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2010年05月01日
NO.467 間に合って良かった
お久しぶりです。
一昨日、母がお世話になっていたデイサービスの施設で、「認知症家族の会」というのがありました。母を最期まで看取ることができた経験談を是非話して下さい、と頼まれてしまったのです。
こちらは、すっかり終わってしまった気分。でも、今迄お世話になった手前お断りできなくて、出かけてきました。
参加されるご家族は、まさに渦中にある方々なわけで、その大変な最中に、イチヌケタ!という人間の話を聞いても腹立たしいのではないのかしら、と思ったのですよ。
それに、もう嫌なことは忘れてしまって、母のいいことしか思い出さないのです。(根が単純・・・)
仕方がないので、写真や日記など、読み返してみたら、まぁ思い出しましたよ。
本当に、いつ親殺しをしてもおかしくない程、追いつめられていた自分の姿。
今でこそたった39ヶ月の出来事、と言えるのだけど、当時は出口の全く見えない真っ暗な闇の中で這いずりまわって暮らしていたのですから。
あの時は出口があるのかもわからず、どうやって探していいのかもわからなかった。
そんな話をしようと、母の写真をたくさんパワーポイントに入れこんで、パソコン持ち込んでお話しました。
タイトルは、「間に合って良かった」
話終わってみたら、それぞれの方が、自分のおかれている現状と同じ状況が話されていて、自分一人じゃないんだ、と思ったとか、自分の母親だけが異常じゃないんだ、とかとても共感して下さったのです。
そして、鬼のようだと思っていた母よりも、自分の方がもっと鬼のようだったことに気がついたこと、また母の笑顔を見たいと思ったこと、も話しました。ずっと笑顔のない毎日を送っていたのです。
それからは、夕方、デイサービスから送ってきて下さる職員の方に、「今日、母は笑いましたか?笑顔がありましたか?」と毎回聞いたこと。そして職員さんも、「今日笑ってくれましたよ。」「いい笑顔でしたよ」と報告してくれたこと。それを聞いて、喜んだこと。喜べる自分が嬉しかったこと。自分がデイサービスの職員さんのように笑顔を作ったら、母がかすかに笑ったこと。
死を間近に迎えようとしている母と過ごした最期の3ヶ月は、今にして思うと穏やかで本当に満ち足りたものでした。今、しみじみ思うことが、「間に合って良かった」。
もしあのまま、鬼のような心のままで暮らしていたら、あんなに幸せなひとときは得られなかったでしょう。
母が亡くなって7ヶ月が経ちました。母が居なくなった部屋には、何の生気も感じられないのです。
あの時感じていた、母のベッドの周りに降り注いでいた清浄な「気」に包まれていたひととき、あれこそ母の生気だったことに今頃気がついているのです。