会報


語りかける徳島スギ-地域林業の歴史的考察(2)

 文化遺産を未来につなぐ為には、「森林と技術」両方を守っていかなければなりません。未来に目を向ける為に、その地域の歴史を検証しこれまでに至る必然と今後のより良い方向性を模索します。地域からシリーズ、まず徳島から、藩政や新政府との関わりなど興味深い史実を掘り起こしながら地域林業の歴史的な考察連載の2回目です。

君は高磯山を見たか ―那賀川流筏史―

1 川との関わり
 徳島県の森林林業を語るとき、川との関わりを無視するわけにはいかない。昔の物資輸送には、川が利用され、地域の生産活動を支えた。陸上輸送に慣れたわれわれにはピンとこないが、その往来は想像を超えるほど活発であった。

 吉野川では平田船が運行し、河口から約80キロ上流の川崎(三好郡池田町)まで航行が可能であったという。春・夏の季節は帆に東風を受け川をさかのぼり、秋・冬には船頭が川岸に沿って曳き上げた。一方、那賀川では、高瀬船が谷口(上那賀町)から下流の岩脇(羽ノ浦町)・中島(那賀川町)の間を就航した。

 この稿では、木頭林業が発達した那賀川を例にとり、川を介して成り立った流域の林業を概観してみたい。


2 那賀川の流送
 徳島県の那賀川上流域に広がる森林地域は木頭地方と呼ばれ、古くから良材を産出する林業地帯として知られる。もともと阿波国は粟国(あわのくに)と長国(ながのくに)の二つの国に分かれていた。それが645年からはじまった大化の改新により阿波国に統一されたとされる。那賀川は長き川の意味で昔は長川と呼ばれ、長国は那賀川の流れる地域であった。

 現在、本県の森林は吉野川流域森林計画区と那賀・海部川森林計画区に分かれるが、粟国がちょうど吉野川流域に、また長国が那賀・海部川流域にほぼ重なる。こうした昔の国境が今でいう流域単位で分かれていたのは興味深い。

 さて、那賀川の林業史を見る。藩政期、木頭材は主として筏(いかだ)で流送された。

 木頭で伐採された樅(もみ)、栂(つが)、杉等の天然林材は那賀川を下り(注1)、河口で板材に加工され、船で大阪の木材問屋に販売されていた。 木材が生み出す利益は大きく、このため上・下流で木材の利権を巡り対立が繰り返されてきた。

(注1)木頭からの生産物や一部の材は、牛馬で峰を越し、海部川の皆瀬まで運ばれ、そこから高瀬船で港まで運ばれた。

 徳島藩では、幕末に近づき藩財政が窮迫するにつれ、木材は藍や塩と共に収入源として重要視されていた。徳島から船積みされた物資(注2)が大阪へ送られた。当時、大阪は物資の集散地として
活況を極め、諸藩の蔵屋敷が淀川筋の堂島川、土佐堀川の両岸(現在の中之島周辺)に軒を並べた。

 各国産の米穀や物産品が持ち込まれ、そこから商人の手により市中はもとより全国に廻送されていった。記録によると、正徳(1710年代)には大阪堀川市場に阿波材木問屋が6軒もみられるほど阿波の物産は活況を呈したという。

(注2)寛永15年(1638)に刊行された「手吹草」には、阿波の名産として「材木、ヒジキ、鳴門ワカメ、火打崎の 石、撫養はまぐり(碁石)」と記されている。そのことからも、当時それほど阿波の木材が名の通ったものであったことがわかる。同書には阿波名産「藍」の記載がないが、後に著された「和漢珊才図会」(1712)にはこの五品に素麺と藍玉が記されている。


3 売人株と挽座株について
 さて、木材販売は売人(注3)と呼ばれる藩によって許可された木材商人によって進められた。当時、徳島藩の山林はほとんど直轄林「御林」(おはやし)であったが、売人は御林のうち「取山」(とりやま)を永代家督として所持し、そこから搬出される木材の販売権を一手に担っていた。その頃、木頭に住む農民は自給自足の貧しい生活であり、伐畑(山腹などを切り開いた畑)から採れる粟・稗などの雑穀を主食としていた。しかしながら、藩は御林保護を第一として伐畑の開墾を容易に許さなかった。筏流しはこうした伐畑農民によって支えられていた。

 また、藩は材木を挽き売りする挽座株(ひきざかぶ)という権利も設けていた。挽座株は現在の製材所に相当するもので、記録によると元禄3年(1690)に初めて那賀川河口の商人に許された。挽座の手形がないと木材の積み出し販売ができず、木材を販売する上で挽座権の有無は重大事項であった。
 
(注3)文政3年(1820)の文書「材木方売人記録之覚」によると、藩から認可された売人25人が、那賀川河口周辺の中島浦、富岡・黒津地、今津浦、古津および岩脇の各村に住んでいた。そして、売人は山元住民からの年貢取り立てを代官から任されていた。

 奇妙なことに、こうした売人株や挽座株の権利は、川上と川下の間で行ったり来たりする。明和元年(1764)にはそれまで川下にあった売人株と挽座株が上流へ移る。その後38年間は山元売人がその権利を請け継ぎ、川下の中島・富岡の商人は下請所となる。なぜ、もともと川下にあった売人株や挽座権が、70年有余年を経て川上に移ったのか。この間の背景には藩の財政事情があったようである。


4 蜂須賀重喜の改革
 実はこの時期は10代藩主蜂須賀重喜が藩政改革を行った時期に重なる。重喜は宝暦4年(1754)16歳という若さで、秋田藩20万石の佐竹家から迎えられた人物であり、吉川英治の「鳴門秘帳」にも登場する。

 当時、徳島藩は財政危機に陥っていた。重喜は自らが倹約を実践し、改革に乗り出した。いわゆる「宝暦のお建て直し」である。25万石の徳島藩は、藍の生産で実質45万石だといわれていた。重喜は藍に目をつけ大阪の藍問屋の反対を押し切って藍玉市場を徳島城下に開き、全国の藍商人を集めた。この結果、藍問屋は価格操作ができなくなり、こうした商人を介して利益を得ていた藩士達との間で軋轢が生じ、お家騒動をもたらす。

 この頃、時代は田沼意次の開放経済へと動いていたため、重喜のやり方は反感を買い、明和6年(1769)重喜は幕府に隠居を命じられる。幕府は重喜が進めてきた改革を廃止し、すべて古格(昔のやり方)にもどすことを命じた。16年間の藩政改革は重喜32才で挫折するが、その子治昭によって引き継がれていく。

 話を木頭林業に戻す。前述のとおり、明和期には売人株と挽座株は、下流商人から山元に移り、38年間は山元売人が請け継ぐことになる。その後一転して、享和元年(1801)挽座株は山元から下流商人の手に移る。このあたりの事情に、藩主重善の意志が強く働いていたことは十分考えられる。

 重善が育った佐竹家は関ヶ原の戦いの後、すなわち1602年、常陸から秋田へ国替えされた。藩財政を支えるため秋田杉の伐採事業に乗り出し、江戸大火(1657)のあとには秋田から大量の木材が送り込まれた。さらに1677年には現在の大館市周辺だけで年間5万立方もの杉が伐採され、大阪へ輸送されたという。こうした事情を重善が知らなかったはずがない。徳島の林業の成り立ちに、秋田杉の歴史が少なからず関わっているようである。


5 高磯山の崩壊
 ときは移り、明治(1868?)となって挽座権を有した特権商人は雲散してしまい、顔ぶれは一新する。そのあたりの事情は定かではないが、再び上流の木頭に住む山元業者が木頭材の伐採・販売を担うようになる。そして木頭材は那賀川を流筏され、下流の木材商人を経由して阪神方面に販売されていた。ところが、明治25年夏の豪雨による高磯山の崩壊を契機にして、山元と河口木材商との立場が逆転することになるのである。

 高磯山の崩壊について、徳島の地理(寺戸恒夫編著)に詳しく記載されている。

 「明治25年7月23日に高知市に上陸した台風により、那賀川上流はかなりの雨があった。7月25日の正午前、上那賀町大戸の高磯山北斜面 に地割れが発生し、大音響とともに山頂から山腹にかけて崩壊が起こった。大戸村の2集落、人家十数戸、60余名が埋没した。さらに約400万立方メートルの崩土は那賀川を堰き止めた。上昇した水位は、上流5キロの平谷集落を水没させた。
  そして7月27日の午後、堰き止められた土砂でつくられた天然のダムは決壊し始め、洪水は怒濤のごとく下流に押し寄せた。人々の多くは山腹などに避難しており、死者は3名にとどまった。」

 崩壊の原因は、高磯山の地形と地質にあった。すなわち那賀川の流水が衝突する位置に山腹斜面末端があった。さらに山頂背後を仏像構造線が走っており、岩質が脆かった。そして山腹にかなりの堆積物があった。こうした悪条件が重なっていたのである。

 下流木材商は、河川改修に資本をあて、流筏権を手に入れたとされる。それまでに資本を蓄積していた河口木材商は、その資本で共同出資し、那賀川を埋めた土砂を取り除き、木材の流送路を修復した。横井、佐々木、大和、玉置、山田の諸家が流送権を手に入れ、山林取得を開始して育林業へも乗りだした。さらに河口の中島に近代的製材工場を開設して加工過程も手中に収める。その結果、西日本有数となる製材産地がここに成立したのである。

 那賀川河口に住む彼らは明治期以降、流通加工の利権を足場に上流に進出し、木頭林業の生産から流通、加工の完全掌握を昭和中期までに実現し、木頭林業の主役となっていく。


6 君は高磯山を見たか
 昭和25年からはじまった那賀川電源開発を契機に木頭林業は大きな変容を受けることになる。木材の運材は筏で下る流送からトラック便による陸送へとかわり、なかでも昭和32年に完成した長安口ダムは那賀川を全面的に堰き止めた。昭和30年に流送は全面的に廃止となり、当時300人近くいた流筏労働者は転廃業を余儀なくされたのである。

 そうしたなか、昭和31年に株式会社徳島県原木市場が設立される。山元林業経営者が生産材を有利に販売するというものであるが、下流業者として横井次郎氏が参加し、自ら社長に就任する。横井氏は木頭林業のリーダーとなり林業経営に乗り出す。かつて利害を争った川上と川下がはじめて共同の事業を起こすこととなったのである。

 さらに時代は経て、平成4年10月に那賀川上流4森林組合が広域合併し、約6万ヘクタールを管轄する木頭森林組合が設立された。その事務所の傍らに、高磯山の慰霊碑がひっそりと建っている。そこから那賀川南岸を見上げると、高磯山がそびえている。その斜面は治山工事により植生はかなり回復しているが、崩壊の形跡は今でもはっきりとわかる。

 奇しくも、山元と下流業者との利権争いが逆転した高磯山の崩壊地前に、現在の木頭林業の象徴たる木頭森林組合の本部事務所が建てられているのは単に偶然だろうか。高磯山の崩落を語れる人はもう少なくなってしまった。


 (参考・引用文献 ) 1 徳島縣木頭の林業  徳島縣山林會協賛會 (1935.10) 2 阿波の川ー水運と林業に生きた人たちー 小原享 著(1996.1) 3 林業地帯の形成過程ー木頭林業の展開構造ー 有木純善著 日本林業技術協会(1974.11) 4 江戸時代人づくり風土記36徳島(社)農山村文化協会(1996.10) 5 横井家100年の変遷(1)?(3) 有木純善著 林業技術(1981.4?6) 6 徳島歴史散歩「高い技術力・阿波藍繁栄の源」真貝宣光 徳島経済 (1997.3) 7 徳島歴史散歩「浪華八百八橋と二人の阿波商人」真貝宣光 徳島経済 (1997.12) 8 小説蜂須賀重喜ー阿波藩財政改革ー 童門冬二 講談社文庫(1996.2) 9 日本の美林 井原俊一著 岩波新書(1997.7)