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2007年03月13日

NO.372 自主的であること(4)―守るものがあったらいいー

 当会では活動の2本柱の一つとして、「文化遺産を核として地域のコミュニティを再構築する」ことも研究テーマに掲げています。
 昨年秋、長野県飯山市で開かれた研究集会にて、当会代表理事のお一人、内山節さんが、講演をされました。
タイトルは「文化遺産を核にしたコミュニティ」

 地域とは何か、の中で、東京のニュータウンの今の様子にふれ、新しいものばかりで古いものを受け継ぐことがない。つまり地域の中に何の文化遺産もない社会に生きている。その点、昔からある地域には、過去から受け継がれてきたものがある。地域の人たちが共同して守っていくものがある、と話された。

 この後、生と死を共有した世界と地域文化について、コミュニティは生きている世界だけでできているのではなく、生と死を含めた世界であること。「文化遺産」に込められた生と死、また信仰の世界と結びついたものとして話を展開されるのだけど、このお話しに私は、とても共感したのです。

 というのも、今年、お正月を実家で母と一緒に過ごしてみて、はて、初詣はどこへ行ったらいいの?と考え込んでしまったのですよ。結婚前は、ちょっと足をのばして深大寺まで行った覚えがあるけれど、車があったからできたこと。

 もともと、ここは36〜7年前に竹や雑木が生い茂る鬱蒼とした丘陵地を切り開いてできた新興住宅地。
 なので、氏神様もなければ、近くにお寺もない。
 山を下りたところの駅近くの商店街の人たちは、小さな川を渡ったもう一つ向こうの山の上にある神社の氏子みたいだけど。
 でも我が家の周りには、全くそれらしき初詣に行く場所がなかったのですよ。

 だからお祭りもなにもない。人を結びつけるものが何もない。
 周りの家もひっそりとして、今では一人暮らしの方が多いけど、回覧板が回ってくるぐらいで、なんの交流もないのです。
隣のご主人も一人暮らし。挨拶ぐらいはするけれど、ほんとにそれだけ。

 昔だったら、たとえ新しい土地だって神様を招聘したり、お堂を建てたり、誰かが発心して、始まったりしたのだろうけれど。
 地域の人たちと力を合わせて守るものが何もないところってなんて淋しいの、と最近思うのですよ。

 だから、山門が傾いていたり、お堂が崩れかけていたり、そんな建物を見るととても哀しい。
 どうしてもっと発信しないのだろう。

 文化遺産を核として、というけれど、本当は誰かがその思いの核にならないと駄目なのよね。
 誰かが核になって初めて、そこにたくさんの人たちが繋がることができるのですもの。
 最初は一人でも、たくさんの方々の思いが積み重なっていく、形になっていく。

 彦根ではスミス記念堂が再建され今月25日にいよいよ竣工式。地域の新しい核として守り継がれていくのです。 
 自主的であること。文化遺産を守り継ぐのも同じですよね。。

 まさに最初の一人として保存運動を呼びかけた筒井正夫前理事長にお会いしたいし、スミス会議現理事長の森 将豪先生にもお祝いを申し上げなくては、、
 5時半に家を出れば、なんとか日帰りで行って来られる。よし、行ってこよ。