世界文化遺産と保存専門家の自己啓発

伊藤延男(神戸芸術工科大学名誉教授)

 今日文化遺産保護の分野における最大の話題は、世界遺産に関するユネスコの事業であろう。世界遺産とは、「世界遺産条約」の規定により、世界遺産一覧表に登載された記念工作物・建造物群・遺跡及び自然環境のことである。1972年の条約発効以来、世界遺産の数は順調に増加して、1999年末に登載された新規物件を加えると、630件に達しており、この内の約70%が文化遺産に属している。この文化遺産について話を進めてゆこう。

 世界遺産条約はユネスコの新しい行政制度であり、その効果は一覧表に登載された世界遺産を保護することに限られていて、他の通常の文化遺産、自然遺産に及ばない。にもかかわらず、世界遺産条約の理念は世界の総ての文化遺産の保護に適用可能であることを強調したいと思う。世界遺産条約は文化遺産保護の哲学及び実務の発展に新しい1ページを開いたと云っても過言ではないと考えている。世界遺産条約が「人類共通の遺産」という新しい理念を持ち込んだことだ。その後、世界遺産のシステムは、文化遺産保存の従来の方法に対し大きな変化を求めてきた。

 1994年、ユネスコ後援によるオーセンティシティに関する奈良会議が開催され、そこで採択された奈良文書の本質を掲げると、「世界文化遺産は、地理上、気候上あるいは環境上の諸条件のような自然条件と文化的、歴史的背景との脈絡の中で保存されるべきであり、こうして、真の意味におけるオーセンティシティが守れる」ということであり、この原則に尽きると言えるだろう。ここに於いて、ベネチア憲章に明示された-元論的保存理念は大幅に修正されたのである。

 ここで、東アジアの人々に特になじみの深い木造建造物に関し、いかに保存の概念が変化したかを考えてみよう。木造建造物は材料が腐朽し易いために、規則的な間隔で大規模な保存工事を必要とする。これは、ヨ-ロッパでは普通である最小限保存措置法とは全く異なった保存法だ。ICOMOSは、この問題を長期間、その国際特別学術委員会に於いて討議し、遂に、1999年メキシコにおいて開催された総会で「歴史的木造建造物保存のための原則」を採択した。この原則のなかには、何らかの保存措置は、優先的に伝統的な手法に従い、且つ、ある-定条件の時には、保存のためには全部又は部分的な解体とそれに続く組立が必要であるということを、最小限の保存措置の意味に解することがあり得ると記述している。なんと素晴らしいベネチア憲章の修正ではないだろうか。我々は、他の材料でできた建造物に就いても同様に柔軟で実際的な原則の採択を望んでいる。

 このように、今や文化遺産保存のやり方の決定は、その文化遺産が所在する国の関係者による判定に大きくゆだねられている。特に、保存専門家の任務はますます大きくなっているのだ。保存のヨ-ロッパ的やり方が我々のものと如何に異なっていようとも、それは、前世紀以来獲得された経験の貴重な蓄積として尊重すべきである。言い方を変えれば、それは人類の英知の結晶とも云えよう。我々は、ベネチア憲章を読むとき、多くの重要な文言を見出すことができる。保存作業に従事する専門家は、充分寛大且つ意欲的にヨ-ロッパ方式から広い知識を求めなければならな い。

 今後、保存工事は、自然条件と文化的、歴史的背景に沿って行い、究極的には全国民、少なくとも文化人の総意に叶うようにしなければならないが、他方では、作業のやり方は、世界のさまざまな地方から来る人々が、理解できるものでなければならないだろう。特に、真摯な討議を通して、世界の保存専門家の間での充分なコンセンサスを得ることが最も重要であろう。

 この目標に向かい、保存専門家には絶え間ない自己啓発の努力が求められると同時に、同じ希望と悩みを共に持つ専門家の間での絶え間ない対話が必要である。

 私は、ユネスコ・アジア文化センタ-が奈良に文化遺産保護協力事務所を創設して、アジア太平洋地域の専門家の間の知的交流を推進することは時宜を得た事業であると確信している。奈良は、8世紀における日本の首都であり、今も世界遺産「古都奈良の文化財」をはじめとする文化遺産の集中地区である。加えて、奈良及びその周辺には、各種文化遺産の保存専門家が多く働いている。奈良はこの事業の推進に-番良い所なのだ。

 知識と経験を交換するに当たっては、教師と学生の区別を考慮することは必要でないだろう。総ての参加者は、或る場合には教師であり、他の場合には学生であるべきだ。こうして参加者は自己啓発を進めることが出来るだろう。


(伊藤延男 プロフィール) 1925年生まれ。愛知県出身。1947年9月東京大学第一工学部建築学科卒業後、国立 博物館、文化財保護委員会、奈良国立文化財研究所、文化庁、東京文化財研究所に 勤務し、その間文化庁文化財保護部建造物課長、同文化財鑑査官、東京国立文化財 研究所長を歴任。平成元年から7年まで神戸芸術工科大学教授、平成11年より13年 まで(財)文化財建造物保存技術協会理事長。国際的にもイクロム(ローマ国際文 化財保存センター)日本政府代表、イコモス(国際記念物遺跡会議)執行委員、副 会長、同木の委員会副会長等をつとめる。 東京文化財研究所名誉研究員、神戸芸術工科大学名誉教授、(財)文化財建造物保 存技術協会顧問。 文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議代表。