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2005年08月15日

NO.277 長崎・五島(4) ◆明治になっても続いた迫害

 潜伏していたキリシタンの存在が明るみにでてその対応が決まらないうちに、徳川幕府は崩壊してしまいました。
 しかし神道国教主義の政治方針で進もうとしている明治政府は、キリシタンを認めず、浦上の住民全員を尾張以西10万石以上の21の藩に総流配したというのが浦上四番崩れ。

 許されて村に戻されるまで実に6年以上!「旅」とよばれるその間、流刑地では、飢えと、改宗をせまるはげしい拷問の、言語に絶する悲惨な生活。

 移送された村人3394名。そのうち最後まで苦しみに耐えた者1900名。帰村を許された時には613名の殉教者、実に5分の1の村人が命を失ったというのです。(参考:浦上天主堂のHP http://www1.odn.ne.jp/uracathe// より)

 拷問や苦難に耐えられず信仰を捨てた者も帰郷後、再び元の信仰に戻り背教したことへの償いをしたと言われていますが、どちらに転んでも辛いはず。
 どれだけの世代に渡ってこの精神的苦痛は続いたのでしょうか、村の人間関係においても、と気になりましたが、これに関しては、またあとで触れたいと思います。
 
 話は海を渡って、五島列島に。
 長崎市から西へ100キロの海上にある島々。主な島として、福江島、久賀島、奈留島、若松島、中通島の五つの島がありこれを総称して五島といいます。
 私たちが見学させていただいた旧五輪教会や浜脇教会のある久賀島では、五島崩れと呼ばれる最後の弾圧があったのだそうです。

 約20平方メートルというのですから、六畳二間ほどの牢獄に、「8ヶ月にわたり村民200名が監禁され、坐ることも動くこともできない密集地獄の中、42名が殉教(死亡)した」という凄まじい話が残っておりました。

 今、その地に牢屋の窄教会ができているそうです。悲劇を語り継ぐことで人権のあり方などを考える機会になればいいと、その地をガイドする方のコメントが(社)長崎県観光連盟発行の「長崎・新キリシタン紀行」にのっておりました。

 潜伏していた信者たちへの弾圧に対して神父様たちはどれほど心を痛めたことでしょう。それぞれが必死で本国に訴えました。激しい外国からの度重なる非難や抗議に、内政干渉である、と突っぱね続けていた明治政府も、明治6年(1873)3月ついに屈服し、キリシタン禁制の高札を撤回しました。

 ようやく信仰の自由が認められる様になったのです。
 どんなに素晴らしいことか、想像するだけで胸が熱くなりますが、でも長崎の教会群の美しさを語ろうとすると、同じ日本人の残虐性にも触れなければならなくなる・・・

 次回は、こうした明治政府の宗教政策に関して、少し横道に逸れますが触れておきたいと思います。