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2007年05月24日

NO.384 風向計より/熊野古道と高速道路の「共生」

 5月22日の読売新聞朝刊「顔」欄に、第一回読売あをによし賞を受賞する、文化財虫害研究所理事、山野勝次さんが取り上げられておりました。「縁の下」の半世紀の活動が評価され、選ばれたと。
 「文化財を守り伝えていくという使命感がこころの支えです」とのコメントは、すごいですね。

 一方、林業に懸ける速水さんのコラム、「風向計」が同じく22日に掲載されました。(こちらは読売新聞中部版)
下記のアドレスで読むこともできますが、本文も掲載しています。
http://chubu.yomiuri.co.jp/news_k/fukokei/fuko070522.htm
 「生きとし生けるものに畏敬(いけい)の念を持って接する」 こちらの言葉も深淵で素敵です。

熊野古道と高速道路の「共生」

速水林業代表 速水 亨さん
<1979年から三重県紀北町で家業の9代目に。06年から日本林業経営者協会会長。54歳。>


 世界遺産に登録された紀州路の熊野古道は、大型連休中、多くの観光客でにぎわった。以前は観光バスを連ねて来ていたが、少しずつマイカーや鉄道を利用する人が増えている。

 熊野古道がある三重県南部は、ホンダやシャープなどの工場が多く立つ県北部とは異なり、広い土地も少なく、俗に言う良質な労働力、つまり安価で若い労働者を多く集めるのも難しい。地域の市町村長が企業誘致を公約に掲げるが、とても簡単に実現するとは思えない。

 そんな中での熊野古道ブームである。日本中が地域の名所や貴重な自然を世界遺産に登録しようという動きがある中で、法隆寺や屋久島のように誰もが納得する世界遺産と比べると、「紀伊山地の霊場と参詣道」(熊野古道)は、ちょっと意外な感じで思われている。

 つまり、今まで観光地としてそれほど有名だったわけでもなく、貴重な自然が保存されていたわけでもない。ただ、自然と人々との信仰や生活が長い歴史の中で形作られた姿や、その自然との付き合いの行為自体が認められたということであろう。

 古道は、世界遺産では「参詣道」と位置づけられているが、道はそこに住む人にとっては常に生活そのものであったはずだ。その生活が変化して古道は使われなくなり、街を通過していた道は現在の道路や市街地に飲み込まれた。誰も使わなくなった峠の道だけが林の中に埋められていったことで残った。

 ごく一部、例えば私の住む紀北町と尾鷲市を結ぶ馬越(まごせ)峠は、林業の道として使われ続けていた。

 道は生活には無くてはならない。古い時代にこの紀伊半島の南部に住む人々が汗を流して作り、利用してきた道が、世界遺産登録で再び人々が歩み始め、ちょうど今、その南部に高速道路が延びてきている。この道路は、地域の長年の夢であった。なんと言っても、鉄道が開通したのが1959年(昭和34)と遅く、今はJRの特急が1日に4往復するだけの交通が不自由な地帯である。

 道路も国道が1本あるだけだ。十数年前から地球温暖化の影響からか、しばしば大きな台風の来襲や豪雨に見舞われ、国道が寸断された。通院が必要な透析患者が困ることもあって、いつからか、「命の高速道路」あるいは「命の道」という呼び名が付いて、高速道路建設の推進運動に弾みがついた。

 国会で高速道路改革が議論された際、時の大臣が「半島に1本の国道しかないようなところには、高速道路が必要なことは十分承知している」というような発言も飛び出し、多くの人々の努力で、計画が前倒しになった。

 高速道路が整備され、古道を歩く観光客が多数訪れるという状況を、単にもうけるチャンスと考えるだけではいけない。熊野の持つ魅力を我々自身が再認識し、訪れた人々に、古代から続く熊野の信仰の根源をなす、生きとし生けるものに畏敬(いけい)の念を持って接する考え方を理解してもらう――。そんなことが感じられる生き方を、古代と現代の二つの道を前に、我々が今一度作り上げることが、当地の生活を本当の意味で「豊か」にする方法であると考える。

(2007年5月22日 読売新聞)