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2009年01月17日

NO.448  木曽ヒノキ物語 復元御殿支える森

 寒中お見舞い申し上げます。
 「明けまして・・・」とご挨拶もしそこなって、もう17日。年明け早々もう加速度がついている気が・・・

 先日、7日に、隣の駅(小田急線向ケ丘遊園駅)から歩いて行ける日本民家園に行ってきました。
川崎市立日本民家園。園内の国指定重要文化財旧佐々木家住宅の修理工事の見学をさせていただきました。

 1700年代の長野県佐久地方の民家が、37年前ごろ日本民家園に移築されたもの。
 その日は、不同沈下による地業、土間の整地工事のため全体を1.5メートル程ジャッキアップし、バンバンと土間を叩いて締めているところでした。
 ビックリしたのは、家全体を上げるべく、12ヶ所に油圧ポンプを設置して、同時に持ち上げられているのに、上部に残る土壁には何処にも亀裂が入っていないのですよ。少しずつ少しずつ時間をかけて、一週間かかったのだそうな。ヒキ屋さんと言われる方々の仕事だそう。
 土台には自然石の丸い束(ツカ)石が、向きや傾きを維持されたままくくりつけられ、一緒に持ち上げられているのが、面白かったのです。
 今月中頃からは茅葺きの葺き替えが始まるのだそうです。
 建物自体も興味深いけれど、こうした工事の技術というのも本当に感心します。行って良かった。

 話は変わりますが、昨年12月7日のシンポジウムを、読売新聞中部版「名古屋開府400年」の連載の中で取り上げて頂きましたので、ご紹介させて頂きます。(千田龍彦氏)
http://chubu.yomiuri.co.jp/tokushu/nagoya/nagoya081225_1.htm

 先週、京都奈良へ「文化材プロジェクト」次回の感謝状贈呈式の日程調整のため、出かけてきました。
 登録、引き続き受付けております。多分6月中に第二回目の感謝状贈呈式を行いたいと思っています。登録申請お待ちしています。info@bunkaisan.jpへ。

名古屋開府400年
第2部 木曽ヒノキ物語

(12)復元御殿 支える森

 「わたしの山に『文化財の森』をつくります」。今月7日、京都市内で開催されたシンポジウムに、150年、200年の森づくりを約束した山林所有者ら約100人が集まった。市民や文化人らでつくる民間団体「文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議」(事務局・東京)の呼びかけに、全国から申請があり、この日、22か所の森が登録された。

 シンポでは、同会議の共同代表を務める文化功労者の伊藤延男さん(83)と法隆寺の大野玄妙管長(60)が「文化遺産と森の未来」をテーマに対談した。木造文化財の代表格、法隆寺と伊勢神宮を対比させつつ、大野管長はこう語った。
 「寺院が神宮のように定期的に造り替えられていたら、日本の森はとっくに失われていたし、20年ごとの式年遷宮が途絶えていたら、寺社の建築や修復の技術は伝わらなかったでしょう」
 文化財はこの絶妙な共存関係によって伝えられてきた。しかし、肝心の森は危機的な状況へ歩みを速め、文化財の修復に使えるような太く長い良材の入手が年々困難になっている。
 「木を守れないなら文化も守れない」。大野管長の痛切な言葉は、「新たな木造文化財をつくれない」ことも意味する。昨年、築城400年を記念して再建された熊本市の熊本城本丸御殿大広間は、地元の九州では御殿の柱などにふさわしいヒノキが見つからず、岐阜、長野県で調達された。

 名古屋城本丸御殿の復元も「森の未来」と無関係ではいられない。来年1月19日の着工に向け、松原武久・名古屋市長(71)は「新たな木造文化財を造る心意気で」と強調する。なおさら、将来の修復材確保まで考える必要がある。
 同市は今年9月23日、岐阜県中津川市の市有林を借りて「平成の名古屋市民の森」を開設し、松原市長と市民約200人がヒノキや広葉樹計500本を植林した。「木曽ヒノキを本丸御殿に使わせてもらうので、そのお返しの意味もある」と市文化観光部の下山浩司主幹(47)。8年かけて1万本を植樹、約8ヘクタールの森とする。長野県上松町、王滝村など6町村でつくる木曽広域連合とも、市民の森をつくる計画を協議中だ。

 長年、建造文化財の保護・保存に携わってきた有識者会議の伊藤さんは「復元される本丸御殿が将来、文化遺産となるために、名古屋市も200年の森を育ててほしい。植樹して終わりではなく、文化財にとって森がどんなに大切か、市民に、またその子、孫へと伝えていってほしい」と希望を寄せている。
(第2部おわり 千田龍彦)
(2008年12月25日 読売新聞)