第5号

語りかける徳島すぎ 第6話―地域林業の歴史的考察

 未来に目を向ける為、その地の歴史を検証しこれまでに至る必然と今後のより良い方向性を模索します。『地域から』シリーズ、まず徳島から。藩政や明治新政府との関わりなど、山に関する興味深い史実を掘り起こしながら地域林業の変遷を見つめ、常に先を進んできた徳島木材産業の気概を伝えます。今回が最終回となりました。

第6話 ―「川が地域を支配する」―

一 四国三郎 吉野川

 本県を流れる吉野川。「四国三郎」と呼ばれるこの川は、「板東太郎」利根川、「筑紫次郎」筑後川とともに、日本を代表する暴れ川として知られる。初めて訪れた人はその河口幅の広さに驚くが、それは日本最大規模を誇る基本高水ピーク流量 秒速二万四千立法b(岩津地点)の水の流れがつくり出したものである。

 このように洪水量が多いのは、@上流域は有数の多雨地帯であることA河川勾配が急で降雨が短時間で流れること。B西から東へ向かう川の流れは、前線や台風進路と重なること、という吉野川の特性に起因する。流域面積3750平方`の75%は急峻な森林地帯で占められ、降雨により各支流から流れ出す川の水は本線で合流し、とてつもない大きな流れとなって下流に流出するのである。

 こうした吉野川の流域に住む人々は毎年襲来する台風によってもたらされる洪水で苦しめられてきた。明治40年(1907)から昭和2年(1927)にかけて吉野川第一期改修工事が行われ、河口から阿波町(現阿波市)岩津までの約40キロに連続堤が築かれるまでは、徳島平野一帯は洪水の氾濫源となっていた。

 洪水被害から人々は稲作をあきらめ、いつしか一年生で台風襲来前に収穫できる藍が栽培されるようになった。洪水によって上流から毎年もたらされる客土は、一方では、肥沃な土地を好む藍に好都合であった。
 
二 藍の盛衰

 江戸時代から明治中期にかけて、阿波の藍玉は全国の染料市場を独占した。「阿波といえば藍、藍といえば阿波」と言われるぐらい藍は徳島を代表する物産であった。そうした藍の需要の背景に元禄期の木綿の普及があった。当時は衣料革命の時代といわれ、農村工業として綿織物が大量に生産され、木綿の染料として藍が用いられたのである。

 吉野川流域一帯の藍の作付面積は増加し、ついには、阿波藍は他国産の藍を駆逐することとなった。こうして明治初年の頃には、徳島市は全国第八位の都市として栄えたが、それは藍がもたらした繁栄に他ならなかった。

 藍作は「金喰い農業」と言われるほど肥料代や多くの労働力を必要とした。このため、金肥(きんぴ)と呼ばれる干鰯(ほしか)や北海道の鰊粕(にしんかす)が大量に移入された。阿波藍が他国産を凌駕した理由の一つは洪水によってもたらされる客土(腐埴土)にあったといわれる。客土は肥料の節約にもなり、藍の連作障害を防ぐ効果もあった。

 藍の栽培は手間がかかる。2月上旬の種播き、4月の定植、その後の灌水、肥料やり、土用の2回の刈り取りまできつい作業が続く。とりわけ収穫後に行われる一連の作業、すなわち藍の葉を細かく刻み、選別・乾燥させ俵詰めする一連の「藍粉成(あいこなし)」の作業は重労働であった。

 そうして作られた葉藍は仲買人に買い付けられ藍師のもとに集められ、そこで染料のすくも・藍玉 注1)として商品化される。出来上がった商品は藍師や藍商人によって全国に売買され、藍づくりを栽培から加工まで一貫しておこなっていた藍商人は莫大な富を築き「藍大尽」注2)とも呼ばれ、その名を全国にとどろかせたのである。

注1)すくもは藍染めの染料であるが、徳島藩では正保年間(1644〜47)から藍砂を混ぜて固めた藍玉に仕上げないと販売できなかった。
注2)藍大尽:藍商たちが顧客に大判振る舞いをすること。

三 久次米木材

 そうした藍商人の一つに久次米家があった。久次米家は江戸時代初期に藍商として江戸に進出し材木商としても成功した。明治二(1869)年に久次米家九代目兵次郎は、江戸八丁堀、大坂長堀に本支店を構え、藍、材木とも全国第一位の取扱量を誇った。そして明治12年(1879)には、一族が築き上げてきた経済力を基に船場町に日本で六番目の私立銀行「久次米銀行」を設立するに至る。資本金50万円は、当時、三井銀行に次いで第二位の規模であった。

 久次米木材は深川和倉町(当時の地名)に店を構えた。その周辺の川岸一帯には広大な材木置き場や貯木池があったという。明治初年の久次米木材の売り上げは全木場の四割を占め、「和倉の覇王」と称されるまでになり、木場の相場は久次米によって高低が決まるといわれた 注3)。

 江戸時代、材木問屋の奉行人はのれん分けを許されなかったが、その制度を久次米木材は率先して廃止した。その結果、明治22年(1889)に武市森太郎、明治25年(1892)に黒田善太郎、明治29年(1896)に塩田勘六らが独立を許された。彼等は徳島で生まれ久次米で奉公した人達である。明治38年(1905)に銀行業の不振により破綻するまで、久次米家を親木として枝からさらに小枝がでるように、阿波人は木場の一大勢力となり、明治から大正にかけて全盛期を迎えた。

 その後、久次米という親木が枯れてからも、その太い枝であった武市森太郎が大きく生長し、そこからまた、林熊吉、板東伊平、藤井堪三郎、湊庄吉らが独立していった。 

注3)中谷連次郎「木場の面影」から

四 秋田杉の商品化

 久次米木材は秋田杉の東京搬出に成功したことでも知られる。明治18年(1885)、久次米木材は米代川流域の官林30万石の払い下げを受け、翌年11月、秋田能代から秋田杉を満載した船が北航路をとり、津軽海峡経由で東京港につく。担当したのは武市森太郎である。彼は能代に材木を積みに行く船にわざわざ乗って、帰りにはまた材木と航行を共にした。このとき三陸沖ではひどい暴風雨に遭遇し、わずか千トンあまりの貨物船は木の葉のようにほんろうされたという。

 秋田杉の原木は筏に組まれて隅田川をのぼり、鉄砲洲から油掘川の久次米の貯木場に運ばれた。以降、五カ年、十カ年という秋田杉長期の有利な継続払い下げを受けるのである。これ以降、秋田の国有林材の東京への入荷は増加し、ほとんどの板は秋田杉が独占することとなった。

 実は、久次米は藩政期にも秋田藩で木材の事業を行っている。安政(1854〜)の頃、佐竹家に四千両を融通し、その代償として寸甫(すんぽ=丸太を割ったもの)を引き取り、船で江戸に運んだという記録がある。

 第二話「那賀川流筏史」でご紹介したとおり、徳島藩十代藩主、蜂須賀重喜は宝暦4年(1754)に秋田藩20万石佐竹家から迎えられた人物である。その時代から安政、そして明治に至るまで、徳島と秋田がつながりを持ち続けていたとしか考えられないのである。 

 現在の木場は、都立木場公園となっている。昭和36年(1961)、新木場に材木業者が移転するのを受けて、当地に公園を作る都市計画を策定。昭和50年(1975)に 昭和天皇在位50年の記念公園として位置付けられ、53年(1978)に都市計画が決定、平成4年に開園した。

五 阿波の三分板

 さて、昭和初期に経済界はひどい不況に見舞われ、木材界においても、弱小企業の多かった製材業界では休廃業が続出した。さらに米材や北洋材の輸入は、国産材の価格の低落に拍車をかけていた。

 こうした時期、那賀川河口の製材(三枝商店、玉置商店ら)は技術革新に取り組む。彼等は外材と競合する京浜、阪神を避け、外材製品の出回っていない地域の販路開拓に取り組み、その範囲は兵庫、山陽、九州、さらには朝鮮、台湾にまで及んだという。九州では日田製材と張り合うこととなり、製品の差別化を図る必要に迫られていた。

 このため昭和7年(1932)、秋田木材(後述)の高速製材技術を導入し、薄鋸により挽減りを抑え、製材歩留まりの向上を図ったのである。丸太を薄く早く製材することで生産費コストを削減した結果、良質なスギ薄板の大量生産が可能となり、阿波の二分三、三分板は阪神市場の下見板や塀廻り板の八割を供給するに至った。そして、この時期に西日本有数の製材工業地帯が那賀川流域に形成されたのである。

 話しは前後するが、明治期における秋田材の木場搬送以降、能代では久次米商会が拠点を持ち事業を継続する。明治29年(1896)に久次米が伐木事業を放棄した後も、その系譜に連なる能代材木合資会社(のち秋田木材株式会社)が事業を手掛け、大正期には飛躍的発展をとげ東洋一といわれるまでに成長するのである。昭和初期の本県製材の技術革新が秋田木材の技術からもたらされたことについては、決して偶然ではなく、木場を介した情報の太いパイプがあったのではないか思う。

六 川が地域を支配する

 以前、阿波郷土史会の故真貝宣光氏に講演をお願いしたことがある。真貝氏は「吉野川源流を育む会」や「吉野川学会」を立ち上げ、精力的に活動されたが、平成12年(2000)10月、51歳で急逝された。 

 そのときの講演会のテーマは「吉野川から学ぶ徳島の未来」であった。氏は川と地域社会の関わりを、洪水被害の歴史や藍産業の盛衰から語られた。そのなかで強く印象に残ったのが「川が地域を支配する」という言葉である。

 本県林業の歴史は、まさしく川との関わりで成り立ってきた。那賀川流域の高磯山崩壊は上下流の力関係を一変させた。一方、吉野川流域では、洪水によって大きな被害ももたらされた一方で、人々は藍を栽培し、大きな産業として育成した。  

 藍商人はやがて木材を扱うようになり、江戸の木場に一代拠点を形成する。そして木場を介して、本県木頭林業地帯にもたらされたであろう情報は、製材業の技術革新を促し、木材の産地化に大いに貢献したのである。

七 徳島すぎを支える力

 戦後、本県においても木材需要に対応するため外材輸入が本格化し、昭和38年(1963)、県は木材団地の調査をはじめ、造成地を徳島市津田海岸町の地先水面に決定、昭和四三年度より防波堤の築堤、企業用地、港湾埠頭用地の埋め立て工事に着手し、昭和45年(1970)3月に完工をみた。最終的に130企業が、昭和48年(1973)度までに進出を終え、臨海型の木材団地が動き出し、外材を中心とした新たな流通体制が構築されていった。

 その後、増大する外材や新建材等との競争化におかれ国産材は需要が低迷するなか、窮地に立った本県林業、木材産業界においては、産・官・学が一体となって「徳島すぎ」のブランド化を進め、積極的な需要開発や販路開拓に取り組んできた。
 とくに杉割柱製品や杉足場板の開発と販売展開、の産地化、さらには葉枯らし乾燥技術の科学的な解明、そして梁・桁等の実大材強度試験による商品開発について、全国に先駆けて行ってきたことは特筆に値するものである。

 この稿第三話でもご紹介したとおり、本県は明治維新時に独断で藩有林の払い下げが実施され、いわば早くから民活が進んだ地域である。その後の木材産地化形成から今に至るまでの林業史を俯瞰するとき、その底流には、民有林を支えた人々の森林への想いが確かに流れている。そして、その想いは、これからも徳島の林業を守り伝える力となっていくに違いない。


参考・引用文献
一 「吉野川事典」 (財)とくしま地域政策研究所 農文協(1999.3.25)
二 「図説徳島県の歴史」 三好昭一郎、高橋啓責任編集 河出書房新社(1994.11)
三 「高い技術力・阿波藍繁栄の源」真貝宣光 徳島経済(1997.3)
四 「江戸時代人づくり風土記 徳島」(社)農山漁村文化協会(1996.10)
五 「木場今昔物語」 秋永芳郎 日刊木材新聞(1975頃)
六 「阿波の豪商 久次米兵次郎家」真貝宣光 徳島経済(1988)
七 「阿波藍史」三好昭一郎 阿波銀行(1996.6)
八 「木頭の林業発展と日野家の林業経営」四手井綱英・半田良一編著 農林出版(株)(1969.1)
九 「木頭林業における木材市場の展開」北尾邦伸 京大演習林報第四○号(1968.11)
十 「秋田県の歴史散歩」山川出版社(1989.11)
十一「団地の歩み」 徳島県木材団地協同組合連合会 (1981.10)

 御礼「語りかける徳島すぎ」を最後まで読んで頂き、本当にありがとうございました。そして、こうした機会を与えて下さり、いつも的確な助言をして頂いた足本事務局長に感謝申し上げます。

 御礼の御礼/なぜ、徳島県には国有林がほとんどないのか?そんな疑問もこの連載を読んで成る程、と納得された方は多かったはず。時の流れとともに忘れ去られる過去のできごと、先人の知恵や想いを、もう一度見直してみる作業も必要ではないか、とこの連載は教えてくれました。未来への扉の鍵は案外、身近な歴史の中に隠れているのかもしれません。ありがとうございました。