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2007年08月10日

NO.396 動植綵絵を描いた心

伊藤若冲と動植綵絵の話、続けます。

現在、この「動植綵絵」30幅の所属は宮内庁三の丸尚蔵館になっています。
(だから某省発行の小冊子の表紙に使うことができたのね、と一人納得。)

それは「動植綵絵」が明治22年に相国寺から、宮中に献納されたものだから。

 このとき、宮中から相国寺には壱萬円の御下賜金があり、それによって廃仏毀釈の波が押し寄せる中、一万八千坪の境内を買い戻し、相国寺も救われたというお話が残っています。「動植綵絵」が一幅も散逸しなかったのも今にしてみると凄いことでした。
 今回は、相国寺の依頼に応えて、なんと120年振りに、動植綵絵30幅が里帰りしたのでした。

 話を戻して、この「動植綵絵」が、なぜ相国寺にあったのか、相国寺と若冲の関係を簡単にご紹介。
 若冲は、京都錦小路で代々野菜の卸売業を営む青物問屋「枡源」の長男として生まれたのですが、30代後半で相国寺第113世梅荘顕常(大典禅師)を精神的支柱として居士となり、40歳のときに弟に家業を譲るなど、禅の修行と画業に専念したのだそう。
 「若冲」という名前は、在家のままで仏弟子となった「居士」に与えられる名前で、彼を導いた大典禅師が『老子』の一節から名付けた可能性が高いとのことであります。
 (参考:大本山相国寺 相国会発行「円明」88号 「相国寺に参じた居士、伊藤若冲と「釈迦三尊像」「動植綵絵」 承天閣学芸員村田隆志 、および「円明」87号若冲展案内文より )

 そんな関わりから、若冲居士が、自分と両親と末の弟の永代供養を願って、相国寺に「釈迦三尊像」3幅と「動植綵絵」30幅の計33幅を寄進したと言うのです。

 ここからが、コロタイプ研究会の話に繋がるのですが、相国寺での有馬管長のお話。

 つまり、若冲が描いた、「動植綵絵」というのは、「釈迦三尊像」の両側を飾る為に描かれたもの。
 .お釈迦様を真ん中にして、鳥も魚も虫も花も、ありとあらゆるものを描きたかった。葉を蝕んでいる目に見えないような蟲にまで、全てに命の輝きがあるのだと諭す釈迦の教えを描いたのだと言われるのです。
 あんなに小さなアリンコにもこの世に存在する意義があると。それを若冲が描いているのだと。

 ・・・以前、奈良国立博物館の西山厚さんの書かれた「仏教発見」を思い出しました。
「奈良の唐招提寺に伝わる鎌倉時代の薬師如来像の像内には、心ひかれる文書が納められている。「必ず必ず、これらの衆生より始めて、一切衆生、皆々仏となさせ給え」とあり、その左に多数の名前が列記されているのだが、人の名前に交じり、クモ、ノミ、シラミ、ムカデ、ミミズ、カエル、トンボ、カなどの名も書かれている。自分たちと同じく、ノミやシラミも仏になることを願った人が、かつて日本にいたのである。(中略)ノミもシラミも仏になれという発想は、仏教によらなければ決して生まれてこないと私は思っている。」 本書より

 心惹かれてきた若冲様の絵が、単なる装飾品として描かれたものではなかった!
某省のパンフレットの表紙を見て感じた違和感はこれだったのよ!

 有馬様のお話は、この後、
 だから仏教では殺生を禁ずるのだ、と。
 そして、人が人を殺しあう戦争反対へのお話に繋がっていくのです。

でもまた長くなるので続きは明日。(あし)