スミス記念堂の保存活用をめぐる市民運動とまちおこし

筒井正夫(滋賀大学経済学部教授)

はじめに
 昭和6年(1931)、彦根高商が産声を上げてからまだ日が浅く世界恐慌の嵐が吹き荒れるなか、高商のすぐ近く、彦根城の濠端に日米の善意の人々の手によって美しい和風教会堂が建てられた。それは建設者の名にちなんでスミス記念(礼拝)堂という。だが、やがて戦後高度経済成長を経て平成の世となると、その建物とその周囲にいた愛すべき人々の記憶は忘れ去られ、市の道路拡幅工事の前に、無残にもそれは取り壊され売り払われる運命にあった。

 この小稿は、その小さな建物を破壊から救いだし、保存活用してまちづくりの核にしようと奮闘してきた市民たちのささやかな記録である。それに加わったのは大学人や政治家ばかりではない。近所の主婦も、商店主も中小企業の社長さんや社員達も、お茶やお花の先生や生徒も、お寺の和尚さんも神社の神主さんも、学生も、建築家も、マスコミ・出版関係者も、矢も立てもたまらず、この運動の輪に飛び込んでいった。

 戦前大正末期から昭和初期の彦根には、このスミス記念堂という建物の周辺に、今でも我々を感動させ、これからの進むべき道さえ示唆してくれるどのようなドラマが潜んでいたのだろうか。そしてそれを知った現代に生きる我々は、そこにいかなる価値を見出しどんな思いでこの建物を残そうとしたのか。さらに建物に新たな命を吹き込むことで何を創ろうとしているのか。その過程で市民達は行政とどう対峙し、葛藤し、協力しながら、何を学びつつ曲がりくねった長い道を歩んできたのか。

 これらをひとつひとつ書き記していこう。


1. スミス記念(礼拝)堂とは

 スミス記念礼拝堂1)は、昭和6年(1931)、日本聖公会彦根聖愛教会のアメリカ人牧師で彦根高等商業学校の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミス氏が、地元の大工宮川庄助氏と協力し、両親への感謝の思いと両国民の平和交流を願って、世界恐慌下にもかかわらず日米双方から多大な醵金を集め、良質の吉野のヒノキ材を用いて建設したもので、彼の名にちなんでスミス記念礼拝堂と呼ばれている。

 アメリカイリノイ大学を出て、明治36年28歳の時にキリスト教伝導を目的に来日したスミス氏は、広島高等師範学校で英語教師を3年間務め、その後福井・金沢・京都等で布教活動に携わった後、昭和元年から11年(1926〜1936)まで彦根に滞在し、彦根高商の英語教師を務めながら教会での布教活動や様々な文化活動を展開している。特に彦根城の美しさと彦根の人々に魅せられた氏は、両親を記念するとともに、隣人愛を説くキリスト教の普遍的精神と彦根の風土や日本的精神を調和させた独特な礼拝堂の建設を祈願し、それを日米の多くの善意に支えられて実行に移したのである。
(※添付写真は、スミス記念堂創建当時、昭和6年〜10年頃のもの。中央にスミス夫妻が見える。画像をクリックすると拡大写真へ)

 したがってこの礼拝堂にはキリスト教の精神を伝える十字や葡萄の文様が、戸・梁・釘隠し・瓦等に施されている一方、建築の本体はあくまで伝統的な寺社建築の様式に則り、花頭窓・屋根・唐破風等には彦根城にならった形状を取り入れて、和を基調としつつも東西の様式が渾然一体となった独特の美しさを醸し出している。建築には、氏とともに信者でもあった彦根の大工宮川庄助氏が携わり、信者以外の多くの人々の協力も得て進められた。実際スミス氏は自ら設計と建築を行える専門知識と技術を持ち、彦根の礼拝堂のほか敦賀の牧師館、京都教区内の教会堂・会館・牧師館、金沢の牧師館等の建設や修繕に携わっている。建築費はすべて醵金(総額は現在の3億〜6億円)で、米国から3分の1の費用が寄せられ、スミス氏も1万ドル、また宮川氏や彦根の篤志家からも様々な献身的な援助を得ている。この建物は、その独特の様式と美しさから、建築上も県の『近代和風建築調査』や松波秀子氏の論考2)によって高い評価を得ている。

 この建物は、外部の屋根の一部に損傷を負っていたとはいえ平成8年(1996)の秋になっても内部は良質の檜が赤光を発して輝き、ほのかに木の香を漂わせて清浄な空間を保っていた。建物のそこかしこに施された和と洋の本来相反する要素は、実にしっくりと違和感なく溶け合い、葡萄や十字の文様は自己主張が強すぎて、それを包む伝統的な日本の建築様式の雰囲気を潰してしまうということはけっしてない。むしろ両者は寄り添いあい、互いにその魅力を照らしあって輝いていたのである。

  花頭窓を開けると、彦根城が望まれ、濠をわたってくる風がさわやかな空気を室内に運び込み、日の光が花頭窓の庇を通じて柔らかに降り注いでくる。こうしてこの建物に込められた両親への愛や東西両洋の文化の相互尊敬の精神は、彦根城濠端という景観に溶け込んで清浄な癒しの空間を作り上げていたのであった。

2.P・A・スミス氏の思想と人柄
 スミス氏の日本での活動や思想・人柄等については、まだまだ解明されていない部分が多いが、戦後信者達が編纂した『スミス先生の思い出』(1954)によって、そのいくつかの特徴点は掴み取ることができる。

 スミス氏は何よりもまず敬虔なキリスト教徒であり熱心な伝道師であったが、来日したキリスト教伝道師に往々にして見られた西洋キリスト教文明を普遍的な高度の文明とみなして、日本の伝統的な文化を低く劣ったものと蔑むような態度はけっしてとらなかったという点が注目される。スミス夫人は夫の思いを「日本人の性格、日本文化の中にある、よいものを育成することを願っていた」と評している。

  スミス氏が日本人や日本文化の中に見た「よいもの」とは何であったかは氏自身の言葉では語られていないが、それが彦根などで親しく接した人々との交流の中にあり、文化の具体的形としてはスミス記念礼拝堂に結晶した寺社建築等の日本の伝統的な様式美に代表されるものであったことは間違いなかろう。

  しかし、だからといって氏は、近代日本の行ったことすべてをも手放しで礼賛していたわけではない。氏は「非常に日本を愛され、日本人の気持ちをもって郷党の人たちとつき合いました」と評されたが、生徒の1人が昭和14年の夏スミス氏と最後に会ったときの思い出として語るところによれば、スミス氏は「日本の運命について心配せられ」、日中戦争についての話題に及んだ時には「先生がしょっぱなから日本軍非難をはじめられ、・・・日本軍の行動の非なる点についてはわたしより詳しく知っておられた。・・・先生が特に強く非難されたのは、南京における日本軍の暴行であった」と述べたという。このように大陸進出に突き進む軍国日本の暗黒面にはけっして同調せず、厳しいまなざしを崩さなかったことがわかる。

 日本の国民国家形成やアジアへの軍事的進出が天皇中心の国家神道と密接な結びつきがあったことを想起するならば、スミス氏は礼拝堂建築のモデルとした寺社建築の中に、国家神道の精神を見ていたのではなく、そのもっと奥にある日本の庶民が郷土のそこここで産土神に対して抱いた祖先崇拝や自然崇拝のこころ、またそれと長年月をかけて融合・合体した本地垂迹の仏教思想にあったことが推測される。それが氏の見た礼拝堂の建築に結実させた「日本人の中の良いもの」であったと私には思われてならない。氏はこうして、日本文化に満腔の敬意を払いながら、いや払うが故になおさら近代帝国日本がアジアで繰り広げた「暴行」に対しても厳しい批判の眼を向けることができたのである。

 また『スミス先生の思い出』のなかには社会主義運動に邁進していた学生に対する興味深い接し方を記した部分も現れている。その学生の追憶曰く、「こういう問題(社会主義運動)に対するスミス先生の態度は、徹底的にリベラルなものであった。先生は、信仰を失わないこと、だからキリスト教社会主義を研究すべきこと、学生は1人前とはいえないから、兎に角学校を卒業すること、学校を卒業した以上、良心に従って何をしてもそれは自由であることーこれらのことを繰返し繰返し云って居られた」という。

 そしてその学生が社会運動で逮捕投獄され、釈放後も将来の生き方として「金が続く間、徹底的にマルクスを勉強したい、それからその結論に従って行動したい」と述べると、氏は、週6日マルクスを勉強した後日曜日を休むこと、そして教会へ出席したあと夫妻と食事をともにすることを条件にその生き方を認めてくれたという。そして3年以上この生活を続けたこの学生は、マルクス主義者ではなく牧師となることを人生の途に選ぶのである。このように氏は、年下の学生であってもその思想と人格を尊重し、社会主義にも理解を示すリベラルな思想の持ち主であった。

3.スミス氏の諸活動
 スミス氏は、彦根では彦根高商の当時の校長矢野貫城氏と深い親交を結び、聖書研究会等を開くとともに、日曜学校、高等科男女生徒のためのクラブ、彦根高商学生のための集会、夏期修養会などの活動を展開し、夫人も近所の婦人たちを集めて婦人会や料理講習会などを開き、教会周辺やスミス氏の居宅は、高商の学生や地域の人々、子供達や信者以外の人々も含め様々な人が出入する自由な文化交流の場が形成されていた。

 こうした教会に即した諸活動とともに、特に氏が草の根の国際交流とでも言うべき活動を行っていたことが注目される。その一つは、彦根の小学校とアメリカの故郷の小学校との交流である。昭和9年(1934)5月3日付の大阪朝日新聞の滋賀版には「日米児童の握手 彦根西小学校からお返事と作品を贈る」という見出しの記事が掲載されている。これによるとスミス氏の紹介で来彦したアメリカ、イリノイ州ディクソン市郊外のスミス・スクール校長エム・パーソン氏夫妻は、彦根西小学校を親しく参観した。それが縁となって同年4月、スミス・スクールでは当地の案内書や絵葉書などとともに児童の手になる作品30点余を彦根西小学校に贈り、そこには「わが親愛なる日本の友よ!」と呼びかけた「児童のいたいけなる横文字手紙」が添えられていた。西小学校の児童もこれに喜び、早速児童による答礼文を作り、また図画・手工品・書方などの作品30余点をスミス氏に託して贈ることが報じられている。同紙では「太平洋を遠く隔てた日米小学校児童の手で固く結ばれてゆく国際親善の佳話」と評している。

 日米の小学校児童の交流としては、昭和2年、実業家渋沢栄一とそのアメリカ人の友人シドニー・ギューリック氏との間の取り図らいで、総数1万2千個の青い目の人形が、日米親善大使として全国の小学校に贈られ、その返礼として日本の各地の小学校から日本人形や手紙等が贈られるという交流があったことが知られる。

 このスミス氏を介した西小学校の事例は、こうした全国的な青い目のアメリカ人形をめぐる交流の後もなお彦根という一地方の小都会において独自の国際交流が育まれていたことを示す貴重な事例であるといえよう。

 しかしスミス氏の眼は、遠い故国との国際交流ばかりでなく、身近にあって呻吟するアジア同朋の民にも温かく注がれていた。同じく大阪朝日新聞滋賀版の昭和8年(1933)5月5日付の記事には「朝鮮人学校彦根に開設 親日米人スミス氏の篤志」という見出で、人類愛の立場からスミス氏が彦根地方に居住する百数十名の朝鮮人同胞のために「純東洋風な聖愛教会堂で」朝鮮人学校を開設する旨が伝えられている。彦根高商の学生等数名が講師となってまず日本語をそして地理・算術・商事等を教えるほか、聖書の話をしたりキリスト教伝導も行うもので、すでに約60名の講習希望者があると報じている。

 彦根高商を昭和10年に卒業し、グリコに入社後はおまけ係として様々な豆玩具を考案しグリコの隆盛を導いた宮本順三氏の回想録『ぼくは豆玩』のなかにも、「人口3万ばかりの彦根にアメリカ人のスミス牧師が教会内に朝鮮人学校を開き、十歳から二十歳くらいの生徒に、朝鮮語と商業、算数、地理などを高商の学生達が先生となり教えていたのである。」3)と記されている。また、昭和8年5月30日の彦根高商『学報』には「同胞への警告 内朝融和を標榜する 朝鮮人学校訪問記 知識の獲得と宗教的精神修養へ」と題する記事が掲載されており、「此の人口三万前後の彦根に朝鮮人専門の教育が提唱され、恵まれざる同胞のため、犠牲的奉仕をなさんとする篤志家の出られたことは真に同慶に堪えないものである」として、「朝鮮人学校」の訪問記が綴られている。その記事にはまず、スミス氏が、東小学校の日向先生と諮ってクリスマスに際して裕福な市民から古着を集めて貧しい朝鮮の人々に配っていたこと、さらにより精神的補助をなさんとして、朝鮮人への教育の必要性を痛感し、朝鮮人宅を訪ねて賛同を得て学校開設に至った事情が明らかにされている。そして開校した朝鮮人学校の実態についても、次のようなきわめて具体的な内容が綴られている。

 1. 毎週火曜日と金曜日の2日、夜7:30〜9:30に授業が行われていること。
 2. 生徒は、昼間仕事を持ち働いている10歳から30歳を超える朝鮮人で、その数は50人くらいであったこと。
 3. 授業科目は、日本での生活に不自由ないようにするための日本語教育と、日常生活に必用な商事的知識獲得のための商事要項・算術・地理が設けられ、彦根高商の学生2名(方君と鹿野君)が教師を務め朝鮮語で授業を行っていたこと。
 4. 毎月1回夫婦・子供を伴った親睦会が開かれ、さらに宗教的な修養も目指されていたこと。

 このように、この朝鮮人学校は、単なるうわべの国際交流ではなく、働く社会人のための社会人教育という面と親睦や修養といった精神的なケアも目指されていたことがわかる。スミス記念礼拝堂の前で写された当時の写真には、スミス夫妻を囲んで彦根高商の学生、市民・婦人・子供達、それにアメリカ人と思われる人々が集まっているが、特にチマチョゴリをまとった朝鮮の夫人と思しき人の姿も見出される。始めになぜこの夫人が映っているのかが不思議であったが、これも朝鮮人学校などの活動の賜物でったことが判明した。

 日本がアジア太平洋戦争に突入し、中国や欧米と戦闘状態に陥る数年前まで、東西の国境を越えた互いの文化を尊重しあえる交流が、彦根という一地域の人々の中にたしかに育まれていたことは、昭和初期の戦前社会の中にさえ草の根の民衆レベルの平和的国際交流の可能性が胚胎していたことを示す一事例として貴重であろう。

  以上スミス氏の人物・思想・活動を要約すれば、隣人愛・博愛を説くキリスト教への深い帰依、両親への敬愛、彦根城や寺社建築に代表される日本の伝統文化への尊敬、近代日本帝国が日中戦争で犯した「暴行」への厳しい批判、思想の自由を尊重するリベラリスト、日米の子供達の相互交流と朝鮮人学校の開設に見られた日・米・アジアの草の根の国際交流等として表すことができよう。

U スミス記念堂保存運動の経緯
◆平成8年9月〜同9年1月―道路拡幅工事による撤去阻止から彦根市による一時保管地並びに恒久移転地提供の確約獲得までー
 スミス氏は戦時色がいっそう強まった昭和14年(1939)12月、健康悪化のためアメリカへの帰国を余儀なくされ、同20年1月17日にオハイオ州イエロー・スプリングスにて死去するが、遺言によりその遺骨と遺髪の一部は、彼が何よりも愛した彦根の教会に納められ、死してなお彼の魂は彦根の地に留まることを欲したのである。しかしながら、戦後日本が高度経済成長を遂げやがてバブルの絶頂にまで上り詰めて多くの日本人が金儲けに狂奔していくにつれ、日米戦争の忌まわしい記憶も風化していき、またスミス氏の日本と日本人への思いや彼が精魂傾けた和風の教会堂のこと、そしてその周囲に育まれた草の根の国際交流の輪のことなども、やがて人々の記憶から遠ざかり、彦根聖愛教会の信者数そのものが減少していくにつれ、スミス記念礼拝堂は風雨にまみれて屋根は崩れるままに放置される状態に置かれていった。そうしたなか彦根市の道路拡幅工事が礼拝堂の敷地を横切るため、平成8年(1996)9月には解体されて他県へ売り払われる運命にあった。

 このような状況にあって滋賀大経済学部の学内誌『月報』の表紙に「近江ゆかりの近代化遺産」としてスミス記念堂の貴重な文化遺産としての価値とその建設の由来、さらに保存を訴える記事(筆者執筆)が掲載されると、この建物の保存と活用を求める動きが急速に学内外に広まっていった。上記記事を見た本学部森將豪氏は、地元新聞に事態の状況を知らせスミス記念礼拝堂保護を訴える記事の掲載を要請するとともに、彦根市議会議員に協力を求め、議会でこの建物に対する市の方策を質し、あわせてその保護を訴える質問がなされた。

 これに対し市の回答は、道路拡幅工事のため建物保護はできず図面等の記録に止めるというものであった。また取り壊し工事は年内にも着手されることも明らかにされ、こうした状況を新聞各紙がいっせいに報じた。

 このままでは、文化の相互尊敬と国際平和の精神に貫かれた貴重な建築文化財が失われてしまうという危機感が学内外につのり、学内からは教官50名以上の署名を集めて彦根市長に保存活用を訴える要望書が提出されるとともに、教会に対しても他県への売却中止と礼拝堂の保全が粘り強く訴えられた。10月から11月にかけて、礼拝堂において建築の専門家を交えての説明会、建物見学会が開催され、移築のための募金集めも開始された。こうした状況はNHKの朝のニュースでも放映され、運動の輪はさらに一般市民や学生にまで広がっていった。滋賀大経済学部の学生紙陵水新聞ではスミス記念堂の特集記事が号外として編まれ、一般学生にも保存運動に加わる者が現われるようになっていった。

 こうしたなか、大学関係者としては滋賀大経済学部の教官に県立大学の教官も加わり、市民からは数人の建築家、大学周辺のキリスト教関係者・寺院の住職・神社の神官、茶道・華道の関係者、企業家、商店主、マスコミ関係者、出版業者、主婦等が集い、さらに市議会議員では1党を除く全会派が、また県会議員も2名が参加して、「スミス記念堂を彦根に保存する会」が結成された。教会側も保存運動の趣旨に大いに理解を示すようになり、他県への売却中止と礼拝堂の建物・付属備品・植栽等一切を「保存する会」へ無償譲渡するという英断が下された。「保存する会」への移管がなされたことにより礼拝堂の宗教色は一切払拭されることとなり、以後この建物はスミス記念堂と称することとなった。このことがさらに広い市民層への支持につながり、運動は現実的な解決に向け大きく一歩を踏みだした。

 12月にはいると「保存する会」ではチャリティー・コンサートを開催し、運動の経緯を示すビデオ上映やこの運動に理解を示された大津市の若代孝三氏のフルート演奏が行われ、参集した170余名の市民に深い感動を与えた。市に対しても広い市民層を結集した「保存する会」の構成員や規約等を示し、町づくりに活用したいというスミス記念堂の将来的な活用法も説明しつつ粘り強い交渉が進められた。そして、定例市議会において「保存する会」の役員である市議から記念堂の保存活用に対し善処を求める提起がなされると、市はついに9月の市議会での「記録保存にとどめる」という答弁を撤回し、差し迫る道路拡幅工事から建物を退避させるための一時的な保管地と将来的には町づくりに資するための適当な恒久的移築地を提供する旨の回答を示したのである。

 ここにようやくスミス記念堂は彦根市内の適当な地に移築保存されることが公的に確約されたのであり、「保存する会」では、これを受けて早速、有力会員で文化財を取扱う専門の建築家の協力を得て、翌平成9年1月、市が提供した保管地に、将来の移築を念頭に置いた記念堂の解体・収納を完了した。この時までに募金は、約500万円に達しており、解体移築費は全額その内から賄われたのである。しかもその費用は解体を請け負った建築業者の献身的な行為で通常見込まれる経費の半額以下に留められたのである。

◆平成9年2月〜平成11年8月―彦根市による恒久的移転候補地の提示までー
 こうしてスミス記念堂は彦根の地に保存されることが決まったが、その後市からは恒久的移築地の提示はようとしてなされなかった。保存する会では、移築地の条件として、1.歴史的建造物にふさわしい土地で、スミス記念堂が彦根城の形状を模して濠端に建てられていたことを考慮して城が遠望できる場所が望ましい、2.なるべく多くの市民が利用でき観光やまちおこしにも活用可能であるためには市の中心部の一角が望ましい、3.駐車スペースや付属の植栽を備えることができる広さが確保できるところを、市側に要望した。保存する会のメンバー達も移築候補地を求めて市内の空いている市有地を、時には巻尺持参で実測しながら具体的に検討を加えていったが、いずれもすでに駐車場などに利用されているか、都市計画の中で宅地の移転代替地等のために確保されている場合が多く、その予定を見直してまで移築地の提供が図られるということは無かった。また平成14年度から移転が始まるとされていた彦根市民病院の跡地の一角かあるいはそれに付随し濠端に位置する看護婦宿舎跡地を移築地に要請したが、市は利用計画が未定な土地についてあらかじめ特定の建造物の移築を約束することはできないとして、これも話がまとまらなかった。

 そのほか、市内の町内会や商店街、あるいは個人から土地提供の申し出があり、その都度面積の広狭、位置関係、移築後の管理運営の問題等々具体的な検討がなされ、なかにはまとまりかけた町内会の場合もあったが、地理的に市の中心部から外れる等の理由からいずれも実現には至らなかった。

 「保存する会」では、このように移転地特定の努力を重ねつつ、並行して保存運動の意義を広く世に伝える運動も行っていった。平成9年5月にはスミス記念堂をまちおこしに活用するための市民フォーラムを開催した。講師にはスミス記念堂を建築の学会誌に紹介されてきた建築家の松波秀子氏を招き、スミス記念堂の建築上の意義について講演が行われ、そのあと町おこしや国際交流といった様々な観点からこの建造物の今後の利用のあり方について意見交換がなされた。会場には、建設当時のスミス記念堂の写真や運動の経緯を示す年表、室内に置かれてあった天子像などが展示され、200余名の来会者に運動の意義は着実に広まっていった。

 同年10月には青年会議所主催の「夜学」においてスミス記念堂が取上げられた。講師には、スミス記念堂の建設に直接携わった大工の宮川庄助氏のご子息で建築家の宮川弘氏を招き、この建物が特に唐破風や花頭窓などに彦根城の形状を採り入れている点や氏の記憶に残る建設当時の様々なエピソードが具体的に紹介され、出席者のこの建物に対する理解と愛着はさらに深まった。さらに「保存する会」のメンバーの中には、毎年山草会を開催し、その収益を移築費のために提供したり、また個人的ネットワークを活用してこの運動の意義をアピールし、常に運動を盛り上げまた募金収集に勤しむなど、地道な努力が続けられた。

 こうしたなか翌平成10年にかけて、市内の町内会や商店街、あるいは個人から土地提供の申し出があり、その都度面積の広狭、位置関係、移築後の管理運営の問題等々具体的な検討がなされ、なかにはまとまりかけた町内会の場合もあったが、地理的に市の中心部から外れる等の理由からいずれも実現には至らなかった。 「保存する会」では平成11年(1999)にはいると、市に対しては、移築後の利用のあり方についてより具体的な活動内容と管理方法を記した青写真を提示し、さらに市議会では「保存する会」のメンバーによる再度にわたる移築地の早期提示を求める要請がなされた。

 このような様々な努力がようやく市を動かし、平成11年8月末、市は現在俳遊館として利用されている旧彦根信用組合本店の建物の隣地を買取り、これを移転候補地として提示した。市は、俳遊館とセットで今後の活動を考え、スミス記念堂の日常的な管理も俳遊館と一緒に市の方で行う用意があることまで内示しており、ここにようやく恒久地への移転が具体的日程に上ったのであった。

◆平成11年9月から平成14年2月までー彦根市による移転候補地提示から市民病院跡地利用検討委員会の答申提出までー
 「保存する会」では上記の市の提案を受け、同年9月早速この移築候補地の是非を検討した。会員の意見はほぼ半数ずつ賛否両論に分かれた。反対意見は、第一に、市の提示地が狭すぎ駐車場も設けることができず、また講演会や演奏会などを催した場合にも隣地に騒音等で迷惑がかかることが十分予想されること、第二に、彦根城も臨めず、またスミス記念堂の建物も遠望できないことから、文化財的建造物の立地としてはふさわしくないこと、第三に、市の西部に居住する者から見ると立地が東方に過ぎ、本来記念堂があった場所からも離れている、等であり、市の提案を留保あるいは断って、やはり当初よりの希望地であった市民病院跡地を実現すべく努力すべきであると主張された。

 これに対し賛成意見は、第一に、確かに反対論者の言うように最適地とは認めがたいが、市が資金まで投入して購入した土地であるから、すべてが満足できなくても市民の町づくりに資する方向で今後実質的に利用していくことのほうが肝心である、第二に、狭いといっても植栽等も不十分ながら備えられ、立地も市の観光の中心地キャッスルロードから歩いて行ける所にあり、他の観光スポットとも近い、第三に、俳遊館とセットにして利用を考えれば、二つの建物の相乗効果が期待でき、さらに日常的な管理の面でも市に頼れるので安心である、等であり、市の提案を受け入れて、移築費の収集という次のステップに進むべきであると主張された。

 「保存する会」の会長である筒井は、両者の意見を勘案した結果、両者理があるが、すでに保存運動が始まってから3年が経過し、運動を担う市民達にもあせりと重圧感が増し、これ以上確保できる保証が定かでない市民病院跡地を求めて2年以上先まで待つことは、すべてを手弁当で行っている市民運動員達には耐えられず、この保存運動はそれまで持ちこたえられない恐れがあると判断し、上記賛成論の趣旨を個人的意見と断って、地元紙近江同盟新聞に掲載し、会員諸氏を始めこの運動を応援してきた多く市民に理解を求めた。しかしながらこの判断は、それまでの会員諸氏の献身的な協力によって保存運動が進められてきた経緯に鑑みる時、一身を二肢に引き裂かれる思いであり、会の和を何とか保ちたいと思いつつもこの時を措いてはこの問題の解決はありえないという思いに駆られてなされた、まことに苦渋の決断であった。

 このように「保存する会」が市の提示した移築地をめぐって賛否両論に分かれて呻吟している時に、そうした対立を解消し一挙に問題を解決できる良策が提起された。それは、市内に現存する他の近代和風建築の保存を図ろうとする複数の有志者達の動きが現実化し、その建造物を所有者から買い取ってその地にスミス記念堂も移築し、ともに町おこしのための施設として活用していこうとする民間サイドからの働きかけであった。

 そしてこの予定移築地は、前述の「保存する会」が要望していた移築地としての条件をすべてクリアーした理想的な環境にあり、なによりも「保存する会」の一致した支持が取り付けられるため、会としては市に対しては提案地への回答を保留したまま、この民間プロジェクトの成り行きをしばらく見守ることにした。

 しかしながら、このプロジェクトもなかなか成功裏には進まなかった。深刻な不況が進行するなかで、対象となっている建築物と土地の売買をめぐっての折合いがつかず、結局約1年を経ても実現の運びには至らず、当分凍結するという事態に立ち至り、スミス記念堂の移築もふたたび暗礁に乗り上げた状態に舞い戻ってしまった。

 市の提案も受け入れるには至らず、民間の移築地提供も頓挫し、「保存する会」の運動もこの間表面上は大きな進展を見せることなく、時はすでに平成12年度も終わろうとしていた。だがこうした運動の膠着期間に「保存する会」の面々もただ手をこまねいて座視していたわけではなかった。ある商店主は店先に募金用のガラス箱を置いてお客さんに保存運動への理解と協力を求めつづけた。毎年春の山野草会では引き続いて収益金の寄付を申し出てくださった。またある人は、毎月1万円づつ善意の寄付を続けてくださった。これらはいずれも、この市民運動の灯を灯しつづけなくてはいけないという市民の心からの善意の賜物であった。

 会長の筒井も歴史研究者という立場から、スミス記念堂の保存運動をもっと広い近代化過程の中に位置付けた史蹟・文化財の問題、すなわち近代化を特徴づける建造物・史蹟等を総括した近代化遺産の問題として、その保存活用のあり方を捕らえ返すための研究活動を深めていった。滋賀大学月報表紙「近江ゆかりの近代化遺産」の連載を続けながら県下各地の近代化遺産を実地に見聞して回っていたが、平成10年・11年度に滋賀県教育委員会が行った「滋賀県近代化遺産総合調査」に、「保存する会」の一員でもあった滋賀県立大学(当時)の石田潤一郎氏(建築学)を始めとする他の多くの専門家(産業考古学、土木学等)とともに参加する機会を得、より専門的な見地から県下の近代化遺産の調査に従事する事ができた。その調査報告書は平成12年3月に刊行されている4)。

 また平成12年(2000)7月には、そうした調査研究の成果も取り入れて、京都民科歴史部会の大会報告において「地域史のなかの近代化遺産」をテーマに報告し、彦根城周辺に多様に残る近代化遺産の紹介とその一つであるスミス記念堂の保存運動を広く学会員に紹介した5)。続く12年秋からの彦根市教育委員会主催の生涯学習通信講座「歴史発見 彦根ゆかりの近代化遺産」を担当し、50名余の受講生に対し5つのテーマに分けて彦根の近代化遺産の建築的特長や建設の歴史的背景を解説し、スミス記念堂の保存活用の意義と運動の経緯等についてもあわせて報告した6)。

 こうした活動を行いながら時は早平成13年を迎え、市民病院の移転は翌14年に迫っていた。会員達が当初より望んでいたその跡地の利用検討委員会も市民からの公募委員も含めていよいよ8月にスタートした。ここに及んで、「保存する会」では改めて一致団結して当初からの希望である市民病院跡地での記念堂の再建を求めていくことを確認し、市側にこの旨を伝えるとともに、10月には跡地検討委員会にスミス記念堂を市民のための諸施設の一つとしてぜひ活用していただきたい旨の意見書を提出した。この時点で、市が提示してくれていた俳遊館隣地については、その好意に大いなる感謝を示しつつ正式に辞退申し上げた。

 「保存する会」ではさらに、史談会やワイズメンクラブ等の主催する講演会等で、彦根城周辺に残る様々な近代化遺産と町づくりをテーマに講演する機会を得、その場でスミス記念堂の市民病院跡地での保存活用も併せ訴え、一人でも多くの市民の賛同を得るための活動を展開していった。公開で行われた跡地検討委員会にも「保存する会」のメンバーが必ず傍聴に行きその議論の行方を真剣に見守った。

 このような活動が奏効したのか、10月23日第3回市民病院跡地利用検討委員会のもとで開かれた市内各団体からの意見聴取会においては、彦根市ボランティア団体連絡協議会・彦根文化連盟・彦根夢京橋商店街振興組合の3団体から、病院跡地利用でのスミス記念堂の移築活用を望む意見が文書で明記されて表明された。今やスミス記念堂の移築活用問題は、市民病院病院跡地を利用した新たなまちづくりをどのようなものにしていくのかという大きな問題として広く彦根市民一般が関心を寄せる事柄となった。

 こうして市民レベルでこの問題への関心が高まり行くなか、翌平成14年(2002)2月17日に行われた7回目の最終検討委員会では、彦根市長に提出すべき跡地利用に関する答申書の内容が検討され、スミス記念堂の移築活用に関しては、複数の委員が要望を表明して、答申書に具体的利用例としてカッコ書きで答申書に明記される旨が申し合わされた。地元紙『近江同盟新聞』もこれをもって「跡地の一角にスミス記念堂が移築される見通しは濃厚と思われる」(2月18日)と報じた。

 そしてついに2月28日、「跡地利用検討委員会」より彦根市長に「跡地利用基本計画の基本となるべき事項について」と題する答申書が提出された。そこでは「彦根の歴史文化を学習・体験する交流の場」の整備内容と施設イメージの具体例として、「スミス記念堂の移築活用」の文言が固有名詞として唯一特例的に明記された。

 これを受けて「保存する会」では、彦根市長と市議会議長あてに、この市民の声を集約した答申書を最大限に高く評価する立場から、スミス記念堂の市民病院への移築を改めて強く求める旨の要望書を提出した。ここにようやく、当初よりの念願の地である市民病院跡地への移築がより実現可能性を増した形で立ち現れてきたのであった。  

◆平成14年3月〜16年3月(現在)までーNPOスミス会議の立上げから恒久的移築地確保までー
 この秋には、この答申を受けて市が病院跡地の具体的利用方針を打ち出すであろうといわれ、「保存する会」でもそれに標準をあわせてこの運動の意義を、彦根に多様に残る近代化遺産の保存活用問題の一環として今一度市民に向けてアピールすることを企図していた。14年度(2002)の滋賀大経済学部産業共同研究センター主催のフォーラムにおいて、筒井は「彦根の近代化遺産」と「近代化遺産を生かした彦根のまちづくりを考えるースミス記念堂の保存再建運動を中心にー」というテーマで、9月と10月の2回に分けてフォーラム開催の機会を得た。また11月に開かれた観光まちづくりをめぐる記念シンポジウムにおいてもスミス記念堂の保存活用をめぐる市民運動の実践について報告することができた。

 こうした取り組みはなされたのであるが、保存運動の進展にとって憂慮すべき状況もあらわになりつつあった。その一つは、上記の産研センター主催フォーラムの参加者は2回とも30名台というきわめて少人数にとどまっていたことである。これまで「保存する会」が主催した講演会やフォーラムなどでは参加者は常に100名以上、多い時には200名以上に達していたからである。これは、このフォーラムに向けた「保存する会」側での宣伝等広報活動がほとんど行われなかったこと、また病院跡地利用に関する答申のなかにスミス記念堂が盛り込まれたことから、「保存する会」のメンバーには一種の安堵感とこれまで運動を継続してきた疲労が重なり、活発な動きが見られなかったことによるものであろう。ここには、「保存する会」が会員有志のヴォランティア活動によって支えられ、きちんとした事務局のもとで広報・啓蒙活動が取られる体制が整えられていなかったという脆弱な組織面での体質が露呈したとも言える。

 いま一つは、この秋にも発表されるのではないかと期待されていた市の跡地利用の具体的方針は依然として明らかにされず、むしろ財政赤字の深刻化のなかで旧市民病院の建物は取り壊さずに他の利用に供すべきであるといった意見が市役所内外で囁かれるようになってきたことであり、せっかく提出された跡地利用のための答申が反故にされてしまうのではないかという不透明な雰囲気が漂いはじめていたことである。

 こうして状況の不透明化と運動する側での主体的力量の低下という不安定要因がふたたび保存運動の前途に立ちはだかろうとしていたのである。それを打ち破り、運動をさらに高次の段階に引き上げる力が市民の中から立ち現れてきた。それは彦根の中堅の企業家達が組織した「彦根経済イノヴェーション会議」(HEIM)という団体で、今後の企業経営革新や地域経済・文化振興等をはかるための活動を精力的に志向しているグループであった。彼らは彦根の経済の中核を担うだけでなく、かつてJCの中心的メンバーとして『全国城下町シンポジウム』7)の開催といった彦根の特性を活かしたまちつくり活動を精力的に展開してきた人々でもあった。

 そのリーダーの一人である小出英樹氏からHEIMが企画する経済問題の学習会の講師依頼を筒井が受けたところから、「保存する会」とHEIMとの接点が生まれた。小出氏等は、積極的にスミス記念堂の保存運動への協力を申し出られ、「保存する会」もまたこれまでの運動の経緯と到達点を話し、事務局が定まらないという組織の持つ脆弱面をも説明した。両者の間で協議が進められた結果、この運動は単なる文化財建造物の保存にとどまらず今後の彦根のまちおこしの起爆剤になりうる大きな可能性を秘めているという認識で一致し、それを現実のものにするには、組織をより強固にし、運営をより開かれた明確なものとして、さらに多くの市民に運動の輪を広げていくことが必用で、そのためにはこれまでの任意団体である「保存する会」を発展的に解消して、きちんとした事務局を備えた特定非営利活動法人=NPOを立ち上げることが不可欠であるという結論に達した。

 NPOの名称は、様々な市民がスミス記念堂を核としたまちづくりという理念のもとに出会い、知恵と力を出し合って衆議を尽くして運動をすすめていくという思いを込めて「スミス会議(Smith Meeting)」とし、設立総会を平成15年6月14日に開催することができた。その目的には、「滋賀県彦根市及びその周辺に存在する文化財的価値の高い建築物及び構築物を保存・再築・維持するとともに、当該建築物等の周辺地域のまちづくりに関する事業を行い、もって滋賀県彦根市及びその周辺の地域性を活かした個性あるまちづくりに寄与すること」が掲げられた。具体的事業としては、文化財的価値を有する建築物及び構築物の調査、保存、再築及び維持と運営、そうした建造物に関する市民への啓発、それらに関する書籍の発行及びインターネットを活用した情報発信、さらに青少年を含む市民への歴史・文化・経済・人物・特産物等に関するセミナー等の開催と国際協力活動の積極的推進を掲げたのである。いずれもかつてスミス氏が記念堂を核に行っていた、文化活動・社会教育活動や国際交流の活動を踏まえ、それを現代的なまちつくりの課題に発展させたものであった。NPOスミス会議の役員は以下のようなメンバーでスタートした。

 理事長   筒井正夫(滋賀大学経済学部)
 副理事長  森 將豪(滋賀大学経済学部)
 副理事長  小出英樹(キントー社長)
 副理事長  木村泰造(木村水産社長)
   理事  辻 博史(辻法律事務所副社長)
   理事  田中由一(田中印刷社長)
   理事  片岡哲司(双葉荘社長)
   理事  野路井宏之(北野野寺住職)
   理事  宮川弘(八幡高等工業学校教諭)
   理事  大舘路子(大舘古美術店店主)
   理事  杉原正樹(北風写真館社長)
   理事  田島一成(衆議院議員)
   理事  谷口典隆(彦根市議会議員)
   監事  北村昌造(彦根商工会議所会頭、栄昌堂印刷社長)
   監事  大森修太郎(元彦根商工会議所専務理事、中央パーキング社長)

 こうした陣容を得てNPOスミス会議は、「保存する会」の時とは明らかに段階を画する強固な運動体として生まれ変わった。第一に、法律事務所を構える辻博史事務局長のもとに事務局が置かれ、恒常的に事務・会計管理と組織統括が図られるようになったことである。第二に、印刷業を営む田中由一氏と雑誌編集出版業を営む杉原正樹氏が広報を担当することで、スミス会議からの情報発信が格段とスムーズ且広範囲に行われるようになったことである。第三に、結集した多彩な人々が広範囲にわたる人脈を形成し、行政―経済界―大学の連携が以前にもまして強固になったことで、より多くの市民層や行政当局に強い影響力を与えるようになったことである。

 このような新たな組織のもとスミス会議は次のような活動を展開していった。

 第一に、主に広報担当者が主導して、インターネット上でのホームページ開設、ニューズレターやメールマガジンの発行、さらに広告や地元紙上での宣伝活動等が精力的に展開されて、NPOスミス会議の目的と活動内容が逐一正確に広い市民に伝えられていったことである。

 第二に、戦前の新聞雑誌等の資料調査を通じてスミス氏の社会的活動や国際交流活動の実態がより深く解明されたばかりでなく、スミス記念堂以外の多様な近代化遺産の調査・発掘作業がすすめられてこの運動が単にスミス記念堂の保存活用ばかりでなく広く近代化遺産の保存活用によるまちおこし運動へと発展していったことである。まずヴィジュアルな絵地図に簡潔な解説を付した「彦根近代化遺産マップ」が作成され、正会員や会員・市会議員を対象にした例会ではそうしたマップ等を用いて「近代化遺産の学習会」が開催された。さらに10月26日に行われたNPOスミス会議認証記念のオープンセミナーでは、スクリーン上に映された近代化遺産の解説が建築上また歴史社会的背景から説き起こされるとともに、彦根に数多く残る近代広告史を彩る近代化遺産として秀逸なデザインと彩色に富んだ引札の展示会も開催された。さらに、県立大学の学生たちによってスミス記念堂をスミス氏とともに造り上げた彦根の大工宮川庄助氏の人と生涯が、生きた聞き取りの成果をもとに明らかにされた。こうして、スミス記念堂を始めとする近代化遺産が、彦根の近代史の生き証人であり、それを深く知ることで彦根への愛着と誇りを獲得し、明日のまちおこしにも活用できる宝なのだという認識が人々の中に深まっていったのである。

 第三に、こうして運動が大きな広がりをもって前進する中でスミス記念堂の移築地の具体的な確保がなされたことである。市では、助役を中心に各部署の責任者を配した市民病院跡地検討委員会を内部に設けてその検討に入っていたが、スミス会議では、担当者に幾度の交渉を求め、14年2月に出された答申どうりにスミス記念堂を市民病院跡地の中で活用してもらいたい旨を訴え、特に、全体の跡地利用に大きな支障の出ない看護婦宿舎跡地の提供を強く求めた。そしてついに、市は、平成16年(2004)1月7日、記者会見を開いて市民病院の跡地利用の基本方針を明らかにし、看護婦宿舎跡地については「再建へ向け市民活動が本格化しているスミス記念礼拝堂(スミス記念堂)の建設地として考えられる」と明言したのである。

 ここに幾多の変遷と葛藤を経たスミス記念堂の移築先の確保という難題が、「保存する会」設立時からの長年の宿願の地である、濠端沿いの看護婦宿舎跡地という最もまちおこしの展開のために理想的な土地を与えられて解決を見たのである。こうした成果をもたらす上で、市当局と粘り強い交渉に当たった小出英樹氏・木村泰造氏・森將豪氏並びにスミス会議の市議会議員の方々の並々ならぬ努力とそれらを支えた事務局並びに広報担当者達、これに対し今後のまちおこしの発展という大局的観点から見事に応えてくださった市当局の皆様の決断に、改めて深甚の感謝の意を表すものである。

まとめにかえて
 以上スミス記念堂の保存運動の経緯を見てきたが、ここでこの運動の特徴をまとめておこう。

 第一にこの運動は、彦根城の形状を随所に取り入れた伝統的な日本建築であるスミス記念堂という本物の文化財建築物を都市開発による破壊から守り、彦根の濠端の美しい歴史的景観を後世に残すことを目指したものである。思えば高度経済成長期以降、大規模で無秩序な都市開発によってどれだけ美しい歴史的景観が損なわれ、貴重な建築文化財が失われてきたことだろうか。スミス記念堂を残すことは、そうした社会風潮に抗し、真に歴史的伝統に裏打ちされた文化的重みのある都市景観を形成していこうという市民運動にほかならない。しかも戦前昭和恐慌という困難な時代に、日本および彦根の文化とそこに暮らす人々をこよなく愛し、死してなお遺骨や遺髪を彦根に残した外国人が、私財を投げ打って建てた美しい日本建築を、戦後の日本人がその価値も恩も忘れて葬り去ることなどできようか、そんな思いが人々を駆り立てていったのである。

 第二に、スミス記念堂を単に伝統的な建築物とだけ捉えるのではなく、明治以降の近代化の過程で形成された近代化遺産の一つであると把握することにより、彦根城周辺に多様に残る貴重な近代化遺産の保存活用のための運動として発展していったことである。この中で、彦根という地は桜田門外の変による直弼暗殺以降停滞を余儀なくされたという誤った歴史認識から脱して、産業・交通・教育・文化等さまざまな分野で貴重な近代化の推進がなされたことが明らかとなり、それが具体的な建造物への着眼を通して市民の生きた歴史意識となり、現代につながる郷土への誇りとなって徐々に定着していったのである。

 第三に、この運動が掲げた、スミス記念堂の建設にこめられた東西両文化の相互尊敬、平和祈願、国際交流、親子愛の尊重といった精神が多くの人々の共感を呼んだことである。自国の文化への愛着を欠いたグローバリズムという名に隠された欧米礼賛主義でもなく、その反発からくるすべて丸呑みで日本を賛美する国粋主義でもなく、自国の伝統文化の尊重の上に立脚した欧米とアジアをともに固有の価値あるものとして相互に尊敬する精神こそスミス氏から学びうる貴重な財産であり、それこそ民族紛争がいまだに絶えず、家庭や地域の崩壊現象を日々目の当たりにしているこの世界で、ぜひとも必要なものだと人々が感じ取り、一つの平和運動としてこの運動が捉えられていったことである。スミス記念堂はそこうした精神が美しい建物として具現化したものであり、この建物を守ることはそこに込められた精神を守ることであるという意識を多くの人々が共有できたことが貴重である。

 第四に、この運動が単なる歴史上の文化財の保護を目的としただけではなくて、そこに込められた精神を将来の町づくりに生かすことが重視され、さらに広く存在する多様な近代化遺産を含めて、地域の歴史と誇りを探り、国際交流や文化活動・生涯学習といった今日的事業のための核として活用していくことが企図されたことが指摘できよう。この運動が市民による市民のためのまちづくり運動として進展した所以である。こうした性格を持ちえたからこそ、彦根市も当初の方針を変更して、市民参加のまちづくりの一環として「保存する会」やNPOスミス会議の要望にも前向きに応えていくことができたのである。

 第五に、この運動では、従来の「保存運動」や「市民運動」なるものに往々にして見られるように行政当局の政策を厳しく批判する一方で、当然のごとく移築のための用地も費用補助も管理運営の面倒までも丸抱えで要求するといった、官に頼りきった運動のあり方ではなく、土地のみは公的な要素が重要なため市の用地提供を求めるが、移築費は自ら募金等によって捻出し、移築後の管理運営にも自ら責任を持って関っていこうという、自立・自助・連帯の精神を持って推進された点である。低成長下の経済状態の中で、財政赤字に呻吟する地方や国の援助に安易に依存するのではなく、行政当局と協力を図りつつも市民自らの汗と力と知恵で既存建造物の再評価と再利用をはかり、まちづくりに資していこうとするところにこの運動の特徴が見出せる。

 第六に、この運動には実に多様な市民層が参加したが、その各々が専門領域や独自のネットワークを活かした活動を展開した点である。市会議員や県会議員等の政治家は、議会での要望・質問、行政当局との折衝に大いに力を発揮し、新聞記者を始めとするマスコミ関係者や印刷出版に携わるもの達は、運動の経過や意義、到達点をあらゆる報道媒体を用いて逐一報道し、この運動の意義と経緯を広く市民に知らしめる役割を果たした。建築家は、貴重な文化財建造物の専門的評価ならびに解体撤去から移築にいたる技術とノウハウを提供してくれた。幸い彦根には伝統的建造物を専門領域とする優れた建築家が存在し、このことが保存運動の確固たる支えとなった。まちづくりに熱心な企業家たちはこの運動の発展を物心両面から支え、NPOという強力な組織体を生み出す原動力となった。また茶人・華人・商店主・宗教家等は、日常的な幅広い文化的・人的ネットワークを通じて運動の広がりを図るのに貢献した。熱心な主婦層もまた市民層への草の根のネットワークを活かして常に運動の下支えとなった。そして大学人は、運動の理念を明確にし、方向性を確定するとともに、市民の日常的な利害関係から自由な立場にいたために、多様な市民層の利害を調節し各々の得意分野を生かしながら全体を一つに束ねるのに一定の役割を果たすことができたといえよう。

 上記のような7年間に及んだ市民運動の結果、平成16年1月ようやくスミス記念堂の恒久的移築地は濠端の彦根城を望める旧市民病院看護婦宿舎跡地と決定した。NPOスミス会議のメンバーは現在400名近くに達し、集められた募金は900万円強に達している。

 しかし、この事業の本格的な展開はむしろこれからである。5000万円以上を要する移築再建費用を集め、美しい濠端の地にスミス記念堂を多くの市民が集い憩える場として蘇らせ、生涯学習・文化・国際交流といった真に市民にとって必要な事業を市民が主体となって運営できるような組織と体制を構築してゆかねばならない。さらに彦根城周辺に残る他の価値ある近代化遺産等の建造物や優れた景観の保全と現代的な活用もスミス会議が目指すまちつくりの一環である。その実現のためには、これまで以上に多くの有為ある市民の力が必要である。

 これからも幾多の困難が待ち受けているだろうが、私は決して悲観していない。これまでもそうであったように、これからもまた多様な市民が知恵と力を出し合い、協力し合ってゆけば必ずや乗り越えられると信じているからである。

 歴史を知り、歴史に学び、それを真に誇りうる郷土の創造に結びつけていくことが、今我々に課されているのである。

追記
 今回の報告では、議会質問等をなされた政治家の方々の氏名や解体に携わられた業者名などは、伏せさせていただいた。いずれ、この移築再建運動が完成した暁に、改めて公表させていただこうと思う。御寛恕を請いたい。

※NPOスミス会議については以下を参照されたい。
  URL:http://www.smith-meeting.com/
  e-mail:ml@smith-meeting.com


1) 以下のスミス記念礼拝堂についての建築の特徴、由来、スミス氏の略歴・思想・人柄等については、『スミス先生の思い出』玉川学園出版部、昭和29年による。
2) 松波秀子「昭和初期における日本聖公会の和風教会堂建築について」『日本建築学会大会学術講演  集』平成4年8月・同5年9月  
3) 宮本順三『ぼくは豆玩』1991年、山三化学工業株式会社、51頁。
4)  滋賀県教育委員会『滋賀県の近代化遺産』(寺西正裕・石田潤一郎・筒井正夫・神吉和夫・三宅宏司・村上康蔵執筆)平成12年。
5) 「地域史のなかの近代化遺産」『新しい歴史学のために』No.245号、2002.2。
6) 筒井正夫「歴史発見講座 彦根ゆかりの近代化遺産」テキストT〜X、彦根市教育委員会、平成12年。
7) 例えば、その活動の一端は、彦根青年会議所編『まちづくりゲームOLD&NEW』1989  年、株式会社ぎょうせい発行、となってまとめられている。  



(筒井正夫 プロフィール)
1955年横浜生まれ。一橋大学大学院後期博士課程終了、現在、滋賀大学経済学部教授。専門、日本近代史。近代日本地域社会の経済・社会・政治・文化の研究。その他、近代化遺産の研究・保存運動にも従事。彦根市史、高月町史、愛知川町史等に従事。