会報


農山村の文化財  それをどう考えるか

 私の暮らす群馬県上野村には、蛇神様(へびがみさま)の祀られている岩がある。養蚕の神様として、昔は遠方からもお参りに来る人がいたのだという。養蚕にとってはネズミは大敵なので蛇神様信仰が生まれたと村人は言うが、なぜ養蚕にとってネズミが大敵なのかは聞き忘れた。養蚕がおこなわれなくなった今日でも、近くの人々は大事にこの神様を守っている。

 隣の村には、ヤマンバの足洗い場というところがある。大きな岩にくぼみがあって、そこにはなぜかいつも水がたまっているのである。かつてはここで雨ごいの儀式がおこなわれた。くぼみにたまった水をかきだすと、自分の足を洗う水がなくなって困ったヤマンバが、雨を降らせたのだという。

 農山村にはそんなふうにたくさんの神様や仏様が祀られていて、それが自分たちの暮らしや歴史と結びついている。ある年、上野村の神仏を歩こうとしたことがあったが、おそらくその一割も歩くことはできなかった。たぶん千ケ所くらいはありそうだから、歯が立たない。それなのに正月ともなれば、そのどの神様や仏様にもお供えなどがおかれている。その光景のなかに、崩れそうで崩れない村の姿を見出すことは容易である。

 ちょっとした墓場には、必ずといってよいほど観音堂がある。観音様を祀ったお堂のはずなのだけれど、村の人たちが観音堂だというから行ってみると、阿弥陀堂のときも、地蔵堂のこともある。もちろん本尊が何かとかそのいわれとかを、よく知っている村の人もいるのだけれど、あまりそのことにこだわらない人たちも結構いるのである。

 この建物は、立派なものは少ない。たいてい十畳くらいの広さで、奥に仏様が祀られ、中央に囲炉裏が設けられている。昔は旅人がここに泊まることができた。村人が集って仏事を行うこともある。いわば半分は宗教的な建物で、半分は村の共同体を支える建物なのである。

 とりわけ私の村のような関東山村になると、神様や仏様の世界は、全くおおらかで窮屈なものではない。私はその理由は、関東の山村では、自然と人間の関係がおおらかだからではなかろうかと思っている。

 歴史的にみても、関東では、人間の数に対する自然の量が多かった。要するに人間が利用しきれないほどの自然があったのである。だから、たとえば入会地の取り決めにしても、西日本のような厳しい掟はほとんど存在せず、人々はかなり自由に山野を使うことができた。暮らしを自然がつつみ、その自然と人間の世界を基盤にして、神仏も祀られてきたのである。だからそれは、人間の文化が生んだ信仰というより、自然と人間の里が生んだ文化であり、信仰であるという雰囲気を強くもっている。自然の世界に開けっぴろげられた文化、信仰とでも言えばよいのだろうか。こうして、信仰を支えてきたものも、人間の歴史である以上に自然の営みであるという感覚が、山村には定着してきた。

 関東の山村では、多くの場合、神仏とともに生きることと、自然とともに生きることの間に、明確な境界線が存在しない。たとえば、神社にしても、氏子の神社という感覚よりも、自然の営みがひろがり、人間の営みがひろがる里の神社という感覚の方が強い。

 そして、だからこそ、村人たちは、この自然の世界から木を切り出し、みんなの力で社や寺をつくってきたのである。観音堂程度のものは集落の人々が労働力を提供してつくった。社や寺になると、地元の大工が中心になることもあり、大きな寺では比較的近くの宮大工が呼ばれることもあった。といっても、どのケースであっても、人々が自分たちの自然と人間の世界から木を切りだし、自らもその建造の過程で働きながら、神社や寺をつくってきたことに変わりはない。

 こうして成立してきたのが、農山村の神社や寺の文化財である。それらは文化財と呼ぶにはあまりにも粗末なものも多いが、もしも文化財という言葉を使うなら、建築物が文化財なのではなくて、その建築物とともに展開してきた自然と人間の歴史が、<無形>の文化財として維持されてきた、とでも言えばよいのだろうか。それを維持する過程のなかに、自然と人間の世界の暮らしがあり、自分たちの歴史があった。

 私はそれらが日本の基層的な信仰の世界をつくり、その基盤の上に、たとえば奈良や京都の寺社文化が成立したのだと考えている。逆に述べれば、それがなくなれば、奈良や京都の寺社は、寺社建築や仏像を中心にしたテーマパークになってしまい、寺社とともにある精神の文化が、<無形>の文化財に包まれた寺社という性格が失われてしまうのではないだろうか。それぞれの人々が、自分の精神の拠りどころとなる地域の寺や神社の世界をもっているからこそ、その精神世界を介して、奈良や京都の寺社の姿に、何かを感じてきた。

 このような基盤を、戦後の都市の急激な膨張がこわしたことは間違いないだろう。そして、現在では、農山村でも、地域の神社や仏様の世界が崩れかけている。

 農山村でも人々が、自然とともに、神々や仏様の世界とともに生きる精神を失ったから、ではない。その面だけをみれば、多くの農山村の人々は、この伝統的な生き方に自(おのずか)ら然(しか)りなりの世界があることを感じている。この自ら然りなりの世界こそが自然(しぜん)の世界でもあり、そこにあるのが自然な生き方である。

 とすると、農山村の神仏の世界の維持に困難さをもたらしているものは、村人の精神世界の変容ではない、ということになる。いまその理由を列挙するなら、ひとつに集落の過疎化により、神事や仏事の維持がむずかしくなってきたことがある。とともに、村の大工や近くの宮大工が少なくなったことや、村の寺社の建て替えのときに大きな役割を果たしてきた、村の名士層の没落があげられる。とともに村の森が戦後の人工林化で幼齢林化し、地元では必要な材も確保できないということも、多くの地域で生じるようになった。

 村の寺社は、その地にある木で建てられるのが普通だから、いろいろな木が用いられている。私の村でいえば、村に少しだけ存在していた天然ヒノキが一方の軸とすれば、他方の軸はケヤキが柱の中心になってきた。それにクリ、ツガなどが加わり、カツラの高齢木を柱に使った建物もある。

 ところがいまではそのすべてがない。こうして、地域の木を用いながら、自然と人間と神仏の結びつきのなかに共同体を感じとってきた村は、その建造物という点からも、維持が困難になってきたのである。

 私は、文化的な建造物、文化財を維持する森づくりの大事さが社会的に定着することによって、それが、日本の基層的な精神文化としての地域の寺社建築と地域の森との関係へと、拡がっていくことを期待している。地域の自然を呼び込むように、その地の木で社や寺をつくり、そこに地元の人々の技術や労働が投じられる。その姿こそが、日本の農山村社会そのものを示していることに、私たちは気づかなければいけないときを迎えているからである。