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2008年05月31日

NO.437  「寄る辺なき時代の希望」を読んで 

 いやはや、またアクシデントでふせっておりました。
 今、母と住んでいる家の階段が絨毯仕様。古くて滑り易いので気をつけていたのですが、月曜の晩、降りる際にツルッと滑って、次の瞬間には背中から腰からお尻をガンとぶつけて、それっきり起き上がれなかったのです。それからまる3日寝込んで、昨日からやっと活動を開始し始めました。でもまだ二階に上がるときは痛むので、そろそろと後ろ向きに階段を登ってる。
 世の中、何が起きるかわかりませんよねぇ〜

 そんな訳で総会やシンポジウムも近づくし、気ばかり焦る毎日を過ごしておりますが、せっかくだからと思って読みかけの本を読みました。

 
 もっとも仰向けで寝ると痛いので、うつ伏せもしくは、少しだけ横向けになって、と言う体勢でしたので、休み休みにしか読めませんでしたが。

 田口ランディさんの「寄る辺なき時代の希望」春秋社1700円 と言う本。ある方が送って下さったのですが、なぜ、その本を読みたいと思ったかというと、認知症の話題になった時、「どんなにボケても社交性は最後迄残るらしい」、ということが書いてあると言うのです。

 グループホームのお話から、どうしてお互いのこともわからない認知障害を持った人たちで共同生活ができるのだろうか、という文を読んで、思い当たる事がいろいろありました。
 母は、今、通っているデイサ−ビスがとっても気に入っていて、お迎えのバスが来ると満面の笑みをたたえていそいそと乗り込んで行くのですが、先日、ショートステイで三泊四日を過ごして帰って来た後は、一週間ぐらい気が狂った人のようだったのです。
 不安だったのよね、とこのランディさんの本を読んで思いました。
 
 実際、母は、私が3日も二階に寝ていて会わなくても、姉たちや、手伝ってくれた夫に囲まれてじつに落ち着いて過ごしました。不安さえなければ、母も狂う事が少ないのだろうな、とわかるのですよね。
多分、母が変な行動をとるのは、私がイライラしているせいかもしれません。
 不安を取り除いてあげなくちゃねー、と思った次第。

 この本は、「老いという希望」「べてるの家という希望」「核の時代の希望」「水俣という希望」とどれも重い主題について、でも自然体で書かれているのだけれど、最後が「たましい」についてふれているのです。

 「たましい」の行き着く先を私たちは見失ってしまった。人間の「生」は「死」で終りになるはずがない。「たましい」の行き着く先を考える事。これは人間にとってもっとも古くからあるビジョンではないか、と書かれてあるのを読んで、内山さんの話が重なったのです。

 この「文化遺産を未来につなぐ森づくりの為の有識者会議」が取り組んでいる文化遺産を未来まで残したい、という活動は、「文化遺産を核として地域のコミュニティを再構築する」という活動にもつながるし、自分たちの社会がどこに向かって行きたいと思っているのか、ミナに問い直す作業も含んでいるのです。
 多分、その作業には、ランディさんの言う「たましいという概念」がとても重要なキーワードになるのだと思います。

 丁度、昨日(30日)の読売新聞に、日本人の宗教心に関する意識調査についての記事が出ていました。
「日本人」で何かの宗教を信じている人は、26パーセントにとどまり、信じていない人が72パーセントに上ると言うもの。

 でも、先祖を敬う気持ちをもっているひとは94パーセント。
「自然の中に人間の力を越えた何かを感じることがある」という人も56パーセントなんですって。これって大事。
 明治政府の宗教政策によって、神仏習合が禁止されたけど、それでも、お宮参りや七五三、初詣や神前結婚式、お墓参りも大事だしお葬式は仏教で、と守り続けられている習慣にギクシャクしている日本人の心にはどっこい「いのりのこころ」はちゃんと生き続けているのですよね。
 この56パーセントを80パーセント、90パーセントに持って行くのに必要になるのがその地域地域で守られて来た、森や山や、大きな木や岩や滝やほこらやお堂、その風景、その地の文化遺産だと、<あし>は思うのでありますよ。

 自分の「たましい」が帰る場所、いつまでも残っていてほしい、残しておきたいものですよね。
 何だか強引に結びつけちゃった気もするけれど、でも56パーセントの方にはわかっていただけそうな気がしています。ではでは、

 6月7日のシンポジウム、募集中です!苦戦中です。是非ご参加下さい。。