姫路城とともに 世界遺産10周年を迎えて

法隆寺管長 大野 玄妙

平成16年5月28日日本城郭センター会議室において開催された、講演会の講義録です。姫路城を守る会発行の広報誌「白鷺城 第38号/平成16年9月1日発行」に「特集 世界遺産登録10周年記念紙上講演」として掲載されたものをご紹介いたします。

日本初の世界遺産に登録された"双児の兄弟"

みなさんこんにちは。

ただ今、ご紹介に預かりました法隆寺住職の大野でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。

本日は「姫路城を守る会」の皆さまに『姫路城とともに世界遺産10周年を迎えて』と題して、お話をするようにとのご下命でございます。

改めて申し上げるまでもないことでありますが、10年余り前、平成5年の1993年12月にコロンビアで開かれたユネスコの総会で、姫路城と法隆寺は日本で初めて世界文化遺産に登録されました。国連ユネスコの世界文化遺産および自然遺産の保護に関する条約、簡単に申しますと世界遺産条約と申しますが、我が国はこれを批准するにあたりまして、日本における文化遺産の候補として姫路城と法隆寺を推薦し、ユネスコの総会で決定されて認定登録をされたものであります。

その当時のことを振り返ってみますと、確か登録より2年ほど前のことであります。非公式に文化庁より世界文化遺産の候補として推拳することに関しての打診がありました。今でこそ、世界遺産は市民運動の高まりのなかで推薦を受け、登録されるというような流れが定着している感もありますが、最初はそうではなかったのであります。

もちろん国連のユネスコや遺産条約の趣旨から申しますならば、このような市民参加の在り方は望ましいことであります。我が国では、広島の原爆ドームの登録に向けて大きな市民運動が展開され、それ以来各地で登録のための運動が行われるようになりました。ただ残念なことに、世界遺産の趣旨とは別に、政治的な利用、あるいは観光産業などへの期待などが先行してしまった運動も見受けられました。

しかし、10年余り前の我が国では、世界遺産という言葉を耳にしてもほとんどの人が何のことかわからない、という状況でした。また、行政関係の人々でも、これに直接携わっていないと聞かれても説明できないという有り様でした。現在ではこの世界遺産あるいは世界文化遺産、世界自然遺産という言葉はほとんどの人々が認識をし、また、日常的に使われ、テレビや新聞などでもいちいち説明しなくても普通に用いられるまでになりました。

これは最初の登録当時から各関係者の啓蒙活動や努力、そして報道関係者などの理解や支援、さらに各地域の市民によるさまざまな活動など、多くの人々によってなし得た成果であると思います。これらの成果がさらに発展して、我が国の文化遺産や自然遺産が、より多くの人々の理解と支援によって長く守られていくことを願うものであります。

そもそも姫路城と法隆寺が日本で最初に世界遺産に推挙されたのには、それなりに理由がありました。国が初めて推薦するのでありますから誰もが納得できるところでなくてはなりません。また、失敗することはできないのであります。登録されるためには国が保護のための法的な措置を複数で講じていなければなりませんが、これには国宝であることと、史跡に指定してあることがその条件となりました。また同時に、姫路城と法隆寺は修復のために修理事務所を国の機関として特別に設け、いわゆる直轄の事業として大々的に修理を行った経緯があります。このような体制で修理が行われたのは、日本ではこの姫路城と法隆寺だけであります。

法隆寺の場合、昭和9年(1934年)に、「法隆寺国宝保存事業部」と「法隆寺国宝保存協議会」が設置されています。この「法隆寺国宝保存事業部」という組織は、文部大臣が省内に設けたもので、その長には文部次官があたり、関係職員がその職務を担当しておりました。さらに、法隆寺の現場で設計・施工・調査などの業務を行うために、「法隆寺国宝保存工事事務所」が置かれました。また、「法隆寺国宝保存協議会」は、各方面の権威者を結集して専門事項の調査や審議を行い、助力や助言を得るために設けられたものであります。

このような体制が取られましたのは、法隆寺の国宝建造物のすべてを修理の対象とする大計画が昭和9年に実施されることになり、法隆寺と文部省との協議により、国庫からの補助金と寺側の負担金を合わせて差し出して、文部大臣に工事の一切を委任することになったことによります。以来、国の制度や名称の変更は行われたものの、昭和31年(1956年)の3月31日まで続けられ、その後の事業は新たに設置されました「法隆寺文化財保存事務所」に引き継ぎ、終了いたしました。

また、姫路城のことにつきましては、いまさら私が申すまでもないことでありますが、1934年から1964年までの30年間、保存のための大事業が国の直轄事業として行われたことは、皆さまもよくご存じのことであります。

このようなことから、国としては、文化遺産の登録に各方面の理解も得やすく、また状況説明も行いやすい姫路城と法隆寺を選び、万全を期して推挙したものとみられます。また、登録当初は、さかんに日本の文化は「木の文化」として紹介され、内外にアピールされたことは皆さまもよくご存じのことと思います。

もちろん、姫路城も法隆寺も、ともに主として木で作られていることや、そのほかの日本の古建築のほとんどが木造建築であることに由来するのですが、これを強調する理由はほかにもありました。
 
それは欧米の人々の木造建築に対する認識が大きく影響したようであります。彼らの認識によると、木は湿気に弱く、腐りやすいもので、日本の古建築には当初材がほとんど残されていない。また、伊勢神宮のように様式だけは踏襲するものの、何年かごとに建て替えられてしまう、いわば新しく造った新築であり、とても世界遺産に値するものではない、というようなものでありました。

そこで、日本としては、そのような誤った認識を改めさせなければなりませんでした。木造建築の修理は、実はこのようにして行われていますよ、当初の材木は何%残されていますよ、やむを得ず外した当初材はこのようにして保存していますよ、と日本の修理方法や技術を細かく説明し、理解を促す必要があったのであります。

このような説明をするにおいても、直轄事業として修理を行い、国の関係者が熟知している姫路城と法隆寺が最適であったといえましょう。特に法隆寺の場合、焼損した金堂内陣の焼け焦げた状態のそのままを保存している収蔵庫や、あるいはおびただしい量の古材の保管状況を証拠として見せ、説明したことにはとても説得力があったと聞いております。

また、姫路城と法隆寺は、同じ技術で築城、建造され、同様の方法で同じ技術者、同じ技能者たちによって修理、修復が行われたのであります。城郭を建造する場合、寺社を建てる大工さんがこれに当たったことはよく知られています。法隆寺の大工棟梁であった中井大和守正清は、徳川家康に重用され、名古屋城の築城にかかわるなどの活躍をし、また後に、中井家は幕府の大工頭として数々の工事を行ってきたことでも有名であります。少し余談になりますが、慶長19年(1614年)徳川家康は、大坂城を攻める途中、法隆寺の阿弥陀院に泊まって戦勝祈願を行っています。

徳川家康が法隆寺に立ち寄った理由につきましては、すでに味方にしていた大工棟梁の中井大和守が法隆寺に住んでいたことや、この大和守が大坂城の築城に参画し、城内の状況にも詳しかったことなどが挙げられています。また、大工の棟梁は多くの大工集団や工人を配下としており、大きな武装集団となり得たことや、また、橋を架けたり、宿衛場所、砦を作るなど、工兵としても優れていたということも挙げられます。さらに歴史研究者のなかには、千姫救出の望みとも全く無縁ではないという見方など、さまざまな憶測がなされているようであります。いずれにいたしましても寺院を建立する大工集団は、築城の際に大いに関与し、中心的役割を果たしたことは言うまでもありません。

また、近年では法隆寺の修理に携わっていた多くの技術者や技能者が、姫路城の修理のために赴任された事実もあります。それは先にもお話いたしましたように、法隆寺の国宝保存事務所が1956年に閉じられ、姫路城はその8年後の1964年まで続けられたことによります。私も何人かの人が姫路城の修理のために赴かれたことが小さいころの記憶として残っています。

こうしてさまざまなことを総合して考えてみますと、まさに法隆寺と姫路城とは、寺と城という違いはあるものの、日本で最初に世界文化遺産に登録された″双児の兄弟″と見ることができます。

次代へ継承するための様々な問題点と解決策

しかし、次にこれらの貴重な遺産を保護し次の世代、さらに未来へと継承して行くためには、困難なハードルも多く、共通の悩みを抱えていることも事実であります。先にも欧米人が懸念していたように、確かに日本の風土は湿度が高く、木造の文化財は湿気に弱いのであります。また、風や雨の被害にも遭いやすいことからも、こまめにメンテナンス、補修しなければなりません。このメンテナンスをきちんとこなす事が大切であり、歴史の上ではメンテナンスが行われずに失われた文化遺産は枚挙に暇がないほど数多くあります。

先の阪神淡路大震災の直後、私たち寺では、寺内の古記録や日誌などから過去の災害と修理時期についての緊急調査を行いました。その結果、やはり修理が遅れていたり、手の回らなかった建物が被害を受け、修理の行き届いていた建物は被害を受けていなかったのであります。また、仮に受けていたとしても、それは軽微なものであった事がわかり、メンテナンスの必要性を痛感したところであります。 

このような補修ができなくなる理由を考えてみたとき、そのほとんどが経済的な理由でありました。特に寺院の場合で申しますと、政治や制度の変化によって寺の維持管理をするための経済的な基盤を失うことが挙げられます。

例えば、法隆寺の場合。ご承知の方もおられるかと思いますが、この姫路市の隣に太子町があります。この太子町は、法隆寺にとって最大の荘園でありましたが、豊臣秀吉のときに召し上げられ、代わりに1000石の地行を受けたのであります。その結果、寺の経済力は大幅に減少し、1000石では僧侶たちの日々の暮らしが精一杯で、建物の修理などとてもできない状態になってしまったのであります。

ここで少し時間を頂戴いたしまして、太子町の斑鳩荘についてお話させて頂きたいと思います。法隆寺を建てられました聖徳太子は、斑鳩宮に移り住まわれた翌年の推古14年(606年)、推古天皇のために『勝鬘経』という仏教の経典を講じられ、さらに岡本宮で『法華経』を講じられたことが『日本書紀』に記されています。その続きには、天皇が大いに喜ばれて、その布施として播磨国の水田100町を贈られ、太子はそれを斑鳩寺、つまり法隆寺に施入されたと記されています。

このときの水田が斑鳩荘で、その場所は播磨国佐勢の地、つまり現在の太子町です。また、この荘園を管理していたのが太子町にある斑鳩寺であります。その後、およそ1000年近く、法隆寺の経済的な基盤であり続け、法隆寺の根本荘園でありました。この荘園の広さにつきましては、『日本書記』のほかに、『上宮聖徳法王帝説』あるいは『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』、また『日本霊異記』などに記され、いろいろな説となっております。その理由は、開墾面積が時を経て次第に広がってゆくなかで、その記述の伝承時期や各書物の製作時期によってさまざまな表現となっているからであると見られています。

ちなみに少し紹介してみますと『日本書記』に記されているように、最初は100町でありました。それが『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』では、219町1段82歩。『日本霊異記』では273町5段余り。『上宮聖徳法王帝説』では300余町となっています。

また、このようなご縁から私たち法隆寺と太子町の斑鳩寺さんとは、今でも昵懇にお付き合いをさせていただいておりますし、また斑鳩町と太子町は、姉妹提携を結んで町ぐるみでお付き合いをしているわけであります。また、少し姫路市さんとのかかわりを申しますと、『法隆寺伽藍縁起並流記資財帳』に播磨国揖保郡の名称が多く見られ、先に述べました斑鳩荘の一部は現在の姫路市区域であった可能性が高いとされています。

このほか揖保郡には、12町2段の薗地、要するに花園みたいなものや、5カ所の山林、庄屋、庄倉が1カ所、そして林田町に50戸の食封といったものが記されております。また、印南郡と飾磨郡に山林などが16カ所、浜辺が2カ所あったようで、姫路市には、山間から海岸にかけて法隆寺の領地が点在していたようであります。

中世におきましても、この荘園が存在していましたことは、『太子伝私記』という書物に伊保荘が末寺末荘として挙げられていることからもわかります。さらに勝原区下太田の下太田廃寺出土の軒丸瓦、軒平瓦がともに法隆寺式と言われる法隆寺と同じ模様の紋であるところから、技術的な往来も推測でき、姫路市も隣の太子町と同様に法隆寺との関係は密接であったと考えられます。少し余談が多くなりましたが、話をもとに戻したいと思います。

経済的基盤を失うことについては、もうひとつあります。長い歴史を経る中で寺の支援者、つまり大きなスポンサーがなくなってしまい、寺の経営が成り立たなくなってしまうというケースが起こつてしまうことです。それのほかにも色々考えられますが、いずれにしましても情勢の変化に伴う経済力の低下が原因となっていたようであります。

現代の状況を考えてみますと、相変わらず経済的な理由はありますが、それに加えて別な事情も浮かび上がってまいります。ひとつには、補修材の不足が挙げられます。例えば木材について申しますと、修理のための材木は小さなものだけではありません。成長するのに何100年もかかる太い木や、長い木が必要な場合があり、姫路城も法隆寺も現実にこのような材木が使われています。現在の我が国には、このような材木がなかなかありません。仮に見つかったとしても交通事情からして、このような長大な木を運ぶことは困難な状況と言えましょう。

また、檜皮茸に必要な木の皮の不足も深刻です。瓦屋根の瓦の材料である粘土も入手が難しくなってきているようで、大量に掘り出したり、焼いたりして煙りを出すといったことなどで、環境問題も起こってきているわけであります。先日、奈良県の瓦の生産と瓦茸を行う会社の社長さんで、姫路城の修理にも携わった人の話を聞きますと、現在では粘土が近くで採れなくなつてしまって、岐阜県まで採りに行くそうであります。しかし、今採っている場所でもさまざまな問題が生じてきており、採取が困難になってきているとのことでありました。

次に、技能者の後継者が減少して、中には激減していると言ったほうが的を得ている業種もあり、これらの後継者の育成も大きな課題となっています。特に日本は木の文化などと言いながら、最近では鉄筋を使ったマンションや、あるいはアパートばかりが作られて、木造の家屋が建てられない傾向にあり、大工さんなどは仕事が減ってきています。さらにまた最近では、木造の建物が建てられる数は、日本よりアメリカなどの方が多くなってきているとの指摘もあります。

そしてまた、現在、本格的な木造の家屋などを新築する場合、材木の強度や構造上の耐震性に対する規定作りの立ち遅れから、建造の許可が下りないという問題が起きています。つまり、規定がないから許可を出せないというわけで、法規上の大きな課題となっています。最近少し改善されたものの、ある大工さんは、「私は法律違反を覚悟しなければ、ちゃんとした木造の家が建てられません」と話されました。そういう言葉を聞いて皆さんはどう思われるでしょう。

大工さんの仕事が減れば、大工さんは減りますし、大工さんが減れば、優秀な技能者も減り、日本の林業も成り立たなくなるような悪循環を引き起こすことになります。このような悪循環は大工さんに限らず、檜皮職人、瓦職人、飛び職、左官職、建具職人など、多くの職種に見られる傾向であります。これらの悪循環はさらに大きな悪循環となり、文化財修理のための材料の不足、技能者などの人材不足、そして修理費用が高騰するといった、互いが関連しあった悪循環の輪は拡大するばかりであります。

特に技能者の人材不足は深刻で、優秀な職人さんは年々高齢化するばかりというのが実情で、若い檜皮職人は金の卵とまで言われております。これらの職業に対して若い人たちには、きつい、汚い、危険という、まさに3Kという仕事と映り、敬遠されているようであります。また、せっかく希望してこの道を志す人が出ましても、長続きせずに辞めてしまう人が多いと聞いております。私たちはこれらの技能者を育て、魅力ある職業として成り立つように、また、より希望者が増えるよう多くの人々の理解を促する努力を行い、その環境とシステムを整えていかなければならないものと思います。

また次に、自然環境との問題とも深くかかわっているとも考えられ、環境汚染による材質の低下が懸念されています。特に、木の皮で葺かれた屋根は、30年くらいは持つものとされておりましたが、近年では20年もすれば次の葺き替えが必要になってしまっています。これは材料不足からくる粗悪材料による修復、あるいは人材不足からくる技術的な問題だけではなく、環境汚染による材料自体の質の低下や、あるいは屋根自体が汚染されて寿命を短くしているという指摘がされています。奈良の東大寺大仏殿の前にある有名な国宝の銅燈籠が現在では模造に代えられているのも、空気の汚染による腐食が原因で、最近では、堂内や室内の仏像・仏具にも影響していると言われています。

このような現状を踏まえて世界文化遺産を未来に引き継ぎ、長く守り伝えるための条件としましては、先行きがあまりにも深刻な状況であると言わなければなりません。だからと言って手をこまねいているばかりではなく、この文化遺産を後世に残すために私たちは今何をなすべきか、ということを模索することが求められているものと思います。

姫路城も法隆寺も、そのほか我が国の世界遺産のすべてが、私たち日本人のかけがえのない財産であり、全人類の共有する遺産であります。私たちの祖先や先人たちの知恵と努力によって守り伝えられ、先輩たちの想い、願い、精神がこもった温かい贈り物。これを今、私たちは引き継ぎ、そして未来へ繋ぐ責務を担っているのであります。日本の文化・精神の結晶として、姫路城と法隆寺は、今現在私たちの前にあるのです。

これを保護し、未来へバトンタッチし、長く守っていくためには、保護のための支援、啓蒙、将来のための植樹、草引きなど、あらゆる幾会で私たちそれぞれが自分たちにできることを見つけ、保護のための意志を現す行動を起こさなければならないと思います。そこに世界文化遺産保護のための活路があるものと信じます。

最近ではこのような趣旨を持って活動を行う人々も見受けられるようになりました。また、さまざまな形で支援しようとする団体も出て参りました。ここで少し時間を頂戴して、私もかかわっている運動を二・三紹介させていただきたいと思います。

その一つは、先程申しました檜皮葺きに使用する桧の皮が不足していることに関したもので、林野庁の事業として管理している国有林を活用しようというものであります。世界遺産修理のために、多くの国有林のなかから材料の供給に適した品質や数量、場所を考慮して地域を定め、まずは檜皮を提供し、将来的に木材としても活用すると同時に、啓蒙活動のための施設も設けていこうとするものです。現在、「世界文化遺産貢献の森林」という地区を設定して、林野庁の事業として近畿中国森林管理局がこれを進めています。

二つ日は、現在日本国内に大きな木が少なくなってきており、400年後の大修理のための木を、今から植えておこうというものであります。具体的には、植える場所として林野庁が国有林の一画を提供し、民間のボランティアがその提供された土地に桧を植え、国が文化財の修理のためにそれらの木を育て、保護するということとなっております。すでに京都府の鞍馬山・茨城県の筑波山・奈良県の春日奥山の3カ所で実行されています。

これはそれぞれに「古事の森」という名称を設定し、全国に広げようという官民一体の事業であります。作家の立松和平氏の提唱により実現したもので、民間のボランティアのひとりひとりが自己に強い意志を持って文化財保護の目的のために木を植えるところに大きな意義があると思います。木を植えることによって、文化財保護の精神が心に植え付けられ、育まれるというものであります。

三つ目は世界遺産の修理のために、現在植えられている木を大切に守り育て、そして確保していこうというものです。世界遺産の所有者や木を育てている林業家、木を実際に使う技能者、学識者および支援者、そして林野庁、文化庁、環境省などの関係者が参加している団体があります。「文化遺産を未来につなぐ森づくりのための有識者会議」という長い名称ですが、社団法人の国土緑化推進機構の助成を受けて、「補修用材と技術の委員会」と、「補修用材確保策検討委員会」の二つの委員会が活動をしています。

林業家が目的の木を守っていくための数多くの諸問題の解決策や、文化遺産の修復に必要な材木の調査、そのための木の品質確保のための育成方法、あるいは技能者の裾野を広げるための方策などを幅広く検討し、各種の運動を起こしていこうとするものであります。

平和実現のために世界文化遺産が担う役割

さて次に、世界遺産登録の趣旨について少し考えてみたいと思います。先にも申しましたように文化庁から世界遺産に登録するための推挙の打診を受けた私たちは、世界文化遺産とはいかなるものなのか、また私たちが日ごろ行っている宗教活動や文化財の保護管理とどうかかわるのか。これが両立するものなのかなど、さまざまな角度から検討いたしました。その結果、ある一筋の方向性と結論を見い出せたので、法隆寺としては推薦をお受けしたのであります。

まず、世界遺産の登録は国連ユネスコの条約に基づいて登録されるわけでありますから、当然のこととしてユネスコの設立の目的に合致しているものと理解すべきでありましょう。ユネスコは、教育、科学、文化を通じて、各国民間の理解を深め、世界の平和に尽くすことをその目的としているのであります。

ですから登録された遺産は、人類の平和、世界の平和に寄与し得るものと認められたということであります。文化遺産や自然遺産にとって最大の脅威は戦争や紛争です。また、人々の価値観の相違からの破壊や、貧困のため、わずかな収入を得るために破壊をし、その一部が取り出され売りに出されたりします。これらの遺産を欲しがる不心得な人もいます。これらはすべて人間の行う行為なのです。

ユネスコの期待するところは、世界遺産のある国や地域の人々が人類共有の大切な遺産の保護の重要性に目覚め、そして多くの人々の理解を求め、みんなで守って行こうという機運が高まることであります。そうなることによって、それらの地域からは戦争や紛争がなくなると同時に、これらの遺産保護のための啓蒙や努力が自然に人々の精神的支えとなり、さらに心の平和も育まれるものと信じます。

また、少し余談になりますが、かつて京都で景観の問題が起こったときに、京都仏教会の各寺院や市民のなかから高層ビルの建設に反対して立ち上がった人々がおられました。それは長い歴史のなかから生まれた京都の佇まいを守る運動であり、京都らしい街であればこそ、京都市民はそのなかで心の平和を受け止め、そしてさらに平和の心が育まれてきたのだと思います。

姫路には姫路らしい街の景観、法隆寺には法隆寺らしい景観。これも世界遺産の一部であり、そのために(バッファゾーン)というものが設けられているのでありましょう。このように考えて参りますと、この世界遺産の登録が世界中点々とまんべんなくされることによって、平和の輪が増し、やがて結び付き、最終的には世界平和が達成できるというわけで、ユネスコはそのようになってほしいと願っているのだと思います。

さて次に、世界平和の実現をと考え、昨今の世界情勢や社会情勢に目を向けてみましたとき、私たちの目には世界平和とは程遠い状況があちらこちらで現出し、世界中の多くの人々が悩み苦しんでいる姿が映って参ります。しかしその反面、今日ほど多くの人々によって平和が求められ、叫ばれている時代もかつてなかったのではないでしょうか。まさに平和でないからこそ平和を求める声が高くなり、平和を求める声が多ければ多いほど世の中が平和ではなく、乱れているということでありましょう。

さまざまな価値観の相違や身勝手な、自分たちにだけ都合のよい理屈による平和。私たちはこのような低位な次元から抜け出すことは出来ないのでしょうか。現代の社会はまさに人と人との信頼関係が失われ、これらの歪みによって悪い影響がさらに幅を効かせていて、社会全体が混迷し、解決の糸口きえ見い出せないというのが実情でありましょう。

このようなとき、世界遺産の持つ平和への貢献の役割を考えてみますと、私たちには全人類の持つ大切な遺産を共に守るという認識の上に立って、自分たちの地域の遺産のみならず、ほかの国や地域の遺産も守っていくための行動や啓蒙が求められているものと思います。

つまりユネスコが世界遺産として登録するということは、世界平和への貢献を期待しているのであって、登録された遺産の保護と平和のための活用とを世界から託され、またその義務と責任とを担ったものであると思います。

各国、各地域の世界遺産は、それぞれに住む人々の精神であり、結晶であります。ですから、お互いにその人々の精神、文化を学び、認め合うなかに、それらの遺産を共に保護する機運を養い、そして相互理解のなかに平和精神も育まれ、やがては世界平和への道も開けてくるものと信じるのであります。

日本の精神文化と聖徳太子

それでは私たちの国、日本の精神文化の面から平和を考えてみたいと思います。古代の我が国では、山の神、地の神、また風の神、水の神、あるいは大木には神が宿ると言われてきました。自然や大地に対して畏敬の念を持ち、信仰する、いわゆる神祇・祭祀を中心とした生活を送っていたのであります。

そこへ未だ国家として発展途上であった我が国に、新興宗教として仏教が伝えられたのであります。しかし、当然の成り行きとして、古来より広く祭られていた神祇・祭祀を擁護する人々との間で、それなりの摩擦が生じたのは言うまでもありません。そのようななか、推古2(594)年には、推古天皇と聖徳太子によって「三宝興隆の詔」が発布され、内外に仏教の受容を公式に発表されたのであります。

これによって朝鮮半島の諸国から僧侶、技術者など多くの知識人が派遣されて各地に寺院の建立が進み、仏教が盛んとなって我が国精神文化の一大転換期を迎えたのであります。当時の友好国であった朝鮮半島の諸国が、文化や技術の指導のために、今で言う海外援助を行ったというわけであります。これによって我が国の建築技術も大幅に向上し、さらに発展を遂げ、そして日本の木の文化を育ててきたことは言うまでもありません。

さて、ここで少し話は変わりますが、このように太子によって仏教が受容された我が国は、文化、技術、精神など、多くの面で向上、発展してまいりました。また特に、平安時代の後期頃から、世情の末法思想と相まって聖徳太子に対する信仰が急速に広がり、それぞれの分野の祖と仰がれるようになります。もちろん仏教の立場から申しますならば、平安期、鎌倉期に興った各宗派もそれぞれに太子を尊崇し、日本仏教の祖師としての地位が確立し、各集団にとって垣根のない特異な信仰対象となってまいります。

また文化や技術の面からも我が国の文化は仏教と共に発展し育まれてまいったことは申すまでもなく、技術においても我が国の仏教受容に端を発し、多くの寺院が建立され、そしてそのなかで培われた技術が今日まで続いているのです。そうでありますから、それぞれの技術集団にとりましても太子が、その分野の祖として尊崇の対象となったことは自然なことでありましょうし、太子が日本文化の父と言われるのも納得のいくところであります。

やがて、これらの流れは次の時代に引き継がれ、そして庶民信仰としての太子信仰へと広まってまいります。特に太子への信仰が庶民へ広まる原動力となったのが、全国各地で活躍している地域の技術集団、つまり職人さんたちでありました。

江戸時代になりますと世の中も安定し、人々の暮らしにもゆとりが生まれてまいります。人々はこれらのゆとりのなかで、生活を楽しむようになり、ある人は旅に出掛けたり、気の合う人々が集まって何かをする、あるいは神社仏閣に参拝したりするなどのことが流行します。現代風に言いますと、観光に出掛けたり、グループ活動を行ったり、また、仲間同士で信心したりするわけであります。

こうしたなかで「講」というものが組織され、そしてさまざまな講が各地に生まれます。このなかに聖徳太子を尊敬し、みんなで太子の年忌法要を行ったり、仲間たちの代表の何人かが太子ゆかりの寺々を参拝したり、また太子に関係する寺の法会には仲間たちから寄付を集めて代表者がそれを届けて参列をするといったことなどが行われました。それを「太子講」と言いました。

これらの太子講はやはり、それぞれの職業の技術者たちによって組織されたものが多かったようであります。例えば、大工さんばかりの太子講、材木商の太子講、また、石屋さん、左官さん、瓦屋さんといった具合であります。またこれらの人々は、自分たちの集まる場所やあるいは礼拝場所として聖徳太子を祭る太子堂や集会所を建て、毎月日を決めて集まり、お供えをしてみんなでお祭りをしたのであります。

礼拝の対象となる聖徳太子の像は、彫刻をされた像、あるいは描かれた像、墨書、太子の教戒を書いたものなど、さまざまであります。なかには大工さんの差し金を手に持たれた太子像も見られるようになります。また、全国各地に太子堂は残され、堂がなくても地図上では地名として残っている例も多くあります。

以前にある人が聖徳太子像のお祭りされている箇所を、全国規模で調査されたことがあります。当時はまだ沖縄が復帰前でありましたので、その調査対象地域に入っていませんが、その他の都道府県のなかで宮崎県を除くすべての県で確認されたと言われております。が、その後、宮崎県でも「わたしのところにもあります」という声があり、結局全国にあったということであります。

このように太子講は全国的に広がり、現在でも各地で太子講は活動されています。これらの太子講が長続きしている理由を考えてみますと、それは同じ職種、同じ職業によって構成されていたのが大いに関係しているものと思われます。同じ業種の人々が毎月集まるわけでありますから、そこでお互いの親睦を深めるだけでなく、何よりもさまざまな仕事の情報が収集でき、また助け合うことができたのであります。なかにはその年の賃金を相談したり、あるいは仕事の配分まで行っていた講もあったようで、そういったような事柄を話す場でもあったようであります。

余談が長くなりましたが、いずれにしましても聖徳太子の仏教受容とともに、多くの技術も伝わり、そのことはそれぞれの職業集団の祖として崇められる本であり、また今日でも各方面で信仰を集めている所以でもあります。

しかし、ここで何よりも申し上げたいことは、聖徳太子はこの仏教受容によって、国の精神文化をはじめ、多方面の文化、技術、制度を学び、そして高められたのでありますが、決して神祇・祭祀を疎かにされたのではありませんでした「三宝興隆の詔」を発せられてから5年後、推古7(599)年に起こつた震災に対して「諸方に命じて地震の神を祭らせた」という記述が『日本書記』にあります。

仏教受容によって我国古来の神祇信仰が損なわれることは決してなかったのであります。また同じく『日本書記』の推古15 (607)年の項には、聖徳太子と蘇我馬子が官職にあるすべての人を率いて神祇を祭り、拝したことが記されています。

このように我が国では、仏教受容の当初から、神と仏は共存の道を歩み、人々の精神的支えとしての役割を共に担い、その精神性を養育してまいったのであります。そして我が国の人々にふさわしい和合協調された独自の精神文化を発展させてきたのも事実であり、「神仏習合」の思想や「本地垂迹」の説などはよく耳にされていると思います。ただ今の世界情勢のなかで、異なる宗教的な価値観が互いに譲らず、世界に波紋を投げかけ、そして多くの問題を引き起しています。信仰や文化が別であっても、お互いを認め合い、融和しあって存在するということは、人の生活に大きな意味を持つものと考えます。

以上のように、聖徳太子に重ね合わせて世界遺産について考えてみましたとき、世界の平和のために全人類共通の遺産であるという認識を持ち、それぞれがお互いの文化や価値を共に学び、認め合う努力が今、求められているとおもわれます。
このような努力の積み重ねのなかに初めて世界平和が展望できますものと信じますとともに、私たち日本の歴史のなかにもその手本が示されていることを思うとき、これを世界遺産の平和のための活用、精神を発信するなかで活かすことができればと願うものであります。

先にも述べましたように、世界遺産に登録されるというのは、世界の平和のために人々が共に守るべき共有の財産として認定されたということでありますから、全人類にとって共通の価値となるはずであります。

このような共通の価値認識を持つ重要性については、聖徳太子のお考えのなかにも窺うことができます。聖徳太子の精神はよく知られておりますように、「和を以て貴しとす」という『十七条憲法』の第一条の冒頭で示された和の精神であります。

ここでは共に和合協調し合い、仲よくすることの大切さを訴えられました。人はそれぞれに考え方や意見も違い、ともすれば偏った集団を作ったり、あるいは徒党を組んだりします。そしてまた、道理をわきまえてそれに到達した人も、そう多くいるものではありませんから、世の中の秩序を乱したり、あるいは協調性を失って社会から孤立して、さまざまな問題を引き起こしたりする危険性を指摘されています。

それぞれが分をわきまえてみんなで仲良く親しみ合い、話し合えば、自然に事柄と道理が通い合い、お互いに理解ができて何事もうまく解決し成就するでしょうと説明をされているものであります。

太子がここで述べられている「和を以て貴しとす」というお言葉は、仲良く和合協調する大切さ、重要性を示されたのでありますが、ただ闇雲に和合協調するのを勧められているものではなく、一定の正しい基準に照らして統制される必要があると考えられます。和という行為、つまり和合協調するというだけでは全ての人のためのみんなが納得できる和合になるにはなかなか困難な状況が起こつて参ります。つまり、和合協調するにはみんなが共に目標とすることのできるある一定の法則、共通の価値を見いだす必要があります。

その共通の価値は全ての人に平等な、絶対の真実によらなければなりませんし、またそれによって行われなければみんなのための正しい和は保てないのであります。もし、そうでなければ、自分たちに都合のよい勝手な和合を成立させることになります。そして、今度はそれらの和合した集まりがお互いに摩擦を引き起こし、それらがまた不和の原因となってしまいます。さらにそれらの集まりは、やがて大きく対立し、紛争の種になってしまい、取り返しのつかない状況を招いてしまうことにもなりかねません。

近年の状況に目を向けてみますと、いわゆる主義主張、イデオロギーの対立、各民族間の不信からくる対立、ナショナリズムによる紛争、また宗教と宗教の価値観の相違からくる多くの問題も例外ではなく、これら諸々の問題や事情が複雑に関連し合い、さらに解決を困難にしていると思われます。これらは一様にそれぞれに掲げる目標や価値観、あるいはそれを求める方法や手段、これらが異なるところに大きな問題があり、相互理解の必要性を痛感するものであります。現代社会は、このための努力を、今、行わなければならないと思うのであります。

 そこで太子のお考えは、みんなが共通して共有すべき価値について、『十七条憲法』の第二条の最初に「篤く三宝を敬え」と述べられて、仏法に求められたのであります。仏教で「三宝」と申しますのは、悟りを開かれた仏の「仏」と、教えの「法」と、その教えを実践する「僧」の、いわゆる仏法僧という三つの宝を言います。太子はこの仏法僧の三宝を敬うことを強く求められ、続いて仏法を敬う理由を述べておられます。

この仏法は、すべての生あるものの拠り所であると同時に、時間・空間を超越して尊ぶべきものであり、悪い人は少ないのでありますからよく教化すればみんな従うようになるものである。もしもこの三宝に従わないのなら、一体何によって間違いを修正することができるのかと、仏法以外に世の中を正すことのできるものはないと示されています。このように丁寧に仏法を敬うべき理由を説明されて、そして正しく和合するための真実の価値をそこに求められたのであります。

太子が『十七条憲法』の構想を練られていたころ、つまり6世紀の終わりごろから7世紀始めごろの我が国の周辺の状況を考えてみますと、とりわけ中国大陸では隋が興って破竹の勢いで強大になり、仏教によって制度や文化を高めていました。人々の心の依り所としての仏教の果たす役割も大きかったのであります。

さらにまた、朝鮮半島に目を向けてみますと、高句麗、百済、新羅の三国も仏教を重要な国の柱として、競って大きな寺々を建て、国家として大きく発展していました。このことを太子はよく承知されていたものと思われます。

以上のようなことから、当時の日本の周辺諸国やさらに西の方、西域やインドに至るまで、渡来人や経典あるいは書物などを通じて得られる情報、つまり耳や目にすることのできるすべての国々が仏法を信仰している状況を踏まえられて、「万国の極宗(おおむね)なり」と述べられております。しかも時間・空間を越えて、恒久的に平等に秩序を守り、すべての和合協調のための規範となり得ると考えられたものと思われます。

そうでありますから、仏法以外に「枉(まが)れるを直(ただ)す」ものはないとの強いご信念から『十七条憲法』の第二条の最後で「それ三宝によりまつらずば、何を以てか枉れるを直さん」と締めくくられて、みんなのための共有すべき価値・絶対真実をこの仏教に求められたものであると信じます。

現代におきましても、私たちが真に世界の平和を望むには、すべての人々が認め、そして共有することのできる共通の価値を求める努力がなされなければなりません。

お互いの精神や文化を認めるなかに、お互いの価値観を理解し、共に同じまな板の上に乗る努力を行うべきでありましょう。このような取り組みの中のひとつとして、世界文化遺産を通じて互いの理解を深め、共々に人類の平和のための議論ができる土壌を育む活動は、十分に可能なことだと思います。

そして共に共通の価値を見い出し、認め合った上での平和運動のなかに、はじめて真の世界平和を望むことができ、その実現への道も展望できるものと思われます。つまり共通の価値観に立脚したうえでの議論がなされなければ、真に世界が平和になるのは、はなはだ困難であり、この共通の価値を見い出すには、世界文化遺産も十二分にその貢献が期待できるものと思う訳であります。
 
平和社会への一人一人の努力と世界文化遺産のあり方

さて次に、前にも述べましたように、太子はみんなが和合協調するべきことを勧められ、『十七条憲法』第一条で「和を以て貴しとす」と示されましたが、これはすべての人が平等に安穏な生活を享受することのできる理想の平和社会を現実の世界に実現することを願われたものでありました。そしてこの平和のための理想社会を実現するための具体的な方法のひとつに、寺塔の建立が挙げられます。

どうして寺塔の建立のお話を申し上げるかというと、1400年前の太子のこのお考えは、現代の文化遺産登録の在り方と、いくつかの共通点が見られることにあります。太子にとって三宝の整っているところは寺であります。仏になる人を養い育て、仏に成ることを目指し、仏に成る道を説き、常に法が説かれ、仏の道を実践する僧たちが集う。このように常に仏法僧を具えるように努めるのが寺の役目であります。また、一方では仏の舎利を供養する塔や仏像は「仏」であり、仏の教えを説かれた経典は「法」であり、仏の教えに従って実践する人は「僧」であります。

このように仏像、経典、仏道実践者を、仏法僧の三宝とされて、これを「住」むという字と「持」つという字を書いて「住持の三宝」と申しております。寺はこれらの三宝が整えられておりますし、また「三宝興隆」ということは、すなわち寺塔を建立することでもあります。さらにまた、僧とはインドのサンスクリットの言葉で「サンガ」と言います。中国では、平和社会を求める人々という意味を持ち、「和合衆」と翻訳されています。こうして考えて参りますと、三宝の整った寺は、平和社会を求める人々が集い、そこはひとつの平和社会なのであります。

あるとき、聖徳太子がご病気になられたとき、叔母である推古天皇が、お見舞いのために使いを出されたことがありました。そして病気のお見舞いとともに、天皇は太子に、「何か望みごとはありませんか」とお尋ねになりました。そこで太子は、ご自分の願いをまとめられて、四つの願いを述べられ、これを「四節願文」と申しておりますが、その前置きの分を前文と申しております。

そのなかで太子は、「わたしは多くの寺を建てました。そしてただ住寺の三宝が正しく機能することを念願して、ほかに何の願いもありません。仏教が盛んになつて、生あるものすべてが正しく導かれ、国土が安穏であって人々が楽しく暮らせるようになってほしい」と述べられたと伝えられています。太子の想いが実によく現れているお言葉だと思います。

このような平和な小社会がさらに広がり、ひとつの面となり、さらに国全体に及ぶことによって平和な世の中が現実のものになると太子は考えられたのであります。

このような考えは、前にも述べましたように、平和のために世界中に点々とまんべんなく世界遺産を登録する国連ユネスコの考えと合致するものであります。そしてまた、世界遺産が年々登録されて、世界中に増え続けているということは、誠に意義深く思いますと同時に、これらの遺産が正しく活用されることを切に願うものであります。

このように考えて参りますと、私たち法隆寺にとりましては、太子の和の精神を受けて、平和社会の実現を目指し、その精神を広め実践する努力と、人類の平和のための世界遺産を正しく生かし、守る行動とは、決して別のものではないのであります。

また次に、前にも述べました『四節願文』のなかの二番目で、太子は法隆寺の僧に対して要望を述べられておられます。太子は法隆寺の僧に対して、毎年夏の3カ月間は、太子が特にご研究されました『法華経』・『勝鬘経』・『維摩経』の三部の経典の講義を行うことを望まれたのであります。そしてさらに、この経典の講義やお説法が常に行われ、そして多くの人を救済し、仏教を隆盛させて国の護持に努めることを願われたのであります。

このようなことから法隆寺の使命は、平和社会の実現のために共に努力する人々を育み、世に送り出し、さらに仲間を増やす努力を常に行うことであります。そして人々が平等に幸福であり、安穏である平和な社会の実現のための努力を怠らないように勤めることであると言えます。また、世界遺産の立場から申しますと、私たちは全人類の平和のための遺産として登録された法隆寺を、生きた形での宗教文化遺産として護持し、次の世代、未来へとしっかり引き継ぐ責務を担ったものでもあります。

また、姫路城や法隆寺をはじめとする世界遺産を人類の将来のために守り、よりよい状態で次の世代へ引き継ぐための人々の行為は、混迷する現代社会の人類にとつてあらゆる問題解決のための糸口となるでしょう。それが社会の浄化を助けて、世情を良い方向へ導く第一歩となることを信じます。

さて次に、太子のお考えでは、寺に集う人々は仏になることを目指す菩薩の道を歩む人にほかなりませんし、寺の役目は人の心を養い育て、菩薩を作り出す役目を担っているということでもあります。菩薩を作り出すということは、言い換えれば、人に善い行い、つまり善行の実践を勧め、そして慈悲の心を養育し、さらに人をして菩薩の命を与えるのであります。

太子にとって「和」ということは、あくまでもみんな仲良く、そしてみんなの心が安らかであり、すべての人々が平和を享受し、実感できるものでなければならなかったのであります。これこそ太子の理想とされる善人に満ちた菩薩たちの住むこの世の浄土であります。この理想に少しでも近づけるためには、独りよがりでない真の平和を目指す努力、これを絶え間無く続けることが肝要であります。

またそのような努力を積み重ねることを、私たちは良い縁を結ぶと言い、善い行い、つまり「善行を積む」ということです。すべての善い行い、「善行」は「徳」と言われ、「徳を積む行為」でもあります。「徳」ということは、本来的に申しますと、社会に対して良い影響を与えるものであって、理想に向けて、心を養うと同時に、理想を実現して行く能力が身に備わるのであります。

言い換えますと、徳を積むということは、慈悲の心を養うということに他ならないのであります。聖徳太子は慈悲の心に満ちた理想の平和社会をこの国に実現したいと考えられたのであります。このような考えや想いの中で、長く育まれて来たのが、日本の文化であり、私たち日本人の精神性であります。つまり一言で言えば、菩薩の国造りであります。菩薩の行は、他を利する、人のために良いことをする利他の行であり、「姫路城を守る会」の皆さまの活動も利他行と言えるのであります。そして人々を教え導き、まずもって人々を救うこと。これが菩薩の目的であって、いついかなる時や場所でも、菩薩の願いが変わることはありません。

私たちの周囲によく「和」という字と「光」という字を合わせて、「和光」という言葉を目にすることがあります。例えば和光○○株式会社、和光何何商事など、会社名によく使用されていたりします。これは本来は「和光同塵」という老子の言葉で、早くから仏教にも取り入れられて、仏や菩薩の勝れた知恵の光を和らげ、私たち煩悩の塵にまみれた欲望の多い俗世間に同じて、その中で人を救う働きをすることを言います。ですから、私たちのそば近くにこのような「和光同塵」して人々に済度の手を差し伸べている菩薩がたくさんいるのであります。私たちが旅の途中、ふと心が洗われるようなことに出会ったりするのは、菩薩の働きによるものであります。このような菩薩の光を求め、それを見るのが「観光」という言葉の意味であります。

 さて、太子は塔を建てることについて『法華経義疏』のなかで、本来、塔と言うものは仏の舎利を供養するものであるが、国中に塔が建てられれば、国が厳かで清らかになると述べられておられます。それは樹を植えることは、本来の目的は果実を得る為であって、花を飾ることを求める為ではないけれども、花が開いたときは大変に自然で清らかである、したがって塔を建てることによって国が厳かで清らかになるのも、これと同じことであるという理解を示されています。美しい姫路城や法隆寺の塔などは、遠くから見ただけでも人々の心は和みます。

近寄ればまた、あちらこちらの素晴らしさに感動し、そしてこれを守り伝えた先人たちへの感謝とその想いも伝わってまいります。まさに光を発信しているのは、世界遺産であり、光を求めている人々に光を見つけやすくするのがその地域の人々や街の役目ということでありましょう。

能・文楽といった無形の文化も、将来は世界無形遺産にしようという方向に向かってきています。世界文化遺産に登録されているということは、まさに精神文化そのものが登録されたと認識するべきでありましょう。多くの人々の想い、精神、芸能、伝統、行事、すべてその地域の先人たちが作り上げてきた結晶であります。

その遺産と共に歩んできた街の在り方、環境、そこで発揮されている光を求めて来る観光者への対応、すべてが含まれています。このようなことから、世界遺産の登録を受けた地域の人々には、本来持っている素晴らしい光を最大限に発揮できる環境を整え、提供する義務を担っているものと考えるべきでありましょう。

そのためにはその地域の人々が世界遺産の意義をよく理解し、そしてまたその地域における遺産にかかわる歴史や文化、あるいはそれにかかわる芸能、行事、伝統産業、伝統技術、人々の営みなど、きまざまな事柄を学び、良く知るための努力も必要でありましょう。それによって世界遺産は、初めて正しい活用と保護との共存の道を歩むことができるものと思います。また、その地域の人々は胸を張って世界中の人々に自分たちの遺産の自慢ができてこそ、名実共に真の世界遺産としての命が与えられるものと信じます。

世界平和を実現力のあるスローガンとして

このように考えて参りますと、世界遺産を生かすための鍵は、まさしくその地域の人づくり、街づくりにかかっていると言えるのではないでしょうか。最近、世間で聞きますことに、21世紀は精神、つまり心の時代、また共に生きる共生の時代、さらにゆとりの時代などと言われています。まさにそうあって欲しい、そうありたい、またそうしていかなければというすべての人々の願望であります。

そして人類だけでなく、あらゆる生きとし生けるものすべてと仲良く、共に生きていくことによって初めて平和社会の実現への道が開けるものと信じます。決してひとりで生きているのではなく、みんなが支え合って生きている運命共同体であるということを自覚するべきでありましょう。他の命や自然や環境を守り、大切にすることができないようでは、真に平和を望んでいるとは言えません。

世界平和をただのスローガンで終わらせてはなりません。みんなの努力によって、実現に向けて、共々に社会の浄化を行い、21世紀こそ真の平和を実現させたいものであります。今日の世界は、互いに自己の立場や思想に固執し、なかなか譲り合おうとしないところに多くの紛争が起こっています。それぞれの国や民族は、互いの文化や精神の理解に努め、認め合うことが、今求められているのではないでしょうか。

そのような共通の価値認識を得るためにも、世界遺産が十分に寄与できると考えますと同時に、世界遺産は全人類共有の世界平和実現の心の支えであり、それを護る人々の誇りであります。平和のために活用され、多くの人々の理解と協調を得て、それが行動につながって初めて真に世界遺産として生かされたことになりましょう。

今一度、登録の意義を見つめ直し、そしてひとりでも多くの人々とともに守り伝える努力を行い、それが世界の平和につながることを願ってやみません。全人類の平和のための大切な世界遺産をみんなで守り愛し、そして世界平和のために共に力を合わせ、その啓蒙や保護の体制を確立し、次の世代へしっかりとバトンタッチしたいと念願するものであります。

本日は、私が文化遺産の意義について日ごろあれこれ思っていることをお伝えするにあたりまして、少し欲張ってしまって、かえって繁雑な話になってしまったかと思いますが、これにて終わらせていただきます。長時間のご清聴、ありがとうございました。