第4号

語りかける徳島スギ-地域林業の歴史的考察(4)

未来に目を向ける為に、その地域の歴史を検証しこれまでに至る必然と今後のより良い方向性を模索します。地域からシリーズ、まず徳島から、藩政や新政府との関わりなど興味深い史実を掘り起こしながら地域林業の歴史的な考察連載の4・5回目です。

第4話 ―平家伝説

1 寒峰を越えた落人たち 

 治承七年(1183)源義仲の軍勢は都に攻め入った。平家はあっさりと都を捨てて西国に走り、いったん福原に下り、さらに海路を西に向かい太宰府に入る。その後、讃岐屋島に都を移し、瀬戸内海沿岸を中心に次第に勢力をもり返していった。

 源義経は、屋島に拠った平家を背後から襲うため、阿波に上陸し、大阪峠から讃岐に入り屋島を攻略した。このとき、義経の主従は阿波国で田口成良 注1)の弟、桜庭介良遠の居城を急襲し、これを破ったとされる。文治元年(1185)平家は義経によって屋島を攻められ、ついに壇ノ浦(下関市)で敗れ去る。

 伝えられるところによると、中納言平教盛の子、国盛 注2)は文治元年(1185)二月、二百余騎を率いて讃岐国の志度(屋島周辺)において義経の軍と戦った。互いに大きな損害を受けたが、すでに平家の兵船は志度湾から去り、国盛らは乗り遅れてしまった。このため、仕方なく百余騎と共に白鳥、水石に暫く滞留した後、阿讃山脈を越え阿波国に入った。吉野川を越え、金丸(三加茂町)から井ノ内谷(井川町)を経て小祖谷をすぎ、寒峰(標高1605m)を登って祖谷にのがれたという。すでに年の暮れ、一二月となっていた。

 早田健治著「阿波の一○○○m峰」に「流れるような女性的な山容とさえぎるもののない大展望で知られる」と寒峰が紹介されているが、そこに至るまでの道は険しい。平家の武士たちはあてもなく祖谷をめざしたのだろうか?冬のさなかでもあり、はっきりとした目的地でもない限り、越えられるような所ではないはずである。

注1)清盛は承安三年(1173)、日宗貿易の拠点としていた摂津国大輪田泊(現在の神戸港の西部)に防波堤を築くこととし、田口成良に奉行を命じ、同年、難工事を竣工させた。

注2)国盛が祖谷に入ったというのは史実と認められず伝説として扱われている。

2 祖谷の勢力

 平家落人が目指した祖谷は日本三大秘境に数えられる。剣山(1955m)を源流とする祖谷川は深い渓谷をなし、四国山地を縫うように流れ、吉野川に注ぐ。大正九年(1920)に祖谷川沿いに道路ができるまでは、祖谷に至る道は山越えの難所であった。

 古くからこの地方は祖谷山と呼ばれ、中世以来、小領主(土豪)たちが名(みょう)と呼ばれる支配地を所有していた。また、隣接の木屋平村から山川町、美郷村までの地域は種野山(たねのやま) と呼ばれる国衙領(こくがりょう) 注3)で、国衙の役人が租税を徴収 注4)した。種野山には、古代の阿波忌部の流れをひく木屋平の三木氏や松家氏がいた。彼等は祖谷山の菅生氏、落合氏などとともに南北朝の時代には阿波山岳武士とも称され、北朝方に屈せずよく戦ったとされる。松家家には、南朝方の山伏によってもたらされたという、「もとどりの綸旨(りんじ)」がいまでも残っている。また三木家は、天皇即位の大嘗祭に、必ずあらたえの布 注5)を献上する。これらのことから、阿波が中央の権力と何か深い関わりのあったことが推察される。

注3)種野山が開発されたのは平安時代に遡ると見られ、租税を徴集するための行政単位として編成したとされる。国衙とは阿波国の政庁で今の徳島市国府町府中にあった。

注4)諸国の荘園・公領から中央に納められた年貢は、米ばかりではなく様々な品目にわたり、林野のものも含まれた。阿波からは紅花、材木、油、炭、薪、檜皮が貢進された。

注5)あらたえとは麻の繊維である。古語拾遺(807年)に「天日鷲命木綿及麻井織布を造る」とあるが、天日鷲命(あめのひわしのみこと)は阿波の忌部(いんべ)の祖である。

3 落人の想い 

 以前から、なぜ平家は祖谷を目指したのかが気になって仕方なかった。網野善彦氏は、平清盛が西日本国家の形成を目指していたと指摘する。治承四年(1180)に突如として福原(神戸)に遷都したのは、瀬戸内から九州、さらに大陸までの水上交通を掌握するためであった。清盛は平家一門を諸国の頭領とし、さらに知行国主 注6)とした。そうして日本六六ヶ国のうち三○余ヶ国を知行したが、その国々は圧倒的に山陰、山陽、南海道が多かった。その勢力はさらに九州にも広がったが、狙いは日宋貿易の掌握であった。つまり祖谷の勢力は平家とつながっていたのかも知れない。

 近世に至り、阿波に入封(1585)した徳島藩の藩祖、蜂須賀家政は検地を実施し、土豪層の領地を没収しようとしたが、彼等は猛烈に反抗した。家政は足かけ六年をかけ武力で鎮圧を図るとともに、反抗しなかったものを厚遇し既得権を認めた。結局、検地は行われなかった。

 その後、祖谷山では元和三年(1617)徳島藩の刀狩りに反対して、一八人の名主が住民六七○名を率いて徳島城下に強訴する。首謀者は斬首されてしまうが、祖谷の歴史をみていくと、時々に為政者に対する抵抗がみられる。それは平家の誇りだったのだろうか。

 徳島県林業史には「家政の妥協的鎮圧が、阿波の山間部に中世的諸相を長く残存せしめる要因となった」とある。山間部の支配形態はその後の森林所有に影響を及ぼしたが、土豪層への藩支配は徐々に浸透し、延宝期(1673〜1680)までには山林は藩に召し上げられていった。

 私は、祖谷の歴史と、寒峰に至る道の険しさを想うとき、落人はただあてもなく落ち延びたのではないと確信する。祖谷の勢力を頼り、捲土重来を期して寒峰を越えたのである。

注6)知行国制度は公家、貴族の封禄制度として生まれ平安末期に至り著しく発展した。


(引用・参考文献) 1「東と西の語る日本の歴史」網野善彦著 講談社学術文庫(1998.9) 2「平家後抄(上)」角田文衛 講談社学術文庫(2000..6) 3「阿波の1000m峰」早田健治著(1987.9)  4「徳島県の歴史」 福井好行著 山川出版社(1973..1) 5「図説 徳島県の歴史」 河出書房新社(1994..11) 6「江戸時代人づくり風土記36 徳島」農山漁村文化教会(1996.10) 7「ジャパンクロニック 日本全史」講談社(1991.3) 8「徳島県林業史」(1972.3)

第5話 古代の阿波の山々

1 古事記の世界

 古事記 注1)の国生み神話に描かれているのは、四国周辺の物語であるという。イザナギ、イザナミは天からオノコロ島に下り、淡路島、伊予之二名島(四国)、隠岐之三子島、筑紫島、伊伎島(壱岐)、津島、佐度島、大倭豊秋津島(畿内一帯)の順に国を生み出す。この八つを先に生んだのでわが国を大八島国という。さらにイザナギ、イザナミは吉備児島、小豆島、大島、女島、知カノ島、両児島(五島列島の男女群島)の六島を生む。

 次田真幸氏は、「淡路島から始まって四国、九州、壱岐、津島の順に瀬戸内海をへて大陸に通う航路にしたがって西に進んでおり、畿内以東は全く考慮されていない。この神話は、淡路島を基点として形成された、古代の政治地図の姿を示している。」と分析している。

 古事記の物語を続ける。イザナミは国を生み終えた後、岩、土、海、河、風、木、山、野など三五の神を生み、火の神を生んだのがもとで死んでしまう。イザナギは泣き悲み、遺体を出雲と伯伎の境界の比婆山に葬る。妻を諦めきれないイザナギは黄泉(よみ)の国を訪れ、イザナミの変わり果てた恐ろしい姿に逃げ帰ってしまう。イザナギは「私はなんといやな穢らわしい、汚い国に行っていたことだろう。だから身体を清める禊ぎをしよう」と筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)で禊ぎ祓えをした。

 一方、日本書記には「イザナギは黄泉国を訪問したかえり、そのケガレを払おうとして、粟門と速吸名門を見たが、潮流が烈しく速いので橘小門にかえって払い濯いだ」とある。この記述について、松前健氏は阿波の鳴門こそイザナギの禊の舞台でないかと考察する。

 谷川健一氏も、淡路の島神であったイザナギの禊ぎの場所は淡路島周辺であると考えるのが自然であり、合理的であるとし、橘の小門は徳島県阿南市の橘湾であり、粟門は鳴門海峡のこと、速吸名門は明石海峡のことではないかと推察する。もしそうなら、神々の時代から阿波は開かれ、山々にもたくさんの人々が生活していたことであろう。

注1)古事記の成立は和銅五年(712)。推古天皇(554〜628)までの事を記述している。

2 空海の足跡

 古代の阿波の山々を、空海の足跡から追ってみたい。木頭林業地帯が広がる那賀川上流の鷲敷町、相生町、上那賀町、木頭村、木沢村の五ヶ町村 注2)は丹生谷(にゅうだに)と呼ばれ、その谷の入り口、ちょうど鷲敷町と阿南市との境に大龍嶽(618m)がある。

 延暦一二年(793)一九歳の空海はここで虚空蔵求聞持法(こくうぞうくもんじほう)を会得した。記憶力が格段に高まる修行法だという。その著「三教指帰」には阿波国大龍嶽や土佐室戸崎で修行し、谷響きを惜しまず、明星影を来す」と自然と一体となった感応体験を記している。なぜ空海は修行の場にここを選んだのか?大龍嶽は、司馬遼太郎氏の言葉を借りれば「拍子ぬけするほどに低い山」である。

 四国八十八カ所は、延宝・天和(1673〜83)の頃、真言宗の僧、真念が四国の山川を跋渉(ばっしょう)して弘法大師の霊場を踏査すること十数回に及び、おおいに巡拝の功徳を説いたのが始まりという。各札所に伝わる空海伝説は、水との関わりが深い。村人が飢饉で困っていたとき、空海が杖をつくと、そこから水が湧きだしたという。

 空海は治水技術に長けていたようで、実際に香川県の満濃池は空海が行った工事 注3)だとされる。八十八カ所の道筋をたどると、洪水や渇水に苦しめられた地域が重なるが、ここで注目したいのは鉱脈「辰砂」との関わりである。

注2)合併により、平成一六年三月に那賀町となる。

注3)弘仁一二年(821)空海四七歳のとき、朝廷から四国満濃池修築別当職を命じられる。

3 八十八ヶ所の謎

 実は大龍嶽に連なる若杉山は明治二二年に辰砂の大塊が発見され、水銀鉱山が経営された所 注4)である。戦後になって遺跡が発掘され、その歴史は弥生末期から古墳時代に遡る可能性がある。

 辰砂は広辞苑に「水銀製造、赤色絵具の主要鉱石。朱砂、丹砂。」とある。水銀朱は原石を破砕し取り出され、精製されて銅鐸などに塗られた。色あざやかな赤色の顔料ともなり、朱の赤い色は古墳にも使われた。辰砂は丹とも呼ばれる。つまり、木頭林業のある丹生谷は、辰砂の生産される谷ということになるだろう。

 さらに中央構造線に沿った地域も辰砂の出土地であった。吉野川下流域の郡頭遺跡(板野町)からは朱が精製された集落が発掘され、名東遺跡(徳島市)、鮎喰遺跡(徳島市)などからも朱の精製に用いたと思われる土器片などが出土している。八十八ケ所の一番霊前寺から二一番大龍寺に至る道筋は辰砂の産地と奇妙に一致する。

 空海が三教指帰を著してから入唐までの七年間の足跡は謎とされている。奈良時代、東大寺の大仏造営にかかわった行基は社会事業や治水事業でも有名である。鑑真は戒律だけでなく,建築・彫刻・薬学など様々な学問を我が国に伝えたといわれる。空海が四国の鉱物資源にも着目し、事業化を図ったことは想像し得る。

注4)当時の日本の水銀の大部分を産出したといわれる。

4 古代の阿波の山々

 日本各地に水銀鉱床が分布するが、こうした中央構造線上に分布する大和・阿波の水銀鉱床群は、魏志倭人伝に其の山に丹 注5)ありと記された、鉱山の可能性を有する指折りの水銀鉱山であった。ちなみに同書には「その木に@(タブ)、杼(コナラ)、豫樟(クスノキ)、揉(クサボケ)、櫪(クヌギ)、投(カヤ)、橿(カシ)、烏号(カカツガユ)」、楓香(カエデ)あり。」 注6)と、古代の森林植生がいきいきと描かれている。苅住昇氏によると、邪馬台国の植生は日本南部に発達する暖帯照葉樹林に属するという。この記述に、古代の阿波の山々が重なって見える。

 空海が修行した大龍獄に近い辰砂の採掘現場や、吉野川下流域の朱の精製所では多くの人々が働いていたことであろう。空海が歩いた四国の山野はいつも人々で賑やかだったであろう。そこに寺ができ、信仰の核となっていった。空海を抜きにして四国の山々を考えることはできないようである。

注5)魏志倭人伝に「朱丹を以て其の身体に塗る」とあり、魏への贈答品に朱が含まれていたことが記載されている。

注6)苅住昇氏「邪馬台国植生考」林業技術334号(1970)による。

(引用・参考文献)
1「阿南市史」(1987.3)
2「空海の風景(上)」司馬遼太郎著 中央公論新社(1978.1)
3「弘法大師空海の求めた世界—聖地高野山と四国の空と海展」資料(2004.6)
4「徳島県の歴史」福井好行 山川出版社(1973.1)
5「日本の伝説」柳田国男 新潮文庫(1977.1)
6「古事記(上)」次田真幸著 講談社学術文庫 (1977.12)
7「日本の神々」谷川健一著 岩波新書 (1999.6)
8「日本の地名」谷川健一著 岩波新書 (1997.4)
9「「日本の神々」松前健著 中央公論新社(1974.9)
10「図説 徳島県の歴史」 河出書房新社(1994.11)
11「魏志倭人伝の考古学」佐原真著 岩波現代文庫(2003.7)
12「森と人間の文化史」只木良也 NHKブックス