、こ の宮沢りえさんが演じているうら若き女性は、足があるけど幽霊なのかとさえ思えたし、原田芳雄扮するお父さんとの絡みに、ん?ん?何?と疑問 ばかり。
 さすがに途中からいろいろわかってきましたが、このお父さんがおもしろいのですよ。くすくすと随分笑わせてもらいました。

 井上ひさしさんの原作で、原爆のむごさを伝えたいという「反戦」の映画なのですけどね、でも、生き残った者への励ましや希望や願い で包まれているのです。

 何よりも宮沢りえさんが、可憐で、一生懸命で可愛いのですよ。とてもいい。
 原田芳雄さんも父親の情感 があふれていて良かった。浅野忠信さんもなかなか好青年に映っていて。
 心が温かくなる映画・・・・お勧めです。

 いろんな災害 で、ニュースを見ていても亡くなられた方と生き残ることができた方と本当に紙一重、って思うことたくさんありますよね。普通に暮らしていても、あの 時あそこに行っていたら、とぞっとすることだっていろいろ思い当たるのでは。

 でも、その幸運を喜ぶよりも、自分だけがよくなることに後 ろめたく思うことって結構ある。
 どうして自分だけが幸せなのだろう、と心苦しさをかかえながら、生きている人って多いんじゃないのかしら。

 心にとげが刺さったまま、それでもけなげに生きている。
 そんな人にも見てもらいたい映画でもあります。(というのは、私の感想 )
 
「父と暮らせば」上映館は、岩波ホール。(地下鉄、都営三田線・新宿線/半蔵門線 神保町A6出口の上、神保町交差点角)
11:30/14:00/16:30/18:50一日4回入替制(日曜日は18:50の回は、なし)
12月17日(金)まで。

 新潟県中越地震の報道を見てい て、この「父と暮らせば」を思い出したのですが、湖北の集落のお話とも関連するし、また書き綴っていきたいと思っています。というわけで今日はこ の辺で。
 (あし)


2004/11/06
-No.205-

◆私も見たかった。

 忙しいけれど日程が詰まっています。
 昨日今日は、別団体の打ち合わせや理事会。全国各地から集まった 方々といろいろ相談です。
 合間の雑談の中で、今年は熊が多いねぇの話から、岐阜の方が、猿がね、と話し始めました。

 畑のカ ボチャが大きく熟れて、さて明日収穫しようかね、と思っていたら、なんと猿が両脇にカボチャを二つも抱えて逃げていくんですって。
「こらぁな んてコトするんだぁ。一つおいていけぇ」、と怒鳴ったら、猿は振り向きざまに一つをおいて、一個だけを前に抱えて逃げていったんだって!
 
 猿を追いかけたおばぁちゃん、言葉が通じたってすっかり感心しちゃってるという、ウソみたいなお話でした。ではまたね。
 (あし)


2004/11/04
-No.204-

◆引田の町並み保存 第一報

 別団体の会議で、徳島に行き二泊して昨夜帰ってきました。
 帰る予定の飛行機の時間まで余裕 があったので、香川県東かがわ市の引田(ひけた)に寄りました。会議で一緒だった香川の建築家のNさんが、引田の伝統的建造物の修復に関わ っていらっしゃることから、連れて行っていただいたもの。

 初めて訪ねた引田の町はまことに魅力的なところでした。

 まず目 に入ったのが赤レンガの煙突、崩れそうな家の中庭。ン?
いえ、目的地は現在、町並み交流拠点施設として修復中の旧井筒屋(佐野家)の建 物でした。酒・醤油の醸造元だったその家屋敷のお隣は、既に登録文化財のかめびし屋という(岡田家)醤油醸造のお店と建物。
 反対側には 、大庄屋の風格を厳然と今に伝える日下家の建物が。威厳ある長屋門や格式のある表玄関、まことに堂々として立派なお屋敷でした。そして日下家 の門前には、昭和7年に建築されたという洒落た木造の郵便局。(現在は「風の港館」として引田町並み保存会の事務局、喫茶もできてちょっと嬉し い。)

 その一角だけでも心うたれる建物が信じられない程に続いておりました。
 旧井筒屋の敷地だけでも千二百坪もあるのだそう です。この建物は、取り壊される寸前だったのが、地域住民の間から保存運動がおこり旧引田町で買い取り修復中。まさに文化遺産を核として地域 のコミュニティを再構築しようという活動です。

 引田という瀬戸内の海に面した地が、風待ち潮待ちの港として栄え、讃岐の財政を支えた 讃岐三白といわれる塩・砂糖・綿の荷などを運ぶ船で大変ににぎわったということを初めてこの地に来て知りました。
 
 また引田村の醤 油屋が原料の小麦や大豆を大量に買い付け、引田浦で荷揚げしたことを藩に届けたことが文化2年(1805)の日下家文書に見えるそうで、醤油の醸 造蔵も軒を連ねていたのだそうです。(「風の港 引田町並み」より引用)
 現在も醤油の製造販売を続けるかめびし屋さんや、昔からの屋敷を そのまま大事に暮らしていらっしゃる日下様のお話を伺い感動しておりました。

 目を引いたのは、かめびし屋さんの屋敷を延々と取り囲 む壁。腰の部分はナマコ壁ですが上部のしっくい部分が弁柄色というあでやかなもの。お隣につながる元井筒屋さんの醤油蔵は、上部が白で腰は 板壁。

 また、路地を挟んでは、最初に見た、今にも瓦が崩れ落ちそうな建物が赤レンガの煙突に励まされるかのようにやっと建っている のです。ここも再生できないのかしらと心が疼きますが、伝統的建造物群保存地区としてどのような保存修復、そして再生が可能なのか注目したい 町でありました。
 
 帰りの飛行機に乗って、座席のポケットに入っている「JALSKYWARD11月号」を手に取ってみたら、まぁ偶然。讃岐の ふあふあ、という題で引田の紹介がされておりました。ほかにも素敵な風景がたくさんあるみたい。
 修復工事が終ったら、また見学会か何か の機会を設けて、皆様をご案内させていただけたらいいですね。
 
 それでは、今日はこのへんで。書かなければいけない書類がたくさん たまってしまってどうしましょう状態の「あし」ですが、ではまた。
 (あし)


2004/11/01
-No.203-

◆伊藤延男代表に文化功労賞
当会共同代表の伊藤延男さんが本年度の文化功労者に選ばれました。

「アジアの木造建築保護の 特質に言及、日本の文化財の世界遺産登録に貢献なさった」ことが認められた由。先生は今79歳。今まで目立たなかった分野で頑張ってこられた ことが評価される、ということは嬉しいことですね。自分のことの様に何だか感激しました。でももっと早く奥様がご存命のうちだったら、伊藤先生の喜 びももっともっと大きかったでしょうにとも思いました。

 伊藤先生にお目にかかったのは、3年前のことでした。この会の立ち上げに際して 、伊藤先生の電話番号だけを伺い、話を聞いていただきたいと東京駅の大丸の中の喫茶店で待ち合わせをしたのです。
 伊藤先生のお顔も存 じあげず、紹介して下さった方に特徴は?と伺ったら「上品な方。」と、ただそれだけ。

 もう不安で待ち合わせ時刻より30分も早くお店に 行って、じっと入り口に目を凝らしておりました。でも、定刻より少し前に見えた一人の紳士を見た瞬間、あぁこの方、本当に静かに何かが付き従って いる様な品のある方で。

 全く初対面の私の、まだ協力者もろくに集まっていない会の話をじっくりと聞いてくださって、「私にもずっとその 思いはありますから。」と協力を約束して下さったのです。
 その後次々に人から人へ紹介していただきながら20名の賛同者が集い会議を重ね 、翌2002年5月に会議後発会式となりました。その会議の日、先生は、会場に着かれるなり「30分しかいられませんが、」とおっしゃるのです。伺うと「 家内が危篤になりまして」と。
 「ほとんどの用事はキャンセルしたのですが、これだけは欠席できませんから。」と30分で退席され病院に取っ て返されたのです。その五日後に奥様の訃報。告別式に参加させていただき、祭壇に手を合わせる伊藤先生の後姿を見た時に、この会を真剣に大 切に作っていこうと改めて思ったのです。

 伊藤先生は、建造物課長時代にすでに、補修用材が枯渇することを危惧されて林野庁にもお 願いに行きました、とおっしゃっておられましたが、今の会も伊藤先生の熱意に感激することが何度もあります
 まことに静かな情熱と穏やかな 闘志、時々見せて下さる笑顔に引っ張られてたくさんの方々が協力して下さるのだと思います。もちろん私もその一人ですが。

 宮大工 12世伊藤平エ門様は伊藤先生のお兄様でした。(先日亡くなられましたが)代々宮大工の家に生まれ、小さい頃はカンナ屑の中で遊び回り、時には 堀川に浮かぶゲンタ乗りをして叱られたそうで、今は、暇を見つけては、そのご先祖様の建てた建物を尋ねて北は北海道から南は九州まで、席の温 まる暇もないほど。
 東本願寺もご先祖様が棟梁を務められたとのこと。

 伊藤先生のこの会に寄せる思いは、当ホームページの「 活動報告」>会報>第1号巻頭言、「文化遺産を未来につなぐ森をつくろう」をご覧下さい。
 また「論文集」にも神戸芸術工科大学時代に書か れた「世界文化遺産と保存専門家の自己啓発」を掲載しています。

参考までに「伊藤延男先生のプロフィール」も掲載します。
1925 年生まれ。愛知県出身。1947年9月東京大学第一工学部建築学科卒業後、国立博物館、文化財保護委員会、奈良国立文化財研究所、文化庁、東 京文化財研究所に勤務し、その間文化庁文化財保護部建造物課長、同文化財鑑査官、東京国立文化財研究所長を歴任。
平成元年から7年 まで神戸芸術工科大学教授、平成11年より13年まで(財)文化財建造物保存技術協会理事長。国際的にもイクロム(ローマ国際文化財保存センタ ー)日本政府代表、イコモス(国際記念物遺跡会議)執行委員、副会長、同木の委員会副会長等をつとめる。 東京文化財研究所名誉研究員、神戸 芸術工科大学名誉教授、(財)文化財建造物保存技術協会顧問。 文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議共同代表。
 (あし)


2004/10/27
-No.202-

◆シンポジウム「日本の生物多様性保全研究の現状とこれから」(6)市民から見たCO2の排出権

 温暖化の原因と言われるCO2排出量 を減らすよう、それぞれの国で目標を決めて努力しよう、という話がよく耳にする京都議定書ですが、ロシアの加入で俄然現実味を帯びてきました。( 一番たくさんCO2を排出している肝心のアメリカが加入しないのはずるい!)日本も数値目標を達成しないといけません。
 そんな中での、排出 権取引。
 排出権というのは、生産過程等で二酸化炭素を排出する企業を対象に年間の排出量に一定の制限を設けるかわりに、企業間での 排出量の売買を認める権利。

 CO2排出削減の努力目標を達成する為には新たな設備投資など高額の費用がかかる企業が、先に削減 に成功し排出量に余裕のある企業からその権利を買い取ることができるというもので、そこに商社なども参入し新たな売買の市場となっているらしい 。日本ではまだ仮想のおはなしですが、ヨーロッパでは来年1月からその市場がオープンするというのです。

 それで森林は、CO2を排出 するのではなく、吸収する素晴らしい存在であることから森林の持つ排出権が買われるという市場が成り立つのです。数値目標に達しない企業が、 森林の持っている排出権を買うことで、数字合わせができるというもの。
 でも、真剣に頑張っても数値を減らすことができない企業が、新しく森 林を作るのならまだ話はわかりますが、現存の森林の排出権だけが売買されることに違和感があるのです。
 
 地球温暖化を少しでも阻 止しないといけない、その為にCO2の排出量を各国で減らそうとその努力目標を決めたのに、それが数字合わせだけで終ったらだめよねぇ。
  温暖化で北極や南極やエベレストや世界中の氷河や氷山、凍土が解け始め、海面が上がり現に南の島が水没してしまうかもしれないと騒がれてい ます。そうなったら日本だって砂浜がなくなり海岸線はテトラポットばかりになっちゃう、それより小笠原はいつまでも今のままであるのかな、そんな 状況だというのに。(もちろん今日明日のお話ではありませんので、念のため)

 未来の為に地球全体で取り組まなければいけない大問 題なのに、そんな中で森林の持つ機能が、温暖化を促進させている方の企業に貢献してしまうのってなんか矛盾しているような、そんな気がするの よね。
 もちろん、そうはいってもその企業だって今の社会にそれなりに貢献している訳で簡単に生産量を減らす訳にはいかないのでしょうけれ ど、でもそれでいいの?という問いかけぐらいは各自考えてみた方がいい。

 売りたい側は、今の苦しい林業経営の中で、そのお金が入 ったら森の手入れに回せる、というけれど、森林が環境にどれだけ貢献しているか、個人の所有を通り越してみんなで守らなくちゃいけないもの、と いう意識がやっと浸透し始めたのにね。

 手入れに必要なお金は国やみんなで捻出する仕組みがいるのだと思うのですよ。つぶれそうな 企業や銀行に大金をつぎ込む為に税金が使われるのは嫌だけど、それがしっかり環境を良くするために使われるのなら、いわゆる環境税の創設も やむを得ないのかもしれないと思うのです。(でも消費税UPは反対、だって何に使われるのかわからないんですもの)
 
 それよりも環境 をより良いものに変える為には、一人ひとりが意識を変えることが大事なのよね。
 公共の交通機関を利用するだとか、できるだけ冷房を使わ ないだとか、夜更かししたり電気を無駄遣いしないだとか、環境に負荷をかける商品を買わない、CO2削減努力を怠っている企業の商品は選ばない 、とか行動することが大事なのだと思います。

 そして国産材を使うこと。ガードレールや防音壁や街路樹の支柱や土留めや遊歩道や、 至るところに日本の山の木を使うこと。そして5年10年後にとりかえるという仕組みを作ること。家を建てる時は国産材で建てること。

 そう いう意識でみんなが行動すれば、100年後の日本は素敵な国になりそうな気がしますよね。
 大河内さんも、もっと時間があったらこういうこと を付け加えたかったのだと思います。でしょ?
( やっとこのシリーズ終ります。長々とお読みいただきありがとうございました。)
 今日か ら来年2月の研究集会の準備の為大阪に行ってきます。ではまた。
 (あし)


2004/10/26
-No.201-

 新潟中越地震のニュースを見ていると救援物資がなかなか届かない様子を見て、やきもきなさる方は多いと思いますが、今日こんなメールが送ら れてきました。渦中にある方から知人に送られたものが転送されてきたものですが、「多くの方に呼びかけて頂けませんでしょうか。」ということです のでその呼びかけを転載させていただきます。

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■新潟地震 小千谷地 区に情報を!
 十日市の情報は入るそうですが、小千谷(おぢや)市の情報が全く入らないそうです。小千谷の住民が必要とする情報は以下の ようなものです。

市役所や災害対策本部 市 県 国 の各種電話番号 メール アドレス

給水 炊き出しが行われる場所 時 間
ガソリンの入手できる場所 県内のどこに行けばガソリンスタンドがあいているか。またそこまでの道順
赤ん坊 幼児 のミルクの入手 場所

今の所解っている事は、掲示板のコメントに書き込んであります。
時間がある方は是非、ご協力下さい。
詳しくは 新潟中 越地区地震掲示板 小千谷市の情報
 http://blog.goo.ne.jp/sebaweb/
発信者 土井宏文
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◆シンポジウム「日本の生物多様性保全研究の現状とこれから」(5)100年後 の世界

 質問コーナーで、参加者から、なぜ100年後に可能といえるのか、と質問が出ました。その答えが興味深かったので付け足しま す。
 自然に戻しても生きていけないものを、飼育する必要があるのか、と問う人がいるが、必要がないとは思わない。将来戻せるという希望が ある。

 プラスチックの池を父島と兄島に設置したら、アノールの為に全くいなくなった父島ではトンボは出なかった。しかし兄島では、3種 類のトンボがでた。アノールの侵入を許さなければ、兄島に池を作ればトンボは増殖できる。だから、それぞれの島で固有種を大事に守っていれば 可能性は残る。
 100年後、人類はかなりの経費を環境に使うのではないか、という希望がある。って。

 ここからは、また独り言
 これだけ小笠原での地道な調査研究を続け、どれだけ自然界のすさまじさや落胆や絶望を感じてきたであろう研究者から、まだ希望があると いう言葉をきくとふっと安心しますよね。

 でも100年後の人たちにこんな大切なことをゆだねていいの?
 今の私たちは、じいちゃん ばぁちゃんが孫のキャッシュカードを使いまくってるようだと言われるくらい、ただでさえ膨大な借金を次の世代に残しているというのにね。

 最近環境ビジネスという言葉が気になるのです。特に森林の排出権に関するビジネス。

 でも長くなりますので、この続きはまた明日。
 (あし)


2004/10/24
-No.200-

昨夕、東京でも何度もユサユサ揺れる地震があって、びっくり。
 思わずベランダに面した戸を開けましたが、つけたテレビで新潟で大地震が 起きたことを知りました。それからさすがNHK、そのまま地震の特番に。中央の体制はまことに迅速に整っているのに、現地情報があまり届かず各 被災地の役場に電話で状況を聞くばかり。ある役場では、たった一人の宿直の人が他の電話にでられず、町の状況はわかりませんと何度も繰り返 しておりました。 
 今日は朝から被害がどんどん映像で送られてきましたが、やはり斜面の崩落の凄さに立ちすくむ思いです。
 森林総 研のシンポジウム報告、続けます。

◆シンポジウム「日本の生物多様性保全研究の現状とこれから」(4)固有種の島小笠原

  ■大河内勇さん(森林昆虫研究領域・昆虫多様性担当チーム長)の発表は、「小笠原の自然を蝕む外来生物の脅威と対策」

 親しく思っ ていた方が小笠原の父島に赴任していたこともあって、小笠原には興味がありました。小笠原は大陸とつながったことのない海洋島であるため、多く の新しい「固有種」があるということ。偶然にたどり着いた生物が、長い年月をへて進化し適応していく舞台として価値があるのだそうです。
 
 人が暮らし始めてから、開発にさらされ、固有種の鳥3種を含む多くの生物が滅び、現在も固有種が外来種に駆逐されている状態をどうする か、と研究発表がされました。
 
 固有種であるシマホルトノキに依存しているアカガシラカラスバト(固有亜種、天然記念物)との関係や そのシマホルトノキを更新させる為に実や苗をネズミやヤギに喰われない様な工夫。
 オガサワラグワなどの在来種の更新を著しく阻害してい るアカギという木を制御させる為の研究。

 固有種であるコガネカタマイマイ(母島固有種、天然記念物)を喰い尽くし絶滅させるニューギ ニアヤリガタリクウズムシ(写真で見ると気持ち悪い、肉厚のキクラゲがヌメッと湿った感じ)やプラナリアの脅威。

 トンボやハチ等、昆虫 を絶滅させそうな勢いの外来のトカゲ、グリーンアノールの脅威。花粉を運ぶ昆虫がいなくなると固有植物の繁殖にも影響を与えるだろうという危惧 。
 特別天然記念物のメグロの実態がわかったことで保護事業に活用されていることも。

 グリーンアノール、ニューギニアヤリガタ リクウズムシ、プラナリアなど現在では駆逐できずお手上げ状態に見えるけれど、でもまだ浸食されていない島もあるので、個々の島の特性を考慮 したうえでの、きめ細かい保護対策をとることも必要。それぞれの生物に詳しい研究者のネットワークが必要。地元NPOとの連携も始めた。そして 100年後には復元が可能じゃないかと思っていると大河内さん。

(なぜ100年後なの?という質問の答えは、また明日)
 (あし)


2004/10/23
-No.199-

シンポジウム「日本の生物多様性保全研究の現状とこれから」(3)独り言

 それにしても、関東では、シカの食害により山が荒らされるこ とが大きな問題になっていますけれど、大自然の中では、シカもちゃんと役に立っているのですねぇ。目からウロコ、の思いでした。
(奥多摩町 では、駆除したシカを食肉として利用するよう食肉処理施設を建て替えるよう決めたのですよ。シカの食害で裸地化し斜面の崩落も起こっている地 域ではまさに有害鳥獣として駆除の対象。人との共生は難しい・・・・)

 土が流れる、斜面が崩落するってホントに大問題。
 丁度、 シンポジウム会場ロビーでのパネル展示に、日本の森林の土が貯めている炭素量は、46億トンもあると出ていました。(実に樹木の3倍以上の蓄積 量だそうで)そういう観点からいっても土砂の流出を防ぐ適正な森林を守ることは重要なはずで、今回の台風23号で土砂崩れの被害を見ても思いま した。土地がなくなるということの絶望感はいかばかりか。

 40年前の大台ケ原は林床はコケで覆われていたのだそうです。つまり土は流 れない。以前の姿に復元する為にはどうしたらいいか。
 そんな再生促進の為のお手伝いが「ササの刈取り」なのだそうです。

 そこ で私は思いました。(独り言なので突っ込まないで下さい。)
 例えば10年間で延べ人数何万人という草刈りボランティアが参加する「大台ケ原 ササ刈りたい」プロジェクトみたいなものができたらいいな。
(1年間で何千人、草刈り期間を100日として割ると一日何十人か。これって不可能 な数字?もっともその人数でどれだけの広さを刈ることができるかは問題ですが、、、)

 時々仲間たちと片道3時間かけて小さな里山の 保全作業に出かけることもあるけれど、ササはいくら刈っても出てくるのよね。市民ボランティアとしては、大台ケ原の再生のためにって、そんな国民 参加型プロジェクトがあったら、仲間も誘って是非参加してみたいもの。でもちょっと遠すぎるし広すぎるかな、、、、、

(また続きます。明 日は、小笠原のお話)
 (あし)


2004/10/22
-No.198-

◆シンポジウム「日本の生物多様性保全研究の現状とこれから」(2)里山のオオタカ、大台ヶ原のシカ

■尾崎研一さん(北海道支所・生 物多様性担当チーム長)の「孤立、断片化した里山の保全を考える」―石狩平野での鳥、昆虫、植物の多様性から見た功罪―

 石狩平 野を調査地に、多数の森林の鳥、昆虫、植物を調査し、これらの生物に及ぼす森林の孤立、断片化の影響を調べたもの。そして、そういった里山の 食物連鎖の頂点にたつオオタカの生息環境を調査してわかったことは、オオタカの目で森林を保全することが、小さな生き物にも大切な環境を守る ことになるということ。
 そして、森林の断片化によって、生息する種が増えても、それをよく調べると外来種が多く、元からそこに生息する希少 種は減少していること。単に数だけで、保全する優先順位を決めることの危惧を、そして今後、もっと大きなスケールで生態系の保全を考えることが 重要であると述べられました。

 まとめるとこんなに簡単になってしまうけれど、これってものすごい大きな問題提起よね。当会の「文化遺 産を未来につなぐ〜」とも共通することなのですが、私たちが、200年先300年先に向けてどういう社会を作りたいのか、そんな問題にも行き着くので はないのかしら、とうすうす感じてしまいました。

■日野輝明さん(関西支所・野生鳥獣類管理担当チーム長)の発表は、「シカの個体数 管理から森林生態系管理へ」_大台ヶ原自然再生のために_

 こちらも地道な調査実験を積み重ねた上での成果発表です。
 吉野 熊野国立公園の核心部を形成する奈良大台ケ原は西日本で最大級の原生的自然林が孤立化して残されていることから環境省特別保護区に指定 されていますが、近年高密度化したニホンジカによる実生や樹皮の食害が著しく森林の存続が危ぶまれているのだそうです。

 私などは 単純に、鹿を駆逐すればいいのかと思っていましたが、ミヤコザサが繁茂することによりウラジロモミの実生が死滅、天然更新ができないという現状 もあるのだそうです。だからそのミヤコザサをシカが食べることで、森林の生態系が守られていることも見逃せない、とのこと。

 様々なデ ータ分析をした上での、結論から言うと、大台ケ原の樹木を再生させる為には、毎年10%シカを駆除し毎年30%ササを刈取ることで可能となる。
 又は、シカの駆除をしなくても毎年60%のササを刈取れば可能となる。というもの。

(誤解のない様に付け加えるならば、管理手法 の具体的な数字については、例えば「シカはササのみを食べる」という単純な仮定を置いて、シミュレーション解析した結果だそうで、胃内容分析な どの結果から、70-80%はササに依存していることは確か。でもササがなくなると他の植物(北海道では落ち葉を食べるという報告もあります)を食べ 始める可能性もあり、あくまでもいくつかの仮定を置いた上での値ですが、とのことでした。)

 シカに関連しての独り言は明日のこの欄に 。
 (あし)


2004/10/21
-No.197-

◆ シンポジウム「日本の生物多様性保全研究の現状とこれから」(1)

 昨日の台風23号の被害は各地で凄まじいものがありました。自 然とは恐ろしいもの、と改めて思いました。

 一昨日(19日)は霞ヶ関のイイノホールに「森林総研」のシンポジウムを聞きに出かけてきまし た。

 シンポジウムのテーマは、「日本の生物多様性保全研究の現状とこれから」
 −里山のオオタカ、大台ヶ原のシカ、固有種の 島小笠原での研究成果−
 独立行政法人森林総合研究所の「平成16年度研究成果発表会」。

 普段私が興味を持つテーマとは 全く違う分野なので、誘われたときは迷いましたが、発表を聞いてみてびっくり。行って良かったと思いましたよ。

 とにかく発表内容が充 実しているのです。講演要旨はいただいたのですけれど、もう真剣にメモをとって聞いてしまいました。後で伺ったら、三つの研究すべてが、10年間 の研究成果の発表だったのだそうで、成る程レベルが高い筈。

 どれをとっても、普通のシンポジウムの基調講演にお招きしてもいいくら い、社会性があって、それでいてわかりやすく、説得力のあるものでした。

 森林総研で「おっかなやさん」と、呼ばれていたというOBの方 が、「彼らはねぇ自分の部下だったんですよ、なんでこんな出張が必要なんだ?この研究がどう結びつくんだ?と文句言ったこともありましてね。」と おっしゃっていましたが、発表を聞いて、よくこんなに成果を出したものだ、と涙が出た、と私に話して下さいました。
 そのくらい、良かったので す。

 あぁいう充実したシンポジウムを聞くと、とても自分が得した気分になります。
 一つ一つ皆さんにお伝えしたいけれど、また長 くなりますねぇ。
 でもいいところだけ、ちょっと。
 でもやっぱり長くなりますので、明日から連載させていただきます。

(ホントに 勝手ですが、彦根見学会の内山節さんのお話は、この森林総研の発表報告の後にさせていただきます。申し訳ありません。)ではまたあした。
 (あし)


2004/10/17
-No.196-

 日本シリーズ第一戦。まずは西武が一勝しました。途中49分間も審判の誤審をめぐって試合がストップ。その後、娘と電話で話していて、「ずっと 野球見ちゃった」というので、「あれ?中断してたんじゃない?」と言ったら、「だから見てたのよ、あの伊東さんが怒ってるんだもん」ですって。なるほ ど、そういうファンもいるのね。
 さて、やっと講演会。でもその前に会場の説明を。
 
◆第三回見学会/彦根〜湖北の旅(6) 滋賀 大学講堂とヴォーリズのこと

 講演会会場の滋賀大学講堂はヴォーリズ設計の由緒ある建物。
 ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(1 880〜1964)という方の名前は、先に世間を騒がせた取り壊し問題で一躍有名になったあの豊郷小学校の設計者として記憶された方もあるでしょ う。

 米国のコロラド大学哲学科を卒業後、海外伝道に自らが赴き、理想とする生き方を伝えようと決心し、1905年(明治38年)にYMCA の紹介を受けて、滋賀県立八幡商業高校の英語教師として来日し、またご自分の信念から新しい生き方を伝えられたのだとか。
 キリスト教 主義に基づく団体、近江ミッション(後の近江兄弟社)をおこし、近江八幡で製薬会社(近江兄弟社、メンソレータムでお馴染みの)を設立し、実業家と して活躍する一方で、診療所や教育施設や図書館などもつくり社会に大きく貢献したのです。

 そしてたくさんの名建築を残しました。
「建築物の品格は、人間の人格の如く、その外観よりもむしろ内容にある」という考えを持ち、彼の建築物は使いやすく、耐久性に優れ、健康的 でおだやかであり、人の気持ちを優しくさせてくれる。日本人の心に素直に受け入れられ、心のふるさととして情趣され、ヒューマニズムにあふれた名 建築を生み出し、関西を中心に、国内外で1600棟を超える建築を設計した」のだそうです。
http://www.ex.biwa.ne.jp/〜hitotubu/toyosato.htm  より

 この講堂は、滋賀大学経済学部の前身である、旧彦根高等商業学校創立当時の講堂として大正13年に建築されたもの。平成13 年5月文化財建造物として登録されました。
 どっしりと貫禄のある演台や木の床、腰壁、そして少々のことではびくともしない木製の長椅子が ずらりと並ぶ、そんな重厚な雰囲気に包まれた講演会会場。

 スミス記念堂を建てられたスミス氏も、昭和元年から11年(1926〜1936)ま で彦根に滞在し、この彦根高等商業学校の英語教師を務めていたのです。きっと、まだ新しい講堂のこのどこかの椅子に坐ったことでしょう。そして 窓からの優しい光の中で何を思っていたのでしょう。

 なかなか講演会のお話に行き着きませんが、長くなりますのでまた明日。
 ( あし)


2004/10/15
-No.195-

 今日は久々に晴れました。
 スカッとした青空、爽やかな風。
 家の中で動いていたら汗ばむくらいだったのですが、外にでたら意外とさ らりとして、ブラウスに上着で丁度いい。良い季節にやっとなりましたね。

◆第三回見学会/彦根〜湖北の旅(5) 彦根の市長さん
 
 久々に見学会のお話に戻ります。
 多賀大社では、見るところがたくさんありすぎて、時間の余裕は全然ないのに興味は尽きず、お昼 ご飯を食べる時間がなくなる〜と事務局はハラハラドキドキ。
 やっと参集殿で昼食、皆様に15分で召し上がって下さい、などととんでもないお 願いをして、次の講演会会場である滋賀大学講堂へひとっとび〜とはいかず、、、
 多忙な彦根市長さんが時間を割いてご挨拶に駆けつけて 下さっているというのに私たちのバスはなかなか着かない、ハラハラドキドキ。
 講堂に入った途端にお話が始まりましたが、市長さんも次のご 予定があるのにずっと待っていて下さったのです。なんとありがたいこと。

 私が30年前に住んでいたときは、彦根の市長さんは井伊直愛 (いいなおよし)氏(井伊家第16代当主)でした。もちろん彦根藩の殿様だったお家柄。(幕府の大老、井伊直弼(なおすけ)は13代当主。)

 その井伊直愛氏が亡くなられた後、そのご遺志により、井伊家から彦根市へ膨大な数量にのぼる井伊家伝来資料が寄贈されました。それが今の 彦根城博物館の展示品の数々です。

 私が住んでいた頃よりももっと昔、井伊様が東京にでかけ、帰ってこられるときは彦根市民が駅ま でお迎えに行ったのだそうですよ。元お殿様からは、そんなお迎えの人たちに「東京銀座木村屋のあんぱん」を一つずつお土産に下されたのだそう な。
 なんてお話を聞いたことがありますが、その彦根駅も、すっかり変わり町も変わり。(30年も経てば当たり前ですよね。)

 今の 中島市長さんは、前は大学で研究をされていたのだそうで、専攻はcity planning、landscape planning、site architectなのだそうです。
 それで 町づくりにも見識があり、「スミス会議」の活動にも理解を示して下さるのでしょう。「11万彦根市民の代表として歓迎いたします。」とこの日の講演会 を歓迎して下さいました。

 彦根城は、石造りのようですが、実は木造。朽ち果てるべきものを永続させるのが日本文化、融通無碍とでも いうその精神性が我々の文化に大きな影響を与えてきたこと。
 彦根市は世界遺産にむけて、まず景観条例を作りましたがここで景観とは、市 民の生活の姿のこと。これは日本における景観条例のさきがけになったと自負していること。
 そして、この日のテーマ「木の文化」に関しても「 日本の風土にあったものこそが木の文化であり、木の文化こそが日本の文化だと考えています。」と深い内容のご挨拶をいただきました。
 (あ し)


2004/10/13
-No.194-

◆ なかなか秋晴れになりませんねぇ。

 君は夜空の星のようだ。と言われたらたいていの女性はうっとりしますよねぇ。
でもそのここ ろは、昼間は見られない、、、ですって!
   
 10日、テレビの「笑点」を見ていて思わず笑っちゃいましたが、普段、家にいるときの姿な んとかしなくちゃ、、、まさしく人に見せられない。

 鈴鹿で8日から3日間開催されるはずだったF1レースが9日は台風22号の為中止になり ました。10日に予選と本戦を一日で消化。そんな訳で10日の夜はずっとF1の放送を見てしまいました。どこにも行かず、何だかテレビもよく見た連休 でありました。

 今日は、会報3号の印刷の日。やっとできたのです。でもあんなに日にちがあったのに、結局昨夜は徹夜して間に合わせ るはめに。
 朦朧としながら今朝、原稿をもって出かけました。

 会員の皆様には、来週中にはお手元にお届けできると思います。
 発行予定が半年も遅れましたが、なんとか形になってほっとしています。

 今夜は、実行委員会のメンバーと来年2月、大阪府太 子町にて開催予定のシンポジウムの打ち合わせ。
 明日は、また印刷の続きに出かけてきます。ではまた。
 (あし)


2004/10/11
-No.193-

◆ 興福寺中金堂の再建にも建築基準法の壁が

 この9〜10日のお休みは、栃木県の喜連川町に、林業作業にいく予定だったのですけ れど、台風22号が向かってくるというので、中止にしました。
 基本的に台風は怖いのですよ。
 小学校の時、大きな台風がきて裏の家の 屋根材が我が家の庭に降ってきて、雨戸に太い材木が突き刺さるという恐ろしい体験もしましたしね。
 だから先週の台風21号の最中の見学 会。その日の午後には新幹線も停まったし、一日ずれたら大変だった、と終ってから運の良さを改めて実感。
 ですがそうそう強運も続く訳もな いでしょうし、今季関東に上陸する最大の台風とのふれこみに8日の夕方に中止を決定。留守宅を預かる奥様やご家族の不安を考えたら、とても行 けないですよねぇ。

 現地の方々も参加して下さることになっていていろいろ準備していたイベントだったのですけれど、仕方ありませんよ ね。決定してからもあれこれ悩ましい二日間でありました。でも仲間からこころ温まる言葉をいただけたのは嬉しいことでした。

 今日は、 東京芸術大学でのシンポジウム「興福寺 波乱と復興の1300年、そして今」を聞きにいきました。
 出演者は、多川俊映師(興福寺貫首)、鷲塚 泰光氏(奈良国立博物館館長)、鈴木嘉吉氏(興福寺境内整備委員会座長)、金子啓明氏(東京国立博物館事業部長)、藤岡穣氏(大阪大学文学 部研究科文化表現論専攻助教授)、そして司会が山根基世さん(NHKアナウンサー)
 どなたも魅力的で面白かったのです。(私はこの中のあ の方とあの方の隠れファン、、でもありますし。)

 興福寺という大きなお寺が慶応4年(1868)の神仏分離令でどれだけ悲惨な目にあった か、明治3年(1870)の社寺上知令で堂塔以外の全寺地を明治政府に召し上げられ奈良公園にされてしまったいきさつや、中金堂の復興をどれだけ 願ってきたか。そして今後の境内復興構想の中で、創建当初の伽藍を復興したい。和銅3年(710)に興福寺と号して以来、2010年で1300年を迎える という、そのときまでに、中金堂の立柱式をしたいとの悲願。

 でも、鈴木嘉吉氏が、言っておられました。今の建築基準法の下では、創 建当初の伽藍と同じ建物を建てようとしても許可が下りない。発掘された遺構を残したままで作りたいけれど、基礎をどうするか。様々な問題があっ てそれをどうやって乗り越えようか、と。
 やっぱり建築基準法の問題が立ちふさがります。
 なんとか創建当時の建物が建つと良いです よね。(そして、どんな材を調達されるのか気になるところでもあります。)

 今、東京芸術大学大学美術館で「興福寺国宝展」が開催され ています。(11月まで)
 東京国立博物館では、中国国宝展も開催中。
 上野の山は魅力がいっぱい。まさに芸術の秋ですが、仏様はや っぱりお堂の中で拝む方が、でも公開されるとやっぱり見に行きたくなるのですよね。でも芸術品という展示物の仏様に心がざわつく。う〜ん。  (あ し)


2004/10/07
-No.192-

◆第三回見学会/彦根〜湖北の旅(4) 変な法律

 現実に戻りますが、伝統工法で建てられる新築現場をさがしても実際やっている現 場がない。滋賀県下ではゼロだそうです。ほんとに危機的。

 不思議な話なのですが、今、文化財と認定されているお堂とそっくり同じも のを建てようと、資材と技術者を揃えても、同じものは建てられないのです。たとえ外見は同じでも、構造的には別物、それも100年保たない建物に 変わってしまう。
 変でしょう?
 というのは、建築基準法という法律があって、新築物件にはこの適用が義務づけられているのです。だか らいわゆる金物(かなもの)、ボルトや様々な形状のジョイント部品を使わないといけない。

 木材は、素材の大きさ(太さ)によって100年も 1000年もちゃんと保つのに、金属でできた部品は、錆びるし当然金属疲労も起こします。
 先日、あるところのご住職が20年もかけてコツコツ材 を集め、素晴らしいお堂を建てていらっしゃる、そのお寺の見学に行きました。建物は見事なもので、200年も300年も軽く保つだろうと思われるのに、 基礎のコンクリートは80年しか保たないというのです。免震工法の最新設計のそれは、へぇ〜っと驚くほどたいしたものでしたけれど、基礎を受け持 ったゼネコンの担当者の「80年後に基礎だけ取り替えればいいんですよ」、とこともなげにいうその技術力への傲慢とも言える自信。 
・・・解せ ない・・・コンクリート然り、金物然り、建築基準法然り、なんか変よね。

 今こうした矛盾点をなんとかクリアーして日本古来の工法を復活 させようと大学の一部の先生や伝統建築に関わる方々が地道な努力を重ねていらっしゃいます。なんとか間に合ってほしいものです。でないと文化 財の指定を受けていないお堂の修理等にもこの基準法が適用されてしまうのですから。

 情報交換欄でも紹介させていただいております が、「伝統木構法の再評価」(10月11日於群馬県山田郡大間々町)で講師を務められる増田一眞氏(増田建築構造事務所)もそのお一人です。詳細 は情報交換欄「シンポジウムのお誘い」をご覧下さい。

 
 (あし)


2004/10/06
-No.191-

◆第三回見学会/彦根〜湖北の旅(3)宮大工さんの建てた家

 同じ様に大工さんの話。
 今、伝統工法で新築住宅を建てる件数 が激減しています。
 文化財修復の現場があれば大丈夫かと単純に思われるでしょうが、でもこの方々がこれだけで食べていくのは大変なこ と。仕事がコンスタントに続けばいいですが、文化財の現場が一つあるとしたら10件の伝統工法の建築現場が並行してないと人が雇えない。次の後 継者を育てていくこともおぼつかないのだそうです。

 今でも宮大工として弟子入りを許された若い方々は親方のところに住み込んでめ んどうみてもらう、というのが多いようです。親方に言わせると「最初の何年かは、全く教えるだけ。それでも労働基準法に見合った給料をちゃんと支 払わんといかんし、人を育てることはきついですわ。」
 それでも自信をもって人を育てていらっしゃる。

 その親方の口癖が、「文化 財の修理でつちかった伝統工法の技術を、今の家づくりに活かしたい。」私もそんなチャンスがあるものなら、この方の作られた家に住まいたい、と 秘かに思っているのですが。なぜって、その親方が若い頃独立して初めて手がけたというお宅に連れていっていただいたことがあるのです。

 ヤリガンナで仕上げられた太く波打つ様な梁や桁が頭上に横たわり、木のぬくもりの中で木と一緒に暮らしていると感じさせる家。20年 近くそこに暮らすそのお家の奥様が、「この家って素敵ねぇ、いいよねぇ」ってほんとに毎日思うのよ、って話して下さった言葉が忘れられないのです 。
 (あし)


2004/10/05
-No.190-

◆第三回見学会/彦根・湖北の旅(2)

 檜皮を採取するというのは大変なこと。
「檜皮は80年生以上の檜の木から、皮をとります。 大きさによってかなり違うのですが、1平方メートル(略して平米/へぇべぇと読みます。へぇ〜)葺くのに100年生の木だと12本くらい、200年生だ と5本くらいのヒノキから採るのです。いろいろ木はありますから、1平米葺くのにだいたい10本くらいの皮をむいていると考えると、日本の文化財は( 推定ですが)、年間に1万平米くらい葺いているだろうと言われていますので一年分として、10万本もの檜がいるということになります。それも100年 から200年生の大木がです。

 一度、檜の皮をむくと、その木から次に剥けるのは8年から10年後です。それをクロカワと言っているの です。だから10年分として、それに10倍かけると、100万本の檜が、檜皮を採る為には必要になります。」と(財)文化財建造物保存技術協会の近 藤様が話して下さいました。

 最近やっと、「世界遺産の森」のように、この檜皮の森を作ろう、という動きが出てきたのは嬉しいことです。 でもそれだけでは、まだまだ微々たるもの。
 それも今回、多賀大社の現場に田中社寺株式会社の田中敬二様がお見えになっておられました が、この方々の長年にわたる切実な訴えがあってのことでした。

 また、檜皮を採取する人を原皮師(もとかわし)といいますが、今、日本 にはそれを職業としている人は、20人もいないのだそうです。だからその原皮師の養成も急がれているのです。

 もちろん檜皮を葺くのも 特殊技術。
 今回見学させていただいた檜皮葺きの職人さん。意外と若い方々でかっこ良かった〜。

 余談ですが、今年2月、「文 化財修理技術保存連盟」が京都で設立されました。
これは、前述の田中敬二氏が会長をされる(社)全国社寺等屋根工事技術保存会をはじめ 、日本伝統瓦技術保存会、全国文化財壁技術保存会、社寺建造物美術協議会、日本漆掻き技術保存会、文化財畳技術保存会、そしてNPO法人日 本伝統建築技術保存会の方々で構成されている団体です。

「資材不足や職人の高齢化等の諸問題を個々の団体で抱えてきた。これか らは異分野の職種同士が交流し、文化財建造物の保存と活用を推し進めましょう。」と谷上永晃理事長が挨拶された言葉が「日本伝統建築技術保 存会会報第8号」に掲載されてありました。

 私たち市民にできることってなんでしょう。
 これだけの方々が危機感を募らせて結集し ているのに、文化遺産が朽ち果てていくのを手をこまねいて見ているだけの存在であるならば、それはなんと虚しく情けないことでありましょう。 (あ し)


2004/10/04
-No.189-

◆ 第三回見学会/彦根・湖北の旅(1)

 見学会も無事終りました。
 ご報告を、と思いながら手短にまとめることができなくて頭の 中がもやもやしております。でも書けないからと事務局日記をこれ以上止めておくのも気がひけますので、見学会のことを思い出しながら書いていく ことにいたします。
 参加されなかった皆様には、面白くないかもしれませんが、お許し下さいませ。

 9月29日(水曜日)
 あい にくの台風21号の余波で、待ち合わせの「11時米原駅」のころはザンザン降り。それでも集合予定の41名がぴしゃりと揃って、バスも出発。
 集 合時間に予定した全員が揃うって、当たり前のことでしょうが、その瞬間まで主催者としては心配で、前日にバス会社からの連絡で、集合場所が東 口から西口に天と地ほども変更になり、胃が痛くなるくらい緊張しましたが、無事に集結。  
 ひとりで拍手して踊りだしたいくらい嬉しくなって 参ります。
 
 最初に到着したのが多賀大社。
 足場の上に登り、屋根の葺き替え工事を見学しました。
 職人さんがずらりと6 人も屋根の上に並んで、口に何本もほおばった竹釘を素早くピッピッと出しながら並べた檜皮を打ち付けていくのです。別の一人は檜皮をひたすら 並べていきます。ヒノキの大木から剥いだ檜皮(ひわだ)を少しずつずらしながら何層にも貼ってあの厚みと優美な屋根の線を出していくのですよ。 やはり聞くと見るとでは大違い。なんだか興奮。

 実際に檜皮を葺くところなんてそうそう見るチャンスはないですものね。建築の先生方も 何度もシャッターを押しておいででした。
 今回の見学会、この現場を見られただけでも参加した価値有り、ってどなたかの声が聞こえてちょっ と嬉しい。

(続く)
 (あし)


2004/09/26
-No.188-

◆近況報告
 忙しくなると、ゆっくり文章を考える余裕がなくなって、書くに書けず、結果長い間抜けてしまいましたがお許し下さいませ。
  間で、りすさんが「◆熊野の闇には色がある」を書いて下さいました。いつかまた、そんな闇を求めて「熊野古道を歩く会」など企画してみましょうか。 たとえ妖艶な闇に迷い込んだとしても、夜明けとともに我と我が身が浄化される様な旅を。

 22日は、第4回の合同委員会が開かれました 。
 前日、伊藤延男氏のお兄様「伊藤平左エ門氏」がご逝去されたという知らせが届き、伊藤様はご欠席でしたが、それでも13名が集まり、熱 心に検討を進めました。
 (伊藤平左エ門氏(81歳)は、16世紀から続く宮大工12世伊藤平左エ門を1980年に襲名された方。皇居大手門や浜 離宮中島茶屋の復元、出雲大社拝殿、永平寺納経塔の新築等を手がけられるなど偉大な宮大工でいらっしゃいました。心よりご冥福をお祈りいたし ます。)

 次回の委員会は、11月19日第5回合同委員会です。
 そのうち、一般に公開して、大討論会をしたいとは思っておりますが 、なかなか論点が絞り込めません。
 「文化遺産を未来につなぐ」ということの難しさを、検討すればするほど、その困難さが浮き彫りになって 参ります。
 200年先の社会をどうしたいのか、という方向から話が行くともう五里霧中の世界ですが、私たちは、1000年も1300年も受け継いで きた今現存する文化遺産を、200年先までも、このまま残したい、その為にはどうすればいいの?という議論をずっとずっと重ねているのです。
 でも文化遺産を守る為には、多種多様な技術や資源を残さねばならず、それが広く一般の社会に残ってこそ、と思っているのです。
 
  みんなが、自分たちの行動が200年先の生活とつながっているのだと自覚できたらいいのだけれど。古いから捨てる、時代遅れ、と切り捨てるのでは なく、いいものはいいと認めてあげて、また修理しながら使い続ける、そんな姿勢を持てたらいいのだけれど。

 今の私たちが重ねて行く 一つ一つの判断は、「古き良きもの」を200年先までつなげられるかどうかの分かれ道。
『ちょっと待て、ぽいと捨てるなモノやワザ』

  24日は、見学会用の資料づくりの印刷にでかけ、今はその作成作業に追われています。
 29〜30日は今年度の見学会。あしは28日から出か けますが、そんな訳で毎日ばたばたで暮らしています。でも元気です。

 という、とりあえずの近況報告でした。
 ではでは、また。
 (あし)


2004/09/20
-No.187-

足元事務局長のいない間に事務局日記を書きます。
昨夜、熊野川の中州にある熊野本宮の大斎原(おおゆのはら)で和歌山、奈良、三重の 三県の共催の「紀伊山地の霊場と参詣道」の世界遺産登録記念の共同事業「森羅万唱」が開催されました。
大斎原は明治22年まで熊野詣で の目的地として千年の時を経て輝き続けた熊野の神をお祭りして続けていましたが、大きな水害で流失してしまった跡です。すでに百年の時を過ぎ ていますから、周りにはスギの老齢の林が迫り、闇が迫る中で音楽家の細野晴臣氏率いるバンドがインドネシアのガムラン、アイヌの音楽、佐渡の 民謡、そしてテクノ等が入り交じったまか不思議な音楽を奏で、世界遺産登録を祝い楽しみました。
秋の虫の音色とこれらの旋律が重なり合い 、熊野の森の中に広がっていく様子は、身体ふわっと軽くなるような感じでした。
帰りにあえて狭い林道を選び闇の道を一時間ドライブしました 。前も後ろも周りも光が全くなく、闇の中を車窓を走り去る木々の幹を見ながらの運転は、故中上健次氏が「熊野の闇には色がある」と書いたままの 闇でした。
熊野は再生の地と言われています。はやり紀伊半島の森の中はそこに息づく多様な生き物の精気が感じられる森です。闇にも精気 があふれているから、じっと見ていると、闇が踊り渦巻き、そして黒の色が様々な闇の色に見えてくる。
熊野の闇には色がある。 (りす)


2004/09/08
-No.186-

◆死にたくなったことありますか?

 昨夜遅くNHKの番組「子どもが見えない」が再放送されると知り、もう一度見ました。前回、なにかやり ながらぼんやり見ていたので、「人は死んでも生き返ると思うか?」という質問の場面で、なんて馬鹿な質問をするのだろうと思い、でも、その後のこ どもたちの挙手の多さにびっくりして数字などすっかり忘れてしまったものですから。
 「生き返ると思う」に手を挙げた子は、38人中28人もいた のです。6年生のクラスでした。

 いのちを大切に、と常々教えているけれど、こどもたちに「死」はどんな風にとらえられているのだろうか、 と気づいた先生がこどもたちに聞いてみたもの。その後各家庭で、死んだらどうなるかと話合いをしていましたが、おかぁさんがこどもに向かって一 生懸命に話している姿が心をうちます。

 番組では、死にたいと訴えるこどもたちの声がメールで次々に寄せられていました。
 でも 、自分でもよく覚えているのですけれど、この私だって中学生のころ、死にたいと思っていたのです。中2から中3にかけてかな。そんなこと考えるの 普通だと思っていました。
 どうして生きていなくちゃいけないのだろう、めんどくさい、そんな厭世的な毎日を過ごしていたことなんて親は全く知 らない。
 だれからも可愛がられる妹から、オネェチャンは橋の下から拾ってきた子だって、と聞かされ、どれだけ悩んだか親は知らない。(今 考えると笑っちゃうけど、、、)
 父や母から優しい言葉をかけてもらいたくて布団の中でよく泣いていたことなんてほんとに親は気がついていな い。
 最悪だったのは、「こどもは二人で十分よ。それ以上は苦労するばっかり。」なんて最愛の母から言われたこと。じゃぁ三番目の私はいら なかったのか、としばらく立ち直れなかった。(大人になってもこうなのよね)
 (最もこれは既に私の二人目のこどもが生まれた後だったし、自 分が気をつけてさえいれば、こうして生まれてくることができたのに、と、流産した子への後悔で苛まれている時に慰めてくれた言葉だったのだけど、 それでも私には、グサッときた。)

 幼い頃、いつもいつも母に、妹と私とどっちが可愛い?と聞いていたのを覚えているのです。でも答え は全く覚えていないのですけれど、きっと母はどっちも、と答えていたのでしょう。そして私にはそれが不満だったのでしょう。

 それでも死 なないで済んだのはどうしてなのか、とよく考えました。多分、死んだら母が悲しがるだろうな、妹も泣くだろうな、良く喧嘩するけど妹は大好きなんだ もの、そんなわずかな気持ちが死にたいという気持ちに勝ったのではないかと思うのです。
 今のように、人の悪意で追い込まれ、追いつめら れてしまうようなひどい世の中じゃなかったことも幸いでした。
 どんな場面でもいろいろ葛藤はあるけれど、ほんとにわずかな部分で、その時 々に一番良い道を選んできたのかなと思うのです。

 だから、こどもだって死にたいと思って当然、こどもなりのプライドが傷つけられるな ら学校に行きたくなくても当然、と思って育ててきました。
 だから、こどもが悩んだとき、最後のわずかな部分で踏みとどまってもらえるよう、愛 情表現をできるだけ心がけたつもり。

 こどもが中学、高校と大きくなってきてからは、夫と話し合って、兄弟ふたりいつも一緒にというの は避けて、一人ずつと出かける様に気を配りました。夫は、DIYの店に行ったり展示会に連れていったり。
 夫と長男、夫と長女、どちらの組み 合わせも大変うまくいくのだけれど、なにせ長男と私の相性はいつも最悪で。結局この「一人だけ連れ出し作戦」は、夫のお陰で成功していたのだと 思います。こどもたち気がついていたかしら?

 そんなこんな、たまたまうまくいっただけの子育てですけれど、今は社会全体が甘すぎる し、悪意や危険がいっぱいで、今だったらどうしてるかしら、と時々夫と話しますが、とにかく自分の家庭だけ守っているだけでは、守りきれない、そん な気がしますよね。
 こどもに向き合うのは、基本中のキ、だけど、気を使っていたはずなのに大きくなったこどもたちから話を聞くと、なんとも 可哀想な思いばかりさせていたみたい。
 いまさら反省してもしようがないけれど、でも良く無事に育ってくれたこと。
 夫とこどもたちに、 ただただ感謝です。
 (あし)


2004/09/07
-No.185-

◆ 人は死んでも生き返る?

 親子間の虐待や子殺しも信じられないことですが、こども同士の殺人に至っては、今までの常識ではとら えられず、何が起こっているのか戸惑います。
 例外だったはずのもの、少数だったはずの事例がじわじわと増えてくるのは不気味です。少数 の時に気がついても、食い止めることができない。

 そして自分の常識と社会の常識がどんどんずれてきていると思うこのごろ、5日夜の NHKの番組「子どもが見えない」を見ました。あまりに衝撃的だったので、ひとこと。

 その中で、小学生に「人は死んでも生き返ると思うか ?」という質問をした場面がありました。「生き返ると思う」に手を挙げる子がクラス(低学年ではない!)の半分以上いる事実!驚くよりも信じられな い思い。

 カブトムシが動かなくなったから電池入れて、と子どもが言うのだとPTAで問題になっていたのがもう25年も前のこと。私が子育 てしていたそれ以前より既に警鐘として言われていたことが、どんどん行き着くところまで来ているのかも知れないけれど。
 カブトムシがいくら で売られる、というニュースに驚いたのもそのころ。

 たとえ死んでも何度でも生き返るドラマやテレビゲーム、タマゴッチ、スーパーで買 えるカブトムシ、せめて我が子から遠ざけて育てても、世の中までは、変えられない。

 こんなこと、私の様な一市民が言ったって笑われ るだけだけれど、こどもを優しく育む社会を作らないと、その社会に明るい未来は芽生えない。(決して子どもに甘い社会という意味ではありません。 甘やかすことと甘えさせることは違うのよ。)

 だけど今の日本の社会は「こどもが見えない」とうめいている。だって、みんなの考えがバラ バラで、相変わらず経済の物差しだけでほとんどが判断されたまま。こどもがほしがるからと「いのち」の意味さえ変えて売ってしまう。 
  
 それでいて、こどもたちに莫大な借金を残して、自分たちはイイトコドリのキリギリスを決め込む、なんて。どうかしてる。見えないのは、政治 や経済にどっぷり浸かった大人のこころのほうかもしれない。

 ロシアの北オセチア共和国での学校占拠事件、その後の悲しみに打ちひ しがれた人々の様子をカメラが執拗に映し出す。どうしてこんなことになったのか、どこに怒りをぶつけたらいいのか、恨みや憎しみのどす黒いかた まりがどこまでも広がっていきそうで、恐ろしい。

 助かった少年が、話していました。
 閉じ込められた体育館の中で、家に帰りたい と何度も言う子に銃口が向けられた。どこかのおじいさんが、「その子を撃つなら私を撃ちなさい」と言った。そのおじいさんは撃たれた、と。

 残された人々にとって、非業の最期を遂げた肉親への悲しみや苦しみはこの後もどれだけ長く続くことか。でも、こどもに銃口が向けら れた時、「撃つな、代わりに私を撃て」、とそんな言葉を発する人がいたという。
 あまりに悲惨なできごとの中で、忘れられてしまいそうな言葉 だけど、でも、覚えておきたい。そんな崇高な言葉を残した人やその人が住んでいた町のこと。
 こどもに優しい、そんな当たり前の、落ち着い たいい町だったでしょうにね。
 (あし)


2004/09/06
-No.184-

◆突然の弁解とご挨拶

 先日、ある方にお目にかかった時に、(もちろんこの会のことで)会のHPを紹介し、事務局日記もせっせと書いて おりますので、是非のぞいてみて下さい、と申し上げました。
 多分、その方がこの事務局日記をご覧になったら、なんじゃ?と思われるでしょ う。事務局の人間の日記には違いないのですが、子育てやらオリンピックやらテロへの憤りやら、全く収拾つかない有様で、勝手なことを書かせてい ただいております。

 もともと一年前にこのHPを立ち上げたとき、皆様方に何度もアクセスしていただきたい一心で、この事務局日記も作 りましたが、もともと、ウサギさんやカメさんやリスさんやトンビさんなど、もっと書いて下さることになっていたのですが、みなさん忙しい。
 仕方 なく何でもいい、ジャンルも何も問わない、という了解のもと、アシが書き始めたのです。

 結局、専門的なお話など、書く実力もないアシ には、今までの自分の経験や聞きかじりの知識、それらに基づいた日々の感想などしか書くことがありません。
 いわば、主婦の目で見た現代 社会、なんて気持ちで、全く何にも縛られず、フリーの立場で、普通の人間がこういうこと考えているって、知っていただくことも良いのでは、とその時 々思ったことを書き綴っております。

 こんな拙文に、自分もおんなじ、え〜?そうなの?なんて時々反応をいただくと嬉しいし、毎日アク セスして下さる方々がいらっしゃることをまことに励みに思っております。
 
 とりあえず、突然ですが勝手な主張の弁解というか、ご挨拶 までに。
 今後ともよろしくお願いいたします。
 (あし)


2004/09/05
-No.183-

◆ こどもが殺されるなんて

 ロシアの北オセチア共和国での学校占拠事件は、衝撃的でした。チェチェン人やロシア人らの(アラブ系の 人もいたとのことですが)イスラム原理主義者と見られる犯人グループが、学校を占拠し、1000人以上のこどもや家族、市民、学校関係者などを人 質に立てこもったというもの。3日の特殊部隊突入後、338人もの死者と260人もの不明者、540人という負傷者がでたのだと、5日夜のニュースが伝 えていました。

 いままで女性や子どもなどを人質にとるなんて、卑怯だし最悪、ありえないことという暗黙の了解がありました。(と思って いた)。でも、今回のことで、テロには何のルールも無いことを知りただただ愕然としています。

 文化遺産を未来に残そうというこの運動 は、この地球に平和な社会を築く為の一助になれば、、、そんな意味もあるのです。でも、その意志を継いでくれる子どもがいなければ、何にもなら ない。

 こどもがいてこその社会。
 
 とにかくこんな卑劣な事件をマネするヤカラが出ないとも限らない。日本でも幼稚園や小 学校、よくよく警戒して欲しいもの。
 ほんとうに、私たち、どういう世の中に住んでいるのか。平和ボケという言葉が重くズシンとひびきます。
 (あし)


2004/09/01
-No.182-

◆ 可愛がられた思い出って財産よね。

 有機野菜の会を、26年続けていましたと前回書きましたが、息子が浪人中に、この毎週トラック で届く野菜の荷下ろしをやってもらったことがあるのです。
(大学受験に失敗して、浪人してもいいか、とうつろに聞く彼に、家の仕事を手伝うな ら、と条件を出した私って、、、、)

 毎週水曜日の朝、運ばれて来る野菜を降ろし、同じマンションの奥さんたちとそれぞれの箱に分け、各 家に運びあげるのが仕事。

 彼曰く、そんな作業の合間に奥さんたちも息子に気軽に話しかけてくれて、笑ったりおしゃべりし合ったこと が、今、自分の財産になっていると。
 もう十年以上も経ってから、彼の口からそんな言葉が出たのには驚きました。
 社会に出てから、 ご婦人たちと話をする機会もたくさんあるでしょうし、何かしらその時の経験が役にたっているのかな。 
 親から見ると、あの頃の息子はやたら イライラしている様にしか見えなかったのに。
 
 中学2年から始まった息子の反抗期は、延々と続きいろいろ波はあったものの、大学に 入学してほっとしたのかやっと終りました。
 ある日、大学生になった息子と二人で電車に乗ったことがありました。自分より遥かに背が高くなっ た息子がつり革につかまりながら、頭の上からかぁさんと声をかけてくる。
 息子の方は全くいつも通りなのでしょうが、突然こどもの頃の彼が 戻ってきた様な気配がして驚いたことを覚えているのです。

 ご飯よ、と呼ぶとうるさい!と怒り、黙っていると、なんで呼んでくれないのだ !と突っかかる。
 ぎくしゃくした毎日が果てしなく続いていたのですけれど、ある日突然それが解消。毎日一緒に暮らしていた筈なのに、心だ け別の世界に行っていたような、それがやっと帰ってきた。そんな一瞬。
 ちなみに、息子と私の険悪な状態をよそに、下の子はなぜか夫と仲 良しで、「私たちは平和よねぇ」といつも二人で別世界。
 
 そんな上の子も下の子もいろんな方から可愛がってもらいました。
 野菜 の会での関わりでは、幼稚園の頃から、千葉、群馬、和歌山、山形、長野、生産者の畑にはほとんど連れて行きましたもの。
 そんな時はたい てい片井さんが一緒でしたし、子供の頃からずっと可愛がって下さったその方が毎週トラックで運んで下さるのですものね。浪人中の息子だって、き っといい顔して野菜を受け取っていたのでしょうね。
 子供のころ可愛がられた思い出って、その人の財産、そう思うのです。

 今日 は水曜日、でも、もう野菜は来ないのだけど、子育てに夢中だった頃って、この野菜の会にも夢中だったっけ、ふとそんな遠い昔のこと思い出してし まいました。
 
 もう9月ですね。
 そろそろ違う話題を探すことにいたします。ではまた。
 (あし)


2004/08/27
-No.181-

今日も私的なお話で申し訳ありませんが、おつきあいいただけると嬉しいです。
◆ 巨木は倒れても

  25日、26日私の人生にとてつ もなく影響を与えた方が亡くなられ、知らせを聞いてから何だか呆然。お通夜、告別式に出席しその時々は皆さんとお話もし、ちゃんと動いていたも のの、今日になってみると二日間がぽっかりと抜け落ちている様な気がします。
 全く違う世界に行っていたのでしょうか。

 片井義 二さんという有機農業の普及に生涯を捧げられた方でした。
 8月25日早朝4:30に亡くなられたのです。71才でした。

 ずっと痛みを こらえていらしたのでしょうか、7月9日に突然黄疸がでたと入院された時には、もう余命3ヶ月と告知されたのだそうです。
 ご家族は最初どうし ても信じられないと4人の先生に聞いてまわってもまだその診断を受け入れられなかったのだそうです。
 8月20日にどうしても家で、と退院なさ って自宅に戻られたとのこと。あるがままの姿でいたいからと、どんなに自分が苦しがっても救急車など呼ぶな、医者もいらない、と言い残されての 御最期だったそうですが、それを受け入れられたご家族の苦しみもまた壮絶なものに思えます。  
 お通夜も告別式も春日部の、小さな教会 。
 最期まで信仰心を失わず生き抜かれた、たくさんの方々に尊敬された片井さんの清らかなお別れの会でした。

 上の子供がま だ幼稚園の時にこの方と出会って以来、ずっと千葉や群馬の生産者の方が作られるまことにおいしい、これ以上に安心な食べ物はない、という瑞々 しい野菜やお米やたまごなど、以来26年もいただき続けてきました。

 ひところは、トラックから野菜をどっさり下ろし、どこのお家も大きな 段ボール箱に一杯(一箱には入りきらないこともしばしば)の野菜を受け取って帰る、そんな活気ある活動でしたが、段々に子どもたちも大きくなって 家を離れ、夫婦二人で食べる量も激減し、野菜の会自体の活動も細々と続いているだけになっておりました。

 でもなにも知らされていな かった生産者や消費者にとっては、突然の訃報。駆けつけた昔の仲間たちと涙とともに再会すると、改めてこの方の偉大さに胸が熱くなるのです。

 今でこそ有機農業、無農薬、低農薬野菜、などの言葉が一般的になっていますが、30年も前の世の中ではなかなか信じてもらえなか ったのです。そんな中で生産者を変え、(畑が、簡単に無農薬農業に転換できる訳がありません。何年もかけて、まず土から変えないといけないの です。)消費者を集め、流通にも賛同者を増やし、丁寧にネットワークを広げてこられました。信念の強さ、頑固さは天下一品。だからこそ、ご自分の 人生まで妥協を許さず、その分ご家族の皆様のご苦労はいかばかりか、と想像するだけなのですが、信仰で結ばれた奥様との生き方は私たちに信 頼と感動を与え続けて下さったのです。

 野菜づくりと子育てとは、まことに似通った面があり、毎週トラックで野菜を運んで下さる度に、 珠玉の様にきらめく言葉や大きな力をいただいていたことを改めて思い出します。考えてみたら上の子が今、本人の志通りに生きられるのも、片井 さんが撒かれた一粒の種との出会いからでした。

 生産者がいて、消費者がいる。せっかく築いてきたこの関係を壊したら片井さんが悲し むよね。みんなの心の中に何かが芽生えた様な気がしました。
 片井さんのことを書き始めたら、また延々と大連載になってしまいますので、 やめますが、でも心の中に一つの情景が浮かんでくるのです。

 カナダの原生林で見た大きな木々の姿。日本だったらしめ縄を張られて 神様の扱いをされる様な大木が惜しげもなくあちらこちらに倒れているのです。根っこごと倒れた木のその大きな根の跡の窪地に育つ小さな小さな 木。
 そんな巨木の後から小さな木が育っていく。

 (あし)


2004/08/25
-No.180-

◆ オリンピックと子育て(5)

 オリンピックを見ながら、栄光に向かって精進する選手やご家族のことから我が家の子育てのことまでふっ と考えてしまい長々と書いてしまいました。

 金メダルを胸にかけ晴れやかな笑顔の選手たち。インタビュアーに、一番誰に感謝しますか ?と聞かれて即座に「両親」と答えた人が何人か。
 普段そんなこと照れくさくて、面と向かってなんてとても言えないでしょうに、あんな喜びの 瞬間に親への感謝を思い出すなんて。

 親にとったら、子供が「この世に生まれてきて良かった」と思ってくれたら、もうそれだけで報われ るのにね。

 勝った選手がいれば負けた選手もいるのが勝負の世界。でもたとえ負けても親は、一生懸命頑張った子供をいつまでも自慢 にするのですよね。井上康生選手のお父さんだって我が子が可愛くていとおしくて仕方がないから、誰よりも金メダルをあげたかったのじゃないかし ら。子供が喜び安心する顔が見たかったのじゃないかしら。

 北朝鮮の拉致被害にあった人たちの親御さんの「我が子を返して」と必死に 願う姿、オリンピックや甲子園で応援する家族の姿を見ていると、今の世の中、信じられない事件はたくさん起こるけれど、まだまだ「親の思い/家 族の力」って、そんなに簡単に崩壊するものではないと思えてきますよね。
 ただ忘れているだけかもしれないけど、どこかで必ずつながってい るのだと。
 そんな中から別の世界に飛び出して行くのが子供たちなのでしょうけど。 

 オリンピック・・いろんな場面で素敵なこと、 たくさん見せてもらいました。

 日々の努力が報われるって素敵、世界中からそれぞれの国のチャンピオンたちが集まるのですものね。そ んな中で活躍できるのはやっぱりすごいこと。 
 でもそれも相対的なもの。前人未到の世界新記録を出すことは本当に素晴らしいことだけど 、金メダルが取れるかどうかは相手次第、運次第。
 たとえとれなくたって失望しないでと、そう思う。

 そして、こんなに日本の選手 たちが大活躍し栄光に輝くことができたのは、いかにこの国が平和な状態だったのかと改めて思うのです。
 世界中で紛争や殺戮がなくなって 、どの国の人たちも「生まれてきて良かった」、と言える世の中。
 オリンピックはそんな平和な世界の象徴でもある筈なのにね、、、

 だけど、星条旗の掲げられた表彰台で輝く選手たちが晴れやかな笑顔を見せている同じ日にも、イラクでは同じ旗の下で作戦が遂行されている事 実が小さな新聞記事に書かれています。オリンピック精神とは裏腹な、理不尽な思いにかられるのです。

 せめてオリンピックに出場する 国は、(たくさんの金メダルを取った国はなおのこと)、平和活動にもっともっと貢献しなきゃいけないって、そんな流れができればいいのにね。それが 、紛争をなくし世界の貧困を改善する為の活動につながればいいのにね。

 
 「オリンピックと子育て」、なんだかんだで5回連続にな ってしまいましたが、これで終ります。
 
 次は、「オリンピックと国家とテロ」について。(ウソです)
 誰か書いて下さるといいのにね。 ではまた。
 (あし)


2004/08/24
-No.179-

◆オリンピックと子育て(4)
 
 子供の才能を小さい頃から見いだして伸ばすって、本当に難しいこと。親が自信を持ってその方向に子供 を導くことができればいいのでしょうが、恐ろしいことにも思え私は試行錯誤ばかり。でも、どの家庭でも多かれ少なかれ様々に葛藤を重ねながら子 育てをしていらっしゃるのではないでしょうか。

 子供だって親の意のままになるのは小学校まで、って良く言われますけど。
 もちろ ん子供を叱咤激励して頑張らせるのって、大事なことだけど、夫と私が心がけたのは、いつも逃げ道を用意しておくこと。追いつめないこと。
  叱る時だって、父親が怒ったら、母親は後からフォロー。(夫はあまり怒らない人なので、怒ったときは怖いのです。ホント)
 母親が激怒したと きは後で父親がなだめる(母親を??)
 まっ、両親揃って叱ることだけは避けたつもり。

 だって、「これで頑張らなかったら、勝た なかったらお前はもうダメなんだ、頑張れ」って育てて子供が頑張れるうちは良いけれど、スポーツだって学校の成績だって、自分の思い通りにいく 筈ないですものね。

 相手が頑張ったら、でもそれに追いつけなかったら、負けてしまったら、その挫折に子供が耐えきれなかったら、、、
 よく先生方が眉をひそめてささやかれたのが、中学受験で失敗した子供たちのやる気のなさ、自信のなさでした。

 そんな怖さもあ って、ほどほどの子育てスタイル(結果オーライ方式とでも言うのでしょうか)になったのですけれど、でも、上の子が小学校2年生の時、私の大親友 のお子さん、上の子の大の仲良しが死んでしまったことが私の子育ての絶対的な基本になっている様な気がします。

・・・・とにかく健康で あってほしい。
というより、生きてることが一番大切なこと。
 叱咤激励なんて無理よねぇ。
 
 結局なにに伸びるかわからない まま、子供の伸びる芽を折らない様に、枯らさない様にと心がけるしかなかったけれど、まっ、普通に素直に育ってくれたのはありがたいこと。

 親が能力を引き出さなくても、いつの間にかちゃんと自分で自分の道を見つけてる。もう親の手の届かない世界で。
 なんとか子 供自身で選んだ道で食べていければそれで十分。なおかつ幸せな家庭を持ってくれたら、親としては一安心、というところです。

 オリンピ ックのような輝かしい場面で活躍する選手たちとは、全く違う子育てでしょうが、まっ、普通の家庭の普通の子育ての一つとして恥ずかしながら書い てみました。ではまた。

 次回で終ります。
 (あし)


2004/08/23
-No.178-

◆オリンピックと子育て(3)

 すごいですね。野口みずき選手が、女子マラソンで金メダルを取りました。
 前回の金メダリスト高橋尚 子選手よりももっとメダルに近いと今回選ばれて、その分なんとしてもメダルを取らなければとの重圧の中。
 直後のインタビューでの「頑張っ てきて良かったです。」いい言葉ですね。

 さて、前回からの続きです。
 英才教育とはほど遠い次元ですが、子供がやってみたいと 望むことはできる限りさせたいと思っていました。我が家だけが特別じゃなくて、子供に習い事させるのって一般的だったのですよね。

 主 に小学校時代ですけれど、柔道教室にサッカークラブやスィミングスクール、なぜかボーイスカウトとピアノ、お絵描き教室にお習字も。(これ二人分 です。)世話役や、スィミングでは送り迎えもしましたし、月謝も相当やりくりして、、、。
 もちろん、すぐやめたのもあるし、同時に全部やってい た訳ではありませんが、こうして羅列してみると結構いろいろさせてましたねぇ。

 母親同士でよく話したことは、子供の才能を伸ばす、と いうよりも子供に楽しむ世界を見つけてもらいたい。それに、いろんな場面で子供が成長していくのがわかって親としても楽しみでした。近所の友だち 達とブームの様にぞっくり、という面もありましたけれどね。いつか、これが好き!っていうことに巡り会えればいいな、と思っていました。それにして もなんて贅沢で、幸せな子供たちだったことでしょう。

 ピアノだって、小学校時代、もうレッスンに行く時間よ、という時に上の子は外から ばたばた帰って来て、教則本の入った手提げ袋を探してお稽古にすっとんで行くというとんでもない生徒。
 一週間一度も弾いてないってこと ?
 この話をすると、それより親は何してたの?ってあきれられるけど、、、

 それでも毎日夕方、子供たちがおもしろおかしく遊んで いる最中に、ピアノの練習の時間だから、と目を三角にして連れ帰ってしまう親や、とても上手に弾けるのに中学に上がったからと次々にやめてしま う近所のお子さんたちを見ていると、一生音楽を楽しむ為に習わせていたのにね、と人ごとながら残念に思っていたのです。

 ですが、そ んないい加減な習い方にも関わらず中学生になった上の子が、そのピアノをやめたいと言い出した時には、さすがに私なりに焦りました。
「プロ にならなくてもいいのですから、もっと気楽な、世間で流行っているような曲を教えてやって下さい」、と頼みに行きましたもの。
 ピアノ嫌いにな るのだけは避けたかったのですよね。先生はびっくりなさっていたけれど意を汲んで下さり、ポピュラーな魅惑的な曲を次々に教えて下さったのです 。

 結局、音を出すことを楽しいと感じた子供は、高校の文化祭ではクラスの仲間たちとジャズ喫茶を開き、エレキベースを弾いていまし た。そしてピアノは今も彼のアパートに。
 かわいそうに、元々は下の子の為に買ったピアノだったのに、彼女は自分でキーボードだけの電子ピ アノを買って今はそれを弾いているみたい。

まだ続きます
 (あし)


2004/08/21
-No.177-

◆ オリンピックと子育て 2

すごいですよねぇ。昨夜のオリンピック柔道の中継では、鈴木桂治選手と塚田真希選手がそろって金メダル。

 体操選手の様に、小さい頃から英才教育を受けて来た人たちがオリンピックという晴れ舞台で大きく花を咲かせるのを見て、自分の子 育てを考えていました。あれでよかったのかなぁって、今頃そんなこと言われても子供たちは戸惑うでしょうけれどね。
 
 親がその道に秀 でていれば、小さい頃から楽しみながらその世界に入ることもできるのでしょう、そんな環境にある人たちは、やはり伸びますよね。もともと素質はあ るのですもの。でもその後の凄まじいまでの練習について行くのですから素晴らしい親子の関係ですよね。

 そして柔道など見ているとそ れぞれにコーチがついて精神面でも選手を支えているように見えました。先輩の存在も大きいのでしょう。鈴木桂治選手が優勝した時にちらっと映っ たけれど、大先輩のあの斎藤仁男子監督がタオルであふれる涙を拭っていました。ちょっと感動。

 残念ながら我が家は夫婦二人とも普 通の人間。子供たちもそんな強烈な指導者に出会わなかった、ということもありますが、一つの世界に子供を入れ込むのが怖かった、という子育て でもありました。

 よくいい先生にあたった、外れた、って親同士の会話には出るけれど、小学校や中学校時代には、子供の成長をじっと 見守って下さる先生の方が私には、ありがたかった。熱血先生に出会って、たとえ一面を伸ばすことができても他が犠牲になったりすることを考える とね。特に学力upやコンクール優勝を狙う先生って親の受けはいいけれど、私はそうは思えなかったのです。

 次回に続く
 (あし)


2004/08/20
-No.176-

◆ オリンピックと子育て(1)

 気温がどんどん上がって行くのがわかりますよね。
 7月からあんなに暑い日が続いているのですか ら、お盆も過ぎたことですし、そろそろ涼しくなってもいいのにね、と一人で勝手に願っても、思い通りになるはずもなく。

 さて、事務局日 記を続けなければ、と思いつつ、人に会わないと刺激を受けることもない訳で、
 盆休みは、家族全員で鳥取県の米子市まで帰省しました。
 そのへんを書き始めるととっても私事になりますので、今回はそれには触れず、

 やっぱり今の話題は、オリンピックでしょうか。
 柔道に体操団体に水泳に、活躍する若い選手たちを見ていると本当に嬉しくなりますね。金メダルこそ逃したけれど、柔道の52kg級/女子の 横沢由貴選手の準決勝、残り1秒という時の逆転の一本勝ち、しびれましたねぇ。

 谷亮子さん、野村忠宏さん、内柴正人さん、谷本歩実 さん、上野雅恵さん、阿武教子さんが金メダル。横沢由貴さん、泉 浩さんが銀メダル。

 ほとんどの試合が大きな人を相手にしての一本 勝ち。日本選手の胸のすくような勝ち方は、日頃の精進の賜物、と見ているだけで元気をもらう気がしました。
 
 卓球では福原愛選手の 試合をずっと見てしまいましたが、ほんとに凄い。私も若い頃少し卓球をやりましたが、あの動きの元になる練習量といったら、と気が遠くなる思いで 見ておりました。
 残念ながらベスト8には進めませんでしたが、とても15歳には思えない技術力。でも精神面では今一歩及ばず、次の北京が 楽しみですね。

 それにしてもオリンピックで活躍するって凄い。アテネに行けるだけでも、ほんとにたいしたこと。それまで育てられたご 両親の気持ちを考えると本当に感動します。

 そんな中で昨夜の柔道の試合。当然金メダル、と思われていた井上康生選手のまさかの 敗退に、応援していたお父さんが試合直後にもらした「何の為に今まで努力して来たのか、また一からやりなおしだ」ということば。
 平凡な子 育てをして来た人間からみたらなんと厳しい言葉でしょう・・・・

 そんなこんな書いてみようと思いますが、長くなりますので続きはまた明 日。
 (あし)


2004/08/11
-No.175-

また間が空いてしまいました。

◆ 山が崩れるって

 昨日(10日)テレビのニュースを見ていたら、奈良県大塔村の土砂崩落の なまなましい映像が写しだされていました。ご覧になりました?すごかったですよねぇ。
 午前0時という真夜中に、警戒中の現場に設置したカメ ラの前を、電柱が、タケ林が、スギ林が、滑リ落ちていく映像なのです。夜が明けて、ヘリコプターから映し出された現場は、幅120mにわたって土砂 が崩落したすさまじいもの。驚きました。
 
 先日、小春さんの山に下刈りに行った話を書きました。その際、対岸の山が放棄林と書きまし たが、小春さんから、「あの山は、ちゃんと植林もしたのです。放棄林ではないのですよ。一番大きな問題は鹿・かもしか・熊などの有害獣の被害で す。」とメールをいただきました。
 何年か前に行った時も対岸の緑はあまり見えなかったし、そんなことから放棄林と思い込んでおりました。 
 かたや、小春さんの山の木は、すくすくと育っているのに、と不思議に思いましたが小春さんの山では、鹿の忌避剤を年に二度も塗布するの だそうです。忌避剤の値段は高く、お金も手間もかかるけれど、でもそれをしないと全滅だろう、とのこと。
 そんなに手間をかけても、それでも シカやクマの被害を食い止めることができないというのです。どんなに悔しいことでしょう。

 丁度、8月2日、5日の朝日新聞に、東京の奥 多摩町でのシカの食害による被害の記事が出ていました。
 「シカの食害によって裸地化した斜面の土砂が豪雨で崩落し、町営水道の取水へ の影響が懸念される」というもの。そして「土壌の流出が止まらず、その一帯の砂漠化が顕著になり問題になっている」というお話でした。
 「シ カの群れが繰り返し同じ植林地に入り、ひづめの跡だらけ。固くなって草は生えない。土は霜柱が立って細分化され、軽くなって流れていく」とのこと 。
「東京都の産業労働局の調査では、伐採した跡地が植林されなかったり、植えても育たなかったりした裸山の面積は、多摩地区で約240ヘク タール(都の水道水源林を除く)あり、このうち83ヘクタールは、シカが原因と見られている」のだそうです。(「 」内は新聞記事より)
 
 大 塔村のように木が植わっていても山が動くというのは本当に衝撃的。これが裸地化した斜面だったらどうなるのでしょう。
 当会では、200年300 年先に必要な文化遺産を補修する為の木を育てて欲しいと願い、その為の方策など検討を続けておりますが、こうした山の崩落はそれ以前の問題 ですよね。

 日本って台風や大雨の被害は毎年のように大きく、また地震や火山の噴火など、自然の猛威の前にはなすすべもないところ に、おまけに獣害まで、そんな国土に暮らしていることを忘れてはいけませんよねぇ。

 最近、新潟や福井、徳島や和歌山、三重、奈良な ど大雨が続いたこともあり、こうしたニュースが気になっているのです。
 そんなところへ天気予報ではまた台風のニュース。
 なにとぞ被 害がでませんように。
 (あし)


2004/08/05
-No.174-

◆ 理想とする世界に

表紙のページをご覧にならず、この事務局日記に直接アクセスなさる方が見落とされるといけませんので、一言お 知らせ申し上げます。
●リンク集に「籔内佐斗司」氏のサイトと「木の文化と造形フォーラムのサイトを追加しました。(2004/08/04)
● 論文集に内山節氏のインタビュー「八世代先見据えた森づくりを」を追加しました。(2004/08/04)
●論文集に近藤光雄氏の論文「歴史的建造 物の保存に、今なにが必要か」を追加しました。(2004/07/21)

 偶然では、ありますが、この三人の方の主張されることは一緒。
  「・・・・・・日本の森と文化財のもつ課題がそれぞれ解決された時は、歴史と文化に価値を見い出し、そして環境保全に優れた、資源循環型社会シス テムの先駆的モデルが構築されたことになる」(上記、近藤光雄氏論文より)ということ。
 今私たちが考える理想の世界です。
 その為に はどうすれば良いのかを、たくさんの方々と模索しているのですよね。

 籔内佐斗司氏は彫刻家としてのお立場から森林や現在の社会に 警鐘を鳴らし、「木の文化と造形フォーラム」というサイトを立ち上げられました。
趣旨文
 わが国の「木の文化と造形」は、日本人のみな らず人類が共有すべき文化遺産のひとつであり、これを守り育てていくことは日本人の責務です。
 しかし現在、「木の文化」は、日本人のここ ろの分野から日常生活全般に亘り消え去る寸前にあります。また「木の造形」は、木工技術者の保護育成にとどまらず、林産業や周辺産業からユ ーザーまで含めた総合的な大計を緊急に必要としています。そして森林資源をさまざまな産業と結び付け、その収益でふたたび森林を育成するとう いう循環システムを取り戻す必要があり、このことは、日本の文化と社会システム全般を考え直すことにも繋がっていきます。
 (中略)
「 木の文化と造形フォーラム」は、この趣旨に賛同し、危機意識を共有できるひとたちが官民を問わず、また宗教界や産業界などひろい分野から、各 々の知恵と経験と技術を持ち寄り真摯に交流して、日本の「木の文化と造形」を守り育てていくことを推進しようとするものです。

 世の中 に、こうして同じ考えを持つ方がいらっしゃることを大変心強く思いますし、また元気も湧いて参ります。

 今はうだるような暑さですが、日 本って、夏が終われば必ず秋が来るのですよねぇ。
 だから、この凄まじき夏を乗りきるべく、頑張って参りましょう。
 ではまた。
 ( あし)


2004/08/03
-No.173-

◆夏バテなさいませんように

  一昨日帰っては来たのですが、急に(いぇ前から)頭の中が真っ白け。
 書くことが何も浮かんでこな いのです。そんな訳で、更新ができずにおります。お許しください。

 そういえば、東京駅に着いてから中央線に乗った時のこと。
 乗 ったのは「青梅特快」。
 「中央特快」と同じく、神田、お茶の水、四谷、新宿、中野、三鷹、国分寺、立川(立川から先は各駅停車)に停まるだけ なので、快速電車より速いのです。

 ちなみに一番早いのは、「通勤特快」。
 国分寺から新宿までノンストップ。ラッシュの時に乗る と25分間、周りの人も動かず、そのままの姿勢でずっと立ち続けなければいけないので、便利なようで結構辛い。
 それから「通勤快速」なんて 電車もあるし、これは荻窪と吉祥寺に停まるのよね。いろいろ種類があって、たまにしか乗らない人間には、紛らわしいのであります。

 さ て、一昨日に乗った、「青梅特快」は、お茶の水駅を出発したところで、
「つぎは〜しんじゅ〜く〜しんじゅ〜く〜」

 なんだかものすご くゆっくりのアナウンスで、ぼうっと聞いていたのですが、へぇ〜「青梅特快」ってお茶の水過ぎたら新宿まで停まらないの?へぇ〜っと思っていたら、
「しつれいしました〜〜つぎは〜よつや〜よつや〜」ですって。
 車掌さんもぼうっとしていたのでしょうけれど、四谷に停まらない訳ないで すよねぇ。こちらも相当ぼうっとしている、、、などと思っているうちに国分寺まで寝てしまいました。

 相変わらず暑いですね。夏バテなさ いません様にご自愛下さい。
ではまた。  (あし)


2004/07/25
-No.172-

◆大事な大事な森の手入れ 

 森の手入れといえば、24日朝日新聞朝刊の「声」欄に、土砂を止めたスギの人工林、という、見出しがあ りました。星智信さんが、新潟県の集中豪雨の後、被害を受けたご自分の山林を廻った後の感想をかかれたもの。
「所有する山の被害の大半 は、高地の雑木林で、低地の杉林に大量の土砂が流れた。斜面で土砂を食い止める形で残っていたのはスギだけである。しかしスギ林内にも倒木 や泥水が流れ、土砂が堆積した。
 間伐もほぼ完了して、今後を楽しみにしていた矢先のこと。保水力が強いといわれる雑木林も、一定以上の 降雨にはスギ以上に弱かった。」と書かれてありました。

 世の中には広葉樹の方が、いいという方もいらっしゃるけれど、ほっておいても 薪や炭材や焚き付けに、落ち葉を肥料にと、常に利用されていた時代と違って、現代の広葉樹の森にもそれなりの危機感があるのです。

 何しろ昔なら30年程で伐られ、利用されてきた木が、今は全く利用もされずほったらかし。80年もたった木々の下は、陽がささないので草も育たず 土表が露出。雨が降る度に土が流出するあり様は、山の中で根がむき出しになった木々を見かけたりして実感なさった方も多いと思います。

 それが急傾斜の斜面だったらどうなるのでしょう。
 急斜面に頭でっかちになった広葉樹が茂る、その危機感は、各県の林務課の 方から、また京都清水寺の裏山でさえあぶないのだと、お坊様から伺ったことがあります。
 東京の周りの山も結構こわいと言われて久しい。
 
 人工林の木々の手入れはもちろん大事。投書された方の杉林はきちんと手入れがされていたからこそ上からの倒木や土砂を食い止 めることができたのでしょう。何年生のスギ林だったのかな?
 間伐が遅れている山、伐採してもその後の造林をしない造林放棄地が増えてい るのは、ほんとに大問題。先日行った群馬の小春さんの山から見える対岸の山は、「相続の失敗」とかで広範囲にわたり、まさに伐採後放置された まま。恐ろしい有様です。

 都会に住む人間だって、山の状態に無関心でいたらダメ。もっと関心持たなくちゃね。
 自分の家が風雨 にさらされて庭の一部が崩れそうになったとしたら、まずお金をかけて直しますよね。
 でも今の日本って、台風や豪雨で崩れてしまってからや っと渋々お金を出すのよね。
 なんか変、って思うのは私だけ?

追伸
 昨日地域の仲間たちと、いつもの公園でろうそくを灯し て暑気払いの会を行いました。キャンドルスタンドはペットボトルを利用して、あし発案です。好評です。
http://www.kodaira-net.jp/cgi/units/index.cgi?siteid=kodaira&areaid=36239&unitid=kd8000001

 今日から、8月1日まで家を空け ます。
 法隆寺調査第二弾。秋の見学会彦根での打ち合わせを含みます。
 しばらく事務局日記休みますが、あしは元気ですので(多分 )御心配なく。ではまた。
 (あし)


2004/07/24
-No.171-

◆涼しくなるお話
 皆様お元気でいらっしゃいますか?

 寒さに弱く暑さにももっと弱い「あし」ですが、暑い、と言ったら暑くなるのわ かっているのについ口からでてしまいます。

 そこで今日はとっておきの納涼話。
 先日39.5度という東京の町なかを歩いていて、以 前、中国のタクラマカン砂漠に行った時の暑さを思い出しました。

 中国でも一番暑い土地トルファンという町の近く、孫悟空でおなじみの 三蔵法師(7世紀半ばの人)も立ち寄ったとされる高昌故城、交河故城など日干しレンガを積み上げて作った城壁の崩れた跡が残るだけの遺跡を呆 然と歩いたのです。

 何しろ40度近い気温、地表温度は50度とも60度とも言われ、長袖、頭にはタオルに帽子、日傘が必需品という世界。 (かっこ悪くても余りの暑さで自然こんなスタイルに。ただ湿気がないせいか日影に入るとしのげる。)
 近くに連なる火焔山は本当に赤い色の 山、熱気にゆらゆらと陽炎が立つ気配もして、こんなところで行き倒れたら、たとえ助かっても見る人すべて猪八戒や沙胡浄に見えるだろうな、と三 蔵法師に同情しました。

 何度もバスを乗ったり降りたりするだけでも体力消耗。外のじりじり肌を焦がす程の世界を朦朧としながら歩い ていたのですが、連れて行かれたのが、アスターナ古墳群という土まんじゅうがぽこぽこと何百も集まっているところ。砂ばかりの世界です。

 その中の一つ、長い地下室への道を降りて行き、着いた石室の中に見たものは、、、正真正銘ミイラが二体。キャァー。

 6〜 7世紀に繁栄した高昌国の貴族の墓、葬られたままの死者が千何百年もそのまま横たわって、そこへ土足で踏み込んでしまった、、、なんという恐ろ しさ。

 また天山山脈をバスで山越えして着いたウルムチという大都会。そこでは、大きな博物館を見学しましたが、展示物を興味深くじっ と見て行ったせいか、気がつくと一人だけ取り残されていたのです。
 石造りの天井の高い建物。自分の足音だけがやたら響く、、、
 それ だけでも不安になるのに、入った部屋は、、、

 なんと何十体というミイラがずらりと横たわっていたのでありました。
 ケースもなくそ のままの状態で、自分と同じ空気の中に存在している。
 キャァー。身の毛がよだつとはこういうこと、、、、、
仲間たちに出会えた時の喜 びといったら、、、、
 
 さすがに、あの楼蘭出土の少女は、陳列ケースの中で眠っていましたが、まつげや髪の毛もそのままに、ケースが なかったら思わず触れてしまいそうにすぐ近く。

 日本では考えられない死者の扱いですが、何千年という時の流れにも溶けることなく身 体だけが取り残された様にそこに横たわる光景、想像してみて下さい。
 ね、少し涼しくなったでしょ?

 トルファンは、カレーズという 地下水脈、縦穴の井戸を幾つも幾つも堀りそれを地下でつないで天山山脈からの雪解け水を引き、豊かに農作物を栽培している沙漠のオアシス。
 ホテルの部屋の窓を開けると、手を伸ばせば触れる程の近さに葡萄棚。木漏れ陽の中を通り抜ける風は涼やかに、外の暑さをふと忘れる程 、爽やかな満ち足りた気持ちを運んでくるのです。トルファンこそは、まことに忘れがたい地。
 過酷な、信じられない様な大地、でも、そこにも 人々は暮らしている。

 日本に戻って、飛行機から見下ろすと、森林率70%近くもある緑に覆われた豊かな国土。日本では都市の境は緑 に縁取られているのに、沙漠のオアシスの町の外は、荒涼たる沙漠が広がるのみ。
 緑豊かな日本が本当に天国に思えるのです。
 こ んな大切な緑を育む森林を手入れ不足で崩壊させたら罰が当たる。
 
 イラクやアフガニスタンのニュースを見る度にあの荒涼とした世 界が目に入ります。一言では言えないのですけれど日本に暮らせる幸運をもっと大事にしなくちゃね。
 ではまた。
 (あし)


2004/07/20
-No.170-

◆ 信じられない!39.5度ですって。 

 今日、町に出たのです。
 何だかとてつもない暑さ。電車に乗っても全然涼しくなくて、一体ど うしたのか、と思いつつ山手線に乗り替えて驚愕!車内の掲示画面に、池袋39度、新宿39度の文字。
 炎天下にいたら体温まで39度になっち ゃうわけ?それって大変!と馬鹿なことを思いながら、コンビニの前を通る度に入ってしまいましたよ。ただ入って何も買わず一回りして出てくるだけ で、申し訳ないとは思いつつ・・・それでも体が一瞬冷えて生き返る。

 町なかですれ違ったクール宅急便の車が、後のドアを開けっ放しで 走っていたのは、やはり暑さでもうろうとしていたのかな、あの運転手さん。ドアが開け放されているのを見たら背筋凍るかも。
 歩いている人も 、電車の中もみんなぐったり、ぼんやり。
 日本の夏ってこれからこんなに暑くなるのかしら、と不安になるくらい異常な暑さ。これで電気が停ま ったら、冷房が停まったら、都会には暮らせなくなると実感。

 夕方、家の近くまでやっと帰ってきて、酒屋さんのご主人に「今日39度です って?」と聞いたら「39.5度ですよ」との返事。またまたくらくらしましたねぇ。

 皆様、今日一日お元気でしたか?

 今日は、思い 立って永田町まで。
 いつもこの会のことを応援して下さるT氏に今までの報告やらお礼やらを申し上げに行ったのです。でも、先日も少し書き ましたが、「文化遺産涵養の森」に関して保安林制度の適用は難しいみたいです、別の方法を探さないと、など申し上げたら、「そこを、不可能を可能 にするのがあなた方のやっている会の活動でしょう。」と言われて、改めて期待されているその大きさを感じてしまいました。

 外は暑いけ れど、よぉしまた頑張るぞ、とちょっとだけ体温を上げながら帰って来る途中で、思わず冷えた缶ビールを買ったのでありました。(注:夕食用にです 。その場で呑んだのではありません。)
 ではまた。
 (あし)


2004/07/18
-No.169-

◆行ってきました。小春さんの山へ。

 14日は朝4:45にNさんが家までお迎えにきて下さって、市役所前に。メンバー6人集合してから、2 台の車で5時には出発。関越を通って伊勢崎へ。そこから山道をひた走り丁度8時に小春さんのお家に着きました。

 貸して頂いた大鎌を 研ぎ、車で10分程山を上がって現場へ。
 以前車で通った時は、もっと小さな幼木だと思っていたのですが意外と大きく育っていてびっくり。も う何年も経つでしょう、といわれてそうでしたと納得、7年生のスギの木は、もう私の背を超え、しっかり育っておりました。

 しかし、傾斜が 凄い。もう45度は絶対ある!と思いましたがそんなにはないのだそうで。
 下刈り作業全く初めての人3人を含む仲間6人、自分が転げ落ちない 様に足場を確保するのが大変。それでも山の中に広がってせっせと草を刈りました。

 いつもご夫婦二人で夏の間は毎日この作業。だい たい50日くらいかかるかなぁ。それでもほかの山仕事に比べたら一番楽な作業なのよと小春さん。

 やり始めたら一心不乱に、体力さえ 持てばどこまでもやってしまいそうな作業ですが、気がつくと限界超えてしまいそう。早め早めに休憩の声をあげるのですが、主力の男性3人は、な かなか上がってこない。特に年長者Nさん、Sさんの働きぶりが凄い。
 作業をやめても上の道路まで上がるのが大変なのです。
というわ けでやっと上がって来た時は、もう道路に座り込んでしまう程ヘトヘトに。
 それでもどうにか事故もなく、翌日お昼まで一日半の作業を無事終 えることができました。

 初体験のUさん、Wさん女性二人の働きぶりにみなさん感心しきりでした。
 終ってから、作業した谷を見下 ろすと、下刈りが終って色の変わっているところはほんの一角。あれだけやったと思うか、たったこれだけ、と思うか評価は分かれるところですが、小 春さんのご主人の「しっかり作業してくれて助かりました。」という言葉に満足することに致しましょう。

 山の下の方で動力での下刈り作業 をしていた小春さんのご主人も登ってきながら、「思っていたより、皆さん頑張って刈ってくれた」と驚いていたそうで、あちらにとっては、初めてのボラ ンティア受け入れ。それなりに心配していらしたと思うけれど、喜んでいただけて良かったです。

 夜12時近くまでボランティアのあり方に ついて、Iさん、Sさんと議論しましたが、なかなか難しいこと。でもこうした経験を何度も経ながら我々の会も発展していくのだと思いました。あし個人 としては、反省点がいっぱいあるけれど、(反省、反省、反省あるのみ。)

 それでも仲間たちのお陰で無事作業ができてほんとに良かっ た。感謝でした。
 仲間のWさんが、書いて下さっているホームページに山の写真が写っています。良かったらアクセスしてみて下さい。
http://www.kodaira-net.jp/cgi/units/index.cgi?siteid=kodaira&areaid=36239&unitid=kd8000001

 帰りに東村に出て、サンレイク草 木という国民宿舎で入浴、休憩。
 それぞれ同じ様なビニール袋にずしりと重い汗だくの作業着が入れてあったのを取り違えて大騒ぎ。お腹を 抱えて笑い転げましたが、和やかで楽しく忘れがたいひととき。作業の大変さを差し引いても楽しさの方がいっぱい残った今年の下刈り作業でした。

 小春さんありがとうございました。林家の方と一緒に作業するという体験は私にとっても初めてのことでした。張りきり方が全然違います ね。

 本当に、林業の大変さが骨身に沁みる下刈り体験でした。

 日常の生活に、しばらく忘れている感覚がよみがえりました 。
 晴れ渡る青空、流れ行く白い雲。吹き渡る風の涼しさ、うぐいすのさえずり。
 仲間が草を刈る音が聞こえる。ザクッザクッ、切れ味の 良さが気持ちいい。
 心が解き放たれるひととき。

 
 (あし)


2004/07/12
-No.168-

◆ 緑陰の涼やかさ

 大騒ぎして選挙も終りましたねぇ。
 当日は、地域の仲間たちと、公園整備作業。
 朝、夫と二人で投票 所に行き、それでも集合時間の10時前にいつもの公園に到着したのですが、もう作業はほとんど終わりがけ。木の枝を少々伐ったり、ベンチをデッ キブラシでゴシゴシ洗ったり、花壇の草をとったり。
 ミヤコワスレが綺麗に咲いていました。
 投票なんて朝7時に済ませちまったよ、とい うNさん。Sさんはもう8時半から公園に来て作業をしていたのだそうで。

 相変わらずの猛暑でしたが、でも木漏れ日の中、風が吹き渡り 気持ちがいい。先日入られたOさんもベンチに長々と横になって気持ち良さそう。
 
 今週の15〜16日は群馬の小春さんの山に6人で下刈 りの手伝いに行くことになっています。ヒノキの林なのだけれど、植えられたばかりの幼樹より草の方が丈が伸びているのですよ。だから陽を遮るも のが何もない、、カンカン照りになりません様にと祈るのみ。

 明日(13日)は、別団体の会議で大阪まで。日帰りです。
 山の中で 汗だらけになった後、感じる風の涼しさ、あれは最高。
 生きている喜びまで感じる時だってあるのよね。

 でも会議ってなんだかお っくう。
 まっ、こういう時もあるのですよ。
 ではでは、頑張っていってきます。
 (あし)


2004/07/09
-No.167-

◆ 木の文化の存続って

昨日、伊藤委員会、古橋委員会合同の勉強会がありました。 
 内容は、「文化財用材の流通に関して」
 委員会メンバーに加えて、文化財用材の流通研究に携わってこられた研究者や地挽き屋さん(材木屋)、施工業者の堂宮大工さん、文化財 を所有するお寺側、インターネットで大径材販売を始めた方などをお招きし、総勢17名で今までの議論に別の視点を加えることができました。

 木造の文化遺産を未来につないでいく為には、大なり小なりの修理が必要。その為にも補修用材は不可欠。だから山には現存する高 品質の大系木を残す必要がある。それは誰もがわかっていることなのですが。

 委員会では、その為の政策として「文化財涵養の森」と いった保安林制度ができればいいのではないか、と考えて、検討を始めました。しかし回を重ねるごとにそれが不可能とわかり、では、文化財所有 者と山側を結びつければいいのでは、と所有や委託の形態に関する議論に方向転換。
 しかし、それでも不十分。
 検討を続けていくうち に、文化財補修現場での現状、実際に山側と文化財現場を取り持つ流通の世界の役割がいかに大きなものかわかってきました。

 昨日 の勉強会では、それが大部明らかにされましたが、まだまだ不十分。
 そんなわけで次回も、今回同様、流通に関しての勉強会をもち、問題点 を探ることになりました。第4回目の合同委員会は9月22日の予定です。

 現状のままでは、この先文化財を補修する為の高品質の大径 材が残らない。
 木を扱う仕事が業として成り立たなくなったら、様々なことが困難になる。その現実だけがはっきりとわかります。

  車や家電製品が故障して、他はしっかりしているのに部品がないからもうなおらない。そう言われて泣く泣く処分した経験ありませんか?
 100 年後、200年後、解体修理しても大屋根を支える大きな桁や梁の部材がないから補修は無理よ、後は鉄骨でね。なんてことになったらどうしましょう。 鉄骨だって何年もつの?コンクリートだってせいぜい50年。

 1300年も建ち続けているのは木造だけ。小修理や大修理で痛んだ部材を取 り替えながら維持できてきた。100年持たせるのだって他の材料では代替できない。 
 そんな大事な材を育む山を維持していく為には、木を扱 う様々な仕事が業として成り立つことが緊急課題。

 もっともっと木のある暮らしを大事にできたらいいのだけれど。
 それも外材じゃ ない、国産材。
 もうすぐ選挙の投票日ですが、「国策として、様々なところに国産材を使います!」なんて政策にあげる党があったら、絶対一 票入れちゃうのにね。
ではまた。 (あし)


2004/07/07
-No.166-

◆期日前投票と政見放送

 今夜は七夕。まことに暑い。
 今朝はいつもの有機野菜が8時過ぎにトラックで届いて、仲間たち3人で、 ひと仕事したのですが、立ってるだけでも汗がたらたら。
 夜中も朝方も暑かったし、こういう日は本当に体力消耗しますよねぇ。

  先日不在者投票の話を書きましたけれど、今回から、「期日前投票」って呼び方が変わったのだそうですね。

 さて、我が母のこと。
 きのう電話がありました。選挙のことなんだけど、○○子さんから頼まれた人に入れるのはどうかしらね?と。
 あらま、おかぁさん、小泉さん はやめたの?
 どうやら先日、兄がさんざんぐだぐだ愚痴ったのが、気になっているらしい。でも兄が勧めた党は嫌いなんですって。(この好き 嫌いの基準がたとえ娘でもわからない)
 ○○おばさんはいつも選挙の度に電話を下さる。(以前はうちにもケーキを持ってきて下さったけど。) だったら私も、と母にひととおり、あの人、この人って推薦しておきました。
 さてさて母は誰に入れるのでしょうね。

 とにかくどんな 人か見ておかないと、とテレビの政見放送見ましたが、(同じ様なのを毎日やっていますし、あの面白くも何ともない静止画タイトルがでると、えっま た?ってスィッチ切りたくなりますが、)見始めるとこれが結構興味深い。
 あれだけの短い時間の中でも、話し方や内容につい引きつけられる 人って確かにいますよね。

 でも、中に一人だけてれてれ歌っている人がいて、どういう人たちを対象に考えているのかと疑ってしまいまし た。いくら前都知事で人気があったからってねぇ。
 それにしても「選挙に行こう選挙に行こう」って呼びかけないと行かない人って、こういう政見 放送見るのかしらん??
 (あし)


2004/07/03
-No.165-

◆ 近年、道歩きの注意
  
 以前、車を運転している人たちの間で、前後に広島ナンバーがきたら気をつけろ!(広島のかたご免なさい) とささやかれたことがありました。
 ご丁寧に職場にまで、何十台もリストになった車の番号が(広島ナンバーだけじゃなかったけれど)回覧で廻 っていましたが、こんなにたくさんの番号覚えられない、と皆で騒いだことを思い出します。

 いわゆる「当たり屋」。前の車が急ブレーキ 踏んで、こちらがうっかりコツンとぶつけたりしようものなら大変大変。後の車からもその道のプロ様が出てきて、法外な示談金を要求されるというも の。 

 最近ささやかれているのは、ある会社の車が近くにきたら用心用心。
 道歩いていても、いきなり燃え出したり、タイヤが外れ て跳んでくる場合だってあったわけで、菱形三つのマークかどうか注意して歩く様にと、学校で先生が言ったとか言わなかったとか。

 そ れにしても、一つの会社の危機管理意識が崩れると、社会全般に迷惑を及ぼす、という見本の様なお話。死んだ方もいらっしゃるのですから、全く許 しがたいことですよね。

 以前うちの近くのタイヤ会社のタイヤが、高速道路で破裂して事故につながったとアメリカで散々にたたかれたこ とがありました。日本では普通、自動車会社に全責任がいくらしいのですが、そこはそれ、アメリカでの出来事。
 フォードのなんとかいう車に 装着された場合でのみ起きた事故だったけれど、(他の会社に納められたものでは事故は起きていないのだけれど)全部タイヤ会社がひっかぶって 全部弁償して。

 自分から先に謝っちゃだめだよとか随分馬鹿にされてましたねぇ。でも誠心誠意の対応にお陰でかえって信頼を勝ち得 たという話もある様で、でも、ほっとしたのもつかのま、昨年は栃木の方の工場が火事に見舞われまたまた大変な状況。

 にも関わらず、 近くの東京工場の煙突が撤去されたのでどうしたのかと聞いてみたら、時代の流れ、環境問題を考えて燃料の重油使用をやめたのだとか。この会 社って地道に対応していると好感をもっているのです。

 地道が一番。普通に地味に。一発大儲けしなくても平凡に生きていけたらいいと 思ってる。だから政治には、そんな普通の安定した生活を保障してほしいと思ってる。だからそういう政党を選んで投票したいと思っているのですけ れど、、

 でも、このたった一票がどう有効に生きるか考えると、ほんとに難しいのですよねぇ。

 ではでは
 (あし)


2004/07/01
-No.164-

◆ 祝 アクセス数が一万突破
  
 昨日不意をつかれたように知人から私家版の還暦記念句集が届きました。
 その方が短歌を詠 む人という印象が全くなかったところへ、いつも放たれるおじさんギャグにこちらは馬鹿馬鹿しいと笑い転げているだけだったので、まっこと晴天の霹 靂。    
 いきなり頭上に雷鳴が轟き、土砂降りの雨にびしょぬれになってしまった様な気分。

 しかし、中の歌がいいのです。ひ らがなと漢字の歌と添え書きと。
 

 今日から7月。まことに月日の経つのは早いものです。
 このホームページを開設したの が、昨年の9月でしたので、丁度まる10ヶ月経ちました。
 お陰さまで、昨日一万件目のアクセスをいただいたのです。
 始めた頃は、五百 や一千で一喜一憂。知人たちにお祝いメールを送ったりしたくらい、なにしろ一万という数字は私にとっては天文学的数字でございました。
 
 先日久々にカラオケで歌うはめに。
 全く色気もなく小学校唱歌のようにしか歌えない私の歌を(つまり下手!)初めて聞いたという人か ら、性格がわかります、と妙に感心?されたのですが、一事が万事。自分で感じた印象だけを、ずらずらと書き連ねるだけのこの事務局日記にこうし て何度も読んでやろうとアクセスして下さる方々がいて下さること、本当に有り難く思います。

 ここ二度程、選挙関連のお話を書きました が、昔(明治より前という昔)はこんな風に自分で「国の進む行き先を選ぶことができる」なんて考えもせず小さな地域で生きてきたのでしょうね。
 戦がおこれば巻き込まれてもすべて不可抗力、しかたがないの世界。
 でも現代は、違いますよねぇ。知らん顔ではいられない筈なの ですけどね。

 それでも投票には絶対行かない、という人が全体の5%いるのだそうです。
 まるで世捨て人のように、季節の移ろいを 愛で、好きな本を読み、好みの音楽を聞き、素敵なものに心奪われ、心平安に暮らせたらそれは幸せなことでしょうけれど。
 こころ通わす神 仏の側なれば、なお良しと踞りてぞ暮らしたし。

 そんな生活に憧れる心を持っていないとは言いませんが、それでもねぇ。
 わたくし とて普通に生きてる生身の人間。あっちこっちに心を揺らしながら暮らしております。

 そんな一市民の独り言、奥深い三十一文字の世界 とはほど遠い我が散文なれど、(ちょっと先の句集にショックを受けておりまして我が身の浅はかさに恥じ入っております)これよりもまたお読みいた だければ幸いに存じます。

 取り急ぎ、日頃の感謝の気持ちとアクセス数一万件へのご挨拶までに。
 (あし)