事務局日記(2)(2004年1月〜6月)

2004/06/29
-No.163-

◆人気があるのよ不在者投票

 そういえば、最近不在者投票に行く人がものすごく増えているんですってね。政治への関心が増してきたのか、と感心していたら、不在者投票所のアルバイトをしていた友人がこっそり教えてくれました。

 与党のある政党の関連らしい方々が、担当区域のおじいちゃんやおばぁちゃんやなかなか外出するのが困難な具合の悪い人たちを、一生懸命送り迎えして、投票するそこまで連れていってあげるんですって。
 成る程。
 ここまでみんな地域の人たちのことを考えて(?)サービスしてあげないと世の中変わらないみたい。息子や娘たちに「投票行きなさいよ」って声かけるぐらいじゃだめかもねぇ。

 うちの母は、80過ぎになりますが、今まで一度も棄権したことがないというのが自慢。最近では遠い小学校の投票所よりも、行きやすいからと都合のいい時間に近くの出張所に行って不在者投票を済ませてしまうのです。便利になって嬉しいと喜んでいます。

 その母は大の石原さんびいき(都知事の!)与党びいき。父に長年にわたってそう教えられ、それしかないと思い込んでる。
 先日、兄弟が集まって選挙の話になった時、仕事がうまく行かないのも政策が悪いせいだと兄がさんざんこぼしていたけれど、小泉さんを信じていればいいと思い込んでる母には全く通じない。
 世の中変えるのってまことに難しいことであります。

 ではまた。
 (あし)


2004/06/25
-No.162-

◆行く先が変わっちゃう

 拝宮にのめり込んでいる間に、台風6号は来るわ、小泉さんはとっとこイラクの自衛隊を多国籍軍に参加させちゃうわ、年金改革関連法案は通っちゃうわ、これでいいの?って思うことがいっぱいおこりました。

 以前、埼京線が新宿駅が終点だった頃、(今は恵比寿まで伸びていますけれど)、新宿駅近くなると、折り返し運転の為電車の行き先がくるくると変わるのです。それを、結構早いスピードですれ違う山手線の電車からミステリーを見るような気持ちで見ておりましたが、満員の乗客は、自分が乗っている電車の行き先が変わっていくのを誰一人知らないのですよね。
 なんとミステリアス!(どこが?と突っ込まれそうなのでこの話はこの辺で)
 
 以前、住んでいたマンションで、自治会の役員さんがたが、規約を遵守することが重要なことである!と、偶然そういう考えの方々が集まったらしくて、ドアの外に植木を飾ったりするのが御法度になった時期がありました。突然マンション管理規約に書いてあるからと、役員さんが手帳を片手に見回り出して、なんだかんだのチェックです。

 大きな植木鉢が少しだけ通路にかかるとか、葉が落ちるとか、その他にも自転車の置き方、ゴミの出し方、騒音やペットの飼い方、エトセトラ。マナーを守るのは大事なことですが、守らせ方の度がすぎるのはどうもねぇ。(身勝手な住民ですみません)

 結局その一年間はどの家も植木鉢を引っ込めてしまい殺風景な状態に。すぐ理事会のお知らせに書かれてしまうし、何だか恐怖政治のような一年が過ぎました。でも役員交代したとたんに、また廊下にも植木が飾られなんだかみんながのびのびして、あれは一体なんだったのでしょう。

 それでも昨今の有様は、「いちいち突っかかって波風起こすのもねぇ」と我慢してしまうご近所とのおつきあいとは違う筈。思ってもいない行き先に運ばれるのはかないませんものね。ちょっといろいろ聞いて勉強することに致しましょう。

 そういえば参議院議員選挙で世間が騒がしくなってきました。それにしてもプロレスラーのような屈強な人たちが自民党議員で立候補するなんて強行採決要員?またいろんな法案強行して決めてしまう気?って勘ぐるのは、しばらく拝宮に夢中で「心ここにあらず」だった私だけ?
 まっ人生いろいろ、議員もいろいろってことでしょうが、それでもねぇ。

 とにかく、7月11日。
 みなさん投票行きましょうね。

 (あし)


2004/06/24
-No.161-

◆徳島拝宮農村舞台(12)―もう一度拝宮に―

 翌朝は輝くばかりの晴天でした。
 拝宮のある上那賀町のお隣、木沢村にある四季美谷温泉から拝宮へ通じる道は、あふれんばかりの木々の緑が、雨上がりの光の中に様々に重なり、片側の崖の上からは細い流れが突然空中に放り出され、滔々とまっすぐ白くはね落ちていくのです。小さな滝が、何本も何本もその表情を変え、おもしろおかしく車窓から飛び去っていきます。

 どうしてこんなに素敵な風景が惜しげもなく現れては消えていくのかと、助手席の私があんまり感嘆の声をあげるので、運転しているMさんが、いつも見慣れたこんな景色が、と笑い出しました。

 また、ゆっくり白人神社の近くを歩き、大きなスギの樹の枝にミステリアスに咲くセッコクの花を探して見たいと思いました。鶴賀若狭掾さんの舞台の背景に使われた情緒たっぷりの和紙の工房も近くにあるとのこと。次回はぜひ見学させていただきましょう。

 拝宮柿という干し柿も村の名産品としてあったのだそうです。
 それも復活されたら、山里の秋の穏やかな日差しの中、干し柿が軒に連なる風景も絵になるでしょうねぇ。皮むきの手伝いに行っても面白そう。

 村の人たちが人形を動かす、そんな稽古風景も見てみたいものですし、ひょっとして誰かのお家に泊めてもらえたら素敵。
 山の端にかかる月の大きさ、真夜中の明るさはどんなでしょう。
 星降る夜には、天の川も見えるでしょうか。

 神棚や仏壇にもご挨拶して、じっと山や畑や家を守ってきた先代や先先代やご先祖様のお話も聞いてみたい。お祭りやお正月や季節のお飾りもどんなふうにするのでしょう。お話好きのお年寄りがいらっしゃればいいな。

 まるで違った世界に入り込んだような気持ちになるかもしれませんね。映画や小説に出てきそうなお話も聞けるかも、何だかわくわく、なんて一人で果てしなく楽しんでおります。
 
・・・拝宮でのたった一日だけを切り取って、勝手に独りよがりの思いを稚拙な文章で綴りました。
にも関わらず「阿波農村舞台の会」の方々からこの連載中、温かい言葉をいただきました。地元の方々と誠実な関係を作りあげ、精力的に活動されていらっしゃる、そんな方々から、好意的に受け入れていただき大変嬉しく思っています。

 拝宮農村舞台のことは、とりあえずこれで終ります。最後までおつきあいいただきまことにありがとうございました。(でもこれからも時々思い出した様に登場するでしょうが。)

 こんどはまた別のおしゃべりを聞いて下さい。
 (あし)


2004/06/23
-No.160-

◆ 徳島拝宮農村舞台(11)―つなぐことの大切さを伝えたい―

「文化遺産を核として地域のコミュニティの再構築をはかることができたら、」というのは、当会共同代表内山節さんの思いです。

 今回の拝宮では、人形浄瑠璃とそれを上演する農村舞台を存続させることで、地域の結束が得られそれを基に新たな発展ができるのではないか、と期待を持つことができました。

 秋に当会では、彦根市と、湖北に点在する十一面観音をおまつりしたお堂を訪ねます。(行事予定参照)
 観音様を守る為に結束する住人の皆さんのお話。村の男性だけで出仕の当番を決めているところ、女性たちが主に出ているところ、何軒かで一年間鍵当番を引き受けるところ、いろいろなやり方はあっても、その地区地区で守られているのです。
 都会に出て行った人が会社勤めを終え、観音様のお守りに戻ってくることもあるのだそうです。

 また彦根市のお堀端にかつてあった礼拝堂を復活させ、それを核として新しい地域の結びつきを作っていこうという「スミス会議」の一周年記念講演会にも参加します。

 もう二度と舞台がかかることはないだろうとあきらめていた拝宮農村舞台での公演が、50年という長い時を経て、なお復活することができたという事実はまことに意義あること。
 建物を残すことの大切さを改めて思います。
 各地でのこうした活動から、たまらなく大きな勇気をいただくのです。

 今回の拝宮の農村舞台の復活公演と、この会の活動とは、「つなぐことの大切さを訴える」という意味においてまさしく同じ線上にあり、私の中には希望の光として映りました。

 私の人生の動線は確実にあの地でいっとき止まり、スギの大木の下で息づく農村舞台と、そこに詰めかけた人々の静かな熱気にこころ奪われ、そして一つの灯火をいただいたのです。

(12)に続く(今度こそ終わります。)
 (あし)


2004/06/22
-No.159-

◆ 徳島拝宮農村舞台(10)―文化財に残る森の記憶と幼き日の思い出―

 ご存知の様に、木造建築物は、ほぼ300年間隔での大規模な解体修理が必要であり、その技術を残すとともに、資材は超長期的な視野に立って確保を図らなければなりません。
 その為に森林を整備し、最終需要者に提供する社会的システムを構築する必要がありますが、(山本博一氏『「木の文化」を未来につなぐ為の森林資源管理』より)この会の活動は、まさにそれ。

 健全で多様な森林を残すことが今の時代にしておかなければならない大事なこと、と皆様に再認識して頂く為に活動を続けています。最終的に、大径長大材として補修用材を育て上げる為には、山での生業が存続していかないとなりません。山の木をもっと使い続けることがその第一歩になるのです。

 国宝や重要文化財の建物というのは、それに使われた材料そのものが素晴らしいし稀少です。
 遠い昔かつて日本の国土を鬱蒼と覆っていたであろう原生林。その森の中には、見上げるだけで畏敬の念を持つに違いない、想像を絶するような大木も枝を存分に広げて立っていたことでしょう。古い時代の建物は、かつてそんな太古からの森や林がこの国にあったことの証明でもあるのです。
 日本の「木の文化」の基盤には、雄々しくも豊かな森林があったのです。

 そして、地域に残るお堂やお社や民家にも歴史を重ねた素晴らしい建物がたくさんあるのです。そういった建物を未来に残す為に必要な補修用材には、マツやケヤキやカツラやクリ、ツガやスギやヒノキなど多種多様な材が必要、それも大径長大材が要るのです。文化財の修理に使う新材には「同樹種」「同品質」「同技術」という原則があるのです。
 だから将来必要な大径材を今の世に伐ってしまっては、どう地団駄踏んだって未来につながらない。

 人のつながりも切れてしまったらおしまいです。
 今回の拝宮農村舞台の復活があれだけ熱気をもって迎えられたのは、こどものころ見たことがあるという人たちが、まだたくさんいらしたことも重要なことだったと思います。幼き日に家族と見た懐かしい思い出。

 それぞれの心の内に残る楽しかった記憶は何ものにも替えがたい宝物です。

(11)に続く
 (あし)


2004/06/21
-No.158-

◆ 徳島拝宮農村舞台(9)―未来への扉―

 拝宮の周りにも廃村になった集落がいくつかあるのだと聞きました。
 
 世の中合併バヤリではありますが、その陰で廃校や廃村が増えない様にと願うばかり。でも昨今は、小学校の合併を保護者の方が望むのだそうです。行政側の都合ももちろんあるでしょうが少しでも生徒数が多い方が教育の質が上がるのではないか、というのも親が望む理由の一つとか。
 でも存続される方の学校はいいけれど、廃校になる方は、今後そこは子供が住めない区域になるということ。もっとも昔と違って車で送迎という手はあるわけですが。(でも冬期道路が凍結するところは難しい)

 悲しいたとえですが、大洪水が引き起こされるという時、川が決壊すると、崩れなかった方の岸で守っていた人たちが思わず万歳すると聞きました。両岸で必死に土嚢を積み決壊を防いでいても、対岸が先に崩れ水がそちらに流れれば、自分たちの土地は救われる。
 廃村につながる小学校の統廃合はそんな話を連想させるけれど、昔、村があった地域に近づくのは胸が詰まります。

 かつて昭和28年の町村合併促進法及びこれに続く昭和31年の新市町村建設促進法により、「昭和の大合併」が全国で推進されました。
 山村に行ってお話を伺うと、昔はもっと山の上に暮らしていたけれど、今は町に降りてきて、だから両方に家があるという方々もたくさんいらっしゃる。氏神様と一緒に集落全体で山を下りたところもあったと聞きました。
 暮らしやすい様に、行政の手が届きやすい様にと山から降りざるを得なくなる。

 3年程前、今でも山の上から眼下に漂う雲海をくぐり抜け、毎朝車で30分以上もかかる職場に通う方のお宅に泊めて頂いたことがありました。そこのお子さんたちは、中学生も高校生も寄宿舎生活。
 たまたま伺ったのが金曜日の夜、家族が揃いいじらしいほど温かな食卓。東京に住んでいる者には想像できない大きなハンディを抱えながらの生活があることを知りました。
 そこも今度の合併では、2町と2村が一緒になるのだそうです。
(唐突ですが、全国のあちこちで、地域の美林が今回の合併のどさくさに伐られているとの悲痛な叫びも聞こえてきます。まことに危惧すべきこと)

 今後、市町村合併で行政組織や議会が大きくなると、拝宮のような住民も少ない小さな地域の要望は、何かと通りにくくなってくるのではないかと心配になります。
 例えば村が小さかった時には、住民挙げて大切にされた氏神様の祭りの日程も、大きな行政組織に組み込まれた後では、よっぽど有名でない限り、一部地域の行事として見られるだけ。

 今回拝宮の農村舞台を見て思ったことは、その地域に住む方々、そしてその地や人やものにどうしようもなく愛着を持つ方々の思いや熱意が、地域の文化遺産を存続させうる扉を開けることができるのではないか、ということ。
 他のパワーを呼び込むことができるのです。

 拝宮白人谷の方々は、地域に残されてあった農村舞台を復活させることで、その扉を見つけたのかもしれません。

 そして、農村舞台の復活と言う誇るべき文化遺産を存続させることは、暴風雨の最中、我が地を救おうと死にものぐるいで川岸に積み上げるたくさんの土嚢を手に入れることでもあるのだと、密かに思っているのです。

 もちろん次世代につながらない限り、拝宮の農村舞台の存続も難しいかもしれないけれど、でも、誰もが思いますよね。今回の復活が、その芽吹きにつながればいいのに、と。

 地域の歴史を見直すことは、きっと自分たちの未来につながる。
 未来への扉は、人々が日々の暮らしを積み重ね、様々な思いを次の世代に託しながら、残し大切に守られてきたその中にあるのです。

(10)に続く
 (あし)


2004/06/18
-No.157-

◆ 徳島拝宮農村舞台(8)―時代に立会う―

 拝宮という地域だって他の「過疎」といわれる地域と同じかもしれません。
 
 昭和35年前後から始まった農山漁村地域における急激な人口減少は昭和40年の国勢調査結果が公表されるに及んで大きな社会問題として取り上げられるようになりました。公式に「過疎問題」という言葉が使われたのが昭和42年(1967)とか。
 70年安保闘争が始まる少し前の頃には、もう農山漁村から都市への人口流出が顕著に現れていたのです。
 
 それから40年近くの年月がたちました。その間、拝宮の地に暮らす方々の憂いはいかばかりか。若者はもちろんのこと、人がどんどんと減っていく。人形座の復活など夢のまた夢、考えることすら悲しいことだったでしょう。
 そういう時代に生きてきたことを、私たちはもっと自覚しないといけないと最近益々思います。ずっと何百年も続いてきた村のあり方や人々の暮らしが急激に変わったのは、戦後拝宮の人形浄瑠璃が途絶えたまさにこの間のこと。

 子供の頃、我が家にも冷蔵庫が入り、テレビが入り、電話もついた。祖母の住む村の道路も舗装された、そんな時代。すべてが驚きと喜びで迎えられたあの時代から、バブル崩壊でうめく今の状況まで。
 「この時代に立会ってきたのだ」、という自覚が必要ではないかと思ったのです。でも、立会うだけで何をしてきたのかと多分孫くらいの世代の人に聞かれても答えられないのが悲しい。

 拝宮での興奮を夢中である方にお話ししたら、でも結局は滅びるのでしょう、と冷めた目で言われてしまいました。今の社会に何の希望も持っていない、投票にも行かない、というそんな人に言われたくなかった。

 少し飛躍するかもしれませんが、せめて選挙だけは、投票にだけは行かなきゃねぇ、と思うのですよ。この時代に立会っていると自覚したばかりの人間としては・・・

(9)に続く(あと一回で終ると思ったのですが、ものすごく長くなったので分けました。)

■最後に語句を追加させて下さい。
徳島拝宮農村舞台(4)の中なのですが、
 演劇は、やはり生身の人間が演じるのに限ります。その土地土地で演じられる舞台に感動することっていっぱいある。

 演劇は、やはり生身の人間が、演じたり動かしたりするのに限ります。人形が魂を吹き込まれ感情を表すその様は、不思議としか言いようのないこと。その土地土地で演じられる舞台に感動することっていっぱいある。

って最初っからこの気持ちで書いておりましたが、誤解されるといけませんので、あえて追加させて頂きます。ではまた(9)で。
 (あし)


2004/06/16
-No.156-

◆ 徳島拝宮農村舞台(7)

 拝宮農村舞台が終ってから、阿波農村舞台の会や阿波人形浄瑠璃研究会青年部の発信するホームページをのぞいてみたのですが、充実感でいっぱい。地元の方々にとってもあれだけたくさんの人が詰めかけて、嬉しかった、やりがいがあった、またやりたい、元気が出た、などの感想を持たれたとの書き込みも。
関わられた方々も、舞台前の観客席はもちろんのこと詰めかけた観客で山の中までいっぱいの光景を見て元気をもらったみたいですよね。

 私も勝手にですが、そんな一日に立会えたことを喜んでいるのです。
そうした場に立会うことができるということは、まことに意義深いこと。
自分の人生の動線が重なったのですものね。
 「立会う」という作業の意味を今回改めて考えてみたのです。

 昔まだ若かった頃、井上靖さんの「わが美術ノート」という本の一節に身震いしたことがありました。
「・・・ただ美しいと感心するぐらいでは出会いとも邂逅とも言えない。
出会いとか邂逅とか言う以上は、その前に立つことによってこちらの人生や人間に関する考え方の、ある重要な部分が変わらされるほどの大きな感動を受けなければならぬだろう。言ってみれば、美しく、偉大なものに魅せられてその引き換えとして、こちらは魂の一部を相手に売り渡さなければならぬのである。・・・」
 井上靖さんのような方が、出会いとか邂逅という言葉をこんな重いものとして使っていたことを初めて知った時のことでした。
ふと、この一説を思い出してしまったのです。

 そんな意味で、何かしらに「立会う」という言葉の重みを私なりに捕らえてみました。

 そういえば、最近「立会う」という場が少なくなったかもしれません。
 人生の最大イベント、結婚式でさえ、外国で挙げてくる二人。残念なことですが、こうした慶びごとに親戚として立会うことも少なくなりました。
 人を見送ること。年を取るとともにそんな機会が増えてきたけれど、それでも家族だけでの葬儀で済ます方々も多くなったと聞きました。最期のお別れも聞いてもらえないのは淋しい。

 人生の門出に立会うこと。入学や卒業、仕事についたり辞めたり、婚約したり失恋したり、人それぞれの節目に立会ってと言われたら行ってあげたいと思います。一緒に祝ってあげたい。悲しんであげたい。気持ちを聞いてあげたい。
 だけれども、それが面倒というほど人と人とのつき合い方が変わってしまった昨今。

 うっとうしい人間関係からできることなら逃れたいと進んできた現代社会の行き着いたところは、当事者だけでことを済ませてしまおうという小さな排他的な社会なのかもしれません。
「社会がウェットからドライへ変わってきた」、と表現する方もいらっしゃる。「少し行き過ぎているのではない?だから乾きすぎちゃったんだよ」と。

 一言では言えない複雑な問題を多々含んでいることですが、今回の拝宮農村舞台が50年ぶりに復活したあの一日だけは、様々な個人主義の弊害が見え隠れする現代社会の対局のような、そこに住む方々の生き生きした良い面がふんだんにあふれていたように見えたのです。

 そんな訳で、私自身がそれに立会ったと自覚するからには、何かしらの役割が生じるのではないかと。だから、それを皆さんにお伝えしなければ、と長々と書き綴っております。今しばらくおつきあい下さい。

(8)に続く (多分あと一回で終ります。) (あし)


2004/06/14
-No.155-

◆ 梅雨の晴れ間に竹林の整備  

 今日も緑を通り抜ける風が爽やかな、いいお天気です。

 先月末、地域の仲間たちとつくる別団体の活動で、栃木県の喜連川にある雑木林の手入れに行きましたが、昨日は、その仲間9人が顔を出し、(プラス子供3人)小平市内で竹林の整備。

 竹林って、伐るのはいいけれど、数が多いのであとの始末が大変。
燃してしまえば簡単なのにねぇ、町中ではそれもできず、ひたすら竹は割って、細い枝と葉っぱは分けてそれぞれを小さく束にする作業を続けています。葉っぱもビニール袋に入れて、みんなゴミ扱いで捨てられてしまう。
 明け方、雨のサーサーと降る音に、中止にしようかとまで思いましたが、なんの、どんどん晴れて午後からはカンカン照りの夏の日差し。
 朝9時から夕方4時半まで、感心するくらい良く働きました。そしてやっぱりばてました。今朝は起きるの辛かった。


農村舞台(5)から続きます。
◆ 徳島拝宮農村舞台(6)

 今までは、(というより50年前までは)一つの集落という小さな世界で、じいちゃんやばぁちゃん、ひょっとしたらひぃじいちゃん、ひぃばぁちゃんから孫までが一緒に暮らし、常に日常的にそういった伝承がなされていたのではないかと想像します。
 畑仕事の合間にも鼻歌の様に口ずさむ浄瑠璃の節回しから、落書きのいきさつまでも。みんなが、だから舞台に残る落書きも大事なんだよと知っていた。

 時代が移り、暮らしが変わるとともに人々が町に出て行きました。
そういった伝承の世界は消え失せ、まったく珍しいものを見る様に、実際、珍しいものとして私たちは様々なかつて日常に有ったものを見る様になってしまいました。

 過去は過去。だけど、きちんとその過去に向き合ってきたのでしょうか。何に使われた道具かも見ただけではわからない。いろんなことが、空白のまま、抜け落ちているのではないのかしら。

 人が関わることをやめてしまったら、朽ち果てるしかないお堂、
 それに命を吹き込んだ舞台。
 50年ぶりの復活公演というものすごい歳月の間に、抜け落ちたもの、失ったものを少しでも取り戻したい、と地元の方々は思ったでしょうか。

 文化遺産を未来につなぐ、という作業は、抜け落ちた過去を掘り起こす作業もはいるのではないか、そんなことを感じていました。

(7)に続く
 (あし)


2004/06/13
-No.154-

◆ 徳島拝宮農村舞台(5)

 新内(しんない)節の人間国宝・鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)さんが、「是非ここで演奏してほしい」、とお願いに行った「阿波農村舞台の会」の方の熱意に心動かされ、またこの拝宮の農村舞台の写真をご覧になって、出演することを決められたとか。

 そして二人のお弟子さん(鶴賀喜代寿郎氏、鶴賀伊勢次郎氏)の三味線が伴奏する中、新内を語って下さったのです。
 演目は「若木仇名草―お宮口説―」「関取千両幟―稲川内―」。

 私も新内を聞いたのは初めて。高低二挺の三味線のチリリン、となる音色に、ぇっ?どうしてこんな音がでるの?と心ときめく思い。語りも義太夫節とはまた違う、様々な発声による艶っぽい声や節回しを不思議な気分で聞いておりました。

 その若狭掾さんが、舞台がはねて地元の皆さんと打ち上げの最中に、乞われるまま壁板に墨で言葉を書き残されたのだとか。そこには、昔から出演者の墨書が残されているのだそうで、いいお話だなぁ、と聞きました。
(ちなみに私たちも偶然若狭掾さんと同じ宿に泊まったのですが、偉ぶらない気さくなお人柄に感銘を受けたのです。)

 小さな農村舞台に残された古い墨書の跡。今までなら、ただの落書きと見捨てられてしまったかもしれないもの。でも今回の復活公演を終ってからは、舞台に参加した方々が書かれたものと同じくらい大事なものとして、そのいきさつや状況が付け加えられ、なにがしかの感慨も添えられて、周りの人たちに伝えられることでしょう。
 その農村舞台に一つ歴史が増え、以前の歴史も大切なものになったのです。

 未来を考えようとする時、積み重ねられた過去の上に自分たちが存在することをもっと意識したほうがいいと思うことがあります。
 より確実な未来を選択しようとするならば、現在とその過去は、切り離してはいけないし空白ではいけないと、そう思うのです。過去を封印したままで未来への展望はあり得ない。
(6)に続く
 (あし)


2004/06/12
-No.153-

◆ 徳島拝宮農村舞台(4)
6月6日の雨の日に開催された拝宮農村舞台。50年という長い空白の時を経て復活された舞台でした。

 出演者は、拝宮谷農村舞台保存会、阿波人形浄瑠璃研究会青年座、川内北小学校人形浄瑠璃クラブ(これがかわいい!)の方々、特別出演として、新内節浄瑠璃人間国宝・鶴賀若狭掾氏と三味線の鶴賀喜代寿郎氏、鶴賀伊勢次郎氏。
 どの出しものにも、心打たれ、そして雨の中にひたすら座り続ける、立ち続ける観客にも感動したのです。

 ちなみに拝宮谷農村舞台保存会というのは、今年2月地域住民約30人で結成され、今回の公演に向けて舞台修復などしてきたもの。
 戦後まもなく解散した「拝宮人形座」、たった一体だけ残されてあった初代天狗久作のえびすを動かしました。まさに半世紀ぶりによみがえった、歴史的な日だったのです。

 阿波人形浄瑠璃研究会青年座というのは、県立城北高校民芸部の出身者を中心とするメンバー。6年前に城北高校の生徒さんの舞台を見たことがありますが、ひょっとしたらそのときの生徒さんも中にいたかもしれませんね。

 「寿二人三番叟」は鈴を持つ手や足の突き出し方もわくわくする程元気が良くて面白かったし、「日高川入相花王(いりあいざくら) 渡し場の段」(道成寺のお話、安珍を追って来た清姫が船を出すのを断られ、ならば泳いで渡ろうと水面を見ると、、、美しい姫の顔がカッと口を開いた蛇の顔に、、うわぁ)も本格的で見応えある舞台でした。

 以前、奈良県にある「万葉文化館」でロボットの人形だけが出演する「万葉劇場」というのを見ましたが、う〜ん。佐渡で人形が能を演ずる能楽堂があると聞いたこともありますが、なんともねぇ。

 演劇は、やはり生身の人間が演じるのに限ります。その土地土地で演じられる舞台に感動することっていっぱいある。高いお金を出してロボット人形を作るより地域で演じ手を養成し、舞台を存続させる方がどれだけいいか。

 要は、演じ手がどれだけ「気」を発することができて、受け手がどれだけそれを受け止めることができるかでしょう。
 ここ、雨の拝宮の舞台に詰めかけた方々の目は肥えているし、楽しみ方を知っている。

 川内北小学校人形浄瑠璃クラブというのは、子供たちが人形の振りを演じるもの。平成9年度PTA活動の親子セミナーで人形浄瑠璃鑑賞会を行ったところ、子供たちが大変興味を持ったのだとか。自分たちもやってみたいと希望したけれど、なにせ人形は重い。
 
 そこで自分たちで演じてみよう、ということで、同年12月に社会文化クラブとして結成されたのだそうです。語る太夫も小学生。どちらもまことに可愛いし上手。
 出し物は「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」。客席からのかけ声もぴたりと決まって、みんなが笑顔で見ているような温かい雰囲気の舞台でした。

 拝宮谷農村舞台保存会の会長さんは、今後の抱負で「年一回は公演を開くなどし、農村舞台の文化を守っていきたい」と話しておられる由(徳島新聞6月7日朝刊記事)
 これをきっかけに農村舞台が開催されるたびごとに、人が集まり、神社の周りに市が立ち、様々な交流がされれば、どんなにいいでしょう。
 昔はこうしてたくさんの人たちがこうした舞台を楽しみに集まったのでしょうね。 
 
 出会いは、励みにもなり、今回の私のように刺激や元気ももらえるでしょうに。いいものに立会えた、そんな幸運を喜ぶ気持ちが今も続いているのです。

 感動といえば、舞台のある建物の後にまことに立派なスギの大木が立っておりました。何本も幹が分かれ、それぞれがまっすぐ天に伸び、どんなに大勢の神様や天狗たちが降りてきても大丈夫というくらい大きな木。

 また舞台近くの川原には、木曽で見たと同じ、岩を根っこに抱え込んだ根上がりの大木が有りました。

 じっと見上げると、太い枝枝にセッコクの花が咲いているのも見えました。白い野生の蘭。深山幽谷といった谷間のスギの大木に寄生する、清楚で気品のある花なのです。まさしく白人神社の霊域にふさわしい。

 どれだけの昔から、神と人との交流がなされ、鬱蒼とあたりを包み込む木々がそれを見てきたのか、大切な場所なのだと改めて思いました。
 
(5)に続く (あし)


2004/06/11
-No.152-

◆ 徳島拝宮農村舞台(3)

川が兄弟名を持っているってご存知ですか?

 徳島にきて初めて知ったのですが、徳島県を東西に流れる大河を四国三郎吉野川というのです。ちなみに長男は、坂東太郎利根川、次男は、筑紫次郎筑後川というのだとか。四、五、六、七男は教えてもらえず、八男が、阿波八郎那賀川というのだそうです。徳島県の南部をやはり東西に流れています。

 拝宮というのは、その那賀川の上流の方。
 私たちも、朝7:30に徳島市内を出て、えらく急な山の中にはいりこみ、指定された駐車場からぬかるんだ小道を歩いてやっと目的地。
 それでも、10時前には神社に着いてしまい、神様にご挨拶してからお弁当でも買いにいこうと話していたのですがとんでもないこと、開演の3時間前にも関わらず、境内に入ってみるともうカメラの列。山の下に張られたテントの中は人がいっぱい。どうしたものかと見回すと、山の中腹に、いい場所がかろうじて空いていました。観客が座る小さな広場を挟んでいるけれど、それでも舞台正面。

 ですがそこに入り込んだら最後、その場を死守するしかなく、ずっと傘をさして立ち続けるはめに。こんな早くからこんな熱気とは予想だにせず、お弁当を買いにいくこともやめ、(主婦って、忙しさの余りお昼を抜くなんてことは日常茶飯事、平気平気と合意して)ひたすら公演が始まるのを待ったのです。
 幸い、隣に陣取ったカメラマンさんのセットした長椅子に座らせて頂くことができてほんとにラッキー。徳島の方ってすごい親切。
 
 お天気が良かったら最高だったでしょうが、雨もまたよし。
 ザーザーとあたりの木々を揺らせながら、小降りになっても梢からしずくを降り注ぐ天の気まぐれに、最初はどうなることかと思いましたが、観客は善男善女、観念して、じっと石のように座り続けているのです。

 見える範囲で数えただけでもざっと600人以上、私たちの陣取る山の上に入り込んだ人たちを入れると、主催者発表750人という数字はほんとみたい。
 晴れていたら多分ざわざわと浮き立つ言葉も聞こえるのでしょうが、雨の音がすべてをかき消し、太夫の語る声と、三味線の音だけが境内に響いていました。

(4)に続く
 (あし)


2004/06/10
-No.151-

◆ 徳島拝宮農村舞台(2)

 先日のシンポジウムに徳島から来て下さった方が、この拝宮農村舞台/半世紀ぶりの復活公演/と書かれたチラシを皆さんに配っていました。
  そのチラシの写真を見た時に、もう息を呑んで、ここに行ってみたいと思ってしまったのです。(・・・でもその後、迷いに迷いましたが、、)

 芽吹いたばかりの樹木の初々しい緑に縁取られ、開け放された舞台の内なる空間が、ひっそりと息づきながら招いているような写真。
 ポスターやチラシを見ただけで魅入られたのは、これが二回目。

 最初もやはり徳島のシンポジウムの案内ポスターでした。もう6年前のこと。
 あれは、あたりが青くそまった夕暮れの中、祖谷山の急斜面にぽつぽつと建つ大きなトタン葺き屋根の家。(元は茅葺きよネ)やっと一日の仕事が終わったとほっとするひとときでしょう、家々に灯った明かりがたまらなく心を揺さぶる写真だったのです。
 
 さてこの農村舞台というのは、神社の境内等にあって普段は寄り合いに使ったりするらしいのですが、前面は「蔀帳」(ぶちょう、県南では「ミセ」とも呼ぶのだそうです)という、高さ1.2メートルくらいの1枚戸が、前に倒れてそのまま床が張り出す形になり、舞台になるのです。
 
 全国で確認された1921棟の農村舞台の内、そんな舞台が徳島には、240棟も存在しその数は、全国一だったとか。(25年前の調査)そしてそのほとんどが人形芝居用の舞台だったのだそうです。
 しかし、年々取り壊されたり改造されたりで、舞台の機能を持つものは、この25年の内に、現在30箇所までに減ってしまい、それも実際に人形浄瑠璃の舞台として使われないまま朽ち果てようとしているのです。

 なかでも白人神社の境内に建つ拝宮農村舞台は、江戸時代後期の建築と推定される徳島県内で最も古い舞台の一つだとか。大きさも間口六間、奥行き三間半と他の舞台に比べて一回り大きいのだそうです。平成3年6月に上那賀町の有形民族文化財に指定されました。

 こうした農村舞台の調査や保存・活用について、精力的に活動しておられるのが「阿波農村舞台の会」の皆様がたなのです。

 現在、拝宮という土地に暮らしている方々は、30人とか。
 最初は、住人の皆さんがすっかりあきらめていたものを、会の方々があの手この手で住人の皆さんをその気にさせて50年ぶりに復活させた舞台。

 かつて拝宮という地には3つも農村舞台があり、この白人神社の舞台にも昔は、40体以上もの人形の頭があったのに、もう誰も引き継ぐ者もおらんで、と売ってしまったのだとか。でもたった一体だけ役場に残してあった恵比寿さんの頭(それも天狗久の作という)も出演させての復活公演。
 盆暮れにも顔を出さない子供や孫や親戚が、この半世紀ぶりの公演を一目見ようと帰ってきたとか、そんな話を聞くのは嬉しい。
 
 仕掛けた人たちの思いがそのまま感激の涙となった様に、降り注ぐ雨の中、なんと750人もの方々が詰めかけて、じっと舞台を見つめたのです。

(3)に続く
 (あし)


2004/06/08
-No.150-

◆ 徳島拝宮農村舞台(1)

また間があいてしまいました。
 4日から昨夜まで京都、徳島に出かけておりました。

 4日は、京都仏教会事務局長の長澤様にお目にかかり、総会のご報告やらご相談やら。
 またその足で四国にまわり、6日は徳島県上那賀町拝宮(はいぎゅう)の白人神社境内にある農村舞台で50年ぶりに復活された人形浄瑠璃を見、翌7日は、東京理科大の先生方の牟岐町や出羽島での民家調査に同行させて頂き、夜帰って参りました。

 先日のシンポジウムに参加して下さった皆様から刺激や元気をいただいたお陰で、自分もアンテナを揚げ直さなければと思い実行にうつしたところ、結果は、上々。
 お陰さまで、たくさんの出会いをいただき、たくさんのものを見、様々なことを考えることができました。
 
 それからおまけに、偶然が二つ。
 京都からJR新快速に乗って、三宮までいく途中、車内で会員のIさんにばったり。それもボックス席の向かいに座っていたおじさんが、荷物をとろうとかがんだ拍子に、同じ車両の後方に立っていたIさんの姿が見えたのです。
 近寄る私に気がついたIさんのびっくりした顔がおかしい。
 一緒に三宮で降り、各駅電車に乗り換え、次の駅でIさんが降りるまで、何日か前に手紙でお知らせした件について話すことができたわけで、一つ仕事が省けてラッキーでした。
 私はそのまま舞子まで行って、そこから徳島までの高速バス。
 淡路島を通り抜け、鳴門大橋を渡り、徳島が近くなりました。

 もう一つの偶然は、徳島では、やはり会員のMさんの家に泊めて頂き、一緒に拝宮に、雨の中の公演を見た後は、近くの宿で一泊。翌日も牟岐町まで車に乗せていただいたのですが、その途中のこと。
 大きな道路に出る三叉路で、こちらはその道路に右折で進入する形。
 信号待ちの先頭で青になるのを待っていたら、対向車線の先頭で待っているのが、なんとMさんの息子さんが運転するトラック。助手席にはご主人も。
 こちらが先に青になり、右折しながら大騒ぎで手を振りましたが、一信号ずれてもこんなにぴったり交差することにはならないわけで、Mさんも偶然を呼ぶ人なのねぇ、と驚くやらあきれるやら。

 といったことを一つ一つ書いていたら大変なので、あとは省いて今日は留守中のご挨拶までに。

でも一つだけ補足させていただくと、、
 拝宮の農村舞台での半世紀ぶりの公演は、当会の内山節さんが提唱する「文化遺産を核として地域のコミュニティを再構築させる」、まさしくその活動でした。
 まだまだ日本の各地に可能性は残っているし、文化遺産がその核になるのだろうと境内に詰めかけた750人もの人たちと一緒にそこに立会って実感していたのです。

 詳しい話は、また明日。
 (あし)


2004/06/03
-No.149-

◆怒っていい?

 昨夜のニュースを見ていたら、衆院決算行政監視委員会で小泉首相と岡田民主党代表が初の直接対決という場面が映りました。岡田さんってどんな風に切り込んでいくのかな、とちょっぴり興味あって見たのですけれど、首相の答弁があまりにお粗末すぎてあきれてしまった。

 厚生年金加入時に勤務実態があったかどうかをめぐっての質問だったのですが、小泉さんは「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」とか勤務実態が無いのに厚生年金に入っていたことをとがめられると、「何のために謝らないといけないのか。身銭を切って『小泉、何とか当選させてやろう』という方々がいたからこそ当選できた」などと答弁。
 岡田さんじゃなくても「それが総理大臣の言うことか」と思いますよねぇ。
 
 以前、林業に従事する方々から、この年金制度への切ない思いを聞いたことがあるのです。

 今の日本の山が、荒れているといわれる背景に、戦後の復興期、材木がいくらあっても足りなかった。そこで日本中にスギ、ヒノキを植える「拡大造林」という政策がとられたのです。戦地から引き上げてきた方々の雇用対策としての意味もあったとのこと。
 しかし木は植えてもそんなに簡単に大きくなるわけではありませんし、植えた当初は手間ばかりかかるもの。木材が欲しいという内圧、外圧に屈して政府が外材の輸入を認めた所から、原生林を伐り出すだけ(だから安い!)という外材がどっと日本に入ってくる様になり、国産材が売れなくなってしまったのです。
 それで、戦後の「拡大造林政策」の下で植えられた木の間伐がされず、もやしのような林が日本中で目立っているのです。(山に作業に行くと、早く間引いてやらないと全部が立ち枯れてしまう、、と実感します。生物の気配がない、、土砂崩れが起きてもおかしくない状態なのよね。)

 それでも木造の家はあちこちに建っているじゃないの?と思われるでしょうが、ほとんどが外国からの材。国産材の割合は20%にも達していないのです。

 文化財の補修用材として300年生の材が欲しいといっても、昔1ヘクタール(100m×100m)あたり10000本植えたという苗木(現在は3000本が標準とか)が300年経って、20本か30本の堂々たる大径木に成長する為には、その間の間伐材(間引いた木)が収入にならないと林業として成り立たないのです。

 住宅の柱も各種板材も足場材も公園の樹木の添え木も塀も、電信柱も鉄道の枕木も梱包材もかまぼこ板も下駄も鉛筆や割り箸、マッチ棒までもありとあらゆる部門で外材や代替品にとって替わられ、国産材がごくごく少量しか使われなくなっている現状。

 林業の仕事も減り、山村に人が住めなくなり、若者の就業もない。

 そんな中で、国民年金にしか入れなかった人、(厚生年金、農林年金、農業者年金等は一定の資格がないと入れないのです)実際に林業に従事してきた方に多いのですが、厚生年金をもらえるサラリーマンの3分の1以下の年金(1ヶ月に6万円)で暮らさなければならないのです。

 老後のことを考えたら、若者が就業してくれないのもわかる。それでなくても危険で重労働と言われてきた林業なのですから。でも今は、少し機械化され生き生きと働く若者も増えてはきたけれど、でも彼らの老後はやはり心配。

 国土保全の為にも山の手入れは必要です。
 だから林業従事者の公的年金制度の充実というのは、どこも悲願のようなもので、第三セクターを作ったり、林業会社を起こしたりして年間150日以上の雇用の確保や厚生年金への加入、退職金制度の充実など大変な努力をしているのです。

 そんな話を聞いた後で、小泉さんが会社で勤務実態もないのに厚生年金に入れてもらっていたとか、それを全く不正だ、とも自覚していない様子、テレビで見ていておかしいと思うのですよねぇ。
 議員だけ特別って感覚。議員になればすべて許されるの?
 「公平じゃないこと」に私たちもっと怒っていいのでは?
 こういう「ずるい」ことが公然と話されて許されていいの?って思うのですけどね。
 (あし)


2004/06/02
-No.148-

◆失いたくない

 元気なの?と何人かからメールをいただきました。そうそう山に行くって騒いでいましたしね。またバテテル、と思われちゃったみたいで、、
 大丈夫です。ただ、26日に合同委員会があって、その記録のテープ起こしを早くやってしまわなければ、と取りかかっていたのですが何だかんだで、終らず、29〜30日は山へ。31日も午後から他団体の会議で夜帰宅。昨日やっと完成したという次第。
 そんな訳で事務局日記にまで頭が回らず失礼してしまいました。

 テープ起こしをしていると、古橋委員会側、伊藤委員会側からの問いかけや返答のやり取りが改めて思い出され、面白いのです。
 古橋さんが二言目には言われる。
「そこに問題点が有るのか無いのか。問題が有るのなら、それは改善可能なのか。どうすれば改善されるのか。現状を分析する必要が有るのではないのか。」

 文化財の修理現場において、現状の制度の下での様々な問題点が浮き彫りにされてくるのです。しかし現実には、流通も含めて、そこに関わる人たちがその運用に知恵を絞ることでなんとか実質的な部分をカバーしている状況が見えてくる。
 
 制度的におかしいのなら、問題が有るのなら改善されるべき、と誰もが思うけれど、どこから手を付けたらいいのか、問題は社会全体に関わること。

 みんなが腹をくくってやらないと、世の中悪くなるばっかり。
 そう言われながら先送りにされてきたことが、今の時代多すぎる。
 
 昨日長崎の佐世保で起きた事件はどう考えれば良いのでしょうか。
6年生の女の子が、同じクラスの友達の首をナイフで切りつけ失血死に至らしめた。

 殺された女の子のお父さんがインタビューに答えている場面をニュースで見ました

 3年前の9月に奥様を亡くされ、翌春転校させたのが今の小学校。二人の男の子と一番下のこの女の子を大切に育ててきたというのに。
 あまりに痛ましすぎる事件でした。

 子供にいのちの大切さを知ってほしいとは、誰もが願ってきたこと。

 もう20年以上も前になるけれど、私の子供たちが小学校に行っていたあの頃でさえ、「ママ、カブトムシが死んじゃった。電池入れて」と子供が言うのだと父母会で問題になったことがありました。
 ゲームをやっていても「いのち幾つOK?」といいながら子供たちが遊んでいる。何のことかと思ったら何度も生き返ることができるのだという。

 PTAでも、繰り返し生き返るドラマやゲーム、たとえ死んでも他の番組ではピンシャンしている俳優、激しい暴力や残酷な場面、子供に見せたくない内容に家庭でも注意を呼びかけ、その影響の大きさを話し合ったりしたものです。

 あの頃と変わらない。より悪くなったことを戦慄とともに実感することはあっても、良くなったと思う話はあまり聞こえてこない。

 腹くくってみんなが立ち上がらないと、と思うことと、一度失ったらもう戻ってこないこと。
 文化遺産を失うことへの危機感と同じ。
 いのちを大切なものと考えられないでどうして文化遺産を守ることができるでしょう。

 せめて、大切に愛おしんでいたものが失われたときの、地団駄を踏み、身悶えし、泣きわめいても取り戻せない、あのこみ上げてくるどうしようもない感情を自分の中に呼び戻すことができれば、この危機感をもっと感じてもらえるでしょうに。
 (あし)


2004/05/26
-No.147-

◆夢物語だけど
 今日は爽やかに晴れて、吹き渡る風も気持ちいい一日でした。
 毎年27日前後に咲く泰山木の白い大きな花が、今日咲いていました。私の好きな花の一つです。

 今年度初めての合同委員会が開催されました。
 この会の発足時から縁の下の力持ちをずっとして下さった飛山龍一様が、滋賀森林管理署に転勤なさった後を、飛山様の元上司の矢部三雄様、同じ課だったということで見込まれてしまった原田隆行様が引き継いで下さいました(本当に有り難いことです。)元長官の加藤鐵夫様、委員長の古橋源六郎様、議長に内山節様をお迎えしての委員会。(今日は、林業関係、流通関係の方々があいにく欠席で残念でしたが)
 伊藤委員会からは、委員長の伊藤延男様、副委員長の後藤治様、文化庁から、やはり西様に見込まれてしまった竹内正和様、東大の山本博一様に参加して頂いてのより大きな戦力となった合同の委員会でした。

 これだけの方々が集まって検討を重ねれば重ねる程、社会全体で取り組まなければ解決しない問題ばかりがより鮮明になってまいります。
 200年先に、現存する文化財と同等同品質の補修用材を山に残すことがどれだけ難しいことか、その困難性の解説ばかりが説得力をもって語られるのですよねぇ。

 どうやったら打開できるのか、「夢物語だけれど、」と枕詞のように前置きが入るのですが、それでも万策尽きたわけではない。(と信じるしかないけれど)
 
 結局は、文化遺産を守り継ぐのだという意志のある方々が、ある意味腹くくって、山側や心ある流通の方々を支援していくシステムを作らなければうまく行かない、というのが今日の結論。

 そしてその文化遺産を守り継ぐ方々を支援するのが、我々一般市民の大きなパワーなのですよ。

 これをどうアピールしていけば良いのでしょうか、後は、どれだけの知恵を働かせることができるか、ですよね。
 会計士さん、弁護士さん、税理士さん、様々な方々の知恵も必要です。
 お力を貸して下さる方はいらっしゃいませんか?「文化遺産を守り継ぐ」ことに関して、変革への作業におつきあいいただける方、自薦他薦ご紹介いただけると幸いです。
 もっともっと知恵を集めないと、実際の突破口が見えてこない。
 
 それぞれに重さばかりを感じながら散会しました。
 でも、普段でも大変忙しい方々が、200年300年先の文化遺産の為に、こうして話し合っていたのです、ということをお知らせしたくて今日の日記にご紹介しました。
 次の合同委員会は、7月8日。流通に関する勉強会をする予定です。

 行事予定ももうすぐ更新致しますので、もう少々お待ち下さい。
 (あし)


2004/05/24
-No.146-

◆ ミステリアス(神秘的な不可解な)
 
 ミステリアス、といえば、道を歩いている時、ふっと何かの声を聞いた気がする、って経験ありませんか?
 初めてのお宅に伺った時、そこの仏間に通されて、仏様、お花、お線香のかすかに残るにほい、なによりもそこに漂う空気の質感が、子供の頃から覚えている、父が朝に晩に額ずいていた仏壇の前の気配と同じと感じたことがありました。それ以来その場の気配、質感を気にする様になりました。

 道を歩いていても、ふと自分の周りが昔の仏壇の前と同じ質感に囲まれていると感じる時があります。自分ではスポットと呼んでいるのですが、そんな時、体全体で言葉を感じることがあるのです。

 なんとミステリアス!

 名刺の「文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議」の下に、〜祈りの場と心をつなぐ森づくりをめざして〜という言葉を入れていますけれど、祈りの場に身を置くのは好き。
 お寺や神社、教会、その他にも、いろいろな宗教団体の祈りの場に入れていただくこともありますので、そんな時は、こころ静かにとけ込む様にしています。たいていの所は、受け入れて頂けるし、私のこころもざわついたりしない。

 でも時として、近寄りたくない所もあるのですよねぇ。
 理屈ではなくて、全く説明できないけれど、何となく。

 それもやっぱり私にとっては、ミステリアス!

 人の出会いなんてミステリアスの最たるもの。
 地球というこの広い平面(暮らしの中においてはね)、悠久の時間の中のほんの一瞬である今の世界に出会うって、全く偶然であって他の何者でもない。

 すべてが偶然であって、それがみんな意味を持っていて、
 理屈じゃないのですよねぇ。
 だからみんなミステリアス!

 出会いをいかに自分自身で大切なものにするか、先日のシンポジウムに京都から参加して下さった学生さんがいらっしゃる。偶然を自分で必然に変え、しっかり自分の内に取り込もうとアンテナを高くあげて努力を厭わない。
 彼女を見て、これだけで四苦八苦している我が身を反省しました。
 奈良からいらした方は、翌日、昼夜通しで文楽を見て帰るとおっしゃる。

 気力が萎えるって、悲しい。人に出会うってやっぱり良いこと。たくさんの刺激、そして元気をいただけますものね。
 さぁ、今週もアンテナをもう一度高くあげて張り切っていきましょう!
 (あし)


2004/05/20
-No.145-

◆ 不思議なご縁で

今日は、何を書こうかな?ってパソコンの前で考えていたら、電話が鳴りました。

「何でもないんだけれど」って古い友人から。彼女はお寺の奥様。広い境内の草取りを一人でしゃがみ込んでしてるって。ふと私のことを思い出し、どうしてるかな、元気だったらそれで良いんだけれどねって。
 こういうのって、ほんとに嬉しい。
 誰かがふっと自分のことを思い出してくれる、気にかけてくれている。

 昨日も、ある宗教団体の東京本部長さんが、シンポジウム行けなくてごめんなさい。ずっと気になっていまして、、とわざわざ電話を下さった。

 受話器を置いたあともじんわりと胸の中が温かい。

 誰かの顔が、ふとよぎったりしたら、すぐ電話をかけてみると良いですよね。相手も、あ、今電話しようと思ってた、なんていうことが良くありますもの。
 結構こういうのって大事だと思うし、信じているのです。

 というのも自分には偶然なことが良く起きる。
 随分昔の話ですが、こどもが通う小学校の前の大通り、信号が青になるのを待っていたら、信号待ちをしている車からクラクション。よくみたら兄だった、なんてことが二回もありました。遠くにはなれて暮らしているのにたまたま仕事で通りかかったって。

 母に電話をしようと受話器を取り番号を入れたけれど発信音がしない。「あら壊れてるのかしら、、」とつぶやいたら、「あら通じてるの?」と母の声。全く同時に電話をかけ合っていたらしい。

 道を歩いていたら、突然後から来た二台の自転車に挟まれた。一台の自転車に乗っているのは高校生の息子。あら、どこに行くの?なんて歩きながらひとこと二言話しただけで自転車は行ってしまったけれど、息子の友達がびっくりしていた。

 他にもいくつかあるのですが、平凡な生活の中で、それぞれの動線が時に交わったりすれ違ったりすることが往々にあって、面白い。
 
 最近この会に関わっていると、やっぱり偶然としかいえない出会いが良くあるのです。
 たくさんの中から選りすぐって選ばれたものではないけれど、人から人へ少しずつ広がって、時にはこんな偶然があってもいいの?と驚くようなお話がいくつも聞こえてまいります。まことに不思議なご縁というのでしょう。

もちろん真芯にあるのは、文化遺産を守り続けたいという願い。
願いがご縁を呼び、偶然を引き起こすのでしょうか。

その真ん中にいる人間としては、ちょっとミステリアスでドキドキの世界です。ではまた。
  (あし)


2004/05/19
-No.144-

◆仲間づくりの秘訣って
 16日の日曜日は、地域の仲間たちと公園整備そして月末に里山整備に行く打ち合わせをしました。

 いつもの公園に約束の時間に行ったら、一時間も前に来たと言って、ご自分のお庭で作られた花の苗をたくさん持ってきて植えているSさん、ベンチをたわしでごしごし水洗いしているNさん、お二人が汗だくになって既に働いておられました。

 その日は、結局10人が集まって、苗を植えるのを手伝ったり、草取りをしたり、いろいろいろいろ。
 
 花壇の草取りをしているWさんのそばで、Nさんの大声。
「オイオイこの周りの草抜いちゃったのかぁ〜。俺がせっかく植えたのに、、、」 

 だいたい土留めの必要性から階段状に花壇を作っているので、草でもなんでも定着してくれるのは嬉しいのです。そんな階段状の花壇に、Wさんが、持ってきたホトトギスやミヤコワスレを綺麗に植えてくれました。そしてついでに花壇周りの雑草を抜いてしまったみたいです。Nさんが植えたとは知らずにネ。

 Nさんが大きな声を出したので、みんなそこの花壇の周りに集まってきたけれどニヤニヤ笑ってる。だってNさんは、よく怒るけど、全然根に持たないし本気じゃないの知ってるから。ごめんなさ〜いと謝って終わり。
 最初怖がっていたWさんも最近わかってきたみたいです。
 
 「あし」はNさんが、ここ何年もいろんな草花を持ってきては、斜面のあちこちに植え続けているのを知っているのです。会うたびに、ここに植えたけど、枯れたんだなぁ、とか子供にちぎられたとか、陽が当たらないから難しい、とか言いながら、山で取ってきたり、奥様が家の屋上で増やした苗をもらってきては植えて下さってる。そして週に何度か公園に行っては水やりをして下さっているのです。ほんとに優しい方なのです。
 今日は大人に抜かれちまったよ、と家に帰られて奥様にこぼすのでしょうねぇ。

 でも、仲間たちのこういう雰囲気って、ここまでくるのに、もう6年はかかっているのですよねぇ。
 3年程前にベンチを皆で作ってこの場所に設置した時だって、基礎の穴の掘り方、セメントの混ぜ方入れ方で、人それぞれのやり方があって、一触即発かとハラハラしたものですが、皆さんの性格がわかってくるともう何でもない。

 16日は、新しく入会したいとおっしゃるご夫婦も見えて、私たちの様子をご覧になっていました。来年定年を迎えられるというご主人、いかにも奥様に引っ張ってこられたという雰囲気で、「私は、絵を描きたいのであって、働くのは、どーも、、、」
 それを受けて「この会はねぇ、何をしていてもねぇいいんですよぉ」と答えているのは、一度退会したけれど、やっぱり仲間でいたいと戻ってきて下さった方。(彼の料理人の腕は最高。今度の喜連川では本場仕込みのタイカレーを作って下さるのですって。この会、優秀な男性料理人が大勢いらっしゃるので、女性陣はいつも大喜び。)
 汗だくになって働いている人もいるけれど、絵を描いているだけでもいいんですよ、とみんなが許容してる。

 作業が終って、いつも定期的に整備している里山作業の打ち合わせが始まりました。今月末、栃木県の喜連川という所の温泉に泊まっての一泊二日の企画です。
 行く人の最終確認の挙手、見たらそのご主人「ボクも」と手を挙げていて、みんなで大喜びいたしました。今回は15名で行くことになりました。

 仲間を作るってほんとに楽しい。
 秘訣って、その人をそのまんま受け入れて、ゆっくり知り合っていくことでしょうか。もちろん私も受け入れてもらってるってことですよね。 (あし)


2004/05/18
-No.143-

◆今日はゆず

 うっかりしていたら、もう火曜日。前回憂鬱な日記を書いてから、随分日が経ってしまいました。何だか、総会&シンポジウムが終った後2〜3日は、まだ気持ちが高揚していたらしく元気いっぱいだったのですが、週の中頃から眠いしだるいし、調子を崩しました。
 でもその間、総会を欠席された方々に、報告やら総会資料やら発送。一応仕事はしていたのですが、何だかぐずぐず。

 そういえば、「桃栗3年、柿8年」ってことばの次があるのご存知でしたか?
 先日地域の仲間たちと会合で盛り上がっている時に地元の方が教えてくれました。「ゆずはぐずぐず17年」って。

 後から、人に聞くと、『桃栗3年柿8年、柚の大馬鹿18年、銀杏の気違い30年』っていうんですってね。
 他にも『桃栗3年柿8年、柚は9年で成りかかり、梅は酸い酸い13年、梨の大馬鹿18年、林檎ニコニコ25年』という地域もあるのだとか。(どこかわからないので、ほんとかどうだか定かではありません、、、)
 一般的に、ゆずは18年って言う方の方が多い様ですね。

 それにしても、「ゆずはぐずぐず」という言い方が気に入って、家庭でも調子の悪いときは「今日はゆずです。」夫も同じ会合に出ていたので通じちゃう。
「君はほんとにゆずだなぁ」、なんて言われても気にならないかもね、、 

 お天気がはっきりしないと、すぐ「ゆず」になってしまいます、よね。(ぇっ私だけ?)
 ではでは、
 (あし)


2004/05/14
-No.142-

◆憂鬱なこと
 前回は我が家の恥をさらしてしまいました。だから国民年金の未払いに関しても議員さんたちってあんまりよねぇって言いたいけれど自粛。それより息子のことなんとかしないと、、、
 
 最近憂鬱なことが多すぎますね。
 憂鬱の鬱の字って、林の中に缶、と書くのですよ。これって閉じ込められた、という意味なのだろうな、と一人で納得しているのです。
 周りに木が鬱蒼とおおいかぶさる山の中、閉じ込められ悲嘆にくれている、という雰囲気ですよね。

 今、訪欧中の皇太子様が出発前の記者会見で漏らされた、「それまでの雅子のキャリアやそのことに基づいた人格を否定するような動きがあったことも事実」、、というお話は、本当に憂鬱なこと。

 これって皇室だけの話ではないのですもの。
 結婚したら家のために男子を生まねばならない、まだまだ日本中にはびこっている考えですものね。この私ですら、結婚して半年経った時、お姑さんが実家の母に「まだ赤ちゃんができないようだけれど、産婦人科に見てもらうべきではないか」と電話をしました。
 実家の母は怒るし私は驚くし、子供を産まなければ認められないのか、としばらくは正常心を失ったのです。二年後にようやく子供を授かることができ安堵したけれど、雅子さまは10年もずっと、愛子様が生まれてもまだ男の子を、と責められ続けているわけで、どんなに辛い毎日かと胸が痛みます。
 このときの複雑な心境は、今でも澱のように心の底にあるのです。

 古い昔だったら、正妻以外の女性が世継ぎを生ませられたのでしょうが、新憲法の元、それはあり得ないこと。それに愛子様が、天皇位についてなんの問題があるのでしょう。
 私が好きな奈良時代には、元明天皇、元正天皇、孝謙天皇=称徳天皇、女帝がずらり、ちゃんと後世に続いているではありませんか。もっとも皇室の家系といっても天武系の称徳天皇から次は天智系の光仁天皇(息子が桓武天皇)にとんだように、きっちり親から子へとつながっているわけではないのです。

 99年に男女共同参画社会基本法が制定され、全国の自治体で推進条例が制定されました。でも一時の熱気が薄れ、最近はその揺り戻しがちらほら見られるようですが、その揺れ方がこちらから見ると浅ましい。
 まだまだ「女は黙っておれ!」の世界でないと落ち着かない方々がたくさんいらっしゃる。こんなこと言ってる「あし」のような人間はほんとに嫌われるのです。

 また意識調査で女性の方がいい、という女性が増えてきた、とも言われますが、本当にそうなのでしょうか。都会でその家族だけで暮らしていれば、そんな気になるのもわかりますが、でもまだまだ大なり小なり雅子さまのように人格を否定されつつ暮らす女性は日本中にたくさんいらっしゃる。(そんなこと、地域で頑張っている女性たちと話し合えばいっぱい聞こえてくる)
 
 私の友人たちに、「老後ふるさとに帰りたいか」、と聞くと5人中5人までが人間関係を嫌がります。今の過疎問題を引き起こしている理由の一つがそうした女性の人権問題だってこと、どれくらいの方が気がついているのでしょうね。

 男性と女性って、体格も、腕力も、本当に違うし、だから役割だって違って当然ですけれど。
 でも男性がいくら強いからっていっても、自分で子供を産むことはできないでしょう。
 女性にもできないことはたくさんあります。
 強姦だって、女性がいくら襲っても脅えた男性をその気にさせることなんて不可能ですものねぇ。

 でも逆の場合、女性がどんなに脅えても、抵抗しても可能なのです。女性が体力的に弱いからといって、だからといって虐げられていいわけはないし、家庭でも一番弱い人間として位置づけられるのは理不尽なこと。
 ましてや子供を産む、産まないでその人格が評価されるのは絶対おかしいし、家や組織の存続の為に、子供を産む道具として位置づけられるしかなかったらあまりに悲しい。


 鬱蒼とした藪の中に入り込んだ気分ですよねぇ。年金も、、、(あっこれ余分、、)
 (あし)


2004/05/12
-No.141-

◆国民年金の督促状
 総会&シンポジウムのことから解放されたので久々に家族ネタを

 最初の子、つまり長男が小さい時、かなり理詰めで子育てをしてしまったような気がします。ある時、高校時代の友人たちと子連れで集まった時、みんなから笑われたのですよ。小学校に行き始めたばかりの子供に「状況を見て判断しなさい」などと言っていたのですよねぇ

 でも「状況を見て判断しなさいよ。」これは大変便利な言葉なのでありますよ。

 母「自分より小さい子と一緒のときはどうするんだっけ?」子「三笠君みたいに優しくしてあげる。」母「それで、今は誰が一番大きい子なの?」子「ボクみたい」母「じゃぁ三笠君みたいに優しくしてあげてね」子「うん、そうする」
 というような会話を何度も重ねていると、「状況を見て判断しなさいよ」で子供に通じる様になるのですよ。

 ちなみに三笠君というのは、近所の柔道教室に長男が一年生で入部した時の六年生。同じアパートに住んでいたこともあって、とても優しくしてくれたお兄ちゃんだったのです。
 ある日の夕方、アパートの入り口近くで、いつもの様に親たちは立ち話。子供たちもその周りで遊んでいたのですが、そこに中学校に入ったばかりのピカピカの三笠君が帰って来ました。三笠君を大好きな長男は、目を輝かせて飛んでいってお話しするのです。
「中学校ってどんなことするの?」「うぅ〜ん、いろいろ。」
「今日はどんなことしたの?」「うぅ〜ん、勉強。数学と国語と社会と、、、」
「ふぅ〜ん、中学校って大変だねぇ。」
と、訳わかったような顔をして深刻そうに相づち打ってる長男に笑いながら、「じゃぁな」、と三笠君がアパートの中に入ろうとすると、
「三笠く〜ん、すうがくってなに〜」
 周りのおばさんたちもみんなずっこけて大爆笑したのでした。

 ちょっと三笠君で脱線しましたが、この長男、もう十分に社会人なのに、状況を見すぎてある時から国民年金を滞納しているのです。「だって自分が年とった時にほんとに戻ってくるかわからないじゃないか」というのが彼の理屈。
 でも我々親世代にちゃんと支給される為にはこういう若い人にちゃんと払ってもらわなくちゃ、と私もいつも説得するのですがなかなかねぇ。たまると額も大きくなって、つらいものがあるようで。
 そんな息子に、国民年金を滞納していたせいで官房長官やドコゾの党首を辞任した人もいるんだから、これから政府も本気になるかもよ。就職の時に納付証明書がいる様になるかもよ(ホント?)とまたまた状況の変化を説いているのであります。

 一つ言えることは、息子に社会保険事務所や、時には社会保険庁からしょっちゅう督促のハガキや封書がくるのです。だから、政治家の人が気がつかなかった、というのは絶対ウソ。だって個人の自宅宛にくるのですもの。秘書のアヅカリ知らぬことではありませんか。あの方々、絶対未払いに関しては確信犯だと断言しちゃう。そう思いません?
 (ちなみに誤解されない様に申し添えますが、貧乏な長男とは違って、娘はちゃんと払っている由。)ではまた。
 (あし)


2004/05/11
-No.140-

◆有識者と市民パワーの恊働を

 有識者会議、という名前にひっかかる、何か偉そうに聞こえて抵抗感があるのですよ、ということばを理事の方々からもいただきます。
 有職者会議だったら自分も入れるのだけれど、という方もいらっしゃいます。

 有職者と有識者、いろんな思い、、「プライドや偏見?」がそれぞれに込められているみたいですね。
 でも、私のような、有職でも有識でもない、なんの生産技術や知的技術もない人間にとりましては、その分野の方々にその専門知識を生かすことで、この「文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の」活動に力を貸していただきたいのですけれど、、とお願いするしかないのです。
 そんな意味の「有識者会議」なのですから、専門家という立場で積極的に関わっていただきたいのです、と申し上げるのですが「それって結構プレッシャーじゃないですか?」と考え込む方もいらっしゃる。

 そもそもこの有識者会議なるものは、「200年先の文化遺産を補修する為の用材を確保する為に」今、手を打っておくことはないのですか?という目的で、専門家の方々にお集りいただいたのが最初なのです。

 専門の方々というのは、文化庁文化財部建造物課、(独)東京文化財研究所、(独)奈良文化財研究所、(財)文化財建造物保存技術協会、NPO法人木の建築フォラム、(財)森とむらの会、京都仏教会、法隆寺、清水寺、神宮司廰(伊勢神宮)、林業家、林野庁、環境省、
 こういう趣旨ならこの会は外せないね、という所を全部網羅したつもりで、お願いし参加して頂いたのです。ですから最初はこの方々から出発した会義。

 ただ実際に動かれる社寺建築関連の方々が入っていない、ということで今年度よりNPO法人日本伝統建築技術保存会からお二人に理事と監事に入って頂きました。また今後、鎮守の杜など森と地域の結びつきがより大きい神社関係の方々にも入っていただけたら、と思っているのです。

 こうして文化遺産を守る側、森林を育てる側や、専門家の方々に、同じテーブルについて頂いて、どうしたら、、と検討を始めたのですが、やはり突破口は市民という大きなパワーのようです。
 
 今の所、先駆けとなって進むのは、当会では委員会に参加して下さる専門の方々、(理事以外にも木材を見るプロの方や大学の先生にも入って頂きました)そして一緒に進んでいくのは、私も含めた一般市民ではないかと思っているのです。
 なぜって、それぞれの立場で有識者と言われる方でも、その立場からはなれたら一般市民。どんなに優秀なお役人でも、その立場を離れたら一般市民。

 市民という立場で、変わらないスタンスをとり続けることが大切なのだろうと最近つくづく思っています。
 というのも、この4月で林野庁や文化庁、奈文研、の方々が大きく異動され、せっかく順調に歩み始めた活動が、少々スピードダウンしてしまったのです。
 
 それでも、こういう会があるから、また一回り大きくなって、協力して下さる方々と新たな関係を結びつつ再出発することができるのです。たとえ頼りない事務局でもこういった市民サイドの会がなければ、せっかく撒いた種子も芽を出したばかりで枯れてしまうところでした。

 凄い存在意義!(と、一人で思っています。)
 そのうち、市民パワーの方がこの運動にもっと大きく関われる様になったら、このホームページの届け出名称(長過ぎて受け付けてもらえなかったのです)の様に「文化遺産を未来につなぐ森の会」(もっと単純な名前があればそれでも可)としたいと思っています。(密かに事務局がそう思っているだけなのでまだ内緒なのですが、、、)

 でもまだまだ、政策提言集団というべき、専門の方々の検討を続けて頂かなければならないと思っています。
 もちろんその委員会に、市民側からもご意見やご提案などどんどん寄せていただき、協力して頂けたらまことに嬉しいことでございます。
 そういった意味でも、「有識者」という言葉にひっかかっている方やそうじゃない方々に、もっともっと入って頂き、この会の協力者や支援者を増やすことが、当面の事務局の使命。

 ご協力をお願い致します。
 このことを申し上げる為に、こんなに長くなりました。
 ではまた。
 (あし)


2004/05/10
-No.139-

◆幸せな気持ち
 昨日、総会及びシンポジウムが無事終りました。
これもひとえに皆様方のご協力の賜物と厚く御礼申し上げます。

 参加者も、皆様がお友達を誘って下さったり、ネットで呼びかけて下さったりそれぞれが周りの方々に呼びかけて下さったお陰で丁度100名。
 無事終わりほっとしています。本当にありがとうございました。

 でもいつの場合もそうですが、この大きなことを(自分にとってはね!)やり終えたあとの静かな充足感。良いですよね。
 この心地よさを知ってしまうと、次にまた大変な事態がきても、一つ一つこなしていけば、きっと最後は終る、という確信が持てるし、その充ち足りた気分に浸りたい為に頑張ってもみようか、という気持ちになれるのかもしれませんね。

 今回だって、情けないことに徹夜が二晩、二時間しか寝られなかったのが一晩、一時間しか寝られなかったのが一晩、やっている最中は、もう絶対来年はこんなことしない、、と思いながら仕方なくもうろうとしながらやっているくせに、終ってみるともう忘れてる。

 結局は、見通しの甘さにつきるのですが、やはり自分の限界を思い知ります。
 会社勤めの頃は、こうした事態に陥るのは、すべて上司の工程管理能力のなさとして評価していました。部下にとっては、「もっと段取りよく上手に指示してよ」と思いますが、でも上司は、「もっとす早くできないのか」と思っていたのかもしれません。
 逆に、人を使うと仕事のでき不出来は指示した自分の責任でもあります。人を使う緊張感というのは結構しんどいし、うまくいかなかった場合の苦痛はかなりきついものです。
  
 そんなわけで一人でもいいと思っていたのです。なんてったって文句は自分に言えばいいのですもの。でも、体力的にもそろそろそうも言っていられなくなりました。
(もう若くないんだから、自己管理をちゃんとしないと、、と何人もの方々からありがたい忠告が。グサッ、、)

 この会も会員数100名を超え、自分の能力の限界を超える規模に近づいてきたのかも知れないと思い始めました。(200名くらいまでは、自分一人で十分できると思っていたのです。これも見通しの甘さ、、ですね。)
 
 もっと人に手伝ってもらえるよう要領よく、段取りや書類管理の方法、実際の業務など組み立て直さないといけないようです。
 ひとりでやる気楽さは何ものにも代え難いけれど、それでは会としての規模が限定され、発展性を自分が奪ってしまうわけですものね。そんな反省もしています。

 でも終ってみて思い出すと、たくさんの方々に助けていただきながらここまでこられたことを実感するのです。
 当日の発表者の方々には、大変な時間と労力を割いて取り組んでいただきました。
心から感謝しています。お陰さまで当会の財産とでもいうべき成果を皆様に発表することができました。パネルディスカッションは時間が少なかったのですが、今後の会の取り組みをアピールできたと思います。ご出演の皆様、ありがとうございました。
 また会場から何人もの方から質問をいただきましたが、おもしろいやり取りになり、喜んでいます。ありがとうございました。

 昨日の会場ではスタッフの方々には本当にお世話になりました。何でもするから言ってね、と誠心誠意、助けていただきました。今回初めてお会いしたある方からは、朝早く会場の鍵を開けることから最後まで手伝っていただいたのですが、「私も勉強させていただき有意義な一日でした」と有り難い言葉をいただきました。何だか同じ意味をもつ時間を共有できた気がして嬉しくなりました。
 車を出してくださったり、助っ人を呼んで下さったり、臨機応変にいつもさりげなく助けて下さる方々。そしてたくさんの方々から、なにか力になれたら、と励ましの言葉やアイディアもいただきました。

 大変だったことは、どんどん忘れていくけれど、いただいた温かい気持ちだけが心の中に残ります。
 よく、大変ですね、とお声をかけられますが、大変なことよりももっと大きなものを私はいつもいただいているのです。有り難いと思います。

 ですが事務局運営のことも、ぼちぼちといい方法を探していこうと思っています。
 末永くご支援いただければ、と願います。

 取り急ぎ、いつもこのページを読んで下さるみなさまへの感謝の気持ちと、総会及びシンポジウムが無事終了できましたことをご報告申し上げます。

 (あし)


2004/05/07
-No.138-

◆ やっと準備ができました

 少しご無沙汰してしまいました。
 この連休中、総会資料とシンポジウムのプログラムづくりに没頭しておりました。完徹2晩、4時まで1晩、もちろん続けてではありませんが。
 といってもたいしたものではありませんけれどね、、

 昨日二回目の印刷に出かけ、シンポジウムのプログラムも完成しました。
 コピーした後、二つに折って、合わせて、ホッチキスで留めて、背にテープを貼って、結構面倒な作業だったのですが、昨日は大勢の学生さんが手伝って下さって、大感激したのでありました。
 
 そんなわけで、やっと総会&シンポジウムの準備も一段落。
今日は、東大弥生講堂まで出かけて行って、当日のDVDを映す設定の確認をしました。結局、あしのパソコンを持って行くことになり、大事に抱えて持って行ったのですが、弥生講堂で「あぁでもない、こぅでもない」した後で、ぱっと映り音声も出た時は、大喜び致しました。

 まっ、そんな準備も終わり、ほんとに気持ちが楽になったところです。
 工学院大学の大澤佑宇子さん作製のパワーポイント資料もとても良くできていますし、DVDも滋賀大学の学生さんが作ったものだとか。
 ほんとに9日は、充実したシンポジウムになることでしょう。

 参加者数は、お陰さまでこの事務局日記を読んで下さった方々からの申込で増え、やっと去年の半分までにこぎつけました。
 ほんとに嬉しく有り難いことでございます。

 資料も20部だけ余分にできましたので、申込が間に合わなかった方でも先着20名様まで大丈夫です。よろしければ、お出かけ下さい。

 こうやって一つ一つ仕事が終わっていくのってほんとに嬉しいことですね。
 今夜の仕事は、名札の作製と資料の封筒入れ。

 ではでは、9日にお目にかかれますのを楽しみに。
 (あし)


2004/05/01
-No.137-

◆素敵な朝なのに
パソコンに向かっていると、窓越しに、数本のケヤキやコナラの木が風に枝をそよがせているのが見えるのです。
 
 本当は忙しいのですが、、というのも、総会の準備がやってもやっても終わらない。

 でも、梢を風が通り抜け、まるでじゃれ合って遊んでいる様に見えるのが面白くて。
 もうすっかり大きくなった葉っぱのさわさわと鳴る音や小鳥の鳴き声に、ついつい気を取られて手が止まる。こんな社員がいたら「なにぼんやりしているんだぁ」って怒られるかな?

 でもほんとは焦っているのです。というのも、5月9日総会の後、14時からシンポジウムを企画しているのですが、その参加申込がまだ昨年の三分の一しかないのです。
 今年は、丁度同じ日に、京都金閣寺にて「開山650年遠諱(忌)、開基600年忌大法要」があるのです。石清水八幡宮の宮司さんをお招きし神仏習合の儀式をいとなまれるのだとか。そんなわけで当会の団体会員の相国寺、金閣寺、銀閣寺、法隆寺、清水寺、京都仏教会の方々も、おいでになれずちょっと淋しい。

 私が困っているのを知って、いつも応援して下さる方から、「会社の社内メールで流したら、一人申込がありましたよ、嬉しかったです。」とご連絡いただきました。
 本当に有り難いことで嬉しくなりました。

 ◇◆そんなわけで、この事務局日記をご覧になった皆様にお願いでございます。
 こんないい季節の日曜日でも来てくれそうな、関心のある方々に下記のお知らせを流していただけないでしょうか。
 なにとぞよろしくお願いいたします。


◆○◆シンポジウム「木の文化を守る人々」◆○◆(04.05.01最終版案内)

文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議
2周年記念シンポジウム

「木の文化」今、身の回りにどのくらい感じていますか?
木の文化を支えるのは森と技術。
そして残って欲しいと願うわたしたちみんなの行動です。
一年前に発足した研究会の中間報告とディスカッション。
是非ご参加下さい。

◆日 時:2004年5月9日(日)14:00〜17:15
◆場 所:東京大学農学部弥生講堂・一条ホール
地下鉄南北線「東大前」下車3分
◆ 内 容:二つの研究会発表とパネルディスカッション

 ◇■「研究会発表」■◇
「補修用材と技術の委員会」における法隆寺調査及び赤沢自然休養林の報告
「補修用材確保策検討委員会」における検討策の中間報告
報告者
 大澤佑宇子(工学院大学大学院生)
 山本博一(東京大学大学院農学生命科学研究科教授/千葉演習林長)

 ◇■パネルディスカッション「木の文化を守る人々」■◇
司会/コーディネーター
  内山 節   哲学者、当会共同代表
パネラー(年齢順です)
  伊藤延男    補修用材と技術の委員会委員長 当会共同代表
  古橋源六郎 補修用材確保策検討委員会委員長 当会共同代表
  西澤政男 堂宮大工  日本伝統建築技術保存会会長
  後藤 治 工学院大学 建築都市デザイン学科助教授(保存修復・日本建築史)

◆参加費:1000円(会員、学生無料)
◆参加申込:事務局まで、メールで住所・氏名・所属・電話番号をご記入の上お申し込み下さい。FAXでも受け付けます。
  E-mail    bunka@coltnet.co.jp
  TEL& FAX 042-308-7227
◆申込締切:6日に資料等の印刷をしますので、できましたら5日までに。
◆ 17:30〜懇親会あり
(参加費3000円)懇親会参加希望の方は、その旨申込に明記して下さい。
◆ 主催:文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議
  http://www.coltnet.co.jp/bunka/index.html  (あし)


2004/04/26
-No.136-

◆彦根 やさしいお堂とやさしい人々
 さて前回に続き、和風教会のお話です。
 彦根にも同様の日本聖公会のお堂が残されていたのです。それは、昭和6年に建てられたお堂。日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師で、彦根高等商業学校の英語教師でもあったP.A.スミス氏が地元の大工宮川庄助氏と協力し、両親への感謝の思いと両国民の平和交流を願って、日米双方から多大な醵金(きょきん)を集め自分でも醵出して建てたもの。
 
 彦根のお堂は、奈良基督教会の建物のように大きくはなく、20坪程のこじんまりしたものですけれど、欄間や部材に天使や葡萄文様などが彫り込まれ、西洋の祈りの場に和風の技術を注ぎ込んで造った技術者の思いが伝わってくる建物なのです。
 (でも私が見せていただいたのは、写真だけ。建物は、既に解体されて、再建されるのをずっと待っているのです。それで、和風教会の雰囲気を少しでも感じたいと奈良基督教会を見学させていただいたのです。)
 
 現在、このお堂は庇が崩れ、風雨で朽ち果てようとしている所を市民の方々の熱い思いで、教会から譲り受け、部材が保存され、再建される日を待っているのです。
 7年という時を過ぎましたが、粘り強く運動を継続中です。

 再建されたら宗派に関係なく、新しい町づくりをするための核として再出発をする予定とか。こうした理念のもとに出会い、知恵と力を出し合って衆議を尽くして運動をすすめていくという思いを込めて「スミス会議」というNPO法人も作られました。

 5月9日のシンポジウムには、実際に堂宮大工としてこのお堂の解体に関わられた西澤政男さんをパネラーにお迎えしています。わくわくする映像も届けられました。

 古いお堂を修復し次代につなげることが、こうした新しい関わりで市民たちを結びつけた一つの事例としてたくさんの方々にご紹介したいと思っているのです。

 是非ご参加下さい。お待ちしています。

◆□◆■◇■◇◆□シンポジウム『木の文化を守る人々』◆□◆■◇■◇◆□
2004.5.9 14:00〜 於東京大学農学部弥生講堂 
出演者:山本博一、大澤佑宇子、内山 節、伊藤延男、古橋源六郎、西澤政男、後藤 治
是非ご参加下さい。
 ◆参加申込は事務局まで、メールで住所・氏名・所属・電話番号をご記入の上お申
し込み下さい。
  申込先  E-mail bunka@coltnet.co.jp
 (詳細は、当ホームページ、行事予定をご参照下さい。)
 (あし)


2004/04/25
-No.135-

◆ 和風教会のやすらぎ

 昔々、奈良に行き始めた頃から気になっていた建物がありました。
 興福寺の三重塔や南円堂、北円堂に隣接するお堂の屋根に十字架が掲げられているのです。それは瓦屋根で、どう見てもお寺の建物。

 でもなぜお寺に十字架?と思いながらもう30年も気になり続けておりました。
 近鉄奈良駅から東向き通りを南に向かって歩くとすぐ左側に「日本聖公会奈良基督教会」の、門札がかかっているのです。やっぱり教会、、、。

 その建物をやっと見学させていただくことになりました。
 先日、わくわくする思いでお尋ねすると、名刺にチャーチワーカーと書かれた品のいい方、永井様が待っていて下さり、教会の中を案内して下さいました。

 ご説明いただいたところによると、この建物は、聖公会が奈良での伝導を明治18年に開始して以来、移転、新築を経た後、興福寺境内西南角1600坪余りを購入、昭和5年に現在の形で竣工されたものとか。

 この珍しい和風教会が建てられた背景には、奈良固有の景観問題があり、そのころの奈良では、官公庁であれ駅舎であれ、素材が何であれ、和風の外観を採ることが定められていたのだそうです。
(その駅舎も老朽化により、現在建て替え工事中。どんな形の駅舎が出現するのかドキドキであります。まさか京都のようにはならないでしょうが、、、)
 
 吉野の山持ちの方からそっくり寄付されたという素晴らしい材を使って、やはり信徒である堂宮大工、大木吉太郎氏(明治20〜昭和46)の設計で建てられたお堂は、外観は入母屋破風と千鳥破風を組み合わせた和風瓦葺き、真壁造りの壁面構成という寺院風。
 300名が入れるという内部は縦長の堂内、吉野材の角柱が天井高5mの空間を支えてすっきりと並ぶ教会建築風。三方を取り巻く廊下の窓や高窓からの光が優しい雰囲気を醸し出しています。

 装飾といえば、信徒の育てた桐材を用いたという欄間の透かし模様、また内陣の十字架や聖杯等の聖具や所々に刻まれたキリスト教的意匠が目を引きますが、全体としては、シンプルで落ち着いた印象。
 ですが、後部に据えられたパイプオルガンが、まことに荘厳な祈りの場を想像させます。  
 ずらりと並べられた重そうな木の長椅子。そして艶やかな木肌の床がまことに美しい。
 基督教の信徒でなくても、ずっと座っていたい心安らぐ空間がそこにありました。

 奈良に旅行中の外国からの方などが突然門を叩き、礼拝して帰られることもあるそうですが、日本にこんな素敵な祈りの場があることに感激されるのではないでしょうか。
 登録有形文化財にも指定されたのだそうです。

 隣に併設された幼稚園が、また素敵でした。やはり外観はお寺風の木造の建物。こんな教室で毎日遊ぶ子供たちは、床や壁や机や椅子や家具やおもちゃから木の優しさをたくさんいただくことでしょう。

 心落ち着くひとときをいただきました。 (あし)


2004/04/22
-No.134-

◆島国で生きる心得とは

 まだほんの6年前のこと、船に乗って、ある島に行った時、地元の方々と会食をしたことがありました。
 その料理屋のお座敷の床の間には、軸がかかっていて、その掛軸には「どんなにいいことであっても周りの人たちの和を乱すことは罪悪である」と達筆で書かれてあったのです。

 それを読んで、私は驚愕したのです。
 都会のマンションでは近所付き合いも挨拶程度でそこそこに暮らしている人間には、別の世界。思わず地元の方に伺ったら、まぁな、と苦笑していらしたけれど。
 (でもでも、昨今の、特にイラクでの三人の人質が解放されてからの、日本の行政や政治家の方々の言動を聞いていると、まるで上記の掛軸の世界。そういえば日本って島国だったのだと認識した次第。)

 そんなこともあって、法隆寺の管長様が「聖徳太子の和の精神」を講義なさるというので、聞きに行ったことを思い出しました。
 それは、「和を以て尊しと為す」、と説かれた聖徳太子様の本意は、今の時代にありがちな、強い者の論理で強者の都合の良い和を強制することではない。大事なことは、本当に大切な価値を皆で論じ合い、見つけ出すことだ。そしてその共通の価値のもとに集い共生することこそが太子様が望んでおられたことなのだ。
 そしてその人類共通の価値というのは、地球環境の保全であり、世界の平和である、というものでした。

 島の掛軸を書かれた方も、その島に皆で仲良く暮らす智慧をその言葉に込めて書かれたのだと思いますが、(だから合わない人は、島を出るしかないんじゃない?なんて私は思っちゃったけど)でもその頃とは違って、今は世界の出来事がリアルタイムで伝えられる。(だいたい戦争の実況放送なんてあって良いのだろうか。)

 人質にされたあの高遠菜穂子さんの姿をニュースで見ると痛々しくて胸が詰まります。
 よくボランティアなんて好きでやっているんでしょ、なんて言う方がいらっしゃるけれど、ボランティアなるものをやったこともない人に言われたくないでしょうね。

 自分たちの生活に手一杯の、イラクの人たちからも助けてもらえないストリートチルドレンたちと関わって、またきっと来るからね、と約束して日本に帰ってきた。それで支援者に呼びかけて資金を集めて、たくさんの必要な物資も買って、その前に家族を説得して。
 でも両親からは最後まで反対されたけれど、出発してしまった。(日本政府だって治安のいい所もあるのだと言って自衛隊を派遣してるじゃないの、と言ったかもしれない。)

 捕らえられてからの彼女の心を想像すると、痛ましい。
 両親のやめろという声を振り切って出発したことへの後悔は大きかったでしょうし、支援者から託された物資を目の前で焼かれてしまった悔しさや子供たちの喜ぶ顔が見たかったのに、どうしてこんなことになってしまったのかという無念さ。日本人だからというだけで捕まえられている理不尽な思いや、何よりも私はイラクの人が好きなのに、好きで来たのに、という裏切られた思い。
 いろんな思いがないまぜになって一週間もずっとずっと闇の底を這いずり続けたのでは、と想像するだけでもつらくなる。

 解放されて彼女が語ったことば、「いろんな思いはあるけれど、いろんなことを考えたけれど、でもやっぱり私は、イラク人のこと嫌いになれない。」
 この言葉の中にどれだけの思いが込められているのかと、ずっと想像してみたのです。嫌いになれない、と好き、は一緒じゃない。
 彼女が「イラク人が好き」、と言える様になるには、まだまだ相当の時間がかかるのでしょう。

 だけど日本では、家族が中傷や嫌がらせの電話や手紙が相次いで苦しんだ、と報道されていました。追い打ちをかける様に、政府からは救済にかかった応分の費用を請求させてもらうと。

 せっかく一歩を踏み出した若者を、これから踏み出そうとしている人たちを、また島の中に閉じ込めようとしている。日本って、いつまでたっても島国なのでしょうか?
 あ、心理的に、っていう意味ですよ。誤解しないで下さいね。
 周りが全部海ってことは知っています。ではまた。
 (あし)


2004/04/20
-No.133-

◆「戦争は人の心の中で生まれる」

4月12日に開催された「法隆寺文化講演会」。
前回に続いて伊藤延男先生の講演「世界遺産法隆寺」をご紹介させていただきます。伊藤先生は当会の共同代表のお一人。当会理事の最年長であります。
 
 ご存知の様に、法隆寺は姫路城とともに、1993年12月世界遺産に登録されました。
 現在日本の世界遺産として登録されている所は、・法隆寺地域の仏教建造物  ・姫路城  ・屋久島  ・白神山地  ・古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市) ・白川郷/五箇山の合掌造り集落  ・原爆ドーム  ・厳島神社  ・古都奈良の文化財  ・日光の社寺  ・琉球王国のグスク及び関連遺産群
 以上全部で11箇所
(ちなみに、あしが調べた所によると、アジアでは、中華人民共和国が一番多くて29箇所。
ヨーロッパでは多いところで、スペイン37、イタリア36、フランス27、ドイツ27、英国25。またアメリカも18箇所登録されているのです。)

 文化庁として直接関わられた伊藤先生の講演に戻りますが、1972年に世界遺産条約としてユネスコが草案を作成、各国が加盟したのに、日本がなぜ20年間も入らなかったのかの推測を先生はさらりと。
 フランスに本部があるユネスコとアメリカの関係もさらりと、、
 4000万円という分担金をどの省庁が持つかでもめたことなども、さらりと、、
 もともとユネスコの条約には、「戦争になっても文化財は攻めない、痛めない」という項目が入っているのだけれど、日本は外国を攻めることはあり得ないのだから入る必要はない、という理由で結局20年間もほったらかしにされたらしい、とさらりと、、

 それでも時代の流れ、自然保護団体などの動きもあって、やっと加盟したのだそうですが、諸外国からの日本の文化財に対する評価は低く、「日本は木造建築の国であるが、定期的に、なかには20年ごとに材料を取り替えているところもあると聞く。だから日本は条約に入れない、などと記す人もいたのだそうです。

 世界遺産とは、申請をした後ユネスコが審査して、リストに登載されることを、「登録された」と表現しているのだそうですが、法隆寺と姫路城を世界遺産に申請した後、ユネスコからヘンリー・クレア氏が審査の為、来日したのだそうです。

 関係する方々は皆緊張して出迎え、一緒に法隆寺を見て回ったそうです。
 クレア氏は、そこに現存する伽藍はもちろんのこと、1949年に焼損した金堂内陣の柱梁や壁画がそのまま保存されてあるのを見て、また何棟もの収蔵庫の中に、修復のため取り替えられた膨大な量の古材が保存されているのを見て、感激したのだそうです。
 姫路城でも同様に、取り替えられた材が残してあり、それを見て日本の文化の奥深さを理解し、文句無しに世界遺産として認められたとのことでした。

 日本は、文化財保存の先進国であり明治以来100年の誇るべき歴史がある。他の国に補助してもらう必要はあまりないが、それでも世界遺産条約のもと、世界遺産に登録された文化遺産を守り継ぐということは、自分の国のものを大事にして欲しいと意志を統一させる為のシンボルである。

 伊藤先生は最後に、ユネスコ憲章前文に書かれていることばを紹介し、戦争は人間の心の中に始まる。文化を守ることは、その戦争の種になるものをなくし、戦争を起こさせない為のもの。法隆寺をはじめこうした世界遺産、文化遺産は、平和への砦である。これからも守り継ぐよう努力してほしい。と結ばれました。


ユネスコ憲章前文「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」
http://www.unesco.or.jp/contents/about/about_index.html


おしらせ 
◆□◆■◇■◇◆□シンポジウム『木の文化を守る人々』◆□◆■◇■◇◆□
2004.5.9 14:00〜 於東京大学農学部弥生講堂 
出演者:山本博一、大澤佑宇子、内山 節、伊藤延男、古橋源六郎、西澤政男、後藤 治
是非ご参加下さい。 (あし)


2004/04/19
-No.132-

◆萌黄色のエネルギー
 また一週間が始まります。
 しばらく更新できず申し訳ありませんでした。先週は、会員の皆様に総会お知らせの発送やその他の作業で大変忙しくすごしました。

 土曜日には、地域の仲間たちと「竹林整備」。1月に伐った竹や枝葉の整理とタケノコ堀り。夜は、その会の総会。掘ったばかりのタケノコをおいしくいただきながら大変盛り上がったのでありました。
 、、、しかしその翌日(今日も)は、足と腰の痛みが半端じゃない。またまた体力のなさを痛感しております。

 話は変わりますが、いまの季節、ケヤキの大木は素敵ですね。
 見上げると、伸びやかに広がった梢には、粉を振りかけたように小さな葉っぱがざわめき、その向こうに青い空が清々しく透けて見える。
 
 季節は、木々の初々しい緑に染められて、輝いています。
 忙しくてゆっくりお花見もできなかったという方は、是非、こんな緑の下へ行って、フレッシュなグリーンパワーをいただいて下さいね。
 桜色の優しさとともに、萌葱色のエネルギーが心の中の黒ずんだカスを、きっと浄化してくれるでしょう。

 さて、NHK教育テレビで、
  21世紀ビジネス塾 シリーズ゛共生"経済への道 第2回
 「林業から始まる新しい再生」が放映されるそうです。

 ●4月23日(金) 22:25〜22:50 NHK教育テレビ

 国内で初めてFSC森林認証制度を取得された三重県の林業家、速水様の山を取り上げた番組です。番組の中では、FSC森林認証制度も紹介されるとのことです。
 速水様は、当会の共同代表も務めて下さっているのです。是非ご覧になって下さい。
 (あし)


2004/04/14
-No.131-

◆夢違い観音と伝橘夫人念持仏阿弥陀三尊像
 書きたいこと、ご報告したいことがたくさんあるのですが、私の中でつっかえています。
 そうしたら、昨日からプリンターにもそれが伝染、会員の皆様にお送りする総会のお誘い文書が何枚も、プリンターに取り出せず悪戦苦闘しています。

 という最悪状況ですが、一昨日のことを少しご報告させていただきます。
12日は、上野の東博で、「第5回法隆寺文化講演会」が開催され、参加して参りました。
 上野のお山は、桜が既に散り終わり、青葉若葉の季節。初々しい緑の世界に入っておりました。
 そういえば、最近は、ハナミズキ、小平近郊では、梨の花も真白に花を咲かせていますね。

 東京国立博物館は、月曜日で他の展示館は休館の為、入ることはできません。
講演のあった平成館大講堂は、待ち合いの場がゆったりとして厳かな雰囲気のする会場です。

 第一講は、東京国立博物館事業部長の金子啓明氏の「法隆寺白鳳再建期の仏像」
 夢違い観音と伝橘夫人念持仏阿弥陀三尊像についてのお話が、印象的でした。

 白鳳文化と言われる時代においては、人が亡くなると黄色の幡を寄付することがよくあったのだそうです。それは、人が亡くなってから7日の間、赤ん坊の姿になるとの思想があり、その7日の間に黄色の幡をあげると、浄土に生まれ代わることができる。極楽浄土の阿弥陀思想の中で子供の姿を表現したものが見られるのは、そのような意味があるとのことでした。

 また阿弥陀三尊像の下部の床面には、蓮池が表現され、その連弁の文様には、形にあらわされる以前のエネルギーの発露がある。くねりながら、うねりながら、(エネルギー文様と表現されましたけれど、スライドで映し出されるいろんな文様をみていると本当に面白い。)光背ならぬ後屏の過剰とも思われるエネルギー表現、下から上へ向けて伸び上がる蓮茎の線、エネルギーが風となって吹きのぼる様、、、

 蓮の開き方や茎の形や表現の違いから様々なドラマを推測し、エネルギーを感じ取り、言葉で表現なさる。そしてこうした植物の生成発展のプロセスに永遠の魂を感じ取り、こうした世界に生まれたいのだという橘夫人の思いが表されている、と結ばれました。

 スライドを見ながら、どちらかというと淡々とお話をなさる。
 でも言葉って素敵と思ったのは、金子先生の何に感動なさっているのかが、ちゃんと伝わってくるのです。
 法隆寺の宝物、今までも何度も拝観させていただいていましたが、こんな上質の言葉で説明を伺うとまた違う目で見られます。面白かった、、、、

 長くなりました。そんなわけで次の、当会の共同代表伊藤延男先生の講演のご報告は次回に。
 (あし)


2004/04/11
-No.130-

◆ 京の都は桜でいっぱい
すこし間が空いてしまいましたが、7日から9日まで、京都、奈良、彦根に行っておりました。今日は、そのご報告でございます。

 6日晩は、昨年シンポジウムに参加して下さった方々への今年度のお誘いのお知らせを夜通し作っていたのですが、朝5:30の出発時間になっても終わらず、仕方が無いので持って出て新幹線の中で切手を貼って、でき次第あちこちで投函するという情けなさ。
それでもなんでも何しろ行ってきました。

 一日目は、他団体の見学会下見に、後学の為参加。
 中でも大非山峰定寺(ぶじょうじ)というお寺に初めて行ってみて驚いたのです。
 鞍馬街道の先、花背峠を越えてもっと奥の原地町に、そのお寺はありました。(地図で見ると、もう少し先に行くと京大芦生演習林があるようです。)

 本堂は、鳥取県の国宝投入堂の様に岩盤の上に建てられたお堂なのですが、もっと大きく、5間四面四注屋根柿葺の舞台懸崖造りの建物。1154年鳥羽法皇の勅願により建立されたとのこと。京都東山にある清水寺舞台造りと同様に、床下に柱を何本も立て(36本)、貫でがっちりとつないだ形でした。
 建てられてから850年。風雨にさらされて、まことに風格を持ったお堂でありました。現在は聖護院の直末寺なのだそうです。

 本堂周辺のスギ木立の雰囲気もなかなかに良く、静寂な中に時々響く鳥の声が可愛い。
 お堂の外廊下に立って周りを見下ろすと、近い所遠い所うっそうとスギの木立が広がり、その中に大きなコブシの木が何本も何本も。白い春のお使いが群れ飛ぶように濃い緑の中に浮き上がり、この季節ならではの静かな喜びに満ちておりました。
 
 そのうち、当会の見学会でも是非ご紹介したいものです。

 昔、塔頭があったという門前には、風情ある料理屋が。(美山荘と看板がかかる)
 お腹もすいたので、和風のたたずまいの美しさに惹かれて下見という名目で案内を乞うと、摘草料理お一人様15000円からでございます、とのまことに丁寧な女性の答え。
 仰天してすごすごと引き返したのは言うまでもありません。
 そこは、宿泊もできるようで、(35000円〜)まるで隠れ宿のような雰囲気に、どのような方々がこのような地に泊まられるのか、としばし興味をそそられたのでございました。

 参考までに、空腹を満たす為に入ったお店は、桂雅堂というずっと手前のお店。おそばの一品からでも注文できるし、木を中心とした内装で好感が持てました。 

 翌日は、朝から奈良の日本聖公会の教会の見学。(あとでまたご説明いたします。)
 奈良文化財研究所建造物研究室長に新しく赴任された窪寺茂様にご挨拶。
 京都仏教会主催の「お釈迦様を讃える夕べ」に出席
 9日は、朝8:30彦根駅集合で、9月末の見学会準備の為の下見と打ち合わせ。
 そして夜遅くに東京に帰り着きました。

 一つ一つに関しては、またぼちぼちと。というわけで今日はこの辺で。
 (あし)


2004/04/05
-No.129-

◆ 「木の文化」を未来につなぐ為の森林資源管理

 前々回、東大の農学部弥生講堂まで行ってきましたと書きましたが、日本林学会の大会が4日間開かれていたのです。その中で千葉演習林長の山本博一教授が、『「木の文化」を未来につなぐ為の森林資源管理』というタイトルでポスター展示をなさったのです。

 1月の法隆寺調査は、この山本先生と当会の共同研究ということで、大変お世話になりました。
 今回、先生は「木造建築物は300年間隔で大規模な解体修理が必要であり、その資材は超長期的な視野に立って確保を図らなければならない。
 その為に森林を整備し、最終需要者に提供する社会的システムを構築する必要がある」とまとめておられます。
 私共の会の活動は、まさにその為のもの。まとめると、こんなにシンプルな表現になるわけで、感激してしまいます。

 山本先生は、昨年の総会の時、同じ研究に携わる者として協力したいと申し出て下さったのです。そして「補修用材と技術の委員会」「補修用材確保策検討委員会」と両方に毎回参加して下さり、現場からの要望や学術的な見解など貴重なご意見を真剣に出して下さいます。
 
 今回の木曽行きも、山本先生が段取って下さって、工学院大学後藤研究室の学生や大学院生4名と山本研究室の大学院生(法隆寺調査の時ご紹介したスタンコさん)と一緒に出かけてきたのです。
 上松にある木曽森林管理署にも伺いました。
 最初から最後まで、池田木材株式会社の池田聡寿様に大変お世話になり、まことに有意義な見学と調査を遂行することができたのです。

 たくさんの方々のご協力があってこの会もここまできました。いつも感謝しています。
 今日は、伊藤委員会、古橋委員会の合同委員会が開催されます。ではまた。
 (あし)


2004/04/04
-No.128-

◆ 価値観を伝えるって

 今日は、よねんしがつよっか、読み方は違うのですが4の字が3つ続くのですね。
 朝方の4時4分に起きていたら何かが起こるのに立ち会えたかも、、(うそです)

 話は、少し飛びますが、以前1999年の9月9日9時9分9秒に中国北京の雲居寺(通称石経寺)で盛大な式典が勤修されたと聞きました。房山雲居寺石経回蔵式典記念法要というのだそうです。なんでも石経というのは、昔々、法難に対して大切な経典が失われたときの為にと経を石板に刻し、洞窟に秘蔵したもの。(ここからが中国という国の凄さなのですが、、)その石刻の事業は、随代から明代に至るまでの約千年間続けられ、その数も一万四千数百枚という膨大なものなのだそうです。
 中国政府は、この房山石経の歴史と文化の価値を重要視して発掘を行い、5年の歳月をかけて修復と整理を行い、第一級の文化財としての保存を進めました。しかし年々ひどくなる風化から石経を保護する為に埋め戻すことになったもので、その最後の一枚を1999年9月9日9時9分9秒に埋め、その扉を閉める、という式典が挙行されたと聞きました。

 ちょっと長い説明でしたが、日本では嫌われる9の数字も中国では、こうして意味をもって使われる。4だって全く平気。
 日本でも、今日の4の日を「詩」の日といって大事にしている方もいらっしゃるのです。

 国によって人によって、嫌われるもの、また大事にされるものが違ってくる。

 また同じ国でも、時代によってその価値の評価が変わってくる。中国の石経保存の様に1000年もの間、次に続く人を信じて続けられた事業。たとえ途絶えてもその価値を認め保存する、またその価値観も崇高なもの。

 最近、そのものだけでなく、その価値観を残すことの大切さの方に、より重要性を感じ難しさも感じています。単に文化財関係者と山側の方々だけでなく、本当にいろいろな分野の方々と一緒に取り組まなければ200年、ましてや1000年という先の世界には到底届きそうもありません。
 
 今、私たち、地域の文化財から国宝まで、価値あるものを後世の人たちに残す為に、なにか手を打っておくことがあるならやっておきましょうよ、という趣旨で活動を始めています。
 一応木造建造物や木造文化財の補修に必要な、木材の品質やその確保策を調査検討する所から始めていますが、一年経って、その中間報告を5月9日のシンポジウムでいたします。

 ご興味のある方、ご意見のある方、ご支援の志のある方、どなたでもどうぞご参加下さい。
 申込方法は、行事予定欄に掲載しました。たくさんの方々にお会いできますのを楽しみにお待ちしています。
 (あし)


2004/04/03
-No.127-

◆ 時の重みに圧倒されて

 木曽のヒノキ林のことを書きますね、と予告しておきながら、なかなか書けないでいます。
 まだ雪の残る山の中を歩いたというその印象もありますが、一口に言えないのです。

 幾千万とも言えぬおびただしい数の実が、地上に落ち、その実生(みしょう)の小さな芽がせめぎ合い、そこからやっと生き残ったとしても、雪に埋まっては倒され、また自力で起き上がって成長してきたのですよ、と聞きました。
 雪の上に、たまたま苔むした切り株だけが顔を出していたのですが、その上にはうまく着床し、何度かの冬を越した芽が3cm程育っていました。他はすべて雪の下にあるのです。
 その厳しい世界を想像するばかりですが、木が言葉を発してくれるなら、どんな話をしてくれるのでしょうね。
 樹齢およそ300年のヒノキ天然林の中を歩いて、まだ表現する言葉が見つかっていないのです。
 情けないことですが、いろんなことを一つずつ解きほぐしていかないと、考えがまとまらない。
 書ける時にぽつりぽつりと書いていこうと思います。

 いま、日本林学会の大会が東大農学部で開催中ですが、昨日その弥生講堂での展示発表を少しだけのぞかせていただきました。それと5月9日の当会シンポジウムに向けての下準備。そのあと、「永田町」の国土緑化推進機構、それから「霞ヶ関」の林野庁にまわってきました。

 林野庁では、毎年のことながら何人もの方々が異動になられて、あの方はどこ?こちらの方は?と探しきれない方も何人か。
 知っている方がその部屋にいらっしゃるとホッと安心、嬉しくて、思わずご挨拶をしてしまいました。でもお話しているうちに会員になって下さって、凄く嬉しい。大成果あり!
 そんな昨日のご報告も。ではまた。
 (あし)


2004/03/31
-No.126-

◆桜の枝で暖をとる

  桜が満開になりました。

  でも何だかお天気がはっきりしない、、、それに、もうすぐ桜が満開、と言うところに木曽の雪の積もった山の中に入ったりして、私の中で、季節がちょっと逆戻り。

 一昨日、雪うさぎさんが、4ヶ月ぶりに山小屋を開けて、風を入れ、ストーブに薪をくべたというお話を書かれていましたね。ちょっと湿ったいぶくさい煙もいい薫りって。
そうですよね、ちょっとだけならいいのだけれど、、、

 昨日の事務局日記で、泊まった民宿に大きな囲炉裏がきってあった、という話を書きましたが、私が感心したのは、薪のくべ方。

 囲炉裏には、5本の太い薪がきちっと放射状に並べてあり、その中心部だけに火が燃えているのです。そのうちの2本は桜の皮がついたままの丸い枝。
 最初だけはさすがに煙やいぶした臭いで部屋中いっぱいになりましたが、そのうち煙も臭いもなくなり炭火をおこしたような状態に。
 桜色の暖かさに包まれて会話も弾む、あっ、それと骨酒と、なんてハッピーなひとときでしょう。
 
 
 以前、江戸時代に建てられたという古い家に泊めていただいた時、やはり囲炉裏端で、雰囲気の良さも手伝って、朝方の4時まで話に夢中になっていたことがあるのです。その時は真夜中に炭が燃え尽きてしまい、とりあえず、と薪を燃やしたのですがそれが大失敗。

 気づいた時には、部屋にあったコートも鞄も何もかも燻された臭いが染み付いてしまって、飛行機に乗るのもためらわれるほど。コートのにおいを気にしながら飛行機に乗り、隣の席が空席で良かった、と安心していたのに、そこはぎりぎりに飛び込んで来た最後のお客さんの席だったのです。

 そしてそして、なんとその人は、ムーミンの声、岸田今日子さんだったのです。
 席につくなり帽子で顔を覆うようにして眠ってしまったけれど、においに気がついたかしら、、とこちらは気が気じゃなくて、ちゃんとお話もできなかった、、、。

 しかし木曽での囲炉裏端は、感心するくらい、何のにおいもしなかったのですよ。
 民宿のあのおばぁちゃん、時々火を見に来てくれたけれど、実はすごい技の持ち主!上手に火を起こせる人って尊敬してしまいます。 
 これって雪うさぎさんには、当たり前の技?

 美林の話になかなか行かないけれど、長くなるのでまた明日。
 (あし)


2004/03/30
-No.125-

◆ 桜に牡丹に

木曽に行ってきました。

 28日に出発して29日朝から、木曽の上松にある「森林浴発祥の地」赤沢自然休養林を歩いてきたのです。
 5月9日のシンポジウムにて、伊藤委員会の法隆寺調査の報告発表をするのですが、その資料作成を工学院大学後藤研究室の学生さんたちにお願いしているのです。そのため法隆寺の調査も、二日間寒さに震えながらデータをとったり写真を写したり大活躍してくれました。
 そして次の段階として、
 調査した法隆寺の部材は、どんな木から取られたものだろうか。
 その木は、どんな森で育ったものなのだろうか。
 そんな大径材や森のイメージをつかんでもらうため、若い方々に森の見学と土場に出された大径材の実測をしていただいたのです。

 今回見学先として選ばれたのは、木曽森林管理署管内にある赤沢自然休養林。美林で有名です。
 あいにくまだ雪が積もる中、長靴をはいて、目的の大樹をめざして歩きました。前の方の足跡の上に自分の足を持って行っても、時々ズボッと膝まで雪にはまってしまう、そんな森の中でした。
 笑われそうですが、一日たって今日は、ふくらはぎが痛いのです。

 そんなわけで、28日の晩は、山の中の民宿に泊まり、そして桜肉のお刺身を、そうです、馬刺をいただきました。
 この他にも、シカ、イノシシ、地ドリの串焼きを銘々自分で目の前の炭火であぶりながら。
 その後、鴨鍋、、、と山の幸をお腹いっぱいいただきましたが、なかでも鹿肉の串焼きがおいしかったのにちょっと驚き。もっと固い肉かと思っていましたが、地鶏と同じ位の柔らかさ、味も淡白かと思いきや、なかなかにおいしいものでした。もちろん小さく二切れ刺してある一串を食べただけで、そんなにいろいろ言えるわけではないのですが、以前情報交換欄で小春さんと鹿肉を食べよう、とやり取りしたことを思い出しました。

 古い民宿の屋根はこけら葺きのような板葺きに、石が(重しなのでしょうか)乗せてある不思議なもの。昔、養蚕をやっていたという民宿の、階下の板の間には、大きな囲炉裏が切ってあり、周りの戸板や板壁や床が黒く艶やかに光っておりました。

 座敷での夕食のあと、囲炉裏のある板の間に場所を変え、みんな用意してくれた綿入れを着て、話の続き。出されたイワナの骨酒の美味なこと。
若い方々もこんなお酒初めてと大喜びしておりました。

木曽の天然ヒノキの話を書くつもりがちょっと脱線してしまいました。
 長くなるので、続きはまた。

 雪うさぎさま、航君の金閣寺のお話、フキノトウのお話、ありがとうございました。嬉しかったです。ではまた。

 (あし)


2004/03/25
-No.124-

◆ サクラが何人か、、。

このホームページのアクセス数が、今日6000になりました。

 事務局日記を書いている人間といたしましては、どれだけの方にご覧いただいているのか気になるので、途中からカウンターをつけてもらいました。

 その数字が、9月25日500、10月27日1000、12月5日2000、1月15日3000、2月6日4000、3月2日5000、そして今日3月25日6000なのです。
 数字に左右される訳ではないのですが、こうして毎日40〜50人の方がのぞいて下さる、と思うと大変励みになります。ありがとうございます。

 最初の頃、読まなくてもいいから、毎日開けてね、と友人たちに頼みまくっておりましたが、でも以来、日課のように続けて下さっているという話を聞くと、やはり嬉しい。
(あっ、40〜50人の何人かは、サクラってこと?)

 サクラではない皆様
 願わくば、情報交換欄へ書き込みをしていただけるともっと嬉しいのですけれど、ね。  
 情報交換欄の充実が、この会を発展させることにつながると思っています。ですから私は、とにかく更新をすることが使命と、拙い文章を書かせていただいておりますが、皆様に読んでいただけて、本当に嬉しく思っているのです。
 これからもいろいろご意見などお寄せ下さい。

この二三日、なかなかお花見日和にはなりませんが、(やっぱりぱぁっと晴れないとねぇ)まずはお礼までに。
 (あし)


2004/03/23
-No.123-

◆ ハルウララ 
最近、春の話題が続いていますから、今日もハルで始まるお話を。

ご存知、高知競馬場で今、人気の牝馬の名前です。
現在106連敗中。
 なんでも88連敗の時に、地元の記者さんが、取り上げたお陰で、(その前に実況のアナウンサーや調教師や彼女に熱いまなざしを注ぐ人たちがいたのです。)俄然みんなが注目し始め、走るたびにその連敗記録を伸ばしているのです。

 勝ち馬を予想する馬券は、絶対当たらないということで、車に当たらない、つまり交通事故に遭わないお守りとして、大人気。おまけにハルウララグッズまで売り出されそれがまた人気なのだそうです。
 そして人気が人気を呼び、なんと昨日は、メーンレースの為に招待された武豊騎手まで、このハルウララに乗るというので、高知競馬場始まって以来の客が詰めかけ、全国で売り出された馬券の総売り上げ額は5億1千万円以上とか。

 夫がテレビのこうしたニュースを見ていて、日本中の万年最下位を集めてもやっぱり勝てないのかなぁ、と一言。でも他の競馬場では、勝てない馬は、とっくに降ろされ処分されてしまうと聞きました。それに昨日は、どべじゃなかった。

 でも、どんなに頑張っても「あぁあ〜」と落胆の声しか聞こえず、それでも出番にはひたすら全力疾走しているハルウララも偉いけど、手放さず守り続けた方が偉かったのでしょうね。
 それに、優しい表情、何よりも嫌われない資質を持っているのでしょう。この馬は。

 「早いだけがその馬の価値じゃないのだ」と経済的にも、数字で証明されてしまった訳で、これって競馬という競争社会の中で、凄いことだなぁ、と思ってニュースを見ていました。

 私たちの心の中の優しさ、結果がすぐには出なくても(いい結果がでないってわかっていても)頑張ってることをもっと評価してもいいんじゃないの?
そんな気持ちが表れてきたのかな。

 ただ経済効果が凄いというとらわれ方だけではなくて、私たちのこの社会が、許容するという、みんなの持っている優しさを、表していける社会に変わっていく、そんなきざしだったらいいな。

 そんな淡い、さくらの花びらのような気持ちになりました。

 花びらのひとひらにピントが今は合っているけれど、カメラをひいていくと、うす桃色に覆われた大きなサクラの木が現れて、もっとひくと、あたり一面に、何千本ものサクラが咲き誇る爛漫の春の山が映っているような、そんな社会になったらいい。

 ハルウララ、いい名前ですね。
 (あし)


2004/03/22
-No.122-

◆ 春のいろ

 東京は、20日の春分の日、綿のような雪が降りびっくりしました。
 翌日曜日は晴天で、電車に乗って出かけました。
 沿線の桜も咲き始め、いよいよ春到来の感ですが、今、目立つのは、コブシやモクレンの白色ですね。中空に白い春があちこちに浮かんでいます。ユキヤナギやコデマリも真っ白な球形に変身してそこかしこに。

 と書いたものの今日は朝から雨模様。
 いわゆる三寒四温、三日寒ければ四日暖かい日が続き、それをくり返しながら春になるのよ、と言われていますけれど、それにしてもめまぐるしい今年の春先の天気です。

 町中に咲くコブシの花に良く似た花が山でも見られ、山で見かけるのはタムシバというのだと、以前「りすさん」に教えていただきました。花の下に小さく葉が付いているのがコブシだというので、近所のあちこちのコブシの木をさがしまわって確認しました。
 ほんとに家々の庭先に咲いている花、どれにも小さな葉が付いておりました。今まで全く気がつかないことでした。

 早春のウメから始まって、マンサクやサンシュユ、レンギョウ、アブラチャン、菜の花の黄色、
 そしてコブシやモクレン、ユキヤナギ、コデマリの白。
 もうすぐサクラが咲くと、その淡いピンクが日本中に広がります。
 ボケや紅モクレン、カイドウの花も色を添え、そしてその花びらが風に運ばれると、その後は一斉に木々の芽吹きの様々な緑、みどり。
 ショカッサイやスミレ、フジやテッセン(クレマチス)の紫も、、、

 日本では、季節が徐々に訪れる、だから花や芽吹きの色も濃淡も交えて、まるで十二単の色重ねのようにやってくるのです。

 古来より、こうした彩色を、「繧繝(うんげん)」というのですよね。「グラデーション」のように徐々に一つの色をぼかすのではなく、段階的に濃淡をつけて彩色をする技法。

 寒い地域は、ある時期になると一斉に花が咲きます。 
例えば、長野の春模様。
 千曲川沿いの桃の林は桃色というべき濃いピンク、アンズの花は薄桃色。
 緩やかな丘陵に広がるリンゴ園の花の色は白やうす桃色や紅の色。王林の実の色は緑なのに花はうす桃、つぼみはあでやかな紅の色。フジの実は赤なのに花は真っ白、赤毛のアン風に言えば「雪の女王」のようにね。

 時々、意匠的に使われた、赤や青やピンクに黄色、そんな色の取り合わせを不思議に思うことがあるのですが、あれは、零下何十度という厳しい冬を乗り越えて、一度に春が来る地域の喜びの色なのだろうと、思ったことがありました。
 地域地域で使われる色使いって、その土地の気候が大きく影響していると勝手に私は解釈しているのですけどね。

 とにかく日本の春は好きです。いつも、心奪われてる、、、。 (あし)


2004/03/19
-No.121-

◆ 「春先のはかないいのち」

 綺麗な言葉といえば、「スプリング・エフェメラル」 

 落葉広葉樹の林では、葉の落ちた期間、光が十分に差し込みますが、その林床に差し込む春先の光を利用して一年分の養分を光合成し、繁殖をすませてしまう。そして落葉広葉樹が繁る5月には、葉を落とし、翌春まで休眠する。
 これを春植物と言うのですが、それと同じような生活史を持つものがチョウの仲間・ミドリシジミ類にも見られるのです。

 そこで、このような生活史をもつ生物を「スプリング・エフェメラル」と呼ぶのです。“春先のはかないいのち”という意味だそうです。

 この言葉を知ったときも、心がときめきました。まるで妖精みたいな雰囲気があるんですもの。
 守山弘先生の「自然を守るとはどういうことか」という著書の中にその言葉はありました。[(社)農山漁村文化協会発行、人間選書122]

 4年ほど前、あるシンポジウムの講演とパネラーに守山先生をお招きしたことがあって、その雰囲気の優しさや、地道な研究に携われた真摯な生き方に感銘を受けたのです。

 パネルディスカッションでのお話も面白いものでした。
 内山節さん、熊谷実さんとの鼎談だったのですが、守山先生の発言も、興味あることばかりでした。新しい形の用水入会という制度を提唱しておられました。

 会場とのやりとりの中で、印象に残ったのが、コウノトリの野生復帰という話。
 繁殖の時期だけドジョウをやるけれど、お金がかかるので普段はサンマをやる。でもサンマだと栄養失調になるのでビタミン剤をやっているとのこと。

 これを野生復帰させるとなると、ドジョウだけでなくカエルやヘビだとかいろんなものを食べさせないと栄養失調になってしまうのだそうで、それを動物園の中で飼おうとすると大変なお金がかかる。
 
 個体数が5000羽くらいいないと種の保存ができない。すると一日、一羽に1万円くらいかかるので、毎日5000万円というお金がいる。年間にすると180億円というお金がかかるだろうと言うのです。

 だったら、その地域の田んぼでお米を作る人たちに、作る米の値段に応分の上乗せをして米づくりを、つまり田んぼを存続してもらい、ドジョウやヘビやカエルが生息する状態を作り出す方が、経済的には合う。
 日本の田んぼには、これくらい経済的価値があるのですよ、山林にもこうした価値をもっと見いだして、というお話でした。

 人間が絶滅させてしまいそうな種を、もう一度復活させるためには、お金もかかるけれど、たくさんの智慧や大きな視点が必要ということなのでしょうね。

 スプリング・エフェメラル、綺麗なことばでしょう?
 地域の仲間と作っている会で、30年間手つかずだったという里山の保全作業に時々通っていますけれど、(私は、2月の作業には参加できず残念でしたが、)
「落ち葉かきをすると、黒い土の地肌に春欄の株が現れます。もうすぐこの林でも春欄の香りがするのでしょうね。やりがいのある楽しい作業です。」と参加した方が感想を書いて下さいました。

 山のにおい、土のかおり、残したいものですね。

 ではまた。
 (あし)


2004/03/18
-No.120-

◆季節のことば

 昨日書いた、黄砂とは、大陸の乾燥地帯(ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠など)や黄土地帯などの細かな砂じんが風によって吹き上げられ、大気の流れによって空中を運ばれて上空を一面に覆い、徐々に降下する現象をいうのだそうです。
 わが国では主に3月から5月にかけて西日本や日本海側で観測されることが多い大気現象で、まれに航空機の運航などに影響を与えることもあるのだそうです。
 気象庁のホームページに黄砂情報が載っているのです。面白いです。
 http://www.data.kishou.go.jp/obs-env/kosahp/info_kosa.html

 日本だけで、地球温暖化の問題や酸性雨の影響をいくら考えても、どうしようもないことがよ〜くわかりますよね。すごい規模なんですもの。

 福岡に行くと、駅や繁華街では、英語よりも韓国語や中国語の表記の方が目立ちます。東京よりも断然、距離的にも近いことを実感しますが、米子に居ても、海の向こうは大陸なのか、とふだん東京に居ては想像し得ないことを感じます。 

 だいたい海が北にある、という感覚が、新鮮。
 川が北に向かって流れることや、海と夕日の位置関係が咄嗟に、私の体内羅針盤を混乱させます。ただでさえ方向音痴なのに、、、

 こうした一つ一つの現象が地域の文化の特徴となって現れるのでしょうね。
 東京に住んでいたら、知り得ないことばかり。

 といいながら東京に戻ってきましたが、今日は、しとしとと冷たい雨。

 そういえば、3月の下旬から4月にかけて降る長雨を「菜種梅雨」と言うのですよね。菜の花が咲く頃、もう春なのに、そんないい季節に降る雨は嫌がられるけれど、植物の芽吹きには大切なもの。

 桜が咲いて浮かれ出したい時なのに冷え込むことがありますが、そんな無粋な寒さは、「花冷え」

 綺麗なことば。
 こんな言葉を覚えたのは19の時。ある方が教えて下さったのですが、、、、

 ではまたね。
 
 
 (あし)


2004/03/17
-No.119-

◆米子弁
 前回、病院行きのバスの話を書いたので、病院でのことも少し。

 看護婦さんの言葉に最初驚いたのです。なぜってみんなが米子弁。(・・・当たり前か、、、)
「いけんよ〜」
「ちょっと待っちょってなぁ」
「たくさん食べんと元気にならんがぁ」
 点滴の針をさす時に、「ちょっと痛いけどこらえちょってねぇ」

 隣のベッドの付き添いの人が見舞いに来てくれた人に「何べんも来てごしないやぁ。まっちょるけん」

 夫は、あまり米子弁を使わない。だから私には新鮮で、ものすごく面白くて楽しいのです。でもイントネーションがなかなかまねできなくて、結局まだ使えてないのですが。

 今騒がれている長島さんと同じような症状で入院した父は、もう一ヶ月も言葉を失っている。それでも少しずつ断片を言えるようにはなり、なんとか意思を伝えることはできるようになってきました。
 いま、と聞き取れると、あっ時間ですか?3時ですよ、、ってな具合。

 一昨日、いま、といつもと同じように言われたので、時間を言いかけたら、なんか顔をしかめ首を振りのどになにかがひっかかったように喘いでいるのです。
 どうしようかとじっと顔を見つめ、待っていたら、
「いまなんじですか」と一気に言葉が出てきた。
 まるで、のどの奥に言葉が並んで道が開くのを待っていたみたいに、ぽろぽろと、って感じ。

 夫の妹にその話をしたら、そうそうちょっと前から「今何時だ?」って言えるようになった、って。でも「ですか」って言うのが難しかったんじゃないの、と二人で笑ってしまったけど、こういう時、東京弁しか使えないのって、いいことじゃないですよね。すごく反省。

 2月には綺麗に見えていた大山が、今回来たら霞んで見えないのです。
聞くと、黄砂のせいですって。中国大陸から海を越えて飛んでくる砂塵。ひどい時には、車も真っ白になるのだそうで、すごいですよね。
 
ではまた。
 (あし)


2004/03/15
-No.118-

◆病院行きのバス
 先週お知らせを発送してから、また、米子に来ています。
 先月入院した夫の父の付添で、、

 病院行きのバス。2時間に1本しかないのです。でも大きなスーパー行きのバスが1時間に1本あり、それが病院を経由してくれるのでどちらかに乗るのですが、乗客は、お年寄りが断然多い。

 今日も、バスがきて、バス停でず〜っと待っていたそんな方たちがぞろぞろと乗り終わって、扉が閉まったけれど動かない。
 そのうちに、また扉が開いて、あぁ間に合った、あぁ良かった、とブツブツいいながら乗ってきおばぁさん。足が少し不自由。

 すると一番前の席に座っていたおじさんが、急に笑いだして斜め前の運転手さんに話しかけました。
 「なんや、知りあいかいな」
 「まぁな、待ってやらんとなぁ」
 「誰に手ぇふっちょるのかぁ思って見ちょったがぁ」

 そうか、おばぁさんが手を振ったので、運転手さん待ってあげてたのね、いいなぁ、と思ってその会話を聞いていたら、
 「もうちっと若いとよかったなぁ」とおじさん。運転手さんが笑いだしてた。

ではではまた。
 (あし)


2004/03/12
-No.117-

◆山への想い

今日の情報交換欄の小春さんの「未来につなげたいもの・・山への想い」は胸にじんときますね。
 植えてから50年も60年もたたないと結果がでない林業は、本当に産業といえるのか、と問いかけた方がいらした。今はそれが80年90年先でないと、と言われる程状況は悪くなっているのです。

 採算があわないという理由で、次の植林もされず放りっぱなしの森林が目立つ中、小春さんのように一生懸命林業を続けたいと頑張っておられる方のことばをたくさんの方に聞いて欲しい思いました。

 先に、山でせっかく植林させてもらったのに一日に10本だけだった、というお粗末な話を書きましたが、これは、ボランティアの世界でもまことに顰蹙もの。
 ボランティアの中にだって、プロかと見間違うほど道具にも凝り、技術も日々研鑽し、素晴らしい働きをする方々が沢山いらっしゃるのです。
 どうぞ、皆さま誤解なさいませんようお願いいたします。

 あれは、あくまでも「あし」の実力でして、、もっともあの頃は、駅の階段を上がっただけで目の前が真っ白になるくらいの強度の貧血で、結果的には、12月19日の電車の中の話につながるのですが、、、

 「あし」だって、体調さえよければ、100本位は、植えられるのに、、、(うそです、、、)それにしても、皆がすっすっと登る山道、何度も何度も休みながら、なんであんなにまでして行ったのでしょう。

 ・・・憧れていたのですよね。私なりに山に。そして山に暮らす人の遠くを見る眼差しに。

 憧れていました。確かに。
 毎日毎日CADの前にすわって、建築図面を書く日々。目先の締め切り日に追われ続ける仕事。あのバブル期、何物件も抱えて、それは途切れる事無く続いていたのです。

 そんな日常を離れて、山に行くと、50年も60年も先の為に今の作業を真剣にしている。常に先を見越しての作業。前向きで。
 刺激的でした。

 いろんな関わりで人って自分の進路を変え得るのですよね。
 みんなが関わってる。みんながみんなに関わってる。
 決して自分だけで進路を決め、自分だけで進んできたんじゃないのにね。

 何だか話が違う方に行ってしまったようですが、私に進路を変えさせたのは、人の一途な想いに触れてしまったからだった、、と小春さんの書き込みを読んで思い出したからなのでありました。

ではまた。
 (あし)


2004/03/11
-No.116-

◆発送のお知らせでございます。

 会員の皆様に、事務局通信及び古橋委員会の中間報告案を、送らせていただきました。
 ご意見をお待ちしています。
 (なお、4月5日に、伊藤委員会、古橋委員会を合同でおこないますので、4月2日までに、郵送もしくは、E-mailでお願い致します。)

 会員外の方でも興味のある方には、送らせていただきますので、ご住所、電話番号、お名前、所属などご記入の上、 bunka@coltnet.co.jp まで、お申し込み下さい。

今日は、マジメな連絡でございました。発送が終わってほっとしています。
ではまた。
 (あし)


2004/03/10
-No.115-

◆地域の景観を守ることも大事なこと。

 ここんとこ毎日、事務作業をしています。
やっと新しいソフトを買ったので、宛名の入力とか、、、せっせ、せっせと。
会員の皆様には、今週中に事務局通信を発送いたします。

 りすさん、とびさんが事務局日記を書いて下さったので、ちょっと息抜きしてしまいました。
 それにしても、りすさんの山での作業は凄いですね。私ののんびりした日記とは、大違い。

 一日に200本も植えるとなると、山で7時間くらい働くとして、1時間あたり29本、だいたい2分に1本植える計算でしょう?そんなことが可能なの?と仰天してしまっております。それも急斜面!
 平地だって大変な作業だと思いますが、、
 
 以前、ボランティアの会で植え付けの手伝いに行って、目的地にたどり着くまでにゼイゼイ言って、そんなにすぐには植えられないよぉ、と休憩して、、すごい斜面に、既に運びあげてあった苗木をやっと10本植えたかどうだか、、、、これを手伝いとは絶対言えないですよね。
 体験させていただいた、と言うべきでした。反省そして感謝。

 それでも木を植えるって嬉しい作業、植えた後ちゃんとついたかどうか心配でしたが。


 話は変わりますが、北鎌倉湧水ネットワークの野口氏からメーリングリストが送られてきました。
 この方の活動は凄いのです。個人でもこんなに精力的に動けるし、発信できるのだ、といつも感心して読ませていただいているのです。
 今日の内容は、町の景観を守ろうと、地域住民が、業者の打ち出したマンション計画に粘り強く反対し続けた結果、業者が修正案を提示したというもの。

 自分たちで守るべきものは守る、これが私たちの活動にも大事なこと、と思いましたので、ご紹介させていただきます。

* * * * *

 北鎌倉・旧小泉邸跡地にマンション建設を計画している山田建設が、3月7日夜、これまで固執してきた5階建て案の撤回、4階建てとする修正案を提示しました。この内容を速報の形で本日北鎌倉湧水ネットワークのHPに掲載しました。
関心のある方はアクセスしてみて下さい。

(3/9) 速報!山田建設、5階建て案を撤回
−全国のマンション紛争に一石−
http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/

売却された旧小泉邸の素敵なハクモクレンの写真は、こっち↓
http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/tokusyu/1.html

* * * * * 私はハクモクレン、特につぼみが膨らんだ時が大好きなのです。
ではまた。 (あし)


2004/03/09
-No.114-

 おもちゃの木彫りをしています。

 落ちていた木切れで、新幹線とキリンを彫ってみました。やってみると結構おもしろい。それ以来、焼却炉や道ばたの木片拾いがはじまりました。捨てられた木切れが何やら話しかけてくるのです。

 道具は切り出し一本。それまで、ろくに刃物を研いだこともなく、無茶な削り方で刃先を折ったり、バンドエイドの箱はすぐに空っぽ。

 ぞう、きりん、くま、くじら、いぬ、ねこ、らくだ、すてござうるす、さい、かば、ごりら、やぎ、ひつじ、りす、ねずみ、さる、いのしし、とりげらとぷす、ぶた、うさぎ、らいおん、こあら、たぬき、ぱんだ、あざらし、あひる・・・
 いろんな動物ができました。彫った木も、
 ひのき、かつら、くり、けやき、ひば、べいひば、ほうのき、さくら、みずめ、さわら、こうやまき、すぎ、みずき、えんじゅ、にせあかしあ、くすのき、まてばじい、やまもも、なら・・・

 捨てられるくらいの木切れだから、色も性格も姿もまちまち。若い木は堅く、歳をかさねた木は柔らかいけど腐れがあったり。“あて”はそこだけ色が濃くてカチンカチン、刃物を受けつけません。一日でできるものもあれば、一週間以上かかるものもあります。長細い木切れはきりん、四角ならぞう、小さな節は目、大きな死節はお尻の穴。

 忙しいとき、暑い日、寒い日はお休み。捨てられたままの姿をなるべく活かして、気ままに、気ながに彫るのが楽しみ。 


2004/03/05
-No.113-

まだ雪が降る季節ですが、私の山では植え付けが始まっています。昨年の春からこの新春までに伐採した数カ所の内、既に1箇所を植え終えて、もう一箇所植え終わる所です。

 最近は大きな森林所有者は伐採しても植えないことが多くて、植えなくとも広葉樹林になるという自分に言い訳をしながらの行為です。本当はそんなことをしたくないのですが、今の材価では致し方ないなと感じます。
 私は、どうにかして植え続けたいので、育林方法を思い切って合理化したり、苗木を安く生産したりして、植え続けたいと頑張っていますが、並大抵のことでは植えられないのが現状です。
 植えるにしても伐採から植林に人をまわすと、突然、その月の売り上げが下がるので、賃金支払いの資金の手当てに苦労します。植え付けと伐採のバランスに必死になります。「山の手入れもやめて、植えることもやめてしまえば楽になるがなー」とついつい考えることもありますが、それでは面白くないので、正面切って林業不況に戦いを挑み、植え続けています。

 今日は植え終わる山を見に行きました。南向きのすこし乾いた立って歩くのも苦労する急傾斜の山です。「土が乾いてきているから明日は雨になると良いね」「久しぶりに山で旦那の顔を見たから間違いなく明日は雨です」「いやー天気予報では雨だから、旦那が来たから晴れに変わるかも」などとたわいもない会話を交わしながら、植えられた苗を見て、従業員を鼓舞します。
 雨が降らないと植えた苗木は乾きはじめ枯れることもあります。降れば降ったで植え付けが出来ないので、予定が遅れます。苗木も苗畑から抜くことが出来なくなります。植え付け時期はわがままな願いを込めて空を睨み付けます。
 1日200本くらいの苗木を1人が植えられます。1ヘクタールで4000本植える計画ですから、4人で5日ですね。若者は1度でも植林を経験して、山を植え終わると山に対する考え方が変わるような気がします。そうですね、愛情を持ち始めるというか、自分の事のように山を気にし始めます。不思議なものです。

 さあ、今日から200年経つと文化遺産の補修に使える木になります。林業からすればちょっと時間がかかるかなって具合でしょうか。でも今日の植え付けが無ければ200年の木もありません。あと1ヶ月ぐらいは植え続けます。一度植えてみたいと思う方がもしもいらしたら、事務局に一声掛けてみてください。上手く予定を合わせて植林経験も実行できるかもしれませんね。 (りす)


2004/03/05
-No.112-

◆電車の中(その11)おばさんパワーがないとねぇ

 以前、東京駅で中央線に乗った時のこと、電車がつくとみなさん並んでいてもワッと席を取るのに頑張っちゃう。そういう私も、隅の三人掛けの席に座ることができました。
 この線は、東京駅で折り返し運転になる為、たいていの人が降りるのですけれど、向かいの席になぜか長々と横になった若者が。
 寝過ごしてしまったのでしょう、目を覚ましたものの不機嫌そうに、そのまま三人掛けの席を一人で占領しておりました。
 
 みんな、因縁つけられるのが嫌なので、何だかそのあたりは、がらんとして、私も、困ったな、と思いながらもじっと座っておりました。
 何だか緊張した空間。

 電車が動きだし、神田を過ぎ、四谷駅につきました。
 ドアが開き乗ってきたおばさん、まっすぐこの若者の席に歩いてきたと思ったら、足をポンとたたいて、「ちょっとどけて!」
 周りは、一瞬ハッとして、固唾をのんでみてしまいましたが、
 「ぁ、はい」とその若者。隅にきちんと座り直したのでありました。

 少し遅れて乗ってきたおじさん。そんないきさつがあったこともつゆ知らず、その真ん中の席にどっこいしょ。
 電車は何事も無く動き出したのでありましたよ。
 ガタゴトン〜ガタゴトンン

 いいなぁ、あの迫力。
 おばさんってあぁでなくちゃ、とものすごく感動したのでありました。
 私もあんなおばさん目指したい。

***
 
 おばさんといえば、先日羽田から帰る時、モノレールに7人の女性たちが乗ってきました。ちょうど座っていた私の席に3人、通路を隔てた席に4人。

 沖縄まで行ったらしくものすごいお土産。ご近所やあちこちに必要なのだろうなぁ、と思ってみていましたが、二泊三日の旅行だったらしく、気持ちが弾んでいました。
 
 楽しかったねぇ、良かったねぇ、と話していた女性に、誰かが、帰ったらまたおばぁさんの世話だねぇ、と話しかける。
「そうだねぇ、いじわるでさぁ、怒ってばっかりいるけどねぇ、やっぱり心配だよぉ」 
「だけどお父さんには、一日だって預けられないよぉ、ホカ弁買ってきて、これ喰えなんて言うんだってさ、かわいそうでさぁ。」

 大声で話す女性たちの話、ぼんやり聞いていたけれど、ここら辺からちゃんと聞いてしまいました。
 「でもデイケアの施設が二カ所もできたんだよぉ。着替えも運動靴も全部用意してあってさ、楽なんだよねぇ。一泊二食にさ、おやつもつくんだよぉ。本人も嫌がらないしさぁ。ほんとにこんなんして出られるようになって楽になったよねぇ。」

 自分の夫に姑の世話を頼むよりも、気持ちを楽にして預けられる介護施設ができて、こうして女性たちが、仲間と旅行に行けるようになったんだなぁ、そう思って聞いていました。
 
 それぞれの家庭で、地域で頑張ってきたことが、もう限界、無理になってきた。それで介護保険の仕組みが考えられスタートしたのだと認識しています。

 文化遺産を守ることも同じですよね。
 今まで、権力者や地域のお大尽が庇護してきた様々な建物や祭礼の行事。税制も昔と変わって、お大尽がいなくなったと言われる今、その存続の為に誰かが動かないといけないのに、世の中にその認識ってあるのでしょうか。

 昔語りは、いっぱいするけれど、昔のお大尽の豪壮な家屋敷でさえも維持することが困難になっている今の社会。
 そんなお大尽に替わって、守り続ける仕組みを作らないとねぇ、それは介護保険と同じように、文化遺産を守るという意味で大切なこと。
  と、思っているのです。
 (あし)


2004/03/03
-No.111-

◆おひな様

 子供がまだ生まれる前、家におひな様を飾りたくて、女の子が欲しい欲しいと願ったものですが、縁あって授かり、早速実家から初節句にとおひな様が届いたのです。もう20数年も前のこと。わざわざ母と妹が京都まで出向いて選んだというひな人形でした。 

 嬉しくて嬉しくて、というのも私の小さい頃は、戦後の物の無い時代、おひな様などありませんでしたし買う余裕も無かったのでしょう。
 大豆に顔を描き、折り紙の着物を着せて飾ったりしたのですよ。そんなかわいいおひな様が、夜中にネズミにかじられたことも、、、ネズミがいたのですねぇ、家の中に。
 下駄箱を開けると靴の中に入っていたり、母なんかしょっちゅうギャーッと悲鳴をあげておりましたが。

 中学生の頃、父と母が段飾りのおひな様を買ってくれたのです。嬉しかったですねぇ。結婚しても持ってきたいくらいだったのですが、妹もいることだし、それはかなわず。で、女の子を待ち望んだという訳で。

 届けられた包みを開けて早速飾りましたが、三人官女の一人がなんか変。よくよく見ると眉毛が無いのです。
 それで、さんざん迷ったのですが、その京都のお店に電話してみたのですよ。
 「あの〜眉毛が無いのですが、、、、」
 すると電話口の向こうでおじさんが、
 「そのおにんぎょさん、ハァがくろうなってませんか?」
 受話器をおいて飾った人形のところに飛んでいって良く見ると、なるほど歯が黒い。
 「それはお歯黒言いましてな、そのおにんぎょさんは結婚してますんや。結婚している人は、眉毛がないんですわ。」

 へぇ〜
 そんな訳で三人官女の一人は既婚者であることを、その時初めて知ったのでありました。
 知ってました?そんなこと! 


 おひな様で楽しいのは、筑後吉井のおひな様めぐりですよね。
福岡県浮羽郡の吉井町。
 町内の各家や店先などに飾られたおひな様を見て歩くのですが、白壁土蔵の風情ある町並みがいいのですよ。また家々に所蔵されているおひな様も江戸時代から現代の物まで様々。

 古道具屋にも所狭しと飾られた段飾りや御殿飾り、いろいろの形があって面白いのです。売れるのですか?と聞いてみたら、料理屋や旅館などが、古そうな一式を買って行くのだそうでして。なるほどね。

 今年も2月15日〜4月3日まで開催されるようですよ。
問い合わせ先は、筑後吉井おひなさまめぐり実行委員会事務局 吉井町観光協会 0943−76−3980

 テレビのニュースで、どこかの寺か神社の石段に、はるか上までおびただしい数のおひな様が飾られているのを見たけれど、(あれが横に、組ごとに飾ってあるのだったらまだいいのですが)私は、吉井町の取り組みの方が好きですね。
 その家の歴史とともに大事に飾ってこその物。

 そういいながら家のおひな様、出してあげられないでごめんなさい・・・・
 (あし)


2004/03/01
-No.110-

◆ 3月ですねぇ。

 今年は4年に一度の閏年、昨日は、2月29日。イタリアの作曲家ジョアッキーノ・ロッシーニさん(1792)が誕生した日なのだそうです。歌劇「ウィリアム・テル」や「セヴィリャの理髪師」の作者として有名な人。
 
 こういう特別な日に生まれた人がちゃんといて、それが歴史に残っているというのが面白いのですが、最近2000年という特別な区切りがどれだけ凄いことだったかを良く思い出します。
 
 ところで、先日古い方のパソコンを宅急便で送ったのですが、後、その時間設定が大幅に狂ってしまい、その狂い方にびっくり。04.7.13と出ているのを月日だけ訂正したけれど、どうも変。もう一度よくみたら、なんと04は、100年前の04。
 何人かの方に1904年でメールを送ってしまいましたよ。
 世の中が変わって日時指定ができたりして、たまたまアドレスが合致した100年先の人にメールが届いたりしたら、、、怖いですよね。

 世間がミレニアムで騒いでいる頃、「1000年前に私は何をしていたのかしら、あなたは何をしていたの?」などと友人たちと会話をしたことがありますが、
「蜂だった」とか「すずめだった」とか「魑魅魍魎だった」とか、いろいろな答えが。結構皆さん真顔で答えて下さったのが印象的。
「魑魅魍魎」も生を終え、生まれ変わることがあるのかしらん。彼は、相当修行を積んだのよね、きっと。

 
 3月というのは、長く冷たかった土の中からたくさんの芽や生命が這い出てくる季節、木々の芽も少しずつ膨らんでその堅い殻を破るのです。そういえば沈丁花がひとつふたつ咲き始めましたね。

 なにか、期待が大きい分、風は冷たいし一年の内で一番つらい季節に私には思えるのですが、でも、良くも悪くも次に控えるのは爛漫の春。
 
 そう、3月ですねぇ。
 (あし)


2004/02/28
-No.109-

◆ 米子の街

 地上げ屋によって街の有り様がすっかり変わってしまったという西新宿4丁目のお話は、(事務局日記No 106 2月23日分)大変興味深いものでした。
 一軒一軒のお店のおじさんやおばさん、店員さん、お客さんも交えての会話も楽しかった、かつて、そんな町の雰囲気を感じながら暮らしていた懐かしい日々を思いだしました。

 ここ米子でも同じような空き地を沢山見るのです。でも西新宿とは違う理由で。
 繁華街までゆっくり歩いても10分、という大変便利だった筈の落ち着いた住宅街も、久しぶりに歩いてみると、空き地や駐車場が目に付くようになりました。木造家屋の空家も目立ちます。住んでいた人たちがいなくなる。

 米子は、夫が生まれ育ったところ。
 夫の友人達も、親が亡くなったとか、年老いて一人でおいておくのが心配なので、とか理由はいろいろあるのでしょうが、家を売り払い東京に本籍を移す人が何人も。盆暮れに戻ってきても友人達にも会えないという寂しい状況になってきました。

 雪をいただき青空を背景にそびえる美しい大山の麓、その裾野は日本海へとなだらかにつながり、すぐ傍に皆生温泉や空港もある街。
 いいところなのにね。

 初めてこの街に来た時、ウキウキと歩いたアーケードのある商店街や、デパートがぴかぴかしていたかつての中心街、今は元気がないのです。

 というのも大型の店舗やスーパーが郊外に郊外にとできるたびに、先にできたお店がさびれていくという現象。米子の人口が減ったのかと思ったのですがそうではなく、郊外にできた広大な駐車場を抱えるお店は、すごい繁盛。でも、車がないとその便利さを享受できない。
 日本中いろんな所で起きている現象ではあるけれど、、、。
 
 歩いて10分ほどのバス停まで、毎日違う路地を通り、70〜80年経ったであろう、いくつかの壊れそうな空家を眺めながら、病院まで通っていました。

 明日、二週間ぶりに東京に帰ります。
 ではまた。
 (あし)


2004/02/26
-No.108-

◆雪をいただく大山がきれいです。

今、ちょっと事情があって鳥取県の米子市にいます。

 やっと自宅からパソコンを送ってもらい、またこうして皆さまとつながることができてホッとしています。ノート型のパソコン一台送るのに、今はちゃんとパソコン専用の梱包の段ボールがあるのですね。
 ものすごく仰々しい大きさの箱が配達されました。

 メールが復活してみると、何人もの方々から、どうしたのかとコメントが入っておりました。御心配をおかけしました。
 パソコンから10日以上も離れている間に、このホームページ、4800というアクセス数になっており、驚いています。こうして気にかけていただけますこと、まことにありがたく思い、改めて御礼申し上げます。

 途中、とびさんやりすさんが事務局日記をつなげてくださったこともホントに嬉しいことでした。代役の方々のお話が良かったと感想が寄せられました。
 皆さまにとっても新しい話題が入って面白かったのではないでしょうか。

 取りあえず今週末迄こちらにいて、一時東京に戻りますが、それからまた行ったり来たりしようと思っています。
 と、そんな近況報告。私事で申し訳ありません。ではまた。
 (あし)


2004/02/24
-No.107-

今日も代理です。
春一番が吹き荒れて、暖かかくなると思ったらまた寒くなりました。再び奥山はうっすらと白くなっています。
山ではそろそろ植林が始まったり、準備されたりしています。最近は伐っても植えないことが多くなり困った状態ですが、森林の値段が1ha10万円も出すと買えるようになっており、山で働いていたり、興味を持っている若い人が森林を購入して植林をすることが見られます。
林業への新規参入というと森林組合の作業班へと言うことが多いのですが、こんな形の新規参入は、厳しい話ばかりの林業界に新しい流れを感じさせる動きです。まだまだ山村も捨てたものではないなとうれしくなります。 (りす)


2004/02/23
-No.106-

毎回楽しみにしていた事務局日記ですが、事務局の足本さん都合あって、今回は代理です。


西新宿四丁目

 西新宿四丁目。年配の方なら十二社(じゅうにそう)と言った方が、馴染みがあるかもしれません。
 高層ビル街から西に向かって通っているのが方南通り。方南通りと裏通りに挟まれた街区に四丁目二番地があります。

 四丁目二番地の方南通り側は、東から自転車屋、果物屋、古本屋が並んでいました。間口の狭い高岡自転車店、今井果物店。古本屋さんの脇は暗くて湿った路地。
 路地の西には、瓦屋、床屋、時計屋、蕎麦屋が続きます。瓦屋の石井さんの家には瓦が束にして積んでありました。瓦屋の隣は床屋、その隣が時計屋さんでした。時計屋の隣に小さなお稲荷さんがあって、その次ぎは蕎麦屋の斉藤庵。斉藤庵の脇にも路地があり、斉藤庵の位置はこの街区の西の角になるわけです。
 古本屋と瓦屋に挟まれた細い路地を入っていくと、古本屋の裏が甘味屋という食堂。その隣は暗い路地にぴったりの山田質店。質屋の隣は小さなアパート。質屋の向かい、つまり瓦屋の裏は電気工事屋を請け負う宗方電気です。
 街区の裏通りに面した方は、東から住宅、美容室。暗い路地を挟んで質屋の実家。西の角には「良の湯」というお風呂屋さんがありました。裏通りは甘い石鹸の匂いがしていました。風呂屋の入り口は行き止まりの路地で、印刷屋の昭和印刷と大工の高橋さんの家がありました。

 十五年ほど前、蕎麦屋の斉藤庵が突然壊されました。跡地には七階建のマンションが建ちました。蕎麦屋の敷地にあったお稲荷さんもマンションの裏手に移されました。ビルは煉瓦風のエクステリアで、街区を誇らしげに見おろしていました。マンションの一階は全面ガラス張り。セブンイレブンがオープンしました。
 オープン当時、十一時に閉店していたセブンイレブンは、営業時間をどんどん延ばしました。高校生がウインドウの前でたむろし、塾通いの小学生が夜遅くにおにぎりを買う、そんな姿も見られるようになりました。

 街区の中では店をたたむところがでてきました。時計屋さんや床屋さん。そして、ぽつり、ぽつりと空き地ができるようになりました。バブルのころには地上げの勢いがました。お風呂屋さんがなくなり、アパートもなくなりました。

 数年前には、マンションを残してこの街区は空き地になってしまいました。古本屋の脇の路地も空き地の一部になってしまいました。グランドのような空き地の隅に七階建てのマンションがポツリと建っていました。
 空き地は、月極め駐車場になり、運送屋さんの集配所になり、レンタカーの車置き場になり、最近では長距離バスの停車場になっていました。

 そんなある日、マンションの一階のセブンイレブンが引っ越しました。長距離バスもいなくなりました。マンションの明りが一つまた一つ消え、非常口の灯も消えました。雨水を流すパイプが階ごとに切断されました。
 大型重機が三台やってきました。一台は巨大なグラップルでマンションの壁や床や階段を剥ぎ取っていきます。もう一台の重機は剥ぎ取られた塊を粉砕します。三台目は、鉄筋をコンクリートの中から取り出し、毛玉のようにして積み上げていきます。人影のない空き地で、三台の重機が計算通りに効率よくアームを動かします。側面が剥ぎ取られたマンションは鉄筋がむき出しになり、哀れな姿をさらしました。
 街区は全くの更地になってしまいました。

 今、そこに高層マンションが建設されています。現在、十八階部分までできあがっていますが、完成すれば三十七階建てになるそうです。

 街区の脇には、お稲荷さんがひっそり建っています。
 


2004/02/15
-No.105-

◆今年度見学会企画第一報

 先週10日、日本伝統建築技術保存会会長の西澤政男様に今年度秋の見学会へのご協力をお願いする為、彦根まで行って参りました。
見学会は、9月の29日30日。

まだ確定ではありませんが、だいたいの予定をたててみました。
29日は、 
 11:00 米原集合 ―多賀大社檜皮の葺き替え工事見学(昼食)―彦根城
―滋賀大講堂にて地域の文化遺産を保存しようと活動している方々との交流会―散策―八景亭で夕食―ホテルへ

八景亭というのは、彦根のお殿様が建てた古い建物(1679年竣工)、お城のすぐ近くにあり、玄宮園というお庭の池に張り出して作られた由緒ある建物です。

 二日目30日は、湖北。十一面観音を守り続けているいくつもの里の観音堂の拝観や奥琵琶湖パークウェイが開通するまでは陸の孤島と呼ばれたという隠れ里・菅浦を考えています。

今年度の見学会のテーマは
  「祈りの里で探す・・・文化遺産を守り継ぐ意義」 

 多分、今年も素晴らしい一泊二日の旅になると思います。
募集開始は5月9日の総会・シンポジウムの日から。
それまでに内容をもっと煮詰めてご案内いたしますので、ぜひご参加下さいませ。

 11日は天理市に行ってきました。
 街のあちこちに教団の大きな建物が見え、どうしてこんなに凄いの、と驚くばかり。でも本部から天理駅まで続いているというアーケードを歩いて感動してしまいました。ここをたくさんの信者の方々が列をなして通るのでしょう。まさしく門前町。金物屋さんがあり、食料品を売っているお店があり、靴屋さん、本屋さん、衣料品店、礼服専門店、笛や太鼓が並ぶ楽器屋さん、日常品も特殊な物も多種多様なお店が途切れること無く続いているのです。

 これだけの人を動かす信仰というもの。
 文化を支えるのも信仰の力なのでしょうか。
 もう圧倒されっぱなしで、またまたいろいろ考えてしまいました。

12日は、法隆寺に伊藤先生、山本先生と三人で伺いました。
 管長様、執事長様に先日の調査のお礼と報告、今後の相談。

 詳しく書くと長くなりますので、今日はこの辺で。
 今週は、家庭の事情で、少し間が空きますが、お許し下さい。
 ではまた。
 (あし)


2004/02/10
-No.104-

◆法隆寺調査(その5)

 この虫喰いの痕を見つけたのは、東大大学院生のトリフコビッチ スタンコさん。東大千葉演習林長山本先生の研修生でボスニアからいらした方。今回は助手としての参加でした。お父様が森林官をなさっていて小さい頃から森の中で育ったのだそうです。

 彼のお陰で、誰も気づかず見過ごしてしまったであろう虫喰いの痕に注目することができました。

 今回はこのスタンコさんのお話です。
 背が高くて、鼻も高いハンサムな彼は、30代前半。気がついたことを誰かに話したくてたまらない様子で大きな目がキラキラ輝いています。

 彼が、金堂の調査を終えて「本当に素晴らしいです。」と感嘆の声を上げていたとき、斑鳩町の正午のサイレンが鳴りました。

 するとそれまで、にこやかに話していたスタンコさんの表情が変わり、体までこわばっているのです。
 あまりの変化にどうしたのかと尋ねたら、ボスニアでは、かつてあのサイレンとともに戦闘機が飛んできて爆弾を落としていったのだ、と言うのです。
 
 あれは正午を告げるサイレンだから大丈夫、そう言ったとき、少し遅れて、お寺の鐘がゴーンゴーンと(高音です)鳴って、やっとにこやかな表情に戻ってくれましたが、なぜ、あんなサイレンを日常に使うのか、と怒っていました。
 いわれてみるとそうですよね。
 日本にも空襲を経験した人はたくさんいるのに、あの非常事態を告げるサイレンが、時報として使われているところがあるのですね。

 スタンコさんが、何度も言いました。
 素晴らしい。こんな文化遺産を残している日本は素晴らしい、と。

 日本は、平和だから文化遺産がこうして残っている。
 でもそれだけじゃないのです。
 文化遺産を残すことで平和な世界をつくりたい。文化を守ることは、平和な世界をつくり出すこと、そういって二人で納得したのでした。

 ちなみに法隆寺の鐘は、大講堂の右隣にも鐘楼がありますが、その鐘を鳴らすのは何か特別の儀式の時。普段は、西円堂の東側にある鐘楼の鐘を鳴らしています。担当の方が、8時・10時・12時・2時・4時にその数だけ搗かれるのだそうで、今回の調査中何度も聞くことができました。

 お寺の鐘は、平和の鐘。いいものですね。

 今年の見学会は、9月29.30日に彦根から湖北にかけてまわる予定です。
 その準備やあちこち挨拶などもかねて、彦根、京都、法隆寺に行ってきますので、二日分の事務局日記を書いています。
 
 12日夜帰る予定です。ではでは、それまでごきげんよう。
 (あし)


2004/02/09
-No.103-

◆ 法隆寺調査(その4)

 先週からの法隆寺調査の続きです。
 林野庁に北島博様、とおっしゃる森林総合研究所から出向している方がいらっしゃいます。その方は、虫の研究がご専門。 

 今回の虫喰いの写真を2枚、見ていただき、こんなコメントをいただきました。

(1)一枚目、二枚目とも年輪をまたいで喰痕がある。
 食害にあった丸太を加工した場合、このような喰痕にはならない。

(2)喰痕が表面にあらわれている。
 喰痕が表面にあらわれているものを柱に使うとは考えられない。

(3)一枚目の写真は柾目部分に喰痕がある。
 喰痕部分は樹皮側(板目になる)ではなく、芯材部分である。

(4)木を食害する虫には、木喰虫以外にも、腐りかけた部分(の菌)を食べる虫がいる。芯材、辺材、年輪に関わらず腐れた部分を食べる。
 甲虫類や蛾の仲間かもしれない。ただし、喰痕が表面にあらわれた形で食害することはない。

 という訳で
 「一枚目の写真は地面に近い部分であり、柱の表面近くは湿気を帯びていたのではないか。そこが腐朽し、ある時期、虫が表面近くに侵入し、柱の表面を僅かに残して食害したものと考えられる。
 そして時間とともに、表面が風化し、食害部分が表面にあらわれたものと考えられる。なお、食害部分の木屑をみれば、ある程度、どのような虫によるものかわかるかもしれない。」
とのことでした。

 千年前には、ちゃんとした表面だったのに、いつの頃か中に入り込んだ虫が木を食い、そのあと何百年かのうちに、朱がはがれ、表面の木肌が薄くなり、喰痕が露出したということでしょうか。

 とにかく平安時代の大工さんが、虫の喰痕が表面にでた材をそのまま使う訳がないよ、とは推論できる訳で、大工さんにとっては疑いが晴れて良かったですよね。 
 実際に北島様が直接あれこれ採取して調べたら、もっと別の推理もできるのかもしれません。
 今後の調査待ち、ということでしょうか。ほんと面白いことです。

 なにもわかってはいませんが、とりあえずの中間報告でございました。
 (あし)


2004/02/06
-No.102-

◆ 電車の中(その10)車内アナウンス
久々に電車の中のお話です。
 
 その前に昨日、法隆寺大講堂の柱の虫の喰痕について書きましたが、あの後、森林総研で虫を専門に研究しているという方からの情報が、届けられました。
 あれはたんなる木喰虫の跡ではないかもしれない、と。

 私は、木の皮を剥ぐとついている虫喰いの跡とおんなじと思って、「さすが、平安時代の大工さん、虫喰いの跡を朱で塗りつぶして使ったのねぇ、おおらかねぇ。」と思い込んでしまったのですが、どうやら違うみたいです。これに関しては、月曜日に。

 さて電車の中の話。
 自分は、もともと腰が弱いので、立っているのは苦痛。だから台所で長時間立って料理を作るのも苦手。(えへ、これは、たんなる言い訳、、、でありますが、、、)

 だから電車でつり革に捕まって立っている時、前の席が空くと、本当に嬉しいのです。
 以前、前の座席が3つも空いた時がありました。ちょうどその前に立っている人も3人。
 私が一番ドア寄りに立っていたので、私の前を三人が通って降りたあと、やれうれしや、と座ろうとしたら、席がない!もう少し気がつくのが遅かったら、先に座った男性の膝の上に座ってしまうところでしたよ。

 なんで?と思い良く見たら、私の隣に立っていた男性が二人分の席を占めていたのでありました。額には玉の汗をかいて。
 う〜〜ん、その日一日、なんかもやもやした気分。

 そうかと思うと、新宿駅で、電車を待っていたら、扉の向こうから降りてきたのが浴衣姿のおすもうさん。目の前の入り口から3人、隣の入り口からも。乗ってみたらまたびっくり。まるで始発電車のよう。ガラ〜ンと誰もいないのでありました。
 ヤッホ〜。

 新宿と言えば、若い頃、黄昏時に中央線に乗っていたことがありました。中野から新宿に向かうともうネオンがキラキラ輝いているのがわかります。

 そこへアナウンス。
 シンジュク〜 シンジュク〜
 次はヨルのシンジュク〜

 ん?今、夜の新宿って言わなかった?としばし車内がざわついたのでありました。
 以来、二度とこんな楽しいアナウンスを聞いたことがありませんが、もっとあったら面白いのにね。

 ではまた、来週。
 (あし)


2004/02/05
-No.101-

◆法隆寺調査(その3)
 さて、現存する法隆寺の建物はいつ頃建てられたのでしょう。

 法隆寺はもとは、その地名をとって斑鳩寺と呼ばれていましたが、「日本書紀」には606年に初めてその斑鳩寺という名がみえ、670年焼亡の記述があるのです。1939年の発掘によってそれを裏付ける若草伽藍跡が発見されたこと。法隆寺に残る記録に、711年五重塔の塑像群や中門の仁王像を造ったと記載があることから、焼失後7世紀末までに再建されたのではないかといわれています。

 ですが、最近(2001年2月)奈文研の光谷拓実氏の年輪年代学の研究により、五重塔の心柱の伐採された年は、594年と発表され、また「移建説」「貯木説」など論争がおきているのです。

 今日は、大講堂に使われた材木のお話です。

 創建当時の大講堂は、回廊の外に建てられてあったのだそうですが、延長3年(925)に落雷によって焼失。現存の建物は、正暦元年(990)に再建されました。平安時代です。その時に現在の形に回廊でつながれたのだそうです。
 仏教の学問を研鑽したり、法要を行う為に造られた、桁行9間、梁行4間の堂々としたお堂です。

 内陣の柱が、前列、後列(真ん中の列は、飛んでいます)8本ずつ3列になって立っているのですが、その一本一本の径は80cm、長さが7m。すごいですよね。
 本来は朱に塗られていたものが、長年の間に、そう、千年もの間にたくさんの人が触れて、朱がはがれ幹の素肌が浮き出ているのです。そこでちょっとした発見がありました。
 
 虫喰いの跡を見つけたのです。
 山で木を切り倒し、そのまま放置しておくと虫が入って、シラタの部分に虫喰いの跡が残りますが、それがあの柱にもこの柱にも。

 山から運ばれ、でもあまり細工されること無くそのまま柱として使われ、千年もの間大屋根を支えてきたのです。まるで森の木がゾックリと立っているよう。

 先に述べた、金堂や五重塔、中門や回廊など世界最古の木造建築物とは時代が違うので、ちょっとだけ仲間はずれですが、法隆寺に行かれたらぜひこの大講堂の柱にも目を向けてみて下さい。
 ではまた明日。
 (あし)


2004/02/04
-No.100-

法隆寺調査(その2)

 さて調査の内容ですが、建物としては、中門、金堂、大講堂、回廊、綱封蔵に使用されている主要な部材、27点及び収蔵庫内の古材13点について、その規格(長さ、巾、厚さ)と品質(節・年輪巾)を調査したのです。

 そこから、元の丸太の大きさやどうやって木取りされたかを推定するのが目的です。
 元の丸太の大きさが推定されれば、当時の森の様子も想像できようというもの。そしてそれは、200年後、1000年後までも、私たちの文化を保証する為に必要な森の姿だとイメージすることができるではありませんか。

 法隆寺の解体を伴う大修理は、平安、鎌倉、室町、桃山(慶長)、江戸(元禄)、明治期に行われてきました。そして昭和の大修理となるのです。

 中でも、慶長期の修理は、家康が大阪城の黄金を使わせようと、豊臣秀頼に命じて秀吉の菩提を弔う為と称し、畿内の古社寺を修理させた時のもの。しかし秀頼側も節約したせいか、良材が使われなかったらしく、そこで元禄期には伽藍の痛みが激しくなり苦慮した、という記録が残っているそうです。
 その元禄期の大修理の為に法隆寺がおこなった資金集めに関しては、昨年来の宿題ですのでそのうちに。

 伊藤先生が、今回の調査にあたって、以前の修理報告書から対象部材を拾いだして下さいました。これは慶長の修理の際に取り替えられたもの、これは昭和、とすべてわかるのですよ。もちろん私たちが対象にしたのは、当初材。

 ちなみに法隆寺の金堂は焼けた、という方がいらっしゃいますが、それは半分正しいけれど、半分は間違いです。
 昭和の大修理の際の金堂を解体中のできごとでした。屋根ももこしも外側の部分はすべて解体されて他の場所に移されていたのです。もちろん仏様も移されておりました。

 内陣の柱梁、扉は残されて、そこで内陣壁画の模写作業をしていた時に出火。昭和24年1月26日の夜のことでした。原因は不明。当時若かった、模写に関わられた方々もその後日本画壇の大御所になられ、そしてその先生方も今はもうこの世にはいらっしゃいませんが。

 その柱梁も燃えてなくなった訳ではなく、今も収蔵庫の中に当時のままに組み立てられて保存されてあるのです。部材の周り3cmほどが燃え炭化したまま。

 巾が1mもある大きな一枚板の扉も、内陣の内側は燃えたものの、外側は全く無傷、ということで、燃えなかった面を二枚ずつ貼り合わせ、今も金堂内陣の西面と北面の扉として使ってあるのですよ。
 
 木目で一番興奮したのは、金堂の中、西面のもこし柱のうちの一本。21cm角の柱に木目がびっちり。なんと1cmの中に24〜25本の木目が入っているのです。それだけでも500年の材。
 
 なんてことを書き始めると、また長くなり過ぎ、ですね。
 それでは、今日はこの辺で。続きは、また明日。
 (あし)


2004/02/03
-No.99-

◆法隆寺調査(その1)

 法隆寺の調査のことをぼちぼちと書いていこうと思います。
 という訳で、まず集合から。

 法隆寺では冬は、夕方5時に南大門が閉まるのです。
 飛鳥時代の建物の前では目立たないのですが、あの南大門は、創建当時の建物は室町時代1435年に焼失し、1438年に再建されたもの。以来560年以上も毎日、朝に夕に扉が開け閉めされてきたのですよ。
 以前あの大きな扉を背後で閉められた時、かんぬきを掛ける音とともに、意外な高い音で、わけもなくゾクゾクしたのです。

 それで扉が開くところも見たいと思い、皆さんを早め早めにご案内して奈良市内のホテルを7時に出発。でも7時40分に、南大門に着いた時には、扉は、もう広々と開いておりました。がっかり。なんでも7時にはもう開いているのだそうでして。う〜ん調査不足でありました。

 門からのぞくと境内を通学途中の中学生が通り抜けたり、散歩のおじさんが歩いていたり、町の人にとっては生活の中の普通の道というおもむきがあって、不思議な感覚を受けました。
 
 さて、調査団のメンバーは、伊藤先生、東大の山本先生を責任者として奈文研、工学院大学、林野庁の先生方や助手を務めてくださる学生さんたち。カメラマンや報道に関わる方、一番重要だったのが、部材から立木の姿を推定する為に参加していただいた木取の専門家、木場と名古屋のお二人でした。で、一日目14名、二日目17名という陣容。

 こんなに大勢で調査に関わっても、ばらけていくつかのグループに分かれてしまうのでは、と最初危惧していたのですが、全くそれは杞憂でありました。なぜなら、二人の材木屋さんが、部材を見ながら夢中で検討される興味深い会話に皆引き込まれ、他に目を移す余裕などなかったのです。

 一応対象とした建物は、中門、回廊、金堂、大講堂、綱封蔵。そして収蔵庫内の古材。

 調査内容の詳細に関しては、5月9日に、当会主催のシンポジウムにて、伊藤委員会の報告として発表される予定です。
 ですので、この欄で先走って紹介するのは慎みますが、いろいろな発見があったということをお伝えしておきますね。
 乞うご期待!です。

 それでもそのうちの2〜3については、ご紹介しようと思いますが、
 長くなるので今日はこの辺で。ではまた明日。
 (あし)


2004/02/02
-No.98-

◆ 事務局日記再開
お久しぶりでございます。

奈良に26日前泊して27日朝8時に南大門前集合、というやる気満々の面々とまる二日間の法隆寺調査、それから徳島に行き、県主催事業のシンポジウムに参加して30日夜帰宅、というスケジュールも無事終わりまして、ほっとしております。
 
 さて、ご報告をと思いながら、なかなかパソコンの前に座る気力がなく、ただでさえ少なかった頭のバッテリーが大部へたってきたのかと危惧しているところです。

 新しいパソコンを昨年暮れに買ったものの、今までのパソコンも併用して使っていたのですが、そのバッテリーは、いくら通電しても、充電できなくなり、いよいよコンセントの電力頼みとなりました。ということは、保存前に停電でもあったら、その書類のデータは消えてしまう訳で、バッテリーだけ新しく買うか悩ましいところです。

 バッテリーにも余力がないと充電も出来ない訳で、あんまり疲れすぎるとほんとに無理ってきかなくなるのですね。そんな訳で、31日再開予定が二日伸びてしまいましたがお許し下さいませ。

 徳島での育樹祭に向けてのシンポジウムも300人を超す参加者に会場がいっぱいで、今時これだけ人の集まるイベントは難しいのにどうして?とホテルの会場係の方が驚いていました。大成功でした。

 内山さん司会の鼎談も、伊藤先生、古橋様、加藤様というメンバーで充実した時間でしたし、私の担当のパネルディスカッションもパネラーの皆さんが次々にいい発言をされ、それに助けられてなんとか時間内におさめることが出来ました。ホッ。。。。。。
 いろいろご心配いただきましたが、そんな訳で無事終わったのでございます。取り急ぎご報告申し上げます。

 法隆寺の調査のことも明日からぼちぼちと書いていこうと思います。
 という訳で今日はこの辺で。また、どうぞよろしくお願いいたします。

 (あし)


2004/01/26
-No.97-

◆ 家族のせいにしないでほしい

また少し更新が抜けてしまいました。
 というのも、先週、マリナーズの佐々木主浩投手が、東京都内で会見し「家族と一緒に住み、日本でプレーしたい」と国内復帰を熱望している、という新聞記事(21日朝日)を読んでから考え込んでいるのです。

 家族と一緒に暮らせないことを覚悟して行ったのではなかったの?
 それでも夢を追い求めたかったのではなかったの?という意外さだったのですが、記事を読んでみると、昨年は右ひじの故障、続いて右肩の故障など「大魔神」と呼ばれた栄光の「守護神」の座を追われ不本意なシーズンだったようですね。全盛時代だったら、こんなに揺れなかったのではないでしょうか。

 でも、本人のいう理由は、子供たちに「パパ、日本に残って」と言われ、その気持ちを一番大切にしたかった、のだそうで。

 なんだかねぇ、あの佐々木選手が、子供の言葉を言い訳にするなんてちょっとがっかり。
 子供にとってお父さんのそばにいたいのは当たり前。逆に子供が、お父さんうちにいなくていいからアメリカで野球やってて、なんて言ったら、それこそ家庭崩壊の前兆、すぐに家に帰った方が良いですよね。

 この世の中、家族を理由に仕事を切り上げることのできる人は、どのくらいいらっしゃるのでしょうか。みんな何かしら我慢しながら残業したり、休日出勤したり。
 特に女性は、「すぐ家庭だ、家族だ、と逃げるからなぁ」なんて陰口聞かれるのが嫌で、どれだけ無理して仕事をしてきたことでしょう。

 そんな訳で、私などは、え〜〜っ!家族を理由にしてもいいのぉ?そんなのあり?って気分になってしまったのですよ。
 もちろん、佐々木選手が、自分の夢よりももっと大事なものに気がついたことは、喜ばしいことですが、それにしてもこういう理由が通るなんて、世の中って変わったのね。

 それともう一つ。こんなことを思い出しました。
 上の子供が幼稚園の時、クラスの小さな学芸会がありました。
 出し物は桃太郎。
どんな劇をするのかな、と楽しみに出かけたら、なんと言うことはない、
 体が大きくていつも威張ってる子が、桃太郎役。
 いつもいじめられている子が、私たち母親の見ている前で、こづかれ這いつくばって謝っている鬼の役。かわいそうで涙が出そうになりました。

 あの配役はあんまりではないかと思い、伺ったら、「子供たちが自分たちで決めたんですよ」と誇らしげに答えてくれた若い先生。他の出し物にするか配役に気を配るか、もっとなにかしら工夫してくれたら良いのにね。
  
 大人が子供の言葉を尊重するのは悪いことではないけれど、まだ小さな世界しか知らないこどもに決定権を持たせる必要はないのです。
判断するのは、あくまでも大人の責任。こどものせいにしてはだめよねぇ。


いつも事務局日記をお読みいただきありがとうございます。
 今日から、奈良、徳島に出かけます。
 という訳で、しばらくお休みさせていただきますが、31日には復活させる予定ですので、またのぞいてみて下さいませ。
 ではでは、それまでごきげんよう。  
 (あし)


2004/01/22
-No.96-

◆ 徳島に行ってきました。
 来週の徳島でのシンポジウムを控え、あれこれ電話で県の方と打ち合わせを続けていました。でもパネルディスカッションのことでは、県の方々が大変に熱くてそして重い。
 コーディネーターを頼まれた身にとっては、当日パネラーの皆さんに初めて会っただけで、その方々の思いをうまく引き出せるのかどうか、心配になってきました。

 特に今回は、法隆寺調査のため26日から家を空け、奈良に二泊した後、前夜徳島入りをするので、前日に皆さんにお集りいただいて打ち合わせすることもできません。それで、昨日から一泊で徳島に行ってきました。

 空港に県の林業振興課T氏に迎えにきていただき、脇町や徳島市にお住まいのパネラーの方々にお会いすることができました。どの方も試行錯誤しながらもご自分の理想を追い求め、徳島にこの人有り、と言われる方々ばかりで、仕掛人の県の方々の思いを改めて理解することができました。

 文化遺産と森づくり、それを頭では理解していただけても、現実はやはり厳しいのです。実際の林業と結びつけて、少しでも明るい方向を見いだしたい、と願うたくさんの方々の思いをどう持って行けばいいのか。やはり重い。
 言い出しっぺの責任が問われているのでしょうか。う〜ん、う〜ん、、

 そんな訳で、昨日の朝6時に家を出て、8:50の飛行機で徳島へ。
 JASの機体点検のトラブルは徳島便には影響なく、種々の打ち合わせもちゃんとできて、今日は、予定通り徳島発15:00で帰ってきました。

 来週の本番を考えるとしんどいけれど、、、、その前に、さぁこれから晩ご飯の支度です。
 と言う訳で、今日はこの辺で。
 (あし)


2004/01/20
-No.95-

◆ オレオレ詐欺(下)

 先日、夜遅く帰る予定の私に、迎えに行ってやるから電話しろ、と出がけに夫が言ってくれました。だから帰る途中で電話をしたのですよ。
 あと20分くらいで国分寺駅に着くから、お願いしますって。

 でもいつも思うのですが、夫の声は素っ気ない。
 その日は特につまらなくて、もうちょっとなんとか言いようがあるでしょうに、、と思いながら電車を降りて夫の車を待っていました。

 来た来た。有り難く感謝して、車に乗り込み、それでも「ねぇ、もうちょっとなんか言って下さると嬉しいのに」と言おうとしたら、

「さっきの電話、ほんとに気がつかなかったのか?
私じゃなかったんだけど、、、」と不満そうな声。
「ぇ〜〜〜〜〜?!」 

 たまたま息子が戻っていて、電話口にでたのだそうな。
 う〜ん、やられた。

 だいたいこの息子、まだ学生の時のこと。
 ある日あんまり荷物が重かったので、近くの駅まで歩きで迎えにきてもらったことがありました。

 来た来た、と思ったら、なんだか見慣れない帽子をとっぷりとかぶって、サングラスをして、なんと私の前をスタスタと通りすぎて行くのです。

「ん?」
それで彼を追いかけて、「何してるの?」って聞いたら
「なんだぁ、わかっちゃった?」ですって。

 しかし、いくらひっかかったとはいえ、とにかく夫の声と聞き間違ったのは事実で、いや面目ないことで。
 
 子供にも良く言っておかないと。
 母が詐欺に引っかからないようにしょっちゅう電話しなさいって。

 今、郵便局なんかに「オレオレ詐欺に注意しましょう」って張り紙がしてありますが、おばぁちゃんやおじいちゃんに
「電話して、あなたの声を聞かせましょう」キャンペーンをやった方が効果あると思いますよね。
 でもあまりに突然電話したら、かえって不審がられたりして。
 でもそれでも、お話する方が良いと思いますよ。
 ではでは。
 (あし)


2004/01/19
-No.94-

◆ オレオレ詐欺(上)
最近のオレオレ詐欺のニュース、被害総額の大きさには、本当に驚かされますね。
お年寄りの気持ちを悪用した、許せない犯罪と憤慨しています。

 最近、そんな電話がかかったという話をしていたら、叔母もうちにもあったのよ、と。その電話は、叔父さんの名前でかけてきたらしいのですが、たまたまその日は家に本人がいて引っかからなかったとのこと。

 私の場合は、けだるそうな女性の声で、「わたし、わたしよ、わからないのぉ?」とわからないことを攻めるような口調でした。気の小さなお年寄りだったら強迫観念にとらわれて孫の名前を何人か口にしそうな言い方なのですよ。
 なに?これは、と戸惑っていると「どうしてわからないの?」などと、電話口の向こうからなお攻めてくる。

 最初は、友達のいたずらかと思ったのですが、ちょっとしつこいので「名乗りなさい」と言ったらプツンと切れてしまいました。
 後から考えたら、なるほどあれがわたしわたし詐欺かぁ、と思いましたが、お年寄りには、結構心理的に重く作用するだろうな、と思いましたよ。
 相手の声を聞き分けられないのは、自分の老化のせいではないか、なんてまず考えてしまうのでは、、、私でさえしょっちゅう言われることですが、、、。

 昔我が子が小さいとき、小学校に上がって初めての学芸会でのこと。
上の子が劇で役をもらってきたので、凄いね、良かったね、とつい喜んでおりました。でもなんだか下の子が、元気がないのに気がついて、どうしたのかと聞いてみました。

 最初は、なにも言わなかったのですが、そのうちぽつぽつ話す言葉を総合すると、「自分はみんなと一緒に歌うだけ。お兄ちゃんみたいに、劇に出られない。だからママに喜んでもらえない。」というのです。
 なんてことでしょう。兄弟を比べて育てているつもりは毛頭ないのに、子供はこんなことで小さな胸を痛めていたなんて。

 だからしっかり抱きしめてこう言ってあげました。
「ママは、○○ちゃんの声は眠っていたって聞こえるんだから。どんなにみんなと一緒に歌ったって、絶対わかるし聞こえるよ。だから大きな声で一生懸命歌ってね。ママも一生懸命○○ちゃんの上手な歌を聞くからね。」

 でもあの頃は、ほんとに聞こえたのですよ。子供たちが大勢で遊んでいて「ママァ」と言うと、隣の部屋にいても、その子のおかぁさんが、あ、あれうちの子、と言ってのぞきにいくのですよ。みんなで、どうして自分の子供の声ってすぐわかっちゃうのかしらね、ってよく笑ったものです。

 学芸会では、ほんとに大きなお口をあけて一生懸命歌っている我が子の声がはっきりと聞き取れて、胸が熱くなったっけ。
 
 さて、そんな凄い耳を持っていた母親がその後どうなったか、続きはまた明日。
 (あし)


2004/01/18
-No.93-

◆ 林業が担う日本文化の未来
  〜祈りの場と 心をつなぐ森林づくりを目指して〜

今回当会が後援、協力する1月29、30日の徳島でのシンポジウムのお知らせです。

第28回全国育樹祭記念行事
 徳島県は、古くから豊かな森林資源を活用し県内のみならず近畿圏にも多くの木材を供給してきました。また県内においては、四国霊場の他農村舞台等地域のコミュニティとして多くの木造建造物が存在しています。また「うだつの町並み」に見られるように伝統的建築物の保存を核とした地域振興の優良事例も見られてきています。
 第28回全国育樹祭記念行事として、林業と文化関係者との連携による地域林業振興の可能性と、文化財の保存、修復、復元材料の確保及び長伐期施業育林体系の確立等様々な課題について検討を行います。

日 時:2004年1月29日(木)、30日(金)
場 所:1/29 徳島プリンスホテル
    1/30 現地見学「うだつの町並み」意見交換会「脇町劇場」
プログラム
1/29 13:00から16:50(受付12:00〜)
○鼎 談
テーマ:「日本林業の未来を考える」
対談者:
◆加藤 鐵夫 (農林漁業信用基金副理事長、前林野庁長官、当会理事)
◆古橋 源六郎(財団法人ソルト・サイエンス研究財団理事長
       元林政審議会会長、当会代表)
◆伊藤 延男 (ICOMOS国際記念物遺跡会議国内委員会顧問、
       元イクロム日本政府代表、当会代表)
司 会:
◆内山 節(哲学者、当会代表)
       (なお当会は5人の共同代表制をとっております。)

○パネルディスカッション
テーマ:「林業が担う日本文化の未来」
パネラー:
◆三浦 茂則(林業家)
◆山田 真裕(徳島県農林水産部参事)
◆近藤 光雄(財団法人文化財建造物保存技術協会企画室長、当会理事)
◆原  強 (脇町役場職員:うだつの街並責任者)
◆森兼 三郎(古建築建造物調査研究会代表)
コーディネーター
◆ まことに恥ずかしながら当会事務局より「あし」が務めさせていただきます。 

1/30 9:30から14:20
見学地:徳島県美馬郡脇町「うだつの町並み」
意見交換会会場:徳島県美馬郡脇町「脇町劇場(オデオン座)」
テーマ「林業者と文化関係者の連携による地域振興の可能性」

参加申し込み及びお問い合わせは徳島県農林水産部林業振興課(担当者:山村、田中)088-621-2458 まで
なお当会会員の方は、当会事務局までお申し込み下さい。
 (あし)


2004/01/16
-No.92-

◆ 関西に行ってきました。
いろいろ用事があって、一泊二日で京都の仏教会、奈良法隆寺、大阪府南河内郡の太子町と行って参りました。

 14日は、朝7:30の電車に乗って、東京駅に。のぞみで京都まで行きました。  
 名古屋まではいいお天気だったのに、関ヶ原近くなると雪が降っていて、新幹線も徐行運転。
 昔住んでいた彦根での雪の中の生活を思い出しました。朝の雪かきが遅れると子供たちが学校に行くのに困るでしょと近所の奥様方に怒られたこともあったっけ、、。

 京都もぱらぱらと雪模様。京都仏教会に伺い新年のご挨拶やらいろいろお礼やら今後のお話も。
 その後法隆寺に伺い、ご挨拶と27〜28日の調査のお願いと打ち合わせ。

 翌、15日は、太子町で民家修復の興味ある取り組みがされているというお話を伺い見学に行ってきました。当会の理事のM氏や紹介して下さったO氏に前夜から合流し、同行させていただきました。

 うつそみの ひとなる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろせ)と我が見む
 
 謀反の疑いをかけられ処刑された天武天皇の皇子大津皇子が葬られたのが、二上山の雄岳。
 嘆き悲しんだ姉君の大伯皇女の歌でも有名な二上山の西に位置するのがこの太子町ですが、ここには、聖徳太子の御廟があり、それ守る為に推古天皇が建立された叡福寺があるのです。

 また、孝徳天皇陵、推古天皇陵、二子塚古墳、用明天皇陵、敏逹天皇陵、小野妹子の墓、ほかにもたくさん、豊かな歴史にあふれた町。

 1956年に磯長村と山田村が合併して発足(当時の人口は約6000人)、大阪のベッドタウンとして人口がいまでも増加している(現在14000人)という発展途上の町ですが歴史は文句なく古い。

 また石畳と家並の美しさが目を引く日本最古の官道「大道」が、今でも「竹内街道」として残っていてそのたたずまいは、歴史好きな方にもそうでない方にもこころのどこかが疼くようなたまらない魅力にあふれています。

 今回見学の物件は、その街道に面したまことに風情ある茅葺き屋根の旧家、その補修工事の方法が注目されているのです。

 町の文化遺産として残す為に尽力された教育委員会のI氏から直接お話を伺い、ぜひ皆さんをお連れすることができたらと思いました。こんなにいいお家が壊されないで良かった、と皆さんもきっと思って下さることでしょう。

 この見学がどう発展するかは、まだまだわかりませんが、取り急ぎ14、15日のご報告。

  やま様が、また本の紹介をして下さいました。ありがとうございました。
 松浦昭次著「宮大工と歩く千年の古寺」(祥伝社,1600円+税)
 お勧めの文は、情報交換欄をご覧下さい。
 
 ではまた。
 (あし)


2004/01/13
-No.91-

◆電車の中(その9)とんびを着た若い人
 昨夜は、6日に亡くなられた大蔵彌右衛門氏(能楽狂言方大蔵流二十四世宗家)のお通夜に新横浜総合斎場まで行ってきました。ファンだったという理由で。
 
 91歳とのことでした。一緒にお別れに行った友人と、私たち彌右衛門様の舞台を何度も見られて良かった、、と話したことでした。舞台は、テレビで見るのではなく、実際に出向いてその気を感じながら見ないとね。
 茂山千作氏が葬儀委員長と書かれてありましたが、今日の告別式には、きっと錚々たる方々が揃われることでしょう。

 新横浜というので、初めて八王子から横浜線に乗って行ってみました。国分寺から八王子までの中央線の車内、座っていた私の前に、とんびを着た男性が立ちました。
 
 とんびってお分かりですか?男性用の和服の外とう。
 昔は、よく年配の殿方がお召しになっていたものですが、最近は、だいたい男性の和服姿そのものが珍しいですものね。

 私の母は、インパネスと言っていました。昔の文学作品にも、時々出てきますよね。黒いインパネスを着て、中折れ帽をかぶり、、なんていう表現が。
 今の若い方々には、シャーロックホームズが着ているコート。と言った方がわかりやすいかもしれません。みごろだけのコートに袖から背中にかけて小さなマントが付いているような形のコートなのですが、それが男性の和服にもとても合うのです。

 かっこいいのですよ。マントを着ると人間威厳がでて偉そうに見えるものですが、そんな感じ。袖がひらひらして肩で風を切るように歩くと素敵に見える。

 でも、昨日見た男性は、40代くらいでしょうか。紬の着物に長めの羽織を重ね、その上に黒のとんび。そしてラクダ色のカシミアのマフラー。かわった柄の鼻緒の草履に、足袋がベージュの地に細長い葉と水玉をあしらった模様入り。
 変わり織の小さな手提げ袋を下げて、まぁ決まっていましたが、今時どういうお商売の方なのでしょう。なにしろ白でも黒でもない足袋が珍しかったので、しげしげと見てしまいました。
 あっ誤解しないで下さいね。たまたま電車で目の前に立たれたので見たのであって、普段からこう人をじろじろ見ている訳ではありません。エヘン

 しかし殿方が、こう見事ないで立ちでお出ましになると、女性も和服でなければ釣り合いが取れませんねぇ。
 日本文化の復興を、と唱える方々が皆さんこうした和服のお洒落を楽しんで下さったら、景気も少しは回復するかもよ。
 テレビでは、大島渚監督や野球の大沢監督が、よく和服で出演していらっしゃるけれど、渋くて素敵ですよねぇ。
 会社をやめてゆっくりしようという方、ぜひ紬の二〜三着も買って、それを着て奥様と町を歩いてみて下さいな。きっと世界が違って見えますよ。

 町に殿方の和服姿が増えたら、お店も和風になって木材の消費量もUPするのになぁ。
 ではまた。
 (あし)


2004/01/11
-No.90-

◆竹林の整備とお年玉
 昨日は、地域の仲間たちと、竹林の整備をしてきました。

 私たちの今年の仕事始めにと、仲間がおもしろがって頼まれてきた仕事なのですが、行ってみるとうっそうとした竹薮の有様。これって、一日で終わるのかしら、というのが最初の印象。

 そこは古くからの地主さんの所有する竹林なのですが、この凄まじさはどうしたことでしょう。
 ここ小平は、青梅街道や東京街道(場所によっては江戸街道ともいいますね)、五日市街道、鎌倉街道など、古くからの街道が何本も通っているところ。
 昔は、その街道に面して短冊のように細長く土地が区分けされていたようですが、奥から林、畑、屋敷、そして街道沿いに竹林を持つ家が今でもたまに見られます。

 この竹林。
 戦など、ことが起きたとき、街道沿いの竹を切り倒しておけば、馬が竹に足を取られるのを嫌がって中に入られない、という自衛の役目もあったのだそうです。
 大勢の人馬が街道を通過しても、畑などを荒らされない為の工夫。

 そんな訳で、「小平市保存竹林」という看板もでている由緒ある竹林なのです。

 朝の9時から10人が、作業を開始して、来年タケノコの期待できる若い竹だけ残してまぁ伐るわ伐るわ。チェンソー2台がフル稼働でバッタバッタと倒して行きます。
 でも竹って、上の枝葉の処理の方も大変なのよね。もう一人の女性Wさんと二人でその枝葉の処理をもっぱらやりましたが、鉈でエイエイと伐って、束ねて、運んで。
 束ねるのも大変。まず縄を敷いておいて、その上に山のように枝葉を乗せて、ヨッコラショッと足掛けて、体重かけて、結んで、運んで、山のように積み上げて、大奮闘しました。
 3時終了の予定が一時間もオーバーしてやっと終了。
 もうへとへと。

 それでも150坪ほどの竹林が見違えるようにすっきりと。
 感激したのは真ん中に大人が二人掛かりでやっと抱えられる程大きなケヤキがすっくリと立っていたのでありました。ほんとに素敵。

 途中でその家の主が作業を見にこられて、「お年玉だよ。」といって小さなポチ袋を10枚下さったのです。気持ちだからとおっしゃるのでありがたくいただいたのですが、あとで中を見たらトンでもない額。

 夕方また見えた当主様に、いただき過ぎですから、とお返ししようとしたら、「お年玉を返すなんて罰当たりなことをしたらいけないよ」と言われて結局ありがたくいただいてしまいました。
 でもその時おっしゃった言葉が、「いやぁ、嬉しいんだよ」と。

 こんなに喜んでいただけるなんて、良かった。
 いただいたお金は、皆さんの了解を得て会の会計に。他の作業の交通費に使えるので、みんなも大喜びでした。
 昨年も、別荘の庭木を伐ったり、ベンチの注文を受けたりといろいろみんなで活動する為の資金稼ぎをしたのですけれど、今年の資金をどうしようか、と悩んでいたところへ予期せぬお年玉をいただき、まずはひと安心。ほんとに春から縁起がいい〜。

 しかししかし、昨夜寝る時は、体が痛くて何度も寝返り。今朝起きてからもずっと、あちこち痛くて痛くてたまらない。
 普段いかに動かしてないか、ですけども、肉体労働とはこんなにきついものなのかと、改めて思いましたよ。ふ〜〜。
 (あし)


2004/01/09
-No.89-

◆ 電車の中(その8) 起こせない!
 昨年末に、電車の中で寝込んでしまっている人をさりげなく起こすには、なんて書きましたが、今日は似てるけどちょっと違うお話。

 以前、会社勤めをしていた時、夜、仕事先での打ち合わせも終わり、皆さんと一緒に駅まで帰った時のこと。

 入ってきた電車に先に乗り込んだ何人かが、やばい、やばいぜと降りて別の車両に移るのに付いて行きました。何事かと思いきや、座席に長々と寝ている人がいて、なんとそれが隣の課の課長さんなんですと。

 え〜っ、起こさなくていいのぉ?と言うと起こせるかいな、、という返事。
 「確か、俺たちが打ち合わせを始める前に帰ったよなぁ、二時間くらい前じゃないか?」「え〜っ、ではではもう二周もしてるわけ?!」
 
 さぁ、ここで問題です。
 あなたなら隣の課の課長さんを起こしますか?どうしますか?

 私?もちろん起こさない。だって山の手線でのうのうと横になって寝るなんて気持ち良さそ〜。そんな人起こしたら、せっかく気持ち良く寝てるのにって一生恨まれそうですもの。

 後から聞いた話。この課長さん、横になって寝ないまでも、帰宅途中の山の手線で何周も寝ているところを結構何度か目撃されてるらしい。お気の毒に、お疲れなのよねぇ。

 さてさて、新年になったと思ったら、もう9日も経ちました。2004年もあっという間に過ぎて行くのでしょうか。
 明日からはまた三連休。いかがお過ごしでしょう。
 私は、明日は、地域の仲間たちと市内の竹林の伐採作業です。
 ではまた。
 (あし)


2004/01/07
-No.88-

◆ 仕事始めのご挨拶
皆様お変わりございませんか?
 なかなか更新できずに申し訳なく思っておりましたが、何回かのぞいて下さったことと存じます。ありがとうございました。

 長かったお正月のお休みも終わり、でも私などは、普段手抜きの主婦業もあって、大変忙しい思いをいたしました。「ゆっくり休み中に事務局日記を書きためて、あとで楽しよう」と思っておりましたがとんでもないことで、その日の更新もままならず、まことに申し訳ございません。

 昨日は、私も仕事始め。会報の印刷で一日出ておりました。
 当会の紹介の為会報やリーフレットなど300部が必要となりまして、在庫もなかったのでまた印刷しなければ。
 何しろ某所にてコピー機をお借りしての印刷作業なので、100部の印刷にどうしても7時間はかかってしまうのですよ。その間に折って、合わせて、家に持ち帰ってからホッチキス止めの作業。
 クリスマスの頃に2日、そして昨日。でも終わらず9日にもう一回行って、なんとか10日には発送したい。
 今日は、リーフレットに挟み込む役員紹介の訂正版を作っています。

 昨年末に、プリンターとの接続もおかしいし、データが消えたらどうしようという強迫観念から逃れるべく、いよいよ新しいパソコンを買いました。
 今までのだって98年6月に買った時は、最新バージョンだったのにね!
 でも新しい方、いろいろ使い勝手が違っていて、なかなか慣れず、今日はプリンターとの初接続。順調でほっとしています。
 
 やま様。情報交換欄に新スレッド「図書紹介」を立ち上げて下さってありがとうございました。
「奈良の寺」奈良文化財研究所編(岩波新書,780円+税)早速買いましたよ。以前奈文研に松本修自様をお訪ねした時、「私も書いたんですよ」とおっしゃって新聞に連載された切り抜きのコピーをいただいたことがあるのです。今となっては、松本様のにこやかな表情とともに本当に懐かしい会話です。亡くなられたのは、この本が出た直後だったのですね。本当に誰がそんな悲しいこと想像したでしょう。でもこの中に、5編も残して下さっていて嬉しい。

 ではでは、皆様、せっせと更新を心がけて参りますので、今年もよろしくお願いいたします。
 (あし)


2004/01/01
-No.87-

◆明けましておめでとうございます。

 毎年、年末はお正月の準備で必死に過ごします。
 それだけでも忙しいのに、年賀状がずれ込んでくるともう大変。毎晩3時4時まで頑張るのですが、それでも終わらなくて、たいてい新年まで持ち越してしまいます。今年も懲りずに例年同様。そんなわけでまだ着かない方、本当にごめんなさい。

 だいたい、300通の宛名書きを手書きでしかも29日から始めるって言うのがもうすでに間違っていますよね。(27、28は母の実家にお餅つきに。早朝からひと臼に4升ずつ8回も!搗き手も重労働だけど返すほうも大変よ。)予定では、お餅つきに出発する前に、全て投函されている筈だったのですが。

 宛名を書いてからも必ず一言添えないとと思うのでなかなか進みません。う〜ん、来年は、パソコンで出そうかなぁ、と思いながら、きっとまたせっせと手書きで書いているのだと思います。筆で書く字は、下手で情無くなるけれど、それでも心だけは込めているつもり。

 とにかく今日も沢山の方々からお年賀状が届きましたが、元日に届くように出して下さる方ってホントに尊敬してしまいます。
 なかでも、ご自分の思いをメッセージとして伝えて下さる年賀状はいいですよね。「平和でありますように」というメッセージが今年は多かったです。

● ある方のは、「故宮博物館とボスニアの森林を訪れる機会を得て、平和を維持することの大切さを痛感しました。」というもの。
 私の身近にいる方がこんなこと考えているのね、と嬉しくなりました。
 
● またある方は、
さくら色は薄紅より淡い夕暮れの色。
瑠璃色は宇宙から見た地球の色。
 どうかこの美しい色が褪せることのありませんように。
 こんな素敵なメッセージを下さった。

● 考えさせられたのは、
 「前略・・補完性原理という言葉を耳にする機会が増えました。全ての事務はまず自治体で、どうしてもできないことだけを県、そして国がという考え方です。世界地方自治憲章の基調でもあります。
 しかし、その具現化のためには、ふさわしい規模と権能、職員体制を持ち、生活圏に合った形でコミュニティ自治や多様な市民活動を支えきれる器に自治体を再編しなければなりません。
 これが市町村合併の本当の目的です。・・後略」
というもの。モデル的自治体実現の為に奔走している方からのメッセージ。

● 一方、大分県の中津江村の知人からは、合併で村の名前が無くなるという悲痛な慟哭にも似たお手紙をいただきました。
 考えさせられています。

● 林業に携わる方々からは明るい未来を待ち望む声が多く寄せられました。
 「有害鳥獣の被害でサルを追いかけていますが、一日も早く不景気の波とともにサルことを願っています。」
 ホントにそうですよね。

● 情報交換欄で雪うさぎさんが、書き込みをして下さいました。ありがとうございました。
 情緒たっぷりの吊り橋とそれを守っていた村の人たちのお話です。みんなで守る、昔は共同体として暮らしの中に組み込まれていた様々な仕組み。

 それを一度壊してしまうと二度と復元できない、そのものだけではない、その仕組みまでも。もっとその意味を私たちは、よくよく考える必要があるのだと思いました。

 2004年、良い年になりますように。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。 (あし)