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2005年05月10日
NO.258 刀傷のある柱
昨日は、水戸まで行ってきました。
そろりそろりの生活ですが、せっかく決めた予定を変更すると何かケチがつくみたいな気がして決行!
危ない腰を押さえながらなんとか行って参りました。
水戸と言えば、黄門様。徳川光圀公のことですが、水戸では義公とも呼ばれています。
その義公年譜に「元禄11年(1698)4月24日上圷村(かみあくつむら)藤十郎宅の藤花を見る(水戸紀年より)」と書かれたその藤を、運良く見ることができました。例年5月3日ごろが一番美しいのだそうですが、そして今年は少し花が小さいとも。
光圀公が満開の藤を見て、あまりの美しさに「万歳藤」と命名し激賞したというその藤を、後に訪れた斉昭公は「咲く藤の花なき頃に来て見ればめぐみのもとにあるぞ楽しき」と詠まれたのだとか。(昭和49年4月20日に桂村の指定文化財に。看板有り)
上圷村、というのは、最近までは桂村といいましたが、今年2月に町村合併で城里町となりました。万歳藤も桂村のホームページには出ていたのですが、城里町になってからはどうなるのかな?
この藤を代々守ってきたのが大森家。北条早雲に討たれた小田原城主大森家とつながる家柄なのだそうで、現当主藤和氏のお父上までは代々藤十郎を名乗ってきた由。
そして、このお宅の座敷の柱には、床柱から部屋内、廊下の柱までことごとく刀傷がついているのです。
なんでも天狗党の乱で決起した兵士たちが家々に狼藉を働いた痕跡だそう。
その頃この家には栗木端で屋根を葺いた、素朴だけれど堂々とした長屋門があり、きっと大きな家に見えたのでしょう。史実によると天狗党が挙兵し、日光東照宮に参拝したのが、1864年5月のこと。
門前の道は、まさに水戸から宇都宮に通じる烏山街道でありました。
なお大森家の当主は、その時、藩主について京都に行っていた為留守で、難を逃れた家人がかくまわれた家に、毎年代々の当主が紋付を着て御礼に行くしきたりが続いていたとのこと。
戦前には地元の圷小学校を建てる土地を寄付したり、村に貢献してきた名家であったものの、戦後の農地改革によりほとんどの田畑を没収され、また同じ頃先代の藤十郎氏が亡くなられた後は、使用人には暇を出し、夫人と家族総動員で頑張られたよし。
乞われるままに長屋門は二束三文で売り払い、掃除ができないという理由で、前述の刀傷のついた座敷と二三の部屋を残して壊してしまったというのです。
それでも屋根は風情ある藁葺きだったのですが、平成になって小屋組さえ取り払われ、今はトタン葺き。雨漏りに悩まされることはなくなったけれど、重みのない姿が残念。
つくづく歴史の生き証人のような家の有様を見て思いました。
同じ様にこんな歴史を背負ってきた家は、日本全国探したら、まだまだたくさんあるのでしょうね。
せめて藁葺きの屋根や小屋組が取り払われる前だったらなんとかなったかもしれないのに、と悔やまれますが、それでも古い家にはその家の大切な歴史が刻まれていますよね。この家の主のように気概ある人物を育てる土壌にもなったのだと思います。
傾いた柱と建具の間の三角の隙間を見ながら、どうしたらこの家を再生させることができるのだろうかと考え込んでしまいました。
光圀公が愛でた藤花だけは、たおやかに薄紫の房を垂らし五月の風にそよいでおりましたが。
(あし)