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2005年08月13日

NO.276 長崎・五島(3) ◆浦上四番崩れ(修正版)

 1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教が我が国に伝えられました。

 信長、秀吉による天下統一の過程で一時容認された時期もあり、その教えを広めて行きました。1587年秀吉が伴天連追放令を出した後、1596年日本二十六聖人殉教等の苦難の中でも、伝導は続けられ長崎には幾つかの教会も建てられたそうです。

 しかし1614年家康によるキリスト教禁止令が発せられ、以来1626年からは踏絵による宗門改めが行われるなど、厳しい迫害は、1873年(明治6年)に解禁されるまで長く続きました。

 その間、信者たちは、「秘密裏に信仰を守るため、潜伏キリシタンの組織を作り自分たちで教会歴に添って神に祈り、互いに助け合い、子どもたちに洗礼を授けて、信仰の灯火を口伝により子孫に引き継いだ」のです。(七世代もの間!)
                   「三沢博昭写真集―大いなる遺産 長崎の教会(かくれキリシタンと教会/柿森和年)より」

 つまり表向きには仏教徒を装い、潜伏したのです。 長崎に行って、海と山が複雑に入り組んだ地形や島々の有様を見て、だから役人の目にも触れることなく秘め事を守り通すことができたのかしら、と思いました。

だけど、やはり見つかってしまう。・・・密告です。

 隠れキリシタンが見つけられ処刑されたできごとを「崩れ」と言うのだそうです。中でも浦上村で起きたものが、浦上一番崩れ(1790)、浦上二番崩れ(1842)、浦上三番崩れ(1856)と呼ばれていますが、浦上四番崩れ(1867)の弾圧はまことに悲惨なものでした。

 四番崩れについて、かいつまんで説明させていただくと・・・
 幕末になって、諸外国の圧力に屈した江戸幕府は各国と通商条約を結びました。フランスは、その条約の下、1865年居留地大浦に礼拝堂を建てました。そのフランス寺と呼ばれた天主堂の有様は、異国の珍しさもあって見物人が引きもきらなかったとか。

 マリア像の噂を聞いた信者たちも天主堂を訪ね、ついに神父様に出会うことができたのです。ほとばしる信仰の喜び。
 でもまだ、キリシタン禁制は解けておらず、秘かに神父様と交流し始めた信者たちが、仏式での葬式を拒否したことをきっかけに、潜伏していたキリシタンの存在が明るみに出てしまったのです。

 (続く)