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2005年08月16日

NO.278 長崎・五島(5) ◆明治政府の宗教政策(上)

 為政者の政策によって宗教が利用されたり否定されたり、その関係がとても気になりますが、明治政府の宗教政策について簡単にみていきたいと思います。

 慶応4年(1868)、明治政府は、「神仏分離令」という大変重要な宗教政策を打ち出しました。この祭政一致・神祇官再興の太政官布告により、従来の神仏習合の風が破れたのです。

 それまで神社の中には神宮寺や本地堂などの建物が、寺院の中にも地主神社、護法神社、鎮守神社、祠堂などの神道建築がある場合が多かったのですが、それらを明確に分離せよとの命令です。

 つまり各地方の神社において、神殿中の仏像、僧像、経巻、法器などは取り除かれ、一方、寺院内の神社関係のものも取り払われました。
 廃仏毀釈運動は、これに拍車をかけ、仏像・仏具など焼き捨てられたものも数多く明治以前より存続してきた寺や神社はかなりのダメージを受けています。

 おまけに明治3年(1870)には社寺上知令まで発せられました。
 奈良興福寺は、神仏分離令により僧侶が全員春日大社の神職についたことで、堂塔以外の全寺地を明治政府に召し上げられ奈良公園にされてしまったのは有名な話。

 後にお寺は復活されましたが、落ち着いた堂塔伽藍の姿はのぞむべくもなく、今も奈良公園の中。なんとかできればいいのにね。
 他にも寺領や山林なども召し上げられた事例は数多くあるのです。
 
 奈良の法隆寺の国宝地蔵菩薩立像は、この神仏分離の際、大神神社の神宮寺である大御輪寺(だいごりんじ)から伝えられたといわれています。(以前は金堂にいらっしゃいましたが、今は、大宝蔵院におわします。)
 また有名な聖林寺の国宝十一面観世音菩薩立像も同じく大御輪寺より伝わったもの。
 
 神仏分離令やそれに続く廃仏毀釈によって、貴重な文化財が散逸したことは、(特に外国に流出したものも多かったと聞いています)誠に残念なことでありました。

明治政府の宗教政策(下)に続く