« NO.344 新品のパソコンで | メイン | NO.346  どうしてこんなことするのかな? »

2006年10月31日

NO.345  ひとりで悲憤慷慨してる

 最近の「いじめ」に関するニュース。どうしてこうなるのでしょう、、
 教師が率先してその子を無視するように「指導」したり、また生徒の霊前に額ずいた筈の校長が、あれは「いじめ」と呼べるかどうか、と前夜のお詫びの言葉を翻したり。
 やりきれないのは、どのニュースを見ても、子どもたちから「悪かった、ごめんなさい」、という言葉が出てこないこと。何ヶ月経っても何年経ってもそんないじめた側からの反省の言葉は出てこない。人が一人死んだのに、それの原因を作ったのかもしれない子どもたちの姿が何一つ見えてこない。(報道されないだけなのかもしれないけれど)

 だけど自分のせい、と思い当たる子は必ずいる筈。あえて加害者というレッテルを貼ってその子の将来を傷つけまいとする配慮なのかもしれないけれど。
 
 いじめられる方にも悪いところがあるんだよ、これこれこんなところがいじめられやすいんだよ、あれくらいで自殺しちゃうなんて、いじめた側の親も子どもを必死でかばうのかもしれないけれど。

 すべてが隠れてしまう。
 自分の放った言葉に傷ついていた子がいた、自殺した子がいた。
その事実は、傷つけた側の子にどんな形で出てくるのだろうか。謝らなければいけない時に、きちんと謝罪しておかなければ、どす黒い陰は心の中に潜んでしまう。

 いじめることは悪い、卑怯だ、と、もっともっと社会全体で憎まなければ、根を絶やすことなんてできる訳がない。
 もしも我が子が自殺した子と関わりがあると思ったら、親は我が子を引きずってでもその霊前に座らせ謝らせなければ、今度はその子の心が蝕まれていく。

 現に、この狭い島国日本という国土の中で、いじめたりいじめられたり、大人になってもそんな話題は事欠かない。誰もが心の中に持っている負の心を表に出すか出さないか、負の心を隠し通すことでかろうじて、人の品格は保たれる。
 人をいじめて、傷つけて、平気でいられる人は、人間として下の下、最下位。いや人間以下かもしれない。

 そんな大人の世界のいじめが子どもの世界にまで、はびこって、まだ生まれてきてたった十数年の子どもたちが、耐えられないと自分からその生を断ってしまう。小学生や中学生が自分で死を選ぶ、という異常さに慣れっこになっちゃ駄目と改めて思うのです。

 二十年以上も前、二人の子供たちが小学校に通っていた頃、すでにいじめはあったのだけど、「お〜い、○○をいじめようぜ〜」とゲームのような感覚で始まる状況には、母親たちもなんとかしなければと真剣でした。

 先生にもいろいろあって、例えば、おしっこしたいというこどもに、だめ、と言ってお漏らしさせたり、授業参観の日に見せしめと一番前に座らせたり、宿題を忘れた子どもの教科書を破ってゴミ箱に捨ててしまったり、こんな先生が、学力アップを願う親からは「いい先生」と見られていた。
 そんな学級経営の中で、「いい子」として育った子が次の教育を担う教師となるとしたら、いじめがなくなる筈がない。

 もちろん信頼できる先生方がたくさんいらしたから、親も一緒に考えていけたのだけれど、今のいじめの状況は20年前とは全く違う様相を呈している由。

 それでもよく校長先生や先生方に言ったものです。
「たとえ刺し違えても、親は我が子を守りますから」と。
過激な発言ととられたけれど、好意的にとって下さる先生もいて、なにしろ親の気持ちは伝えたかった。

 昨夜、テレビのニュースで「学校は命をかけてまで行く必要があるところなのか?」とコメントしている方がいらしたけど。
なんという凄まじい世界なのでしょう。

 上の子が中学時代、時々学生服やワイシャツの背中に、靴で踏まれた足跡を付けて帰ってきたけれど、どんなに聞いても本人は転んだと言うだけ。
よく無事に育ったもの、今の世の中で子育てするのは本当に大変なことと恐ろしくもなります。
 どうかお母さんたちも、自分一人でなんとかしようと思わずに、ご主人はもちろん、だれか信頼できる先生や仲間を見つけて一緒に考えていってほしい、と思うけれど、でもそれができないから苦労しているのよね。
 どうしたらいいのか、、、、