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2005年12月07日

NO.306 お礼と公慶上人展

 お陰さまで12月4日のシンポジウム、無事終りました。
 まことに充実した内容だったのです。
 ある方は、100点に近い出来でしたね、と言って下さり、ある方は200点かもと。(多分この私が関わったにしては上出来、という意味合いが大きいのでしょうが、、、)それでも、そんなに高く評価していただけたら、何日も徹夜したことも、情けなくて泣いたこともすべて吹っ飛んでしまいます。
 
 からからと乾いた音をたてて、貝殻の風鈴を通り過ぎる風の様に、「終わり良ければすべて良し」、満足しているのです。

 といっても、間近になってみるといろいろ抜けていることがわかり、相変わらず周りの皆様に手伝っていただきフォローしていただいての成果です。 

 とにかくたくさんの方々に支えられ、みんなで喜びを分かち合えることができたことに、より嬉しさが込み上げてくるのです。皆様、本当にありがとうございました。
 もちろん参加して下さった方々にもお礼申し上げたいのです。付き合いで連れてこられたという方も面白かったと言って下さいましたし、誰も途中で席を立つことなく最後まで聞いて下さいました。明日からの仕事にも、違う視点が出来ましたとの感想もいただき、嬉しさが膨らみます。ありがとうございました。

 一つだけ残念だったのは、延暦寺の誉田玄光様がご出演できなくなったこと。
 丁度、奈良国立博物館で開催されている公慶上人展にもつながっていくので、少し脱線いたします。
 
  情報交換欄の雪うさぎさんのページに西山様からコメントをいただいていますけれど、京都のシンポジウムには牛様も一緒でした。二人とも西山様の大ファン。
 
 少し話が戻りますが、27日に上野の東京国立博物館に公慶上人のお話を聞きにいったことを書かせていただきますね。
 
 江戸期に東大寺の大仏様や大仏殿を復興した公慶上人のことは、今まで余り知られていませんでしたが、今回没後300年、ということで奈良博でその「公慶上人展」が開催されています。それに尽力なさったのが西山厚さん。以前この欄で、「仏教発見!」の著者としてご紹介させていただきました。

 公慶上人の生き方ももちろんのこと凄いのですが、それをお話しなさる西山さんのことばや話し方、すべてに胸が熱くなりました。
 公慶上人のお墓の五輪塔とその足元に慕う様に、後を引き継いだ公盛さんの五輪塔。スクリーンの前に立たれ、ご自分の顔にも手にも五輪塔が写っているその大きな映像の中で、感極まって絶句される西山さんのお人柄にこころ打たれました。

 航空機の事故で亡くなられた坂本九さんの歌「見上げてごらん夜の星を」、を「死んだ大切な人を夜空を見上げて思い出す歌」、とおっしゃって「公慶さんのために歌っていいですか?」と聞かれ、ひと呼吸おいてから朗々と歌われた。
 なんと優しさに満ちた素直な方なのでしょう。

 公盛さんは、14才で公慶さんの法嗣となられた。血縁ではないけれど、親とも師とも仰ぐ方の生きて行かれる凄まじさを間近に見ていた方。大仏殿の棟上げの後、幕府へのお礼言上の為江戸へ来て亡くなられた公慶上人の御遺骸を、奈良まで連れて帰りたいと幕府にかけ合って頑張ったのは17才の時という。師の果たせなかった大仏殿の完成を見届け、その後、師と同じ様に勧進に奔走し中門、回廊と手がけ36才で亡くなられた。
 またその後を継ぐ公俊さんは、西回廊を完成させ、それから13年後、あとを引き継いだ康訓さんが東回廊を完成させたのは公慶上人の33回忌の年だったのだそうです。

 丁度今回のシンポジウムの2日前に、パネラーのお一人である比叡山の誉田玄光様からお電話をいただきました。
 光永澄道様(延暦寺大阿闍梨(あじゃり)、伊崎寺住職、天台宗大僧正)が30日に亡くなられ4日が全山挙げてのご葬儀の日と重なり、誠に申し訳ないけれど欠席させて下さいと。光永様との関わりを一生懸命お話下さいます。
 光永澄道様は、千日回峰行を満行され戦後7人目の大阿闍梨となられた方。
 公慶上人と公盛さんの絆をつい思い浮かべてしまいました。
 親子の絆よりも、もっと深いものがそこにはあるのかもしれないと。

 公慶上人のことは、また書き出したら延々と何ページにもなりそうですので省略しますが、興味のある方は、是非、奈良国立博物館まで足を伸ばしてみて下さい。
 西山さんが自画自賛される世界が広がっている筈ですから。
 ではまた(あし)