会報

第1号 2003年5月13日発行

語りかける徳島スギ−地域林業の歴史的考察(1)

 文化遺産を未来につなぐ為には、「森林と技術」両方を守っていかなければなりません。未来に目を向ける為に、その地域の歴史を検証しこれまでに至る必然と今後のより良い方向性を模索します。地域からシリーズ、まず徳島から、藩政や新政府との関わりなど興味深い史実を掘り起こしながら地域林業の歴史的な考察を6回連載でお届けします。

 徳島県の歴史を紐解いていくと、謎めいたことがたくさんあることに気づきます。自分なりに疑問点を一つ一つ整理していくうち、本県の森林、林業はそうした歴史や文化、風土と密接に関わりながら展開してきている、ということを漠然と感じ始めました。この小稿は、5年ほど前から林業職員で運営するメーリングリストに、そうした想いを投稿してきたものをまとめ直したものです。もとより歴史などには門外漢、未熟な考察についてはご容赦ください。皆さんの地域林業を考えるきっかけとなれば幸いです。

第1話 徳島すぎの育った風土ー阿波水軍と森林との関わりー
1 東に向かう地形
 徳島県の県土の7割は山地で占められる。阿讃山脈と四国山地が東西に走り、その山々の間を河川が縫うように流れている。「四国三郎」吉野川はその源を遠く瓶が森(かめがもり:高知・愛媛県境)に発し、また「阿波八郎」那賀川は、四国第二の霊峰、剣山(標高1955メートル)の南斜面から流れ出す。そして2つの大河の流れは紀伊水道に注ぐ。

 こうした東西方向に向かう地形は地質構造による。すなわち、本県には3つの大きな構造線が走 っている。構造線がある所では岩石が破砕され、 風雨によって浸食され、窪地や谷となり、断層の間は浸食から免れて高い山地が残る。徳島県の山や川が東西に向いているのはこうした地質構造に由来するのである。そしてこの地形は、大消費地である近畿に向かう道として機能してきた。

 その昔、高知白髪山で伐採された天然桧は吉野川を流筏し、鳴門撫養港から大阪に運ばれた。一方、木頭で伐採された樅、栂、杉などは盤に挽かれ、那賀川を流筏し、河口から大阪市場に向けて送られた。このように徳島の地勢をみると、徳島すぎをはじめとした県産木材が流通した、近畿への海の道が開けていることがわかる。

2 徳島すぎと地質
 徳島県の地質構造は、構造線を境に和泉(いずみ)帯、三波川(さんばがわ)帯、秩父(ちちぶ)帯、四万十(しまんと)帯に分けられ、各帯は北から南に配列する。和泉帯の南縁には西南日本の地質を二分する中央構造線が通り、吉野川はここに沿って東進する。

 三波川帯の南縁には御荷鉾(みかぶ)構造線が通る。小松島港あたりから東祖谷山村京柱峠にかけては、佐那河内、神山、木屋平、祖谷などの小盆地や低地が並ぶ。ここは古く南北朝時代には、吉野と九州を結ぶ連絡道として利用された、と言う地域には地すべり地帯が多く密集している。地すべり地帯は土地の生産力が高く、人々の生産の場となった。このあたりの山々に集落が多く点在するのもこのような地質構造に起因する。県外からはじめて徳島、特に吉野川流域の町村を訪れると、山々に集落が点在するのに驚く。東北などに比べ、四国の山々が早くから開発されているのは、この辺に理由があるのだろう。

 ちなみに、那賀川に沿った地域にも小盆地や低地が連なっている。阿南市中林町から大竜寺山、上那賀町小浜、四つ足峠に至る仏像(ぶつぞう)構造線が通っているからである。製材業を営む古老に聞くと、「那賀川の北岸と南岸でスギの材質が異なる」と言う。これはたぶん秩父層と四万十層との地質の違いであろう。

3 徳島すぎと気候
 本県の気候は多様で変化に富んで いる。吉野川と阿讃山脈に挟まれた 県北部は瀬戸内気候に属する。一方、 四国山地の剣山山系を中心とした山 岳部は日本海側気候(山岳気候)で、 南国ながら季節風が強く積雪も多い。 また剣山山系の南面から海岸部にか けては太平洋側気候に属している。

 吉野川の北岸は降水量が少ないのに加え、阿讃山脈の痩せた地質構造のために土壌が発達せず、もともと松や低木広葉樹が生育していた。さらに鳴門の製塩や阿波三盆糖の製造で乱伐が進んだ、とも言われる。一方、吉野川南岸から剣山の周辺地域にかけては、全国有数の多雨地帯である。木頭村日早の日雨量1,114ミリ(1976.9.11)は今でも我が国の最高記録となっている。このような高温多雨の気候と地質から樹木の生育に適した肥沃な土壌が形成され、山々には天然性の樅、栂、杉を中心とした針葉樹と多くの広葉樹が繁茂してきた。

4 徳島すぎのルーツ
 とくに那賀川上流の木頭地方は気候、土壌条件 に恵まれていた。木頭周辺の地域は急峻な山岳地帯で農耕地が少なく、古くは焼畑農業が行われていた。そこではアワ、ヒエ、ミツマタなどが耕作され、焼畑跡にはスギが植えられた。木頭スギはジスギと呼ばれる母樹から種をとったという。そのルーツは、ヤナセ系統(ヤナセ杉は高知県の天然林として残っている)とも言われるが、定かではない。

 吉野川上・中流域の三好郡、美馬郡などの山村においても、広葉樹による木炭の生産が盛んになり、その伐採跡地にミツマタやタバコを栽培し、最後にスギを植えるという林地利用が進んだ。水を好むミツマタは杉と相性が良いため、こうした地域において杉植林地が拡大していったものである。

 以上述べたように、スギが植えられてきたのには必然性があると考えている。その土地の風土にくわえ政治経済の状況によっても森林の成り立ちは変わってくる。次節では、藩政時代の山林政策からそのあたりを探ってみたいと思う。

5 藩政時代の山林政策
 藩政時代には藩の財政強化のため藍とともに林業(天然木の生産)の育成に力が注がれた。藩主蜂須賀家政は慶長11年(1606)に「奥山定書(おくやまさだめがき)五か条」を定め、山林竹木を藩主自身が領有する方向を示した。その中では、立木を保護することや、農民が山林のことで口論することが固く禁じられた。代官でさえ竹木の伐取が禁じられていた。

 徳島藩には阿波水軍と呼ばれる一団があった。城下の安宅(あたけ)は、水軍の軍艦を保管する軍港として機能した。そこには安宅御船野(おふねや)という船を建造、修理できる施設があり、おおぜいの船頭、加子が住んでいた。阿波水軍の軍用船確保のために、特に林野はとくに重視されたと考えられている。安宅御用木(ごようぼく)として五カ年ごとに藩内山林の大木を明細に報告させ、計画伐採した。

 大切にされる樹木が具体的に指示された。真木(まき)として槻(つき、ケヤキの古名)、樅(もみ)、栂(つが)、杉、桧。五木(ごぼく)として松、椚(くぬぎ)、杉、桧、楊梅(やまもも)。そのほか十二木として杉、桧、槻、栂、槙、楠、柿、杼、桐、桑、榧、朴の決められた樹種の伐採を禁止し、雑木などの伐採だけが許された。藩の財政をこうした森林資源が支えていたのである。

6 阿波水軍の活躍
 そもそも阿波水軍とは何か?古代から瀬戸内海を中心とした西日本の海域では漁労や製塩に従事する漁民たちが活発に活動した。その中には、巧みな船の操縦技術を生かして広域的な交易に関わり、海の豪族となるものがあった。豪族たちは水軍を組織し、戦国時代には伊予の河野一族、能島・来島・因島の村上一族が活躍した。一方、阿波国の沿岸、播磨灘から紀伊水道にかけては森氏一族がいた。

 天正13年(1585)、秀吉の四国平定の先鋒となった蜂須賀家政は土佐泊(鳴門市)を拠点とする森氏と結び、海上勢力として活用した。これが「阿波水軍」と呼ばれるものである。家政は森氏を家臣団に編入し、城下に本拠地を移させ、水軍を統括させた。船大工達は安宅村に集められ、椿泊(阿南市)は水軍の訓練場とされた。さらに阿波水軍は、秀吉が全国統一を図るため行った九州島津の攻略(1587)や小田原攻め(1590)、さらには朝鮮出兵(1592,1597)、大阪冬の陣(1614)で大きな働きをしたのである。

 徳川の安定期に入ると、阿波水軍は参勤交代のときの警護役として重用された。阿波水軍は徳島から大阪までの藩船の海上移動を担った。藩主の乗船する御座船を囲む、百艘を越える船団は壮観そのものだったという。

 こうした水軍の造船廃材は船大工に払い下げられた。船大工が内職として始めた下駄、建具類などの木工品製作は、のちに徳島市での木工家具製造へと発展することととなる。

7 近畿との流通ネットワーク
 このように、紀伊水道から広大な海路が開けた、阿波水軍が活躍した徳島県の地勢は、一方では海運の発達を促した。

 文安2年(1445)の兵庫北関入船納帳(ひょうごきたぜきいりふねのうちょう)には、1年間に阿波の船が122回入関し、このうち海部に船籍を持つものが56回と記録されている。海部のほか阿波南部の港に船籍を置く船をあわせると全体の9割を占めることから、その頃に阿波国南部で海運が盛んであったことがわかる。これら南部の船は100?200石と大型で木材や榑(くれ:屋根葺材)を運んだ。さらに古くは元応2年(1320)の「那賀庄内大由郷文書」(なかのしょうないおゆごうもんじょ)には、京都下鴨神社の造営に木頭産材を寄進した記述がみられる。これらのことから徳島県の南部は木材の一大産地であり、古い時代から近畿への太い海運ルートが形成されていたのは確かである。

 こうして見ていくと、徳島の森林林業は海との関わりを抜きにしては語れないことがわかる。徳島すぎが植えられた背景には、海を越えて利用されてきた長い歴史があったようである。



 (参考・引用文献 )
1 「徳島県の地理」徳島県地理学会 (1995.5)
2 「徳島県地学ガイド」コロナ社(2001.7)
3 「図説 徳島県の歴史」河出書房新社(1994.11)
4 「江戸時代 人づくり風土記36 徳島」農文協(1996.10)
5 「徳島県の海を考える」(財)とくしま地域政策研究所(1998.11) 
6 「日本社会の歴史(中)」網野善彦 岩波新書(1997.7)