会報

第3号

語りかける徳島スギ-地域林業の歴史的考察(3)

 文化遺産を未来につなぐ為には、「森林と技術」両方を守っていかなければなりません。未来に目を向ける為に、その地域の歴史を検証しこれまでに至る必然と今後のより良い方向性を模索します。地域からシリーズ、まず徳島から、藩政や新政府との関わりなど興味深い史実を掘り起こしながら地域林業の歴史的な考察連載の3回目です。

かくしてスギは植えられた ―阿波林政史の謎―

1 130年生の杉
 那賀川上流の木頭村でスギ林分を調査した。長伐期施業の基礎データを収集するためである。林道に車を止め谷をわたって現場にいくと、周囲より一段背の高い林があった。事前に伐採されたサンプル木の年輪を数えると約130年生であり、明治7年(1874)頃の植栽であることがわかった。実は私は樹齢にとても興味があった。このスギが植えられた明治初期は林政の空白期とされ、政府は森林に対して放置に近い政策をとっていた。ところが、徳島藩はその間に独自の森林施策を展開するのである。

 徳島県の国有林率は5.77%(2000世界農林業センサス)である。今でこそ国有林がわずかながら存在するが、当時は皆無であったとされる。明治政府は民有地に地租を課す目的で土地の所有区分を行ったが、林野についても明治9年(1876)から、従来の入会地(村持林野)について、所有の確証のあるものを民有地、ないものを官有地(注1)とした。このため、多くの藩では藩有林を官林に編入していった。ところが、徳島藩の場合は対応(注2)が異なった。

 徳島県林業史によると、「明治2年から5年にかけてすべての藩有林は民間へ払い下げられた。

 この払い下げは家老井上高格の裁断で行われ、その販売金はすべて蜂須賀家に納入された」とある。           

 当時の資料として、藩庁の出先機関である民政出張所の職員による下札帳(さげふだちょう)が残されている。それは御林(おはやし)と称した藩有林を名請林として村民に払い下げ、床銭(とこぜに)、上木代(うわきだい)、年税を徴収した内容となっている。興味深いことに、この下札帳には明治4年5月の日付けが記されている。同じ年の7月14日に徳島藩は廃止となって、(注3)新しく徳島県がおかれた。つまり、この払い下げは藩の最後の仕事だったのである。

(注1)当時、林野は耕地と違ってまだ所有意識が薄く、封建的領有権のもとで慣習的に利用されていた。新政府は売買その他明白な実績のあるものだけに所有権を認めるという方針で臨んだので多くは官有となった。

(注2)京都大学林業問題研究会「林業地帯」は、「明治政府の林業改革は、払下政策をつうじて収入増加を企図したものであった。だが阿波徳島藩の場合、絶対主義官僚より役者は上であった。廃藩置県にともなう藩有林引渡しに先立つ明治2年、阿波藩家老は独断藩有林を払下処分に附し、代価収入はすべて県知事蜂須賀家のものにしてしまった。こうして国有林を全くみない徳島県の民有林業は出発するのであった。」と解説する。

(注3)慶応4年(明治元年)4月に公布された政体書により、地方行政は府、藩、県に分けられた。府と県は旧幕府や朝敵諸藩から没収した政府直轄地であり、知事などは中央から派遣された。藩は旧来の大名による支配がそのまま維持され、版籍奉還後に藩主は知藩事に任命された。明治4年新政府によって廃藩置県が断行され、3府302県が設置された。


2 庚午事変
 藩有林が払い下げられた頃、徳島藩では藩を二分する稲田騒動が起きる。明治2年1月に薩長土肥4藩主連署の版籍奉還の建白が出され、階層制は廃止され、士族と卒族に分けられた。諸藩の藩主は士族とされたが、徳島藩の家臣であった稲田家はその多くが士族とは認められなかった。そして騒動は、同年8月、旧家来たちが稲田家に対し士族編入を知藩事に嘆願してほしいと願い出たことに端を発する。

 知藩事蜂須賀茂韶は稲田家の士族編入に協力しこれを進めたが、新政府はそれを認めず出した結論は「稲田の士族編入を認めるかわりに北海道移住を命ず。」というものであった。稲田側はこれを拒否し、旧筆頭家老の稲田邦稙(いなだくにたね)を知藩事とする淡路分藩を願い出る。こうした稲田家の動きは徳島藩士の強い反発を誘うこととなる。

 明治3年5月13日、徳島藩の急進派士族が稲田家臣の註伐を決議し、ついに未明に決起する。大阪や洲本の稲田屋敷が襲われ、多くの死傷者が出る惨事となった。同年8月、太政官は関与した徳島藩兵らを処分し、その数は斬罪10名、流罪26名、禁固45名にのぼった。稲田家旧家来は士族籍は得たものの、北海道移住が命じられ、事件は終息した。これが世に言う稲田騒動(庚午事変-かのえうまじへん-)である。


3 蜂須賀と稲田
 稲田騒動を理解するためには、徳島藩が成立した時代にまでさかのぼる必要がある。藩祖、蜂須賀家政は太閤記でおなじみの蜂須賀小六正勝の息子である。

 小六は最初、美濃(岐阜県)の斉藤道三につかえ、その後、野武士の時代に木下藤吉郎とめぐり会う。信長は小六達を家来にし、秀吉に付属させる。小六の仲間には、稲田大炊助(おほひのすけ)がいた。蜂須賀と稲田はもともと同格であったが、秀吉はやがて蜂須賀を主とし、稲田をその客分として従わせた。 

 そして豊臣秀吉の四国征伐のとき、正勝、家政親子がともに阿波に進入し、戦功をたてたことから阿波国を拝領する。播磨龍野城主であった家政は阿波徳島17万5千石に封ぜられ、天正13年(1585)徳島に入封した。

 稲田は蜂須賀家の筆頭家老として仕え、脇町のほか淡路洲本城を預けられるなど特別の待遇を受けた。邦稙の父、稙誠(たねしげ)のときから淡路の海防を担当し、家臣は3千人にもなったという。

 幕末、蜂須賀家が日和見の態度をとったのに対し、稲田家は倒幕運動に奔走し、戊辰戦争でも官軍の一翼をになって活躍した。そうした事情から稲田家旧家来たちは士族への編入を信じて疑わなかったのである。


4 井上高格の人物像
 さて、話を藩有林払い下げに戻す。これを指示した井上高格とはどのような人物か「井上高格小伝」(羊我山人)からその人物像を見ることにする。

 彼は阿波における勤王の志士・維新の功臣であり、明治初期の傑出した人物である。慶応2年(1866)京都に行き、同地において尊皇攘夷論が盛んになった時、長州の桂小五郎らと会し、ともに京都大阪を奔走し勤王のために尽くし、阿波武士の面目を発揮したと伝えられる。慶応3年12月、藩内で勤王佐幕の諸論が対立したとき、京都から帰った高格らが勤王を首唱して大義を説き藩論を統一していく。明治元年藩主茂韶は兵を率いて江戸から、さらに奥羽へ向かった。このとき高格は朝廷から軍監を命じられ白河へ赴いている。明治2年1月、藩の職制改革により、高格は参政(注4)として軍事を担当し、7月には権大参事に任じられる。稲田騒動が起こったときは、事態収拾に徳島藩参政として奔走した。

 その性格は豪毅活達で人に屈せず、明敏果断で事にあたって裁決流れるごとく、談論風発、人の意表に出ることが多くあった、という。

(注4)明治元年10月、藩治職制が布告され、各藩に家老以下の重職の役職名が執政・参政に統一された。さらに、明治2年7月布告の職員令で藩庁幹部の執政・参政も府県と共通の大参事・権大参事・小参事に職名が改められた。


5 武士のリストラ
 徳島県農林水産部OBの西村宣昭氏は本県の国有林事情について疑問を持ち、「藩有林始末」を著している。井上高格の曾孫にあたる柴山格太郎氏とも直接会い、藩有林払い下げの真相について「祖父はわしが腹を切ればよいと考えていると言っていた」と語ったことを紹介している。そして払い下げは井上の独断専行ではなく、熟慮断行であったと結論づけ、藩主に責任が及ぶことを恐れた高格が熟慮の上、払い下げを行ったのだとする。高格は何を隠蔽しようとしたのか。

 版籍奉還後、明治4年7月に断行された廃藩置県は、270の大名たちが一夜にして消滅した明治維新以上に革命的なものであった。武士の特権は解体され、いわゆる秩禄処分(ちつろくしょぶん)により華族・士族の家禄が廃止された。政府のこの措置は、各地に士族の反乱を呼び起こす。

 この頃、諸藩は多額の債務を抱え、行政改革(注5)を余儀なくされていた。高格が行った藩有林払い下げ措置は、こうした社会情勢のなかで行われたのである。早い時期に稲田騒動が起き、政府の諸施策に敏感(注6)な藩主茂韶は危機意識を持ったであろう。

 また、稲田の北海道移住経費は藩から支出されたとされるが、藩有林払い下げの時期と奇妙に一致している。

(注5)千田稔「維新政権の秩禄処分」によると、明治2年の旧幕臣に対する政府禄制と比較して徳島藩はその削減率が低く、諸藩のなかでも余力があったとされる。徳島藩主茂韶は、家禄によって莫大な財源が使われる現状を指摘し、家禄の廃止を政府に進言している。

(注6)幕末、幕府との協調を唱える13代斉裕と勤王倒幕の丗子茂韶は対立した。斉裕の死去後、茂韶は14代藩主となり、藩は新政府側の旗幟を鮮明にする。4藩主の版籍奉還の後、明治2年1月、茂韶は他藩に先駆けて建白を提出し、さらに明治4年1月には政府に廃藩置県を建白するなど積極的な行動を見せる。


6 高格の歩んだ道
 高格についてさらに見ていくことにする。明治3年9月、稲田騒動の責任を問われて藩庁幹部は免職禁固となるが、高格は処分をうけなかったようである。そして翌4年8月に徳島県が設置されると、県政を統括する大参事に任命される。

 明治6年2月、遠州額田県(遠江国浜名地方)参事に転出を命じられる(注7)が、実質的な降格人事であったことからそれを辞退する。翌7年8月、自助社を結成し自由民権運動を展開するが、旧藩士によびかけ自助社社員は2000人にもなったと言われる。しかし明治8年に発布された立憲政体樹立の詔書を私的に解釈した通諭書を配布したという罪に問われ、同年6月自助社幹部らと投獄される。

 1年の刑を終え出獄した高格はその後実業界へ転進し、県下の殖産興業に関わったようである。那賀・海部の杉材を伐り出して大阪関東に移出する事業も企てたとされるが、細は不明である。その後、明治22年初代徳島市長に就任した後、翌23年の第1回総選挙に自由党系から立候して当選するのである。

(注7)明治4年11月には徳島県は名東県と改称され、阿波・淡路の全域を管轄する。明治6年2月、政府は土佐の林茂平を名東県権令に任じ、高格に転出が命じられる。


7 それぞれの道
 さて、稲田家はその後どうなったのであろうか。明治4年2月、稲田家の先発隊47名は北海道に出発する。つづいて稲田家家臣とその家来の第一陣137戸546名が同年4月に洲本を発ち、5月に北海道日高郡静内に上陸する。開拓は困難を極めたようである。そんな中、7月には火事で国元から運んできた家財のほとんどを焼いてしまう。さらに8月には紀州沖で第二陣214人が乗った船が暴風雨で難破し、そのうち83名が死亡するという惨事が起こる。

 稲田邦稙(注8)をはじめとする開拓団は、荒野に徳島から持参した藍を植え、牧草地を整備して牛馬の放牧を始めた。藍は根付き、明治20年頃には阿波藍商を動揺させるほどの北海道産藍が関東に進出したという。静内開拓に努力した邦稙はその後、華族に列せられる。静内は、いまでは競走馬の国内有数の産地として有名である。サラブレッドは彼らの子孫たちによって育てられたのである。

 一方、知藩事茂韶は監督不行届きで謹慎処分となる。騒動では政府に稲田家旧家来の士族編入を副申し、藩兵に対しては暴挙を慎むよう諭したが、事態を止めることができなかった。事件後、首謀者に対する政府の判決は斬罪であったが、茂韶の嘆願により切腹と改められたとされる。廃藩置県後、茂韶は知藩事の職を解かれる。そして華族に列せられ、明治4年12月徳島を発ち、洲本から東京へと向かう。数ヶ月前に稲田家が旅だった洲本の港で、茂韶は何を想ったのであろうか。

 茂韶は、その後イギリスに留学したのち、文部大臣や貴族院議員として活躍し、多数の企業を興して日本経済の近代化に大きく貢献した。また、明治22年に三條実美らと北海道開拓を試み、明治26年には蜂須賀農場を創設する。北海道で稲田邦稙との再会があったかどうかは定かではない。

 ちなみに、明治4年3月に茂韶の長男が生まれているが、その子を高格に預け、明治7年東京の邸に帰すまで養育させている。このことから高格との親密な関係を知ることができる。

(注8)北海道立文書館に所蔵される「開拓使公文録」には稲田邦稙(当時15才)に日高国の静内郡と志古丹島の開拓を命じた文書が残されている。北海道と徳島の関係は深く、西日本最大の移住県でもある。江戸時代後期に蝦夷地交易で活躍した高田屋嘉兵衛(徳島藩の淡路出身)、幕末の樺太探検で有名な岡本韋庵、明治35年に72歳の高齢で開拓に乗り出した関寛斎(「人生余熱あり」城山三郎著に詳しい)らがいる。


8 徳島すぎは何を語るのか?
 このように、近代以降における本県林業の出発点となった明治初期の所有形態は、他の都道府県と大きく異なることとなった。それは井上高格や蜂須賀茂韶、稲田邦稙らが主役となって繰り広げられる政治的混迷と無関係ではないようである。

 そして、その遠因は蜂須賀入封以前の遠い昔、すなわち小六と稲田大炊助との関係にまでさかのぼる。

 いまのところ、藩有林払い下げの真相は謎に包まれたままであるが、木頭地域では明治以降スギの植林や産地化が進み、全国屈指の林業地帯を形成するのである。資料も少なく今では知るよしもないが、空にそびえる徳島すぎは我々に何かを語りかけてくれているような気がする。


 (参考・引用文献 ) 1 「林業史・林業地理」山本光著 明文堂 (1958) 2 「林業地帯」京都大学林業問題研究会 高陽書院(1956) 3 「徳島県の百年」三好昭一郎ら著 山川出版社(1992.3) 4 「図説 徳島県の歴史」河出書房新社(1994.1)  5 「江戸時代人づくり風土記36徳島」(社)農山村漁村文化協会(1996.10)  6 「徳島藩史読本(一)」三好昭一郎 阿波ポケット文庫(1998.5)   7 「北海道開拓と徳島の人々」 徳島県立文書館(2000.8) 8 「藩有林始末」西村宣昭著(1988.1) 9 「井上高格小伝」羊我山人著 徳島市民文化(1953)  10「大名の日本地図」中嶋繁雄著 文春新書(2004.11)  11「秩禄処分ー明治維新と武士のリストラ」 落合弘樹著 中公新書(1999.12)  12「明治という国家」司馬遼太郎著 日本放送出版協会(1989.9)