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2005年08月17日
NO.279 長崎・五島(6) ◆明治政府の宗教政策(下)
また明治5年(1872)には、修験道廃止令まで発せられ、神仏習合の中で信仰を担ってきた修験者がその信仰を否定されました。自然を大切に考え、日本古来の神々や仏菩薩を崇める修験道は、絶対神を持たない「後進国日本」の象徴とも見られたらしく、排斥されたのです。
先日修験道の霊場、吉野金峰山寺執行長の田中利典様から、奈良平安時代から続いてきた日本人の信仰は、神と仏を両方受け入れていたと伺い、自分の持つ宗教心に、少し自信が持てる様になりました。
よく、初詣は神社に行って結婚式も神社、なのに葬式は仏教で、などと(おまけにクリスマスにはケーキも食べると)日本人の宗教心を馬鹿にされることが多く、自分でも節操のないことなのだろうかと疑問に思っておりました。
でも、それが千年以上もつちかってきた日本固有の宗教観だと言われ、とてもほっとしたのです。
子どもの頃から「神様仏様おねがいします」って何かにつけてお祈りしたけれど、あれでいいんだ、って自信をもって言えることは嬉しい。
ご先祖様を祀り、氏神様も祀り、毎朝お天道様が出たと言っては拝み、山や川や草や木にも敬虔な気持ちを持ち続けた、祖母の姿。毎朝毎晩、家の仏壇にぬかづいて祈っていた父の姿を思い出します。
私の実家にも仏壇と神棚がありました。明治、大正、昭和、平成と時が経ても、庶民の家々には、今も仏様も神様もお祀りする家は多くあるのですから、政府が神仏分離令を発しても、人々の心までは変えられなかった、ということでしょうか。
しかしさすがに130年以上も経ち、(現人神であらせられた天皇が「人間宣言」を出されてから60年が経ったと言っても、日本古来の神と仏の融合は復活せず、)その影響が、私たちの周りに信仰心の欠如した事件の多発となって、現れている様に思えます。
親から子へと伝えられるべき信仰のこころが、社会の変遷や核家族の進行とともに、伝えられにくくなっているのかもしれません。
文化遺産を大切に、と言っても、すんなり納得してくれる若い人がどれだけいるのかしら。受け止めるこころが大事なのだけど、と思うことも多い昨今です。
子どもたちのこころが病んでいる、と危機感が叫ばれて久しい。その原因の一つが、日本固有の信仰を排斥しようとした明治の政策にまでさかのぼってあるのだとしたら、それは大変に恐ろしいことではないかと思えるのです。
神仏分離に関しての大神神社関連の記述を見つけました。興味深いのでそのまま掲載させていただきます。
地域のお堂や祠などの歴史を調べてみると興味ある事実がたくさんわかるかもしれませんね。 (あし)
神仏分離のあらし 桜井の歴史より
http://www2.begin.or.jp/sakura/samuka13.htm
明治新政府は神道の国教化政策をすすめるため、1868年(慶応四)神仏分離令を出しました。すなわち3月17日には、神社で僧形(そうぎょう)の別当・社僧を禁じ還俗(僧が俗人にかえること)することが通達され、つづいて神仏判然令によって、神仏混淆(こんこう)の神号や神体(権現:ごんげん・年頭天王:ごずてんのう・八幡大菩薩など)を改めるよう強調しています。
このことによって、神社内での仏教勢力の排斥運動に拍車をかけ、全国的に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)のあらしが吹き荒れました。社寺の国大和はとくにひどく、春日社と一体になっていた興福寺や石上(いそのかみ)社と内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)、三輪や多武峯、吉野山など各地で、大混乱がおこりました。この混乱によって失われた貴重な文化遺産は数少なくありませんでした。
三輪山では、三輪山三方といって三輪明神・平等寺・大御輪寺(だいごりんじ)がならび建ち、なかでも平等寺は中世以来の神宮寺として一山の実権を握っていました。これが神仏分離の令により、社僧は還俗して社家となり、堂塔伽藍や僧坊は破却され、61体にもおよぶ仏像や経典・仏具・建具などは、近在の寺院や個人に譲り渡したりして処分されました。
大御輪寺も三重塔や護摩堂(ごまどう)などを取り壊し、本堂は若宮(大直禰子(おおただねこ)神社)として残りました。この寺も社僧は若宮の神主となり、他は禰宜(ねぎ)・使部として神職になっています。また仏像・仏具も離散しましたが、なかでも天平彫刻の代表作とされる本尊の十一面観音像(現在国宝)は、聖林寺の住職慈明大心にゆだねられ、同寺に安置されて毀釈を免れました。