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2007年03月27日

NO.375 「鬼ひめ哀話」つづき

 先日終ってしまった「鬼ひめ哀話」の舞台について。

 このさねとう先生の創作民話「鬼ひめ哀話」の原作は「おにひめさま」。
(ゆきこんこん物語所収/理論社 /他に「ゆきんこ十二郎」「ベッカンコおに」の三話が入っているのですが、どちらも心を打つお話し。おすすめです!

 三話の中では、この「おにひめさま」は、少し異質。普通なら隠しておきたい人間の本性があらわに表に出ていて、うぬぼれたり威張ったりするとこうなるよ、という戒めのおはなしになっている。)
 でも原作を読んだだけではこんなに感動したでしょうか。これほどに迫力ある舞台になるとはと驚きました。
全くどうしようもないわがままなお姫様でも、ここまで我を張り通せば立派だよ、とまで思えてくるから不思議。

 劇中、自分を一生懸命もてなそうとしていたおじいさんとおばぁさんを勘違いとはいえ殺してしまった桜姫。(なんと壮絶な場面でありましょう。これが人間ならばあまりに凄絶すぎて見られないかもしれない。)
 あの美しかった姫様が、吹き荒れる風や雪までが人殺しと責めたてているかのように錯乱し、さまよう場面があるのです。
 凍りついたような冷たさの中、やめてやめてと泣き叫ぶ桜姫にこれでもかこれでもかと執拗に風や雪が覆いかぶさる。

 都に行きたい一心で、付き従った大勢のお供を雪崩で失っても、その手で二人も人を殺しても、ツノがはえてもなお都へと願い続けるその性(さが)は、やはり鬼としか言いようはないけれど。
 語りの切なさに心の奥底が揺すぶられる。まこと見応えある舞台でありました。

 原作者のさねとうあきら先生が、カーテンコールのご挨拶でおっしゃった。
 「ちょうど3月という時期はおひな祭りの月。災厄を祓うために、おひなさまを川や海に流す、という行事がありましたが、この鬼ひめが泣き叫んだ舞台を見た後は、こちらの悪いことが吸い取られた後のように体が晴れ晴れしてくるのですよ。ちょうど災いをすべて引き受けて流されるひな人形のようなものかもしれません。」

 このことばで民話への見方が少し変りました。

 日本の民話って、苦しくつらい暮らしを余儀なくされた人々の様々な心を吸い取りながら伝えられたものかもしれない、とふと思ったのです。ほんのひとときでも栄華をむさぼった者が情け容赦もなく突き落とされる。ハッピーエンドでもない。
 様々に言いたいことはあるけれど自分の暮らしの方がまだましか、、、明るくないけど、妙に得心させられる。

 でも、子どもたちを育てた折、繰り返し読んであげた創作童話には、明るさがあり共感することが多かったように思えます。童話も世相を反映しているのかもしれません。

 話は変わりますが、
 子どもたちに読み聞かせた本の一節を、最近二人の子ども(もういい大人なのだけど)の中に見つけて感無量。
蒔いた種が根付いていたことを、子どもが大人になってから知ることもあるのね。楽しい発見でありました。
ではまた(あし)